晴れ、ところによりリース
——起きて……
——起きて……
——早く……目を覚まして……
——涼介……
誰かが俺を呼んでいる。
なんだか懐かしいような落ち着くような……
——涼介……チッ……
あれ? 今の……舌打ち?
——……いつまで寝ておるのだ。早く起きろ!
「はい!!」
懐かしい声を聞いたと思ったら、最後は罵声で叩き起こされてしまった。
起き抜けの目に飛び込んできた光景は青と緑。
やや眩しさも感じる霞んだ視界を凝らせば、青と緑は精彩に描写されていく。
ここはどうやら人気のない平原……どこまでも広がる……というほどでもない。
ごく普通に木も、草も、丘もあり、ひらひらと舞う蝶や、鳥の声、穏やかに吹く風が気持ちのいいほのぼのとした平原だった。
だいたいの状況を理解すると、声の主を探すために周囲を慌ただしく散見する。
背の高い草に隠れていたのであれば気付く事はできないが、およそ周囲に人らしき影はない。
声の主について心当たりを探ると、呆けていた頭が答えを出した。
「姐さんだ!」
思い出したと同時に焦燥と不安が湧き上がる。
こんな場所に一人ぽつんと置き去りにして、今度はいったい何をしようというのか?
脳裏に焼きついた数々の嫌な思い出が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
——馬鹿者……
「うわぁ!」
思考に直接語りかけるこの感じ、ひどく久々な気がして不思議に思う。
目覚める前の記憶が曖昧で、ぼんやりとも思い出すことができない。
何もかも見覚えはないし、なんでここにいるのかもわからない。
しかし、これだけは思い出せる。
姐さんの呼びかけを無視することは、今の俺には寝てても不可能だろうということ。
まつ毛を触られたら瞬きをしてしまうように、姐さんから呼ばれれば返事をしてしまう。
——姐さん! お久しぶり? です。
記憶が曖昧なので、感覚に頼って返事をしたら変な感じになってしまった。
——寝る前に会っていたのだがな。まあ、そうなるのも無理はないだろう。
——え? そうでしたっけ? あっいえ、すいません!
——んー? ずいぶんと大人しいではないか。いつもの軽口はどうした?
——え? えー、じつは、起きたばかりで頭が回っていません!
——ふん! そうか。まあ、じきに思い出すだろう。二百年も寝ていたのだ、ゆっくりと思い出せ。
——……二百年?
なんだかまたしても懐かしさを感じていた。
嘘のような信じがたい現実を突きつけられるこの感じ……そうだ……いつもこんな感じで始まっていた。
でも、じつは嘘でした! なんてことも気分屋の姐さんにはままある出来事。
翻弄され続けた嫌な思い出は、気になりはじめたお肌のシミのように忘れることができないでいた。
——そうだ。おまえは二百年眠っていたのだ。
——へー……そうなんだ……じゃあ……じゃあ、中島達は……グレースは……もう。
ぼやけて見えなかったものが鮮明になっていくように、ポツリ、ポツリと記憶の断片が語りかけてくる。
引っ込み思案な記憶にそっと耳を傾ければ、この状況の理不尽さを淡々と解き明かしてくれる。
二百年。
およそ人間が生きていられるような時間ではない。記憶にある人はすでに死んでいるのだろう。
こういった理不尽極まりない仕打ちは姐さんの得意とするところ。
猫を倒してようやく平和に暮らせると思っていたのに、これではあんまりだと感傷に浸ろうとして……思い出した。
——猫! タマ! 姐さん! どうなった!?
——……チッ
またしても舌打ち……どきりと胸は締め付けられ、怒らせてしまったと背中が冷える。
それもそのはずで、あまりにわけのわからないことを叫んでしまい、何が言いたいのか理解不能だ。
ここは……そう、素直に謝罪するしかない。
——すいません! 記憶が曖昧すぎて……黙ってます!
——……非常に面倒だから説明はレノにしてもらえ。とにかく、おまえは二百年眠っていた。寝てばかりでつまらないから他の世界に飛ばしたのだ。じゃあ、頑張れよ。
——ちょちょちょちょちょおおお! ここ、また違う世界なの!? いやいや、なんでそんなことしたの!?
——おお。だんだん戻ってきたな。おまえを飛ばした理由か? そんなの面白そうだからに決まっているだろう?
さも当たり前のように理不尽極まりない発言をする。
そんな姐さんの行動原理は面白いか、面白くないかだ。
死ぬことのない永遠に続く命を授かってしまった悲しき嵯峨とでもいうべきなのかもしれない。
——あ……あー! はいはい。そうですよねぇ。俺もだんだん思い出してきたわー。そうだよねぇ。そうなるよねぇ。
——まあ、これは私からおまえへの感謝の印でもあるのだ。おまえが望んでいた中世時代風の異世界だ。存分にヒャッハーするがよいぞ。
——ええ……そんなの言われてするようなものでは……
——それから……あと、数十秒でリースがそこへ到着する予定だ。おまえの望みどおり空から降ってくる。ちゃんと受け止めるんだぞ。
——え? え? 何? どういうこと?
——受け止めなきゃ死んでしまうってことだ。
——いや、いやいやいやいや! なんでそんなこと!
——じゃあな!
——おい! 姐さん! ねーさーーん!!
