饒舌なCJD(コスプレ女装男子)
退屈な人生を送ってきた。全方位に広がる果てのない荒野に、一方向に伸びるばかりのレールを敷いて、デコボコの道をなるべく真っ直ぐ進もうと苦心してきた。
道を外れるな。道を外れるな。道を外れるな。外れたら置いていかれる。外れたら全てが台無しになる。
僕は自分にひたすらそう言い聞かせ、危険を避けて普通であろうとした。路傍の石であろうとした。
ある日のこと。バイト帰りの僕は、道端へしゃがみ込み、道路に視線を落としてじっと動かない人を見かけた。いつもであれば見て見ぬ振りをしていたかもしれないが、その日ばかりは何の気の迷いか、僕はその人に大丈夫かと尋ねていた。
それが僕と彼――ユウの出会いだった。
「助かったよ」とユウは言った。
「声を掛けてくれないんじゃないかと思った」
ユウは華奢な男だった。肌は白く、手入れが行き届いていた。髪の毛には艶があり、手櫛で梳かすと光を受けて煌めいた。声質と喋り方以外、彼は全くの女そのものだった。だからユウは女のような格好をしていた。
「いわゆる、CJDってヤツだ」と、ユウは僕の奢ったハンバーガーを口にしながら言った。CJDとは何かと尋ねると、コスプレ女装男子の略称だという答えがあった。
くだらない。女の格好をする必要がどこにある?
「必要があるとか無いとかじゃないんだ。楽しいからやる。それだけさ」
もっと健全に楽しいこともあるだろう。身体を動かすのもいいし、本や映画だってある。
「ありきたりだな。非刺激的だ。はっきり言えばお前こそくだらない。自分以外の誰かになりきる以上の楽しみがどこにある?」
この点において、僕とユウは相入れなかった。しかし互いに違うからこそなのか、僕とユウは気が合った。
ファストフード店でしばらく話し込んでいるうちに、ユウは僕に「お前の家で厄介になれないか?」と依頼してきた。聞けば、同居相手に家を追い出されて宿無しとのことだった。常に自信に満ちた彼に惹かれた僕は、その頼みを断ることが出来なかった。
「これからよろしく頼むぜ、相棒」
その相棒という言葉が、僕の心にやけに心地よく響いた。
〇
ユウは何かと気の利く男だった。
コンビニ弁当とカップ麺が中心の僕の食生活を見かねて、彼は毎日手料理を作ってくれた。何かと家を留守にしがちな僕の代わりに、彼は家の掃除や洗濯をしてくれた。大学の講義とバイトで疲れ果てて帰ってきた僕を、彼は「お疲れさん」と言って笑顔で出迎えてくれた。
そんなユウとの共同生活にも、どうしても許せないことがあった。彼は毎日のように女性を家に連れ込み、僕の寝室の横で愉しんだのだ。しかも、毎回その相手が変わるのだから驚きだ。
疲れてベッドに倒れこみ、ふと気づくと甘い嬌声が隣の部屋から響いて聞こえる。そのせいで最近あまり眠れていないらしく、常に身体が怠い。
出て行けとは言わないから、せめてあの声をどうにか出来ないか。リビングのソファーに寝転ぶユウにそう相談すると、彼は悪びれる様子なく笑った。
「許せよ、相棒。あれが俺の収入源だ」
話を聞くに、ユウは部屋に連れ込んだ女性と愉しむ光景をこっそり録画し、それをネットで販売しているらしい。動画はノーカットで1時間ほどの長さ。もちろんモザイクは無し。色々差し引いて月に100万円ほどの利益が出るのだとか。
「この格好だと警戒しないバカが多いんだ。ラクなもんだぜ?」
そんなことを続ければいつか痛い目に遭うぞ。女性から恨みを買うだろうし、いつ警察に捕まってもおかしくないはずだ。
「バカな女から恨みを買っても痛くも痒くもないね。それに、警察に捕まるほどヘタな売り方はしてねえよ」
君は間違っている。稼ぎ方が真っ当じゃないというのもあるが、何より人として。
「そう口うるさく言うなよ」と言って、ユウは僕をソファーに引き倒す。妖しげな色気を纏った彼の顔が鼻先10センチまで迫り、僕は思わず唾を飲み込んだ。寝不足なのも相まって、香水の甘い匂いで頭がクラクラする。
「相棒、抱きたいか?抱いてみるか、俺を」
馬鹿を言うな。男同士だぞ。
「やってみなくちゃわかんないだろ?案外、気持ちいいかもしれない」
そんなわけがあるか。ありえない。普通じゃない。
「いいか? 相棒、普通なんてもうやめちまえ。普通でいてもいいことなんて何一つ無い。ただでさえ無味な人生を浪費するだけだ」
ユウは僕の額にそっと口づけをしてウインクしてみせた。
「考えておけよ。俺を受け入れるか、それとも追い出すのかな」
〇
それからも僕は一向にユウを追い出せずにいて、僕の家には彼の持ち物が増え続けている。クローゼットには彼のコスプレ衣装、棚の上には彼の撮影道具、ソファーに投げ捨てられているのは彼のウィッグ、洗面台には彼の化粧道具、僕の寝室の隣の部屋には彼のベッド。
