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私の人生の一部を話そう。

作者: さと野

これは、私を書き殴っただけの、小説、物語、お話とすらいえない叫びである。


前言通り私のことだ。とはいえ全てを話そうとしても毎日が愉快痛快な日々を送っているわけではないので、ほんの一部になってしまうが、それでも言いたいと思ったのだ。

私は、今年23歳になる。高校は通信制の高校を3年でなんとか卒業した。でも大学には行ってない。そもそも私の学力では合格できないだろうと思う。

そして今は何もしていない。そう、無職、ニート。もしくはプー太郎なんて表現される穀潰しだ。

親はもう齢60歳を超え、65歳に近づいている。定年後に再雇用という形でまだ働いている。日に日に頭に白い毛を増やしながら、疲れた表情と投げ打つように体をひたすら休ませているのをずっと家の中に居ながら見ていた。つらそう。なんて他人事のように、いや、他人事なのだ。

親なのに。私が働いていないから親は普通以上に苦労しているはずなのに。他人事として見ている。おかしな話だ、養ってもらっているのに。

自分でも分かっている。これではいけない、せめて、せめてアルバイトでもしなければ、と。だが身体は言うことを聞いてくれない

人の視線が怖かった。失敗することが怖かった。怒られるなんて想像したら吐きそうになって、泣いてしまう。

そんな身体、そんな精神の持ち主が、私。

多くの人から見れば私は甘えている、怠けている、皆大変なのだ。それが普通だ。そういう意見が多数だと思う。

私だって本当はそう思っているから。でも身体は、心は、言うことを聞いてくれない。


失敗した思い出が、楽しかった思い出が何もしてないという事実に絡みつき、身動きが取れなくなってしまうのだ。

記憶、最初に覚えているのは幼稚園に入る前の記憶だ。今と同じように『何もしてない』頃、まだ友達がいて、朝早くに起きて遊びに行くために用意したが、親に早すぎると言われて待っている。そんなどうってことない記憶。何もしてないということに何の焦りもなく、ただただ毎日が遊びで、楽しくて、早く明日がこないかと待ちわびた毎日。

そして次は幼稚園で遊んでいるおぼろげな記憶、次は小学校低学年の頃のなんとなくな記憶。小学校高学年になり、色んなことを知り始めた『思い出』。

今を思えば、この頃から私は私になり始めたなぁ、なんてこの文章を書きながら思った。


思い出は決して悪いことばかりではなかった。もちろん、悲しい、苦しいといった悪い思い出もある。だが嬉しい、楽しい、心が躍った思い出だって存在する。

けどそれは決して良いことじゃなかった。少なくとも今の私にとっては。

人は嬉しいことがあるとその場所は思い出の場所となり、「ああ、ここでこんなことがあったな」と綺麗な風景になる。そういうものだと思っていた。ずっと綺麗なものだと。

しかし違った。中学生の頃手痛い失敗をした。やってはいけないことをした。犯罪自慢なんてものじゃなく、ただ当時は友達と言えた人と仲違いをしたということだ。

すると私の中の良い思い出がいっせいに、一瞬に、全て真っ黒に染まった。

別々のものだった2本の記憶の紐が、繊維のように混じりあい、結び合い、1本の糸に変化した。長い、長い1つの糸に。

思い出が私の中で溢れ出す。友達の笑い声、そして、喧嘩したときの怒声。笑顔、ゆっくりと歪んで憎しみを抱くかのような表情。

何かする度に何かを思い出す。そうすると何を思い出しても最後に笑顔は消えて、良い思い出すら消えて、苦しさしか残らなかった。その時からか、私は何かをするのが、怖くなった。


中学生の私は不登校になる。

友達と会いたくない。そんな動機がきっかけだったと思う。行きたくないと思うほど体が動かなくなって、本当に熱が出た。元々、丈夫ではなかったが、貧弱ともいえない程度だった身体が、痩せ細っていった。食欲がなく、運動もせず、毎日寝ていた。毎日を逃げて過ごしていた。

その頃の私は『死』という概念を当たり前のものだと感じていた。誰もがやがて訪れて、終わりを迎える。

心臓が停止し、脳が活動を止め、動かなくなり、意志もなくなる。そこに魂なんてものはなく、医学的、なんて格好良く言って自らにも訪れることに何の恐怖も抱かずにいた。

(ああ、もしここまで読んでくれている人が居ても安心してほしい。これは宗教感の押し付けや勧誘の類の話ではないから。最初から最後まで私の話だ)

中学生の私はそのまま毎日を家で引きこもって過ごした。結局、きっかけの想いが少しずつ重くなり、本当に身体はしんどさを増していき、きっと精神的に嫌だと願う気持ちに負けたのだろう。

