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コーヒーをいれて



ある日、彼女が砕けた。

脆いガラス細工が高いところから落ちた時のように甲高い音を立てて彼女は砕けた。



普通の朝だった。

朝の弱い彼女に変わって朝食を準備していた。

近所で評判のパン屋で買ってきたこだわりの食パンとカリカリに焼いたベーコンと半熟に焼いた目玉焼きをテーブルに並べて、砂糖とミルクたっぷりのコーヒー擬きの用意も済んだ。


あとは、未だベッドで寝こけているであろう彼女を起こすだけ。


部屋に入ると案の定口の端から涎を垂らし、幸せいっぱいといった顔で寝こけている彼女がいる。



「朝だぞー。今日朝一で会議あるって言ってなかったか?」


「んー?」



半分寝たまま返事をする彼女の頬をつつく。

んっぐと鈍い声が漏れる。



「…やめて」


「おはよう」



寝起きでひどく目つきの悪い彼女が睨んでくる。

頬をつついていた手を振り払われる。


のそりと起き上がった彼女は大きなあくびを一つ。

ぼりぼりとぼさぼさの頭を掻き上げる姿はおっさんの様だ。

まだ20代なのだから、もう少し若さを留めてもらいたい。



「朝飯出来てるから、早く食っちゃわないと腹ペコで出勤す羽目になるぞ?会議中に腹なっても知らねぇぞ」


「それはイヤ!」


「ほら、早くおいで」


「うん」



のそのそと動き始めた彼女を確認して、リビングに戻ろうと背中を向けた時、あ、と小さな声と共にガラスの砕ける音が響いた。

後ろを見ればベッドの下に落ちている彼女。

バランスを崩したのかなんて些細な問題で。


彼女はガラス細工のように砕けていた。

彼女の破片が足元に散らばっている。



「…え」


「わたし…どうなってるの?」


彼女は状況が飲み込めないと、こちらに訊ねてきたけどわかるはずがない。

彼女が動こうと身を捩るとパラパラと破片が落ちる。

手をついて起き上がろうとすると、腕が二の腕の中間あたりからぽっきり折れてしまい、彼女は頬から床に叩きつけられた。

転がるヒビだらけの腕を見て、彼女は今まで聞いたこともない悲鳴を上げた。





それから、いろいろな病院を周ったが、前例が無く、当然治療法もなく。

彼女は部屋のベッドに静かに寝かされている。


色々調べた結果わかったのは彼女の体は間違いなくガラスになっていたこと。外側だけではなく内臓までもガラスになっていた。

けれど、そんな状態でも彼女は生きていた。

食事を取ることもなく当然排泄もなく眠ることすら無くなった。



ベッドに寝ている彼女の顔はヒビだらけで痛々しいが特に痛みはないらしい。

腕がなくなってしまったので、暇だという彼女のために本を読み聞かせたり、テレビを見たりいろいろした。

触れるとヒビが進んでしまそうで、しばらく躊躇っていたが、彼女が頭を撫でろだの頬触れなど、此方の気も知らず、求めてくる。


以前の彼女とは違い、冷たく硬くつるりとしていて、ヒビの入ったところはざらついている。

感覚があるのかと聞くと、触られてるのはわかるが体温はわからないらしい。


少しでも長く彼女といたい。

ガラスになってしまっても好きな彼女に変わりはない。

ヒビが入っていても、衝撃さえ与えなければ進行しない。





彼女がガラスになってから、一年と少しが過ぎたころ。



「ねぇ、お願いがあるの」


いつものように彼女の横たわるベッドの横に座り、テレビを見ていたらここ数年で聞いたことのない彼女の「お願いがある」の言葉。

こんな奇病にかかってからもお願いなんてされたことがなかったから、なにがなんでも叶えてやりたいと思った。



「何?なんでもい言って」


「私、コップになりたい」


「は?」


「いや、違うな。グラスになりたい」


「は?」



彼女はビー玉捨てがたいと迷うように唸る。

正直何言ってるのか理解がでなかった。


グラスなりたい


ビー玉でも可


意味が分からない。



「私ガラスなんだもん。グラスになっても良くない?一回粉々に砕いてーそっから溶かして再錬成!みたいな?」


「よくない」


「なんで?」


だって、それは。



「お前がいなくなるってことだろ」


「そうだね」



あっけらかんと応える彼女に僅かの殺意を覚えなかったとは言えない。

この一年と少しを俺はいつ壊れていなくなってしまうかわからない彼女におびえながら生きてきたというのに。



「だって、私がこんなのになってから、楽しくなさそうなんだもん。私さ、自己満足かもしれないけど生きてる限りそんな姿しか見られないのい嫌だし」


「………」


「私がグラスになったらね、砂糖とミルクたっぷりのアイスコーヒーいれてね」


「…それお前が好きな奴じゃん」


「だからだよ」



にししと歯を見せて笑う彼女の姿は久しぶりだった。

一年と少しの間、俺も彼女も大して笑ってないことに気づいた

笑いのない生活に何の価値があるのか。

毎日毎日おびえながら生きることの疲れは心を蝕む。

おびえているのは俺だけじゃない。

彼女もだ。

もういいのかもしれない。


「君の手で砕いてほしいの」


「…ハンマーでも使う?」


「物騒な!」



じゃあ、どうする?と聞くと。

彼女は恥ずかしそうに。


「君に触ってくだいてほしい」


と言った。



掛け布団を剥がして、着ている服を脱がす。

露わになった体はラインは昔のまま。

所々にヒビがはいっていて、少し穴が開いているところもある。

指を這わせるとぴしっとヒビが進行する音が鳴った。

思わず指を離してしまったけれど、彼女が触ってというので、今度は掌で撫でる。

足先から太ももへ。

太ももから腹へ。

腹から胸へ。

胸から首筋へ。

首筋から頬へ。

一遍も余すところなく触る。

ピシピシとヒビが広がっていく。



「痛い?」


「うぅん。痛くないよ」


全身がヒビだらけになって、瞳にまでヒビが入っていた。

額を撫でながら口づけをひとつ。

彼女は気恥ずかしそうに、けれど至極嬉しそうに笑んだ。



「毎日淹れるよ」


「砂糖たっぷりでミルクたっぷりね」


「毎回言おうと思ってたんだけどさ」



彼女の背中に腕をまわし抱き上げる。

パラパラと破片が落ちる。



「もはや、コーヒーじゃないよね」


「うっさい」



彼女が落ちる。



パラパラ。



彼女がパラパラ。



彼女は砕けた。

そして、溶けた。








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