僕の家は既にユウの撮影スタジオだ。僕はそこの居候に過ぎない。
最近になって、ユウの連れてくる女性の種類が1人に絞られた。つい二週間前まで毎日別の女性と寝ていたことを考えると、眼を見張る変わりようだ。
ユウに選ばれた彼女の名前はニーナといった。可愛げのある顔つきをしているが、常に口が半開きなのが、なんとも脳味噌が足りない印象を受ける。
妖艶さ漂う青白い光を放つ月がユウとすれば、ニーナはその光に引き寄せられた憐れな蝶だ。届かないところを届かないところと知らぬまま、ふわふわと羽を動かし続けている。呑気に、優雅に、そして白痴のように。
恐らくユウは、ニーナのそんな夢見る少女のような痛々しい雰囲気がひどく気に入ったのだろう。そしてそれは僕も同じだった。
僕もユウと同じで、ニーナのことを気に入っていた。目指すべきところを間違えた愚かな蝶、ニーナを。
ある日の夜。喉が渇いた僕は水を飲むためにベッドから起きて寝室を出た。するとリビングにはニーナがいた。際どい黒の下着だけ身につけて、秘部と胸以外を露わにしている彼女は、その格好のままイチゴジャムを塗ったトーストをかじっていた。ユウは撮影現場の後片付けでもしているのか、そこに姿がなかった。
「さすがに3本連続で撮影すると疲れるね」とニーナは笑顔で言う。
「でも、頑張らないと」
ニーナは自分のビデオがインターネットを通じて世界中に売られていることを知っている。と言っても彼女は、好んで男と寝る性格じゃない。自分のビデオを売ることで、ユウを自分だけのものに出来ると彼女は思い込んでいるのだ。
素知らぬ顔をした僕はお疲れ様と言って彼女の徒労をねぎらう。内心、腹を抱えて笑っていた。
「そっちもね。毎日毎日大変でしょ?」
大変どころの騒ぎじゃない。喘ぎ声と、荒い呼吸音と、肉と肉がぶつかり合う音で眠れないんだ。
本当ならそう言ってやりたかったが、愚かな蝶が飛ぶ意思を無くすことは避けたかったため、僕は曖昧に言葉を濁す。
「なんだかやけに元気がないのね。熱でもあるの?」
なんでもないさ。大丈夫。僕は寝室に戻るよ。
「うん。わたしもそろそろ戻るわ」
ニーナに対して同情する気持ちが無いわけではない。君は騙されているだけだと、言ってやりたい気持ちが無いわけではない。しかしそんな感情よりも、彼女の行く末を見物したいという思いが優っているのだから仕方ない。
ニーナがどこまで羽ばたくのか、僕は最後まで見届けたいと思う。
〇
ユウとニーナが互いの名前を呼び合う声が、脳の奥の、奥の、そのまた奥までこびりついて剥がれそうにない。ひとつのCMソングが延々と頭の中でループする状態の、世界一低俗なバージョンだと考えてもらうとわかりやすいかもしれない。
おかげで僕はよく夢を見る。ニーナと寝る夢。激しく互いを求め合う夢。僕がニーナに覆い被さり、時折ニーナが僕に覆い被さる夢。
ユウの化粧品で散らかった洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔を見てみると、どうしようもないくらいにクマが酷い。道理で、街を歩いていたらこちらを振り向く人が多いと思った。
「いい顔だな、相棒。似合ってるぜ」
鏡の中のユウがそう言って口元に笑みを浮かべ、僕の目元のクマを人差し指でなぞった。
似合ってなんかいない。こんな顔、普通じゃない。
「普通なんか捨てちまえ。普通であろうとするその理性が、お前を縛る鎖だ」
僕は普通だ。僕は普通に顔を洗い、普通に歯を磨き、何とかして眠気を覚ます。普通に大学へ行って、普通にバイトをして、普通の日々をこなすために。
「自分を誤魔化すなよ、相棒。もう気づいてるんだろ? ニーナを見てお前はどう思った?」
あれは別だ。見世物小屋の猿回しを見るような……悲劇映画を笑って観るような……たかがそんなものだ。
「生きてる人間を猿に例えて普通を名乗るとは、恐れ入ったよ。相棒、いいか?お前は自分を受け入れろ。本当のお前を」
僕は君とは違う。君は女装して女性に手を出すとんでもない野郎で、手製のセクシービデオを販売して金を稼ぐ汚い野郎で、僕の家を占拠する図々しい野郎だ。その点、僕は普通だ。君みたいなことは死んでもやらない。
僕はユウの言葉を否定しながら必死に顔に水を浴びせる。
黙れ。黙れ。黙れ。
「大丈夫?」
突然の声に後ろを振り返ると、そこにいたのはニーナだった。今日、着ているのはバスローブだ。直前までお楽しみだったに違いない。
ああ、大丈夫だよ。朝まで撮影ご苦労様。昨日はまた一段と声が激しかったけど何をしたんだい?