上記に書いた通り、高校は通信制の高校に通った。言っていなかったが1年間引きこもってから入学したのが実際である。


ここで少し話は脱線するが、我が家の話をしたいと思う。

私の家族は、凄い。特別、父親が社長なわけでも、母親が医者なわけでもない。父親の仕事は車関係の仕事、としか知らないし、母親は専業主婦だ。

しかし、今の私が思うにこんなに普通な家庭を持つのは本当に凄いことだと思う。当たり前は、とても難しいと知った今だからこそ思うことだ。

だから父も母も、尊敬している。詳しい家族を言えば兄と姉もいるが、もちろん尊敬している。何故ならば全員が普通をまっとうしているから。

なのに、自分が働くということに関しては他人事のようになってしまうのは、心と身体が乖離している証拠になるかも知れない。

話は戻って高校生の頃、最大限引きこもりながら高校に通う。ひたすら寝て、ゲームをして、アニメを見て、寝て、寝て、寝て、寝て。

その頃だっただろうか、改めて『死』という概念について何か思うようになってきた。ぞわり、ぞわりと、恐怖を感じるように。

医学的、なんて格好付けていた感情はなくなっていた。何もしていない、何もなしえていない、普通どころか酷く低く醜いと感じる人生。怖くなった。

魂というものは存在せず、脳が止まり思考が出来なくなるということが、怖かった。

何かを考えるのがつらくて、何も考えたくないのに、何かを考えないと怖くて、何も考えられなくなるのが苦しかった。

人が神様にすがりたくなる理由をとても共感出来た気がした。もし死んでも、まだ先があってほしい。この苦しさは今現在、この文章を書いているときも抱えている難題だ。きっとこれからも、私が宗教にはまり頭を床にこすりつけ祈りに堕ちるまで悩み続けることだと思う。

そうやって、何もしていないということが怖くなって、コンプレックスになったのが高校時代。焦りと諦めと、そして虚無。


ここからはそれほど話すことがない。

一応、17歳で高校に入り20歳で卒業、それから引きこもり続けて丸2年間。もうすぐ23歳だ。中学生の頃からを引きこもりや何もしてないと称していいのなら、合計で10年間はこのような生活を続けている。

そうそう、19歳の頃にとうとう心療内科というものに行ってみた。もちろん初めての経験で、心療内科に行くということすら葛藤した。

私は心療内科に行く必要があるのか、心療内科とはもっと、私なんか以上に必要な人が行くべき場所で、私程度は必要ですらないのではないかと悩み続けた。それでも、ここまで読んでくれた人なら分かるかも知れないが、私は病気になりたかったのだ。

引きこもりというのはとても情けない。しかも私は健常で、健康で、もし普通なら、なんと情けないか。だから理由がほしかった。

行く必要がないと思う反面、比例するように心療内科に行きたくて仕方がなかった。理由を求め続けて。

結果から言おう。

抗不安薬と睡眠導入剤が出された。それだけだった。もちろん、私は何かの病気なのか? と聞いた。病気であってほしいと願いながら。

しかし心療内科のお医者さんは首をかしげるだけだった。いやぁ、まぁ、不安が強いのでしょう。と。

私は笑うしかなかった。あははははは、と愛想笑いで絶望を隠した。心療内科なのに、心を隠した。行って初めて気付いたんだ。

心療内科もお医者さんという他人に自分を教えなければいけない。自分を説明するという、ことを『しなければならない』。

それも、自分に必要なのか悩んで、情けないと思う人生を歩んでいる自らの説明を。『しなければならない』。出来なかった。

私自身、少し首をかしげ、いやぁ、私今ひきこもりをしていて、寝られないんです。とだけしか言えなかった。

心療内科の先生とはいえ、他人に自らの深い話をするのには抵抗があったし、それに今までの経験を言葉にすると、それだけしかなかった。

だから正確な処置ではないのかも知れない。しかし自分が招いた結果だから仕方がない。でも、ショックを受けたのは間違いのない事実。

とはいえ処置された薬は効果絶大だった、死に怯えていた私の思考を鈍らせた。怖くてつらくて寝苦しさを覚えていた私を睡眠の谷に落としてくれた。

ああああああああああ、私には必要だ。薬が必要だ。そう思った。おかしくなりたい。狂いたいと願って、薬が必要だと思い込んだ。

もし今から心療内科に行く、という人に忠告しておこう。お医者さんも人間で、1人の人だということを。

そして、病名を期待するのは間違いだと。病名のない狂気も存在するのだと。


今この文章を書いている私はもちろん、ひきこもりで無職のもうすぐ23歳の若造だ。ちなみにあれから心療内科には通っている。

22年生きて思ったことは『まだ22年で、もう22年だ』

こんな私が何かを伝えていいのなら、早く大人になりたいと思うのは悪いことじゃないが、今の時間には限りがあり、とても貴重な時間なのだと伝えたい。

人生を虚無に過ごすのはとてももったいない。人生は宝物だ。そんな風に思えなくても、見方を変えると感じる何かがきっとあると思う。

こんな風に考えられるのは私の周りには私に対する理解があり、引きこもりで無職の状態で居られるからなのかも知れないが、どうか、どうか、私の半生の一部を読んでくれたのなら、いや、これ以上は自分で決めることだから、私は何も言えない。

そこは貴方の世界で、私の現実ではないから。

現実は優しくない。世界は甘えさせてはくれない。世間はいつもにらみつけてくる。

だから他力本願、現実から逃げて、いつかなんとかなる日が来ると。逃げて、逃げて、これからも逃げ続けるだろう。

まだまだ生きていきます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 自分も引きこもりで、自分なら一行で終わる文章を作者は文学に変えてる。それができるだけで色んな変換、応用がきくでしょう。22才で若いのに文に長けてる。また読みます!
2018/01/13 23:24 退会済み
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