夜宴
夜中、目が覚めると、煌々と眩しい光が眼を襲った。起動したままのパソコンがファンを回す音が低く聞こえる。
どうやら、原稿を打っている間に書斎で寝てしまったらしい。夜眼に急にパソコンの発光が当たったので、一瞬視界が白くなる。
眼が慣れてきてから、書き途中の原稿を確かめる。原稿といっても趣味で書いている素人小説だ。保存しようとしてマウスを動かすが、すぐに止める。
覚えのない文字群が見えた。
気になり、意外と冴えた頭で画面を見る。
物狂うのは夜。あなたが気づかないだけで、夜の獣は深淵から這い上がり、そっと枕元に現れる。
そして耳元で囁く。
少しずつ取り込む。
綺麗な色をした怪物はいずれあなたを呑み込む。そう遠くない未来に。
私はあなたに喚ばれたのだから。
そして、あなたは私と同調し、私とあなたはひとつの躰になる。
美しく心地好い。
そして私は夜警となりまた、夜賊となり、永遠に夜を這いずり回る。
それは物語というより、詩だった。
この奇妙な散文詩は一体誰が書いたのだろうか。
今、家には私と私の妻しかいない。
妻が、私が眠っている間に書斎に忍び込み書いたのか。いや、妻に限ってそんなことはしないだろう。これが悪戯にしろ、嫌がらせにしろ、いつも私に関心のない妻がこんなことをするはずがない。悪戯や嫌がらせの類ではなく、これが本気の沙汰ならばわからないが…。
もしくは、私でも妻でもない何者かがいて、これを書いたのか。では一体誰が。私は背筋が凍るのを感じた。
ひとまず、これを保存し、妻の眠る寝室へ向かった。
明くる朝。
私は前夜のことを妻に話した。
すると妻は、
「私がそんなことするわけない」
と言い捨て、さっさと家を出て行ってしまった。その時の妻の態度に私は、普段私を見ては長い溜息を吐く妻とは違う、焦りのようなものを感じ、少し違和感を覚えた。まさか本当に妻がやったのだろうか。だとしても意図が分からない。
その夜、妻が寝た後も、私は書斎でパソコンに向かい文を綴っていた。どうしても気になるので、今夜は書斎に籠り、夜通し見張ることにした。
昼のうちに買っておいた栄養ドリンクを一息に飲む。
深夜二時頃になり、私は画面の今書いたばかりの文を見返った。稚拙な文だった。
徐に自負していたわけではないが、昔から文章を紡ぐのが好きだった私は、そこそこに自分はいいものが書けるものだと思っていた。だが実際文章を書いてみると、途中で行き詰ったり、見返した文が支離滅裂だったりして、幾度もがっくりとした。
これは趣味だから、と言い切るのでさえ、不安で仕方がなくなっていた。
そんなことを考えていると、今こうして妻を疑い、部屋に籠もっている自分が嫌になってきた。
妻とうまく折り合わない。妻が日中何をしているのかもわからない。趣味も、一端の物にすら遥か及ばない。
もうやめようと思い、パソコンの電源を切り、寝床に入った。
栄養ドリンクを飲んだせいで、覚醒し、なかなか眠れない。そのうちに言い知れない不安がよぎり始めた。
もしあの謎の文を創造したのが妻ではなく、得体の知れない何かだったら。見た目からして恐ろしい何かが夜な夜な現れ、書斎でパソコンを打つのを想像した。はたまた、まるで目に見えない何かがいるかのように、パソコンのキーが勝手に上下を繰り返しているのを。
考えてみると、あの文章も妻が書いたとは思えない内容だった。
私は身を捩り布団に潜り、ひとり震えた。
いつの間にか寝ていたのか、朝日と覚醒の感覚がある。睡眠が足りないような気だるさがある。
「昨晩何かおかしなことがなかったか?」
「あなたが書斎に行ったこと以外何もなかったわよ」
妻が不気味なものでも見るように私を見ている。私には謂われのない視線だった。
居たたまれなくなり、私は書斎に向かった。ドアを開けたところで頭の先から全身が粟立った。
パソコンが起動していて、ワープロ画面にまた謎の文章が綴ってある。またあの散文調の詩だ。
夜は明けるが、私はあなたの中にいる。
もう少し我慢しよう。
眠るように待とう。
今夜は夜宴。踊りは夜踊るのだ。
夜宴はもうその鎌首を擡げ始めた。
一体誰が…
妻か、侵入者か、まさか霊ということは…。
私はそれを保存し、パソコンの電源を落とした。なぜかそれを消すことは考えなかった。
その夜も私は書斎で原稿を書いていた。
昨日の原稿を見てみるが、何も変ったことはない。謎の文章が、私の拙い物語の途中にめり込んでいる。
今日は頃合いを見て、寝室へと向かうことにした。妻は静かな寝息をたてて寝ている。
同じ部屋で寝ているだけ、仲の良い夫婦に見えるかもしれないが、妻は烈しく私を疎んじている。生活態度、会話、私を見る目でさえ、蔑みに満ちている時がある。
私に落ち度があるとすれば、この引き込みがちな性格のせいだろう。不倫経験もないし、夜遅くに帰るということもほとんどない。ただ妻は持て余してしまう。