いつもどおり難題を置き去りにしてさらっと消えていく姐さん。
姐さんが言うには、まもなくリースさんが降ってくる。
受け止めなければ死んでしまうらしい。
まるで今日の空模様を伝えるお天気キャスターのような軽さでリースさんが降ってくるとのたまう姐さん。
俺はハッと我に返ると空を見上げた。
青く広大な空。
ぐるりと周囲を見渡せば、はるか上空にごま粒程度の点を見つけた。
ああ、そうだ。間違いない。俺のこの驚異的な視力が言っている。
あのごま粒みたいなやつ……あれはリースさんだと。
「んなこと考えてる場合じゃねぇ!」
どうする? どうする? と思慮を巡らせても答えは出ない。
受け止める? そんなことしたら二人して即死だ。
ああ……なんだかごま粒だった点がだんだんと人を形作っているような……
「ああああ!!! なんか! なんかないか!? 何か役に立ちそうな……」
キョロキョロ、わさわさ、ガサガサと、慌ただしい擬音を奏でながら煩わしく焦っていると、不意に目に付いた自分の両手を見て思考が止まる。
目に映る自分の両手は、人間の手とは程遠い異形の成りをしている。
「あ……俺、人間じゃなかった」
眠りについていた二百年という歳月は、記憶の混乱を未だ抱えるほどに涼介の体を優しく蝕んでいた。
「あ……えっと……あ! フライ!」
ふわりと自分の体が宙に浮いた。
魔法はこの世界でも通用するらしい。
ふわふわと浮く感覚は懐かしさと共に、染みついた操舵感を呼び起こす。
「あーそうそう、こんな感じ……それと、ウインドプロテクション!」
魔法を唱えた途端、空気の流れが止まる。自分の周りだけ凛とした静寂に包まれた。
「これならいける……」
確かな手応えを感じリースさんを見据える、もう残された時間は数秒ほどだ。
俺はリースさんのもとへと向かうイメージを魔法に乗せ、一気に加速。
リースさんを通り過ぎて即刻ターンを決める。
あとは速度を調整し、リースさんと並走。
ウインドプロテクション内にリースさんを収めると優しく抱寄せ、大きく弧を描いて上昇した。
そして、緩やかに速度を落とし上空で停止する。
「えへへ……来ちゃった」
なんだか笑っているように見えるのだが……気でも触れているのだろうか?
今の今までパラシュートも背負わずにデスダイブをしていたというのに、リースさんは満面の笑みで異形の成をした俺を見ていた。
「リースさん……ですよね?」
「そおだよ? 二百年も寝ていたお寝坊さんは忘れちゃったかなー?」
「いやいや、忘れるわけないじゃないですか。ってか、なんだか雰囲気変わりましたね」
「ふっふっふ。この世界で猫かぶる必要もないでしょ? 私に流れる王族の血筋なんて、なーんの意味もないからね!」
アローで接していた頃に感じたクールなお姉さんの面影は消え失せ、その見た目どおりの元気で可愛らしい感じへと変貌していた。
「はは……。あー、んで、えーと、なんでゴスロリファッションをしてるんですかね?」
豪華なフリルが特徴的な黒地に白を基調としたドレス。
首に巻かれた赤いリボンが単調な色合いにアクセント与えている。
ふわふわに仕上がった髪をアップ気味に編み上げ、大きな花を模した髪飾りで留めていた。
神々しさすら感じるその姿は、天界から降りてきた女神のように浮世離れをした美しさだった。
「んー? それはねー、私の世界を救ってくれた英雄へのご褒美なんだよ? どうかな? 涼介君」
「あは……あははは。リースさん……」
笑顔を見せるリースさんは反則的に可愛かった。
思わず抱きしめている腕に力が入り「ぐわっ」と可愛らしく声を上げたリースさんの肩に顔を埋めてしまっていた。
俺が出会った人達はみんな死んでいると思っていた。
それが、世界を救うため、化け物になることを選択した者の運命だと。
でも、今ここに、俺の目の前……俺の腕の中にリースさんは存在している。
甘く可愛らしい声。
大きくて愛らしい目。
優しく元気な笑顔。
全て記憶にあるものと同じ……間違いなくリースさんだった。
なぜなのか? なんて、そんなことを気にする余裕はない。
噴火したマグマのように込み上げてくる感情の渦に思考が埋め尽くされる。
嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
きっと泣いていただろう……化け物の姿となった今は涙を流すことはできないが、好きな人に泣き顔を見せるのはカッコ悪い。
しばらくリースさんの肩に甘えていると、優しく頭を撫でる柔らかな手の感触が伝わってきた。
「よしよし」
耳元でささやかれた甘く短い言葉。
多くを語る必要なんて何もない。
その一言だけで、涼介の心を優しく包み込んでいく。
辛かった思い。
押し殺していた自分の気持ち。
その身には重すぎた英雄の運命。
その全てを押し込めた心の奥底。
暗く閉ざされていた扉を開き、彼女はそこで子供のように泣いていたもう一人の自分を寝かしつけてくれていた。
癒えるはずのなかった傷だらけのプライドは、ようやくその薄っぺらい役目を終えた。
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花と魔王 〜チートじゃなかった一般人は、頭を使っても一般人でした。なので、死なないように頑張ります!〜
……の後日談。