45話:ご褒美タイム
夕食を終えた後、彩音は楓を家まで送って帰路についた。
一日歩き回ったのは、一体どれくらいぶりだろう。足はパンパンで、身体は鉛のように重い。
けれど、心地良い疲れだった。
無性に律の顔が見たくなった。
あの子の声を聞きたくなった。
あいつに名前を呼んでもらいたくて仕方がなかった。
駅に着く。足早に電車を降りて改札を抜け、かつて自分が馬鹿極まりない行動をやろうとした踏切を歩き、コンビニの誘惑を振り切ってマンションまで来た。
エントランスホールでインターホンのテンキーに部屋番号を入力。ブツリと回線が繋がる音がする。
『はい、高浪です』
胸がとくんと高鳴った。
九歳も年下の幼馴染の男子高校生に。
でも、身体だけではなく、心も大きく育ってくれた男の子に。
「私」
早まる鼓動を悟られないよう意識すると、その声はどこか刺々しいものになってしまった。
あーしにたい。
『今開ける』
そう答えた高浪律の声には、しかし、怒る気配など無かった。
悪戯をした子供をたしなめる大人のような、そんな響きがあった。
ああ、と。彩音は理解する。いや、以前から分かってはいたが、改めて実感した。
楓も言った通り──律は人を甘やかすのが得意なのだ。
扉が開く。彩音は急く足をいさめながらエレベーターに乗って、部屋のある階層のボタンを押す。
目的の階に着く。外廊下を歩いて、目的の部屋の前へ。
無論、自分の部屋の前は通り過ぎる。
そして呼鈴を押そうとして。
「…………」
慌ててコンパクトミラーを引っ張り出して自分の状況を確認する。
目元良し。唇良し。顔良し。髪良し。服装良し。
「ヨシ!」
呼鈴を押す。すると、一秒もかからずにガチャリと鍵が開く音がして、扉が開いた。
「おかえり、彩姉」
ゆったりとしたルームウェア姿の律が出迎えてくれた。目尻は優しげに下がり、いつもきゅっと結ばれている口元を緩めているその表情からは、彩音の無事の帰宅を無邪気に喜んでくれている様子がありありと見てとれる。
それが嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて。
(ってこれ完全に『年下スウェット』の『愛衣』と『リオ』じゃない!?)
同じようなシチュエーションを書いた記憶があった。現実が妄想に侵食されてきたのか。
「彩姉?」
くはっ、と眼を見開いたまま棒立ちした彩音に、律が怪訝そうに首を捻った。
「ぐはぁっ!?」
なんだその子供みたいな仕草!? その図体でやる動きじゃないだろ私を殺すつもりか!?
「何故悲鳴を……? そんなに疲れたのか?」
そしてこの反応である。なんでもダイレクトに受け止めすぎだろう、この子は。
「ま、まぁ、疲れたのは間違いない、わ……」
「一日外出するなんて久しぶりだったんだ、無理も無い。部屋に戻ってシャワーを浴びて着替えてくるといい。夜食を用意している」
今この瞬間、彩音は『年下スウェット』の主人公、『木村愛衣』の心境を把握した。
いや、作者なのだからとっくの前から把握はしているつもりだが、そういう次元ではないほどに理解してしまったのだ。
愛衣、ごめん。私はこれまであんたにとんでもなく残酷な仕打ちをしてきた。だって、こんなの──。
「耐えられるか……!」
疲れた身体を引きずって帰宅したら、ほのかな想いを寄せる年下の男の子が柔らかな笑顔と共に出迎えてくれる。こちらを労わってくれる。あーもー。
「彩姉、さっきから変だぞ? そんなに疲れているなら、夜食は食わずに休んだ方が──」
「バババババババカな事言わないでくれる!? い、いい!? じゅ、十分! 十分で戻ってくるから! 用意して待ってて! 分かった!?」
「駄目だ、シャワーはしっかり二十分浴びてくれ。いや、風呂を沸かしてゆっくりした方がいい。身体を温めて、今日の疲れを癒すんだ。安心してくれ、夜食は逃げない」
「その無邪気な気遣いが辛いっ!!!!!」
「え?」
「なんでもぬぁいっ! とにかく待っててすぐ行くからぁ!!!」
涙眼で宣言した彩音は律の部屋を飛び出して自分の部屋へ。
いそいそと風呂の用意をしながら化粧を落とし、一日の汗を綺麗に洗い流してから湯船にゆっくりと浸かる。
あーそういえば小さい頃の律と一緒にお風呂入ったなー。今あの頃みたいに一緒に入る~とか言ったらどうなるだろう。
「言えるかっっっっ!!!!!」
頭のおかしいテンションのせいで、頭のおかしい事を考えている。
茹で上がった頭は水をぶっかけて冷まさせる。そのままシャンプーとトリートメントとコンディショナーとリンスで髪を綺麗に洗い、身体も指先までしっかりと磨く。
最後に軽めの洗顔と歯磨きを済ませ、再び湯船に肩までじっくりと浸かった。
これであいつと夜食をきゃっきゃうふふできる!
「あっ、髪どうしよ。乾かして──ダメよ一時間はかかる!」
もうそんなに待てません。
という事で乳液やその他諸々で顔のスキンケアを行い、可愛いルームウェアに着替えて。ようやく律の前に出ても問題の無い最低限の準備が整ったのだった。
夜食はコンビニのプリンだった。
だが、ただのプリンではない。コンビニ限定販売品で、彩音の好物だ。
「これ、どうしたの?」
「近場のコンビニで買った。それ、好きだろう?」
「……なんで知ってるの?」
「ゴミ箱に二、三個、カラの容器が捨てられていた。だから好きなんだろうなと」
彩音は己の迂闊さを呪った。律の部屋には森村彩音の痕跡は極力残さないようにしていたのに。
自分の部屋のように振舞えば、いつか自制心が効かなくなって、例えば着替えだの下着だの趣味の物だのを持ち込んでしまうのが眼に見えていた。
それに、律だって留守の時に自分の部屋で好き勝手されるのは嫌に決まっている。
彼が登校した後、ベッドに潜り込んで惰眠を貪っている時点で完全にアウトなのだが。
「ご、ごめん。気持ち悪いの見せた」
「どうして気持ち悪いんだ? 食べた後に出たゴミをゴミ箱に捨てただけだろう。別に構わない」
「けど」
「……彩姉、髪は? 今日はなんというか、無造作だが……」
彩音の頭を見た律が訝しがる。
それもそのはずだ。これまで風呂やシャワーを浴びた後に律と会う時は、バリバリにヘアケアを施していた。
しかし、今は頭をタオルでグルグル巻きにしているだけである。今日は睡眠時間を削ってでも律と夜の会話を楽しもうと腹を括っているのだ。
「き、気にしないで。今日はなんというか、面倒臭くて」
「だが、これでは髪が痛むだろう。気持ち悪く聞こえるかもしれないが、俺は彩姉の長い髪がとても好きなんだ。だから雑には扱わないで欲しい」
「ほひゅん」
「……前にもあったが、その悲鳴はなんなんだ?」
それは彩音の台詞だった。彼女にもこの気の抜ける悲鳴が何なのか分からない。
黙ってしまう彩音。律はそんな彼女を見つめて、やがて肯いた。
「疲れていて面倒というのなら手伝おう」
「……え。何を?」
「髪の手入れ。教えてくれ、彩姉」
あーきょうほんとまじしねる。
お読みいただきありがとうございます。
ヨシ!(現場猫)




