インマイルーム
「あー、カンベン、カンベン、もうしませんから」
「ったく、もう何度目よ!」
何を何度やったのか知らないが、多分これは圧倒的に夫が悪くて。
「あー、痛い、痛いって、許して〜」
我慢できなくなった妻はその怒りを手足に乗せ、殴る、蹴る。
覚悟はしてたけど、いきなりこれか…。
今まさに新たなスタートの初日を終えようとしていたのに…。
見慣れぬ天井を眺めながら隣家の喧騒を想像する私。
※
「築五年なんだけど、まだまだ新築って言えるくらい綺麗なんだよ」
と、私が若い女だからか、やたらとフレンドリーに話してくる不動産屋のおじさんはこう言った後に、
「だけどね〜、一つ問題があってね…、隣に三十代の夫婦が住んでるんだけど、年中喧嘩してて、結構騒がしいらしくてね…」
こんな忠告をアパートへ向かう道中でしてくれた。
206号室、キッチンとユニットバス付きのワンルームの紹介が一通り終わると、おじさんは私にどうするか聞いてきた。
「そうですね〜」
と言って、私は部屋全体を見渡したあと、ある一点を睨み考えた。
部屋はすごく綺麗。家賃は思わず安いと言ってしまったほど。交通面はこれから四年通う大学まで二駅と文句なし。問題はこの壁の向こう、唯一のマイナス点である隣家の夫婦喧嘩だけど…。
と、一旦長考しかけたが、結局は、大家族で育った私だもん、日々の喧騒には馴れっこよ!
そんな適当なプラス思考でそれを掻き消し、私はここを人生初のマイルームとしたのだ。
※
「あ〜、う〜」
と、しばらくの間、そんなうめき声が聞こえていたのだが、どうやら奥さんが1RKO勝ちしたようで、思いのほか早く私の部屋に夜の静けさが戻ってきた。これぐらいで済むのなら、寝ようとしている私にプロレス技を仕掛けてくるようなバカな兄弟達よりよっぽどマシだ。
私は少し安心し、再び眠りについた。
※
隣人は静かになった。この部屋は私だけの部屋。うるさい兄弟たちはもういない。だというのに、私はこの夜また睡眠を邪魔された。
今度はしっかり眠っていただけに目蓋が少し重い。仰向けで寝ていたはずが、今はうつぶせで、新品の枕カバーからは、初めて使ったちょっと高級なシャンプーのいい香り…。って、のん気に言ってる場合じゃない。私は変な気配を感じ、目を覚ましたのだ。そうして、意識がはっきりしたのと同時に私は頭を右に向けたのだが…。
本来その方向に頭を向けたとき、私の目に映るのは小さなTVのはず…。だけど今、この目にはっきりと見えているのは、小さいおじさんだった。
※
飛び起きた私は、瞬時に逃走経路を確保し、咄嗟に壁のスイッチを押し照明を付け、今見たものを確かめる為、玄関手前で振り返る。玄関の鍵は確かにかかってた…。
う〜わ〜。やっぱり間違いなく、小さいおじさんだよ。それから真顔で睨めっこ。だけど…、背が低いだけで見た目は意外と優しそうなおじさん…。でもな…変態?泥棒かな?ん〜、逃げたほうがいいかな…、あ〜ん、でもお財布とかあるし…
「まあまあ、驚いたでしょうが、大丈夫。怖がらないで」
と、おじさんは笑顔で言う。意外と渋くていい声だ。
「そんなこと言われても…」
私は首を傾げながら返事をした。
「まあ、初めはいつもこうなるんだ。じゃあ、そこの靴、私に向かって投げてみなさい」
何て解せない事を、クールな低音ボイスで言われても…。靴を投げろって…、聞いたことの無い種類の変態だ。
とか思いつつ、私は敵に背を見せぬよう中腰になり、後ろ手で探りながら靴を掴んだ。
この感触は、買ったばかりのハイヒール。背筋を張って、一度目認。そしてそれを握りなおす。どうせなら、硬いヒール部分を当ててやる。そんな思いで私は変態目がけ振りかぶった。
「や〜!」
※
私の手から勢い良く、一直線に飛んでったヒールは、窓にぶつかりカーテンを揺らした。
といって私の手元が狂ったわけではなかった。中学高校と六年間バスケ漬け。球技は大得意だし、現に今、私が投じたそれは、私の狙い通りに標的に向かい飛んでいったのだ。だがしかし、的に的中したにもかかわらずカーテンが揺れた。う〜ん、正確に言えば、的には当たらなかった。というか…、的をすり抜けた…。
「ね、靴が私の頭を通り抜けた。どういうことか解ったかな、私の存在はこの世にない。つまり霊なんだ」
人生初の心霊体験が突然やってきた。
※
小さなテーブルの向かいには、おじさん…、正確には幽霊だけど。そんな状態になったのが二十分程前だ。
で、何をしていたのかというと、私はおじさんの話を聞いていた。