思考を巡らしていると、いつのまにか眠っていた。目が覚めたのはまたしても深夜で、寝室のドアが閉まる音のせいでだった。
暗闇に妻が立っている。輪郭だけがぼんやりと揺れていて、表情はわからない。
どこへ行っていたか訊くと、
「トイレよ」
と言う。
ふと思い立ち、明かりを点け私も立ち上がる。不審げな顔をしている妻が闇に浮かび上がる。珍しく妻が私に問いかけてきた。
「どこに行くの?」
トイレだと答えると、妻は更に訝しげな顔になった。妻の視線を背中で感じながら、私はまっすぐに書斎に向かった。
部屋に入ると、寝る前には消したはずのパソコンが、夜の闇に光を浮かび上がらせていた。
胸の高鳴りを抑えながら画面を見ると、ワープロソフトが立ち上がっており、何かの文章が書かれている。またあの散文詩が眼に映る。
あなたは既に私の虜だ。血と肉を欲し、人間を探して彷徨う。
獣と化したあなたは、衝動に抗えない。
正気は昼だけの玩具だ。
夜宴はもうすぐ始まる。
煌びやかな真っ赤な花の装飾をあなたが胸に留め。
私はそっとあなたを押すだけ。
私はある程度の確信をもった。恐らくこの文章は妻が書いたのだ。タイミング的にもそれしか考えられない。
そして部屋を出ようとドアを開けて、私は息を飲んだ。
妻が部屋の前に立っていた。
「こんな夜中になにしてるのよ」
非難めいた言い方に恐れの色が窺える。
「そっちこそ何をしにきた」
妻が押し黙る。暫くの沈黙。妻の顔はパソコンの光にのみに照らされ、表面に妙な影の曲線が描かれている。
沈黙を破ったのは私だった。
「お前、一昨日から勝手に俺のパソコンに色々打ち込んでいるだろう…一体何がしたいんだ。言いたいことがあるなら口で言え、大体こんな理解のできない文…」
そこまで言って私はパソコンを見た。そして思わず奇声を上げそうになった。今、まさに新たな言葉が打ち込まれているところだった。
黙っていた妻が話し出した。パソコンの異変には気付いていない。
「だから、そんなのは知らないって言ったでしょ。私はね、あなたが何か企んでいるんじゃないかって不安になって来たのよ。夜中に何度も起きだして。部屋を抜け出して何をしてるのかって」
夜中に何度も起きて?妻がそう言っている間も画面では、文が一つひとつと完成していく。
「別に下手な文を書いてるだけなら気にはしないわよ。でも一人でぶつぶつ喋りながら起き上って、声を掛けてもまるっきり反応がなくて。気味悪い」
そのうちに妻は何か鬱憤を晴らすかのように喋り始めた。狂ったように。いつものことだ。私と妻との間に会話は存在せず、妻の一方的なスピーチ形式になる。
私はそれを黙って聞いていた。そのうちに段々と妻の声が遠くなっていく。視界が霞がかかったようになる。私の意識が薄れてきているのだ。だが妻は気にせず喚き散らしている。
おかしな感覚だ。意識はぼんやりとしているのだが、完全にないわけではない。だが五感はすべて通常よりも感度が下がり、夢の中にいるようだ。
「ちょっと、ふざけてるの?」
妻の視線がキーボードの方に注がれている。私も釣られて妻の視線を追う。そして勝手に進む文章作成の原因を目の当たりにした。
キーボードを叩いているのは私の手だった。意識とは別の何かがそれをさせている。だがなぜか予期していたような恐怖感がない。むしろ興奮してきた。何か広義での性的な興味、つまりフェチズムを満たさんとするときのような興奮が。
そしてすべてを書き終え、私は立ち上がった。ふらりふらりと歩きだした私に気づかないのか、妻は動く私に対応するように、その都度向きを変えるだけで、私を罵倒し続ける。妻もある意味狂気の沙汰だった。
頭の中でパソコンの画面のように、光が明滅している。そこには、愛おしい彼の文章が綴られている。私が先程打ち終えたばかりの最後の散文詩が。
夜宴の準備は整った。
あとはあなたが深紅のブローチを手に入れるだけだ。
夜の玩具は銀色のナイフ。
さあ一緒に啜ろうではないか。
散文詩が終わり、私は恍惚とした気分で立っていた。
手には包丁を握りしめている。
我を忘れ喋り散らす妻。
朦朧とした意識の中で包丁を構える私。
躊躇いはなかった。勢いをつけて妻の懐に飛び込む。妻は目を見開いて倒れる。
見下ろす先に、妻が横たわっている。
書斎の絨毯が真っ赤なカーペットのように染められている。
体の感覚が戻り始め、視界の霞も徐々に晴れていく。
意識が正常に戻ったとき、私の胸には深紅のナイフが突き刺さっていた。先に妻を刺して、噴き出た血で赤い花弁のような模様がついた銀色の包丁が。
それですべてわかった。
あの文章を書いたのは私自身だ。
悪魔に触れたわけでも、心霊に取り憑かれたわけでもない。紛れもない私自身が、思い、選び出した拙文だ。
妻が憎かったわけではない、人生に諦めを感じたわけでもない。
ただ私が意識せず書いたこの文章に、美しい最期を与えたかっただけだ。
そして夜宴は終わった。