「もう、言わせないでよ。思い出すのも恥ずかしいんだから」
そうかいそうかい、興味はないね。ところで相談があるんだ。さっさとここを出て行ってくれないかな?
「何よそれ。どういうこと?」
どういうことも何も、ここは僕の家だ。僕の家から誰を追い出そうと勝手だろう?
「……本気なの?本気で言ってるの?」
ああ、そうさ。本気さ。だから早く出て行ってくれよ。
「……あなた、普通じゃないわ」
いや、君がいるから普通になれないだけだ。君がいなくなれば僕の人生のレールの歪みは直る。また真っ直ぐに走れるようになる。
さよならの代わりに僕の顔に平手打ちを見舞ったニーナは家を出て行った。ヒリヒリと痛む右の頬が却って清々しい。
「オイオイ。ずいぶん酷い男だな、お前は。追い出すことはなかったろうに」
ユウの声が聞こえる。洗面所を出ると、彼はリビングのソファーに寝転んでテレビを眺めていた。上下ともに丈の足りない制服めいた衣装を着込み、頭には兎の耳、長い脚を包むのは白いハイソックス。彼の姿はまごう事無き変態だ。
「アイツを見ているのが好きだったんだろ? 世界一憐れな女を眺めるのが、大好きだったんだろ?」
黙れ。次は君の番だ。君には僕の家にいる資格なんてない。
「わかってる、わかってるよ。お前の言い分はよくわかる」
ソファーから跳ね起きたユウは、ゆっくりこちらへ歩み寄ると、僕の身体を抱き寄せて頰にキスをした。
「でも、聞き入れるつもりはない」
〇
気づくと僕は見知らぬベッドの上にいた。猛烈に後頭部が痛むのは、ユウが僕を床へ押し倒したせいだ。彼は僕に家を追い出されるのが嫌で、あんな暴挙に出たのだ。
精液の臭いが鼻につく。あちこちにコスプレ衣装が散らばっている。大きなビデオカメラがいくつも設置されている。ここはユウの撮影スタジオだ。僕の家でもある。
部屋の窓のカーテンを開けると、外の光景は夜だ。街明かりばかりが煌めき、空はくすんで見える。
「あら、起きたのね」
僕に声をかけたのはニーナだった。彼女は部屋の入り口のドアに背を預け、ホットコーヒーをすすっていた。
ニーナがなんでここにいる? 出て行ったはずだろう?
