分析するもの、されるもの。
見る。ただの行きずりの不審者――
いや、違う。
背後には、おそらく自分に何かしようとしていた男と、オリヴィアが既に何合かの組打ちのやり取りをしている打音がしている。
――普通じゃない。大丈夫か、と思いながら。
そうもしていられない。自分の正面、こちらの目突きを回避し崩した姿勢を立て直すと、何かの液体で濡れた手をそのまま、即座に向かって来た。
敵意、感情めいた私怨は見えない。
邪魔者を排除しようとしているだけにしては――
その男はオリヴィアを狙った――それを念頭に置き、彼女に向かわせないよう動線を阻害しつつ、間合いの半歩内側で彼の動きを誘導する。
もう少しで届くように思わせる。その足先と手を追わせる。
何が付いているのか分らない手の平を開き、彼はこちらの肩先から腕先をまず掴もうとしてきた。左右に、巧妙に彼の視界からオリヴィアを外させる。
狙われた肩先からギリギリのところで遠ざける。
するとすぐ下に――こちらの袖を取ろうと軌道を変更する。脚は足運びに終始し、それを打撃に使おうとはしてこない。不用意に重心を崩さないように腰溜めに構えた前傾姿勢――打撃を狙っていない、敵の端所に組み付こうとする動き――
戦術の第一位に、こちらを拘束しようとしている。
その腕を狙い、親指の刺突で皮膚の内側の筋肉を打撃した。
その鋭い痛みを少々のダメージと無視して、男の足がこちらの懐に飛び込んで来る。致命的な怪我ではないと瞬時に合わせて、回避を取らせないタイミングで間合いを詰めて来たのだ。
それと同時にバックステップ、更に彼女との距離を取らせ、そしてほんの少しだけ間合いを詰めさせる。
それを押し切ろうと追随してくる――
徹底されている。漫然と拳を振り被るだけの不良とは違う、戦いの中に戦術思想が存在している。
健実の稽古場に来ていた自衛官が、それに近い動きをしていた事を思い出す。まず組み付き、そして相手の武器を奪うか利用し無力化するか、殺傷能力の低いナイフで確実に急所を狙うそれだ。常に拳を握らず手の平を軽く開いているのは、自身に他に武器がありそれを使用しようとするか――相手のそれを奪うことを前提とした構えだった。
その運びに【遊び】、無駄が無い。
自分は不自然じゃない程度に速度を落とす。元より半歩相手の間合いの内側に居たのだから、敵は自然に手の内に来たと思い加速した。
急に、隙を見せたようには見えない――切羽詰まっていればいるほどチャンスが飛び込んできたと思ったのだろう、男はすぐさま腰後ろに手を伸ばした。
――その一寸先に、刻を合わせ、折り曲げた右肘を男の胸板へ。
間合いに入ったのはこちらも同じだった。
当てる、心臓の奥を目掛けた。
全体重を乗せ、突き出される右半身に合わせ左を円運動で引き、震脚で一気に伝達させ爆発させると男は呼吸を強制的に肺から全部吐き出さされ、そのまま目を剥き体を硬直させた。
文字通り心臓が止まるような思いをしているのだ。
アスファルトに硬質の音が響く――
彼が取り落としたそれはスタンガンだった。凶器だと理解すると同時、危機感が膨れ上がった。それを躊躇いなく使おうとしていた男に。
まだ心臓を強制的に硬直させた痛みで、目を剥き立ったまま動けずにいる。
そこを膝で股間を潰すつもりで全力で蹴り上げ、更に呼吸困難になり背を折り落したた頭部を左掌底でこめかみからを打ち抜き、横によろけたところを更に右の掌底で下から顎を真上にかち上げる。危険な打撃の連続だが明らかに素人ではない男が凶器を持って複数で襲ってくる状況に容赦は、逆に危険だと感覚が警鐘を鳴らしていた。
すばやく彼が落として凶器を拾い上げ、その電源を確認し倒れた男に念の為押し付けスイッチを入れる。
震えた後、男が完全に昏倒したことを確認してから背後に振り返るとそこには――既にもう一人の男は倒れ伏し、それを後ろ手に結束帯で縛るオリヴィアが居た。
普通ではない。彼女はいったい何者なのか。
そこで周辺から人が集まり始める。
しかし、ある異常に気付く。
周囲に集まってきた人は、何故か、皆日本人ではなかった。
いや、それ以前に……、
人気がそれ以外存在しない。
いつからそうなっていたのか。
雑踏の気配はいつのまにか静けさにすり替わっていた。
そこで大型バン――黒のハイエースワゴン車が二台横付けされた。
まるでエンジンを切りながら慣性に任せたような静けさだった。
