44話:女子二人でお出かけ6
彩音は少しだけ迷って。意を決して問う。
「楓ちゃんが私に色々気を遣ってくれるのって、そういう事があったからなの?」
すると、楓は照れ臭そうに眼を細めて笑った。
「彩音さんは、あたしの恩人です。ご恩を返したいんです」
「い、いや、あれくらいの事でそんな仰々しく思われても……」
「かもしれませんけど、あたしにとっては大切だったんです。それに、あの水泳交流会だけじゃないです」
「え……?」
「彩音さんは、律を育ててくれました」
楓がテーブルの上に置かれた彩音の手を握る。
胸の奥で心臓が跳ね上がる。
「律がいたから、あたしは今こうして元気にやれているんです。彩音さんがいなかったら、律はいなかったかもしれない」
「そ……それは、か、過大評価よ……私なんかいなくても、きっと権三郎さんがなんとかしてたわ。私はただの遊び相手で」
気恥ずかしくなって顔をそらした。じんわりと背中に汗が浮き出る。それは手にも及んだ。
このままではこの綺麗過ぎる女子高生を汚してしまうという罪悪感に襲われ、手を引っ込めようとする。
「違います。彩音さんのお陰です」
ところがガッツリ握られた。
混乱が加速する。あんたが好きなのあいつでしょ!?
「何でも額面通りに受け止めて、バカみたいに生真面目で、理屈屋で、ちょっと卑屈なところもあるけれど」
心から嬉しそうに、楓がはにかむ。
「人の長所を見つけて、それを真顔で当然みたいに言えちゃう律を育ててくれて、ありがとうございました」
「……なんか、さ」
「はい?」
「付き合ってる彼女の家に結婚の挨拶に来た彼氏みたいな感じ、しない?」
顔を背けたまま、チラチラと楓の顔を盗み見しつつ、彩音がそう指摘すると。
「…………」
楓はゆっくりとした動作で自分の手元を見る。
その視線の先には彩音の右手を握り締めた自分の両手。
そして横を見ると、固唾を呑んで見守るレストランの店長夫婦がいた。
「そpjhぷ08えwbじょphcぁうう!?」
声にならない悲鳴を上げながら飛び退いた楓は、胸元に両手を引き寄せて、酸素を求める淡水魚のように口をパクパクさせる。顔は見事に真っ赤で、首や耳の先まで飛び火していた。
「ごぉっ!? ごごごごごごめんなしゃいひぃっ! あ、あたしそういうつもりじゃ──!」
「わ、分かってる。分かってるから落ち着いて。楓ちゃんが言いたかった事もよく分かったから」
野次馬を決め込んでいた店長夫婦に水のお代わりを要求する。初老の二人はニコニコしながら紅茶を出してくれた。奢りらしい。なんでそんな変に気を遣うかな。
だが、気分を落ち着けるには紅茶は味も香りも良い。借りてきた猫みたいに小さくなっていた楓も、紅茶のカップを空けてしまう頃には元に戻ってくれた。
「ホントに失礼しました……」
「だから、もういいって」
苦笑しつつ、しゅんとうつむいてしまっている楓の額を小突く。
「こんな私でも、巡り巡ってどこかの誰かの手助けができてたって分かったから」
家に帰りたくないから、という酷い理由ではじめた水泳。
けれど、透明な世界を掻き分けて、ただひたむきに、ただガムシャラに速度を競うシンプルな競泳は好きだった。
そんな『好きだったコト』で、誰かの人生にそんな大きな影響を与えていたなんて、夢にも思わなかった。
web小説の執筆に夢中になったのと同じように、現実逃避に過ぎなかったのだから。思えるはずがなかった。
でも、ああ、だからこそ。彩音は楓に告げる。
「楓ちゃんこそ、本当にありがとう」
ふっと身体が軽くなった。
そっと心が楽になった。
この感覚は、一体なんだろう。
ずっと昔に無くしてしまった大切な大切な『何か』を見つけられたような、この不思議な開放感は──。
「お礼を言われるほどの事は何も。でも彩音さん」
名前を呼ばれて、彩音は戸惑いを引っ込めて楓を見る。
「彩音さんは、こんな、じゃありません。そういう事言うの禁止です」
「……そういうとこ、律そっくりね」
「はい。中学の時、あいつに散々言われましたから」
「……何をするにしてもぜ~んぜん自信を持てなかった律が、ねぇ……」
頬杖をつき、溜息を吐く。
家庭環境の影響もあっただろうが、分からない事を分からないと言えなくて、何かを言われないと自分から動く事ができなかった子供の頃の高浪律。
ああ、と。今更ながらに彩音は心から実感した。
あの子は本当に立派に育った。大きくなったのは身体だけじゃなかったのだ。
他人に大きな影響を与えられる人間になってくれていた。
秋山楓こそが律の成長の証左なのだ。
「人って変わるモンね。律もさ、料理が得意になっちゃってて。あ、これも楓ちゃんのお陰か。あいつに自炊しろって言ってくれたの、楓ちゃんよね?」