簡潔に説明すると、この人、てかこの霊は、この部屋の住人第一号の方で、だいぶ歳の離れた若い奥さんと、それはそれは幸せに暮らしていたそうなんだけど…、ある日、交通事故で奥さんは亡くなてしまい。後を追っておじさんは自殺。天国で再会できると思いきや、おじさんは何故か成仏できなかったそうで。引き寄せられるようにこの部屋に戻ってきたら何故だか幸せな頃の気持ちに浸れて居心地がいいそうで…。
「へ〜、そうですか、居心地が…」
じゃあ一緒に住みましょうか、なんて気持ちは全く無い…、やっと実現した夢の一人暮らし、どうすれば霊を追い出せるかな…。そうだな、手っ取り早いのは、霊能者か…。でも費用が…。
「そこで、御相談です」
と、言ったのは霊のおじさん。
「はい、どうぞ」
うんうん、とりあえず話し合いましょう。
「結論からいいますと、お嬢さんにはこの部屋から出て行ってもらいたい」
ほ〜、そうきましたか。
「だが、ただ出て行ってもらう、という訳ではない。それでは私にとってもあまり意味が無い」
「と、言いますと?」
「つまりだね、私にとって一番なのは、君はこの部屋の家賃を払い続けるが、住まない。この部屋に人が入らないようにしてほしいんだ」
「そんなの無茶ですよ、そんな余裕ありません」
やっぱり悪霊だ。
「ああ、落ち着いて、それは心配ご無用。君が、今から言うことに従ってくれればね」
「はぁ…」
私は拍子抜けし、ため息をはいた。
「もう日付が変わってるからね、今日だよ今日、駅前の宝くじ売り場でロトくじを買うんだ。好きな番号を選んでくれてかまわない、必ず当たるから。そうしたら、君はお金に十分余裕が出来る、それでここの家賃を払ってくれればいいんだ。もし外れてもたった200円の損。騙されたと思って買ってみなさい」
※
霊のおじさんと出会ったのが半年前、私はその間きちんとあの部屋の家賃を払っている。
おじさんの言ったとおり、私は大金を手にしたのだ。それを元に私はワンルームから一人暮らしには広すぎる3LDKに住み替えた。
ところが今、私が寝ているのは、病院のベッドの上である。
ラスベガスで大当たりした人が直後に交通事故で亡くなる。そんなニュースを見た記憶がよみがえる。
本当なら一生かかっても手に入らないような大金を手にしてしまい、運命の歯車が狂うのだろう。もちろん良い方に転じることも多いだろうけど、逆もある。
私の場合、これから大学で将来の為に学ぼうとしていた矢先、その将来を十分保障してくれるお金を手にしてしまい、なんだか向上心が無くなってしまった。そのせいとは言わないが良い友人関係も築けず。期待していたキャンパスライフがどうにも張り合いのない物になってしまった。そうしていたら突然体調が悪くなり、検査の結果が、百万人に一人の難病。
なんだか一気にツキに見放されたような感じだ。
「ご安心ください」
天井を見つめ、物思いにふけっていた私の耳に、突然男の人の声が聞こえた。見舞い客はいないし、部屋のドアが開いた気配もない。
今度はこの病室の幽霊とか…。
「まあ、幽霊は幽霊ですが、あなたが以前見たのとでは格が違います」
と、言ったのは身長180センチのスーツを着た狐だった。
「き、きつね?」
「まあ、自己紹介しておきますと、私は悪霊や人間たちに影響を与える霊を取り締まる者でして」
確かに、何だか偉そうだし、高貴な雰囲気だ。
「さて、あなたが会った霊ですが、あれも悪気があってやった訳じゃないんだけど、奴はね人間の運を操作したんですよ」
「運を、操作ですか…」
「ええ」
と、言った狐様は、いつの間にか私の寝ているベッドに腰掛けていて、細く鋭い目で私を見下ろしながら喋りだした。
「人間には一生の間に使うことの出来る運の量というのがありましてね、奴はあなたに宝くじを当てさせる為に、あなたの一生分の運を使ったのですよ。実は人間というのは、なんの変哲もない一日を生きるのにも、運を使っているのです。面白い言い方をすれば、生きているだけでラッキー」
狐様はそう言ってから私に同意を求めるかのように笑った。
だけど、私は笑えなかった。あなたにはもう運が無いなんて事実を突きつけられたのだ。笑えないよ…。
「おやおや、これは失礼、あなたの不安を取り除きましょう。さあ、目を閉じて」
言われたとおりに、私は目を閉じる。
何だかフサフサで心地よいものが私の目に当てられ、狐様は何だかわからない呪文を唱えだした。
私はそれを聞きながら、自然と深い眠りについた。
「あなたの、運と体はすべて元に戻しておきます。でもあなた、実はすごく運の強い人かもしれませんよ。奴に運を使われながら、これだけ長く生きていられたのは、とても不思議です」
狐はそう言い残し、彼女が眠るベッドから離れていった。
(終)
復帰二作目にして、ソコソコの話が書けたかなと…