「冗談でしょ?あなたがわたしを呼び戻したんじゃない。さっきは悪かった。許してくれって」
馬鹿を言わないでくれ。僕は君なんて呼んでない。
「あなたこそバカ言わないで。寝ぼけてるんじゃないの?」
これ以上この女の相手をしていても埒が明きそうにない。僕は彼女の横をすり抜け部屋を出て、真っ直ぐ玄関へ向かう。とりあえず外の空気を浴びたかった。
玄関扉の前には、やけにスカートの丈が短いメイド服を着込むユウが待っていた。相変わらず妙な格好をしている。
「待てよ、相棒。本当に行くのか?」
ああ、行くさ。だからそこを退いてくれ、ユウ。それと、僕がここに帰るまで荷物を纏めておくんだ。
「わかった。でも、外に行く前に鏡を見た方がいいぜ。ヒドイ顔だ」
ユウがちょうど僕の背後に置いてある姿見を指差す。
酷い顔なのは君達のせいだ。そう答えながら振り返ると――鏡には、スカートの丈が短いメイド服を着た僕の姿が映っていた。
突然の光景に僕は眉を潜める。鏡の中の僕は怪訝そうに僕の姿をまじまじと眺めている。こんなのあり得ない。こんなの普通じゃない。
「そうさ。お前は普通じゃない。お前は、異常なんだ」
いったい君は何者なんだ、ユウ。
「気づかないふりはもう止めろ。俺はお前だ。お前は俺だ」
あり得ない。君はどうしようもない異常者で、僕は普通の人間だ。僕はこれまで真っ当に暮らしてきた。僕はこれからも真っ当に暮らすつもりだ。
「いいや、違うね。平凡な日常に刺激が欲しかったお前は、ある日ふと思い立って女装コスプレを始めた。だんだんとコスプレにのめり込んでいったお前は次々と衣装を買い込んだが、やがて金も尽きた。そこでお前は頭の弱い女を騙してビデオを撮り、それを売り始めた。出来た金でまた衣装を買った。だが、お前も元は普通の人間だ。多少の罪悪感はある。だから俺を生み出した。都合の悪いこと全てを俺の責任にして、お前は自分をまともな人間であると信じ続けた」
消えろ、消えろ、頼むから消えてくれ、ユウ。
「いや、消えるのはお前だ。わかるか?俺はお前の理想なんだよ。俺はお前が本当にやりたいことを全てやってきた。これからも、俺がお前の望みを叶えてやる」
僕はユウを殴りつけようと拳を振るった。だが、その一撃はあえなく躱され、逆にみぞおちに一撃食らってしまった。
「バカなことすんなよ。俺もお前も痛いだけだ」
ユウはスカートを脱ぎ捨てた。女物の下着の股間の位置に確かな膨らみがある。気づけば僕のスカートもいつの間にか脱げている。
「これから俺はお前を食う。安心しろ。お前は俺の中で生き続ける」
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
僕はみぞおちを抑えながら部屋の奥へと逃げ込む。不思議そうな顔をしたニーナが僕を出迎えた。
「どうしたの、そんな顔して」
ユウに襲われているんだ。助けてくれ、ニーナ。
「ユウはあなたじゃないの。まだ寝ぼけてるの?」
違うんだ。僕はユウじゃない。そうだ、ニーナ。この部屋にあるコスプレ衣装を捨てるんだ。全て、窓から投げ捨てろ。
「おい、止めろ。アレはお前の一部だ。捨てるなんてことしたら、何が起きるかわからないぞ」
ニーナはどうしたらよいのかわからないようで、そこに立ち尽くすばかりだ。
捨てろ。全て捨てるんだ、ニーナ。コスプレ女装男子はもう卒業だ。
「止めろ。捨てるんじゃない」
やがてニーナは恐る恐る一枚のコスプレ衣装を摘み、部屋の窓を開け放つ。
そうだ。そのまま投げ捨てろ。
「駄目だ! 駄目だ駄目だ! そんなこと許さないからな!」
いいや、大丈夫。捨てろ。捨てるんだ。
「止めろ!」
「……いいや、ニーナ。捨てるんだ」
覚悟を決めたように頷いたニーナは、その手に持っていたコスプレ衣装を窓の外へ放り投げた。
空に舞うのは、派手なフリルの付いた白と黒のゴスロリワンピース。
ああ、なるほど。アレには確かに見覚えがある。
〇
ユウの存在が夢でなかったと理解出来るのは、僕が街を歩いていると、時折見知らぬ女性から、「また週末にでも会わない?」と声を掛けられるからだ。
あるいは、「あの夜が忘れられないの」と声を掛けられるからだ。
あるいは、突然平手で頰を打たれるからだ。
そういう時、僕はこう言うようにしている。
「ユウはもう死んだよ。ご愁傷様」
言われた方は大抵唖然とする。もう一発殴ってくる場合もある。どちらにしても清々しい。
ある日のこと。バイト帰りの僕は、道端でしゃがみ込む少女を見かけた。こんな夜遅くに珍しい。迷子か何かだろうか。
どうしたんだい?
「おかあさんがいなくなっちゃったの」
そうか。なら、お兄さんと一緒にお母さんを探そうか。
「……いいの?」
いいんだ。ところで、君の名前はなんていうのかな?
「わたし?わたしの名前は」
少女はニコリと微笑んだ。
「アイっていうんだ。よろしくね」
「you」と「I」