「はい、一応。コンビニのお惣菜とかパンとかって高いじゃないですか」
「その上、脂質が多いのよねぇ。律にあれこれ言われて栄養価調べたら割とぞっとした」
「なので、電子レンジを使えば気軽に大体のものは作れるよって教えてあげたんです。まさか彩音さんが満足するくらい色々なものを作っちゃうとは思いもしませんでしたけど」
「べ、別に私はグルメじゃないわよ? た、ただ、律が作るゴハンはなんでも美味しくて、ね。私の為にレパートリーを増やすなんて言われたら、その」
食事は美味しいに越した事はない。けれど、ブラック企業で酷使されてしまった彩音の身体は栄養があれば何でもいい、というスタンスになってしまっていた。
それが最近は徐々に改善されつつある。具体的にはコンビニで買い食いする機会が眼に見えて減った。
節約の為でもあるが、余計なものを胃に入れていると、律の作る食事を存分に堪能できないからだ。
空腹は最高の調味料というらしいが、そのスパイスが彼の電子レンジ料理の美味さに拍車をかけてくれるのだ。
「高浪の奴、趣味は無いって言ってましたけど、もう立派に料理が趣味になっちゃってますね。あたしも、そのご相伴に預かってる訳ですけど」
楓がおかしそうに笑いながら言った。
かもしれない、と彩音も感じる。学校から帰宅してからキッチンに立つ律は、どこか生き生きとしているのだ。一日学業に専念して疲れているはずなのに、その物腰には覇気があるというか。
エプロンを引っ掛けて忙しなく炊事に耽る彼の後ろ姿を思い出していると、楓が意地悪そうに口元を緩めているのが見えた。
「なに?」
「いえ。さっきの言葉を訂正しようかなと」
「?」
「高浪の趣味は『ただの料理』じゃなくて、『彩音さんに食べてもらうゴハンを作る事』かなぁと」
「ヴァ!?」
今度は彩音が顔から火を放つ番だった。
「バ、バババババカな事い、言わないでくれる!?」
「えー。正直羨ましいんですけどー」
「あ、あんたの弁当作ってる時のあいつもご、ご機嫌だからね!?」
「ウ゛ェ゛!?」
はは、一緒に顔から火を出すぞ、恋する女子高生め。
「あ、あいつの餌付けホント半端ないですね! 高浪って他人を甘やかすのは得意だなぁ~!」
「そ、それは、確かにそうね……」
彩音が一方的に寄生しているような半共同生活が始まってから、楓の言葉の意味は身に染みて理解している。
なんというか、本当に甲斐甲斐しいのだ。笑顔で他人の世話を焼くというか。
あれはきっと、高浪律が持っている善性というものだろう。
「……このまま、あいつにダメにされてくのかなぁ……」
ダメ何とか製造機なんてネットスラングを聞いた事がある。
まさにアレだ。ダメ森村彩音製造機。いや元々ダメな人間なのだから、ダメダメ森村彩音製造機か?
「彩音さんは今までずっと頑張ってきたんですから。今はそれでいいかと」
「でも……このままだと戻れなさそうじゃない?」
無論、一人でも平気だった頃に。
律に身も心もダメにさせられそうで。
危機感はある。なにせ二十五歳だ。自分の事は自分でやらないと恥ずかしい年齢だ。
律に迷惑をかけている事への罪悪感もある。彼に依存してしまっている事に情けなさを覚える。
でも、それでも構わないと言っている自分もいるのだ。
律も、楓も、別にそれで問題無いと言っているのだ。
ならばこの微温湯に浸かっていても──。
「あたし、それが怖くて高浪には甘えないようにしてます」
と、楓が恥ずかしそうに言った。
「……楓ちゃん、強いなぁ……」
「と、とんでもないです。あいつのお弁当の誘惑には勝てませんでしたし……」
でも、と楓は続ける。
「あたしは、高浪が認めてくれたあたしで居続けたいんです」
「……認めてくれたあたし?」
「高浪はあたしに『泳ぎが綺麗だった』って言ってくれて、それからずっと応援もしてくれました。ちょっと記録が伸びなくなっただけで腐ってたあたしなんかを、『一つの事に打ち込んでる奴』って認めてくれたんです」
「…………」
「それが嬉しくて……あたしは意思が弱いから、多分高浪に一度でも甘えたらそのままズルズルあいつに溺れて、そのまま戻って来られないのは分かるから」
だから、と楓は言葉を区切る。
「あたしは高浪が認めてくれたあたしでいるって、決めてるんです」
その言葉は、彩音の胸にストンと落ちていった。
いつもより多い文字数ですが、分割すると今度は1話辺りが短くなりすぎる上にどうにも据わりが悪かったので、1話にまとめました。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
半共同生活開始編がやたら間延びしていたので、区切りがいいところで章区切りをしました。