後部座席のドアが開く。中から、欧米系の人種ら四名が降りてくる。彼らは物々しい形相で瞬く間に二人がこちらの両脇を埋めて来た――
逃げようと思う、が、既に囲まれている手合いもあり、オリヴィアも硬直して動かない様子――それを置いて言っていいのかと迷いそのままそこに立ち尽くした。
茫然とする。既に手詰まりだ。
そこで助手席が開き、白髪に眼鏡を掛けた冴えない壮年の男が、まるで家族に電話でもするような口調でこちらに向かって口を開く。
「――何も聞かずについて来てくれるかい? 君にいくつか頼みたいことがあるんだ」
言われ、自分は無言でいると、周囲の男達が無言でこちらを更に取り囲んで視界を埋めて来る。
オリヴィアは彼らを睨みつけたまま口を開く、
「――待ってください! 彼にも事情を話して協力を!」
「立場を弁えたまえ。――君は、自分のそれを彼に明かしたのか?」
「……」
白髪の男にそう言われるなり、オリヴィアは閉口した。
そんな力関係が存在していることから、彼らは彼女の知り合いだということは分かった。
そして、彼女への不信感は増した。
その敵意を露わにしたこちらに、
「……ふむ、では、まずは紹介しようか……軽くドライブでもしながら」
すると、襲ってきた男達――オリヴィアが結束帯を施した男は、彼の仲間と思われる者たちがそれをナイフで切り解放していた。
彼は何気ないしぐさで埃を払いその列に加わっている――仲間だったのか。
それは自分が昏倒させた男も同じようで、彼は仲間に抱き抱えられ車へと運ばれていた。幾人かがこちらを苦々し気な視線で見ているが、いきなり襲われ凶器を使われそうになったのだから自業自得だろう。
そして、
「……オリヴィアは」
「ああ――その話も中でしよう……走っている間は盗聴の心配も少ない」
遮られる。
「……ごめんなさい」
促され、ため息を吐きながら、自分は助手席から出てきた男と同じ車の後部座席に乗り込む。
それにオリヴィアも付いて来て、乗り込んだ。
走行が始まる。
赤の他人の――一人二人ぐらいならともかく、それも全てが他人種に囲まれてのドライブは静かな車内と相俟って背筋に緊張を垂れ流しにさせていた。
こちらを値踏みするような視線が絡む。半ば囚人を監視するようだ。
程なくして高速道路に入り、そこで会話が始まる。
白髪の男が、
「……君、名前は鷹嘴明人でいいんだね?」
「……ええ。鷹嘴明人ですが……そちらは?」
「……そうだなあ……とりあえず、私のことはジョンとでも覚えておいてくれ」
「ジョン……」
向こうの犬の名前で結構ありそう。
「……なにかね?」
「……フィクションの世界で、犬の名前でありそうな名前だと」
「――はは、まあありふれた名前だからね。有名なのはミュージシャンだが、身元不明の遺体や、偽名などでもよく使われるだろう?」
「……そうなんですか?」
「知らないのかい?」
「スパイ物の映画はあまり見ないんで」
「そうか……それは残念だ」
フランクに語り掛けて来るが、こちらはいつ彼らがどんな理不尽を押し付けて来るのかと胃が縮こまる思いである。
「まあそのスパイ……みたいなものが我々だがね」
「……へえー」
正体不明の連中に囲まれながらそんなこと言われても、信用できないし、言われたこともいまいち理解できない。
「……見知らぬ大勢に囲まれ緊張するのは仕方ないが、そうだな……CIAの諜報員だといえば、多少は信用してくれるかい?」
「CIA……」
アメリカの、中央情報局――公的機関だ。
「……映画でよく聞く奴ですね……」
「だろうね? なのでこれ以上、名前も何も聞かない方がいい……ああそれと彼女については記者としての身分は本当だ、今回に限っては直接的な協力者という位置付けだが、普段は記者の立場を利用して、合法で健全な範囲での諜報活動をして貰っている……それでも他言無用にしてくれると助かる」
「……」
現実味が無さすぎて語彙が見当たらない。自分を取り囲んでいる様々な他国籍の人種が、その全員がそうなのかと。そして依然、それに数で囲まれ、自由を奪っている相手であることは変わらない。
さもこちらの身を案じ、信用しろと言われても無理がある。
政治関係に正義も悪もないが――
そこで、杦田から言われた『善人でも悪人でもない』という言い回しを思い出した。そして彼女の動機も全て偽りなのだろうかと疑問が過る。単なる協力者と言っているが、本当はれっきとしたCIAの諜報員なのではないのか?
本当にただの協力者なのだろうか?
「かえって信じられないかい?」
彼女だけではない。
いきなり襲われたことについても問い質したい。
「……さっきのは……なんですか?」
「……ああ。本当はこちらの身分を明かさずに君か彼女を拘束して、脅して、人格を測ったあとで協力を仰ごうとしたんだ。もちろん彼女は何も知らなかった。襲撃役の二人も今日初めて顔を合わせた。……ただ、二人とも、まさか彼らを倒してしまうとは思わなくてね、彼女はともかく、まさか君が数年にも及ぶ訓練を受けた者を易々と倒すとは」
「……そうだったんですか」
思い切り相手が死んでもおかしくない危険な打撃を見舞ってしまったが。彼――彼女の仲間だったとしたら、少し悪い気がする。
オリヴィアに視線で尋ねる。すると彼女はどこか沈痛な面持ちで頷いた。
要するに、暴力的に拉致、誘拐、脅迫しようとしていたということだ。
それは確かに非・合法だ。普通に犯罪である。
それが自分に行われかけていたのだ。頭おかしいと思う。
頼みたいことがあるなら普通に頼めよ、現状も、同意して乗り込んだが実質選択肢が無い不当な拘束である。こいつら本当はテロリストなんじゃないだろうか、とさえ思う。
「……まあそのことは気にしなくていい。なんらかの訓練を受けているとはいえ、一般人に隙を突かれるような練度では、彼に非がある」
「あ、はい」
もう別にそこはさほど気にしていない。むしろ再起不能になるように股間をもっと強めにやっておけばよかったと思う。
そして、
「――ところで君はどこで訓練を受けたんだい?」
益体も無い話を、拍子もなく切り出される。何か頼みたいことがあるのではなかったのかと疑問するが、
「……あー、それは、仕事でお世話になっている人が空手道場をやっていて、そこで稽古をつけて貰いました。師範代や兄弟子たちも面白がって寄って集って可愛がられて」
「どれくらいの間だい?」
「……そうですね、半年……子供達の勉強を見ながらの片手間に。それで多少英語が話せるんで、通訳がわりに海外でも開いている道場に一ヶ月くらい連れて行かれたり、あ、いきなり大会にぶっこまれたりもしましたね」
「――その師匠は、君の才能を随分と褒めたんじゃないかな?」
「どちらかというとずっと叱られてましたね――そうじゃない、それじゃ練習の意味が無いとか――もう型はいいって、終始木刀やら槍やら鎖鎌や手裏剣を本気で打ち込まれて……」
「……それは空手なのかい?」
「一応そうらしいです。正確にはそれ以前からある古流武術だそうですが、その要素も取り入れてるとか入門者を募る都合で空手を名乗ってるそうです」
ただ、昔の技術を伝統として受け継ぎ競技として研鑽しているのではなく、他の武術の技術も取り込み、近代戦の思想や理念も研究している……スポーツではない武術、実質空手とも柔術とも柔道ともいえないそれだ。
体力作りに山の中を駆け上がったり、山の畑に背負子で農作物を背負って艇の良い労働力扱いされたり――熊や鹿、イノシシを狩ったり。
自分にとって重要なのは、子供の世話と教育なので、その面で世話になったことの方が恩として大きい。
「……なるほど。しかし、襲撃に気付いて彼女を助けたにしては、何故途中から放っていたんだい?」
「……叫んでる余裕もなかったからですが」
「逃げようとは?」
「複数いるのに、逃げられますか? 彼女も襲われてる感じだったのに?」
「人として好ましいが、適切な判断じゃあないなあ……」
「安全第一なら逃げますが」
「まあそれを選んでいたら、好印象ではなかったが」
「叫んで人を呼べれば本当によかったんですけどね」
「それが一番困ったよ」
そう、出来ればよかったのだが、そんなことに気を割いている間に捕まっていただろう。危ない! なんて叫んでいる間に手を濡らした薬品、腰に隠していたスタンガンで動けなくされていた。襲われている時に大声を上げるというのはなかなかできる事ではない。路上で危ないときは大声を――何も出来なかったのか、なんていうのは本当は無理なのである。
それぐらいの力を、殴り倒した彼には感じた。背中にもう一人いたこともあるが切羽詰まっていたのだ。
だが、
「ただ、君は勇敢だったかもしれないが今後は気を付けた方がいい。銃やナイフを出されたら終わっていただろう、まあ銃は、この国ではなじみが無いだろうが、それでも英雄なんてフィクションの世界のものだ」
「そうですね」
忠告としてはまともでも、いくら親身に親切ぶられても、自分を襲った連中だ。
それとも暗に自分達は銃を持っているよ? と脅しているのだろうか。
信用できない。こう思う自分はおかしいのだろうか? なんとなく仲良くなった雰囲気を演出していると思うのは気のせいだろうか?
もしかしたら今の質問から何か調べていたのだろうか。
そんな疑問を浮かべる最中、高速道路の代わり映えのしない景色を眺めながらジョンはフロントガラス越しに語り始める。
「……君ももう気づいているかもしれないが、我々はいま話題のVRゲームを作り、そしてその技術を占有している人間を探している……悪いがその捜索の協力をして欲しいんだ」
ああ、そこは本当なのか。
しかし、
「……どういうことですか?」
本当はさして興味もなく、そして協力的にも成れず、そんな生返事を返す。
いきなり半ば拉致されて好意的に出来るか。
杦田がそれをしているということだが――
やはり彼らは、ただ失踪しているのではないのか。それも意図的に。誰かに強制されたのではなく。
技術の占有って――ああ、サーバーごと消えたってそれか?
以前、杦田達でなければ扱えないと聞いたが……研究データだけあっても再現できないってことなのか? 占有と言うからには、彼らの手元以外のそれを消去されているとか?
無意識に情報を整頓していると、
「あのVRシステムの大本が、軍用のシミュレーター、兵士の戦闘訓練に使われるものだ、ということは知っているかい?」
「……? 最初からゲームとして作っていたんじゃないんですか?」
新たな情報が降りて来る。
杦田から聞いた話では、予算の確保の都合で様々なバーターが――と言う話で、その一つ程度だと思っていたが。
「……ああ。あれは元々、こちらでは想定される戦況、状況を入力して兵士の訓練に使うために、前々から開発していたんだよ……もっとも、その時は古臭いフィクションのように電極を体に貼り付けるか刺すかして脳内に映像と感覚を……というものだったんだが、彼が参加してから劇的に変わってね……」
「彼……」
「君も知っているだろう、杦田鷹介――天才だよ、彼は。だか彼は、日米両政府が臨んだこの事業の成果と共に、ある日突然姿を消した……」
自分は思い出す。
そこに居たスタッフ、そして、関係者の家族ごとというそれを。
そして、消えた自分の元恋人……後輩の事を。
いま彼女はどうしているのか、それを思いながら。
話を聞く、
「……我々CIAだけでなく、この国の内閣情報調査室――内調や公安も、テロ組織の関与も含めてその足取りを追っていたが……驚くことに、一向にその姿を見つけることが出来ない。それどころかもはやどの組織もまともな情報を掴むことも出来ない始末でね、はは、幾ら天才とはいえ、その分野に詳しいわけでもないのに――いや、いった何をしたんだか」
「……」
それを、彼はどこか嬉々としているのは気のせいだろうか? それとも、追い詰められ過ぎて笑うしかないのだろうか? こっちは全く笑えない。正直、だからどうしたと言いたい――
というか本当に国絡みで話が動いていたのかと、半ば疑いながらに思う。きっと、この件が表沙汰にならない情報封鎖も本当なのだろう。
そういえば彼女はよくそんなことをちょろっと自分に話したな……諜報員失格なんじゃないのか? 聞いた限りではただの記者の協力者って体だったが。
そして―それにつぐみが巻き込まれてしまったのだと思うと、心臓から冷たい棘が刺さって血液に流れているようなおぞましさが、それを軋ませながら体を冷やしていく。
「……それで我々は、失踪しながらも今も稼働しているゲームの調査をしている……そしてプレイヤーの多数が事件を起こしていることに気付いた、というのは、彼女から聞いているかい?」
「……ああ、そういえばそんなことを……」
話半分に、効いていた。
これから、自分は彼女に何が出来るのかと考える。
「その詳細は?」
「……いえ。ただ暴行事件を起こしているとか……俺が知人に訊ね回った限りでは、ごく普通のゲーム関連のいつもの諍い、程度の話しか聞こえて来ませんでしたが」
「ふむ、それは我々の見識とは逆だね」
「……え?」
VRゲームならではの問題や意識の仕方についての話もあったが、それが事件に繋がる要素、というほどのものではなかった。
現実の問題――杦田もそう言っていた通り、そう思っていたのだが。
「ここのところ、あのゲームのプレイヤーの一部が世間で事件を起こしているというのは知っているんだね?」
「――ええ」
オリヴィアに最初にあった時に聞いたのだったか。
そのあと、ネットで調べて、つぐみが彼らにスカウトされた、という話を聞いて。
「じゃあそれ以上に――それに先んじて、事件に限らずプレイヤーがなんらかの問題を抱えた場に居合わせそれを解決する、ということが起きているのは、知っているかい?」
「――え?」
何の話だ?
「全容としては、プレイヤーはただ事件を起こしているだけじゃないんだよ。それは暴行事件や会社の不正暴露、麻薬取引から万引きの通報、痴漢の現行犯逮捕から老人の荷物を持ったり――または、これまで見過ごしていたり、知っていたごく日常のそれに突如怒りを露わにして黙っていられなくなり……といったそれらを解決したり、なんてことだが」
それはとてもいいことのように思える、一見してみると。
というか、凄い良いことだ。
それの何が問題なのだろうか?
「まあ表面上はいいことなんだが。……しかし可笑しいと思わないかい? これまで日常に黙殺されていたそれらに、いきなり我慢が出来なくなるなんてこと普通は、ありえないだろう?」
それは確かにそうだ。多くの人にとって日常は耐えて乗り越えるものだ。現状を変えるでもなく不満や不備や理不尽が内包していることを当然としている。
それに我慢が出来なくなったら――
それこそ日常の中で生きていけなくなる。そうなれば一挙に落伍者だ。
それを想像すればどんなにつらくても我慢する。
解決できるのなら我慢なんてしていない。それが無理だと分るから、普通は、理不尽な日常に対して歯向かうなんてことはしないものだ。
確かに、それは普通に在り得ないことかも知れない。
だが、
「……それが問題になるんですか?」
「――いいことだと思うだろう? だが、それが目的だとしたらどうかな?」
「……どういうことですか?」
車の窓の外の車輪の音が耳でやたら騒めく。
やはり、問題点が見えてこない。
「実際には起きてるんだよ、リアルすぎるゲームをプレイしたせいで倫理観や現実感を失い、暴力性への忌避感を無くし、暴行へ奔り過剰な行動に出る人間は。表沙汰になったのはごく少数だが――近い例を挙げるなら君が先日関わったそれかな」
不良にしては、あまりにも躊躇いのない急所への攻撃――
あまりにも暴力に慣れ親しんだそれを思い出す。しかし……やはりあれはそういうことなのだろうか?
「しかし余りにもそれらに対して世間の危機意識が薄いと思ったことはないかい? 事件についてもそうだが、リアルすぎるゲームについても、それは何故だと思う?」
「それは――」
「そして正義の行動とはいえ、暴力に対するには力が居る。犯人を組み伏せ、退けるのは武力だ。これは正義が伴っているからそう言われるが、れっきとした暴行なんだよ? それを正当性があっても相手にぶつけるということに――理性の育った人間はマイナスのイメージや感情が働く……いくら正義でもまずそれを普通は躊躇うものなんだ。普通思わないかい? 『何故そんなことが出来るんだ』と。それに目の前に存在する暴力に立ち向かうということには、それ自体の危険という恐怖もある。この二つを克服しなければ人は正義を実行できない。それなのに……警察より規模が大きいわけじゃないが、善意の協力者と代行者の数が増え過ぎているんだよ」
年間の立件数と逮捕者数、それと比べてだろうがそこまでなのか?
助手席のミラー越しにこちらを見つめながらジョンは告げる。
「事件になる前に解決するわけだから、それは公的に事件として数えられないし記録にも残り辛い、その所為で気づくのが遅れたが……。
これはもう、善意、悪意、その両方の留金を何かが意図的に取り払っていると思った方が自然な数字だ。率直に言おう、我々はあのゲームにはプレイした人間が何らかの精神失調――いや、変調をきたす特別な何かがあると思っている。もっと言ってしまえば、洗脳だが」
意見を求める様に、彼はこちらをミラー越しに一瞥している。
それは、これに限らず、ニュースで騒がれたそれを危険人物の指標とすることはあるだろうが、本質的には人間の問題と分っているからではないのか? 概ね、一因であるとは思っても、当人の問題であって原因であるとは言い難い、と。
「……信じられないかい?」
「……ええ」
洗脳なんて出来るのだろうか。ゲームでそんなに人は残虐になるのだろうか?
あそこまで現実的だからこそ犯罪行為に恐怖を抱くのではないのか?
それとも、やはりゲームだと割り切り殺人行為を楽しんでいたらそれを助長するのだろうか。
楽しんでいなくとも、割り切って人を殺すことが当たり前になってしまっているから?
現実でも、残虐性などなくても無自覚に理性の留金が外れたままになってしまうということなのか? それは価値観が変わってしまっているということなのだろうか? ゲームの中で慣れて麻痺しているのだろうか? 強い刺激になれるのと同じで、それが普遍化してしまうのか。より強い刺激を求め――より過激化するのと同じで。
それとも、そういう思想的な物ではなく――
生理的な反応として。
医学的に見た場合、精神疾患はれっきとした肉体の疾患と見るそれだ。自律神経や交感神経の異常などのように、肉体を、堪えられないようにする。そうせざるを得ないように、暴力行為に及ばないと不快感が常に頭の中を掻き毟るとか。
本来なら嫌悪すべきそれを、いざ前にしたときに感じる筈の胸の苦しさや、吐き気、その肉体の感覚を緩慢にするか、逆に過敏にしたらどうだろうか?
それなら、出来そうだ。なにせVRシステムは肉体の感覚を制御している。
だが……。
思想的なそれの歯止めとして、あのゲームのPKや悪役ロールにはゲームとしてただの不利益と不遇が課されている。しかしゲーム外の楽しさ――ゲームとしてではなく、個人的な嗜好として暴力行為や不正行為を楽しもうとする人間や、罰則を枷としない者には意味が無い。
明確に『洗脳』と言ったからには、そんな自然的な心の変化の流れの要素では無くやはり、機械的な方法で、人の心に、人為的、人工的な介入の要素があるということなのだろうが。VRシステムを利用したそれは、理屈的には出来そうだが――
しかし、どうにも信じられない。
何せそれをしているのが、彼だというのが。
何故なら、
「……ゲームクリエイターとして、一角に立つ人間が、犯罪の一助となる様な危険性を組み込んで、利用しているとは……」
思えない。
そんなこと、信じられるわけがない。
そんな人間には思えない。
「――そう思っていないとしたらどうかな? 自分のゲームをプレイした人間が、善人になったら? 潜在的犯罪者、法律を掻い潜る様な危険人物も、それがどうにもならない表面化……わかりやすい犯罪者として、捕まえられるようになるとしたら? それは十分意義があるように思う筈だが」
そのとき――このゲームの問題は現実にある。そう言ったそんな彼の言葉が、蘇ってくる。
思う。
……まさか本当に、そうなのか?
このゲームが世に存在する上での問題を解決するために。それを相殺、もしくは上回る価値を与えようとしているのだろうか。
そんな馬鹿なと思う。ゲームの――現実の問題を解決するために、それにプレイヤー達のそれに干渉している、なんてありえるのか? 人間はプログラムで動いていない。機械的な介入で、人の考え方や感じ方、理念や倫理を変えることなんて仮想現実に出来るのだろうか?
それは――
……あるかもしれない、と思える。
思想や何かならともかく、完全没入型VRシステムは肉体の感覚を操り与えることが出来る。それで本来なら自制が利くストレスや何か――生理的な反応を、歯止めが利かないようにすることぐらいなら可能ではないのか?
それは思想の変化ではない、しかし、一時の激情に対する反応なら――
可能、だと思う。しかし、
「……それでもそんな馬鹿な事するとは思えないですね」
「どうしてだい?」
杦田の顔が思い浮かぶ。他の開発スタッフたちのそれもだ。
そう、彼らは、
「ゲーム屋だからでしょうか。クリエイターとプレイヤーの差はあるけど、ゲーム好きな人達――特にそれを仕事にしている人達が、自分の生業を……ゲームを貶める様なことを本当にするんでしょうか?」
「……言っただろう? 評価は上がると」
「いえ――むしろ評価は下がります」
「――何故そう思うんだい?」
擁護しているわけではない。
ただ、今『CIAの彼らの言ったこと』を評価するなら――
世間の人達がそれについて、本当にどう評価するかを基準にしなければ、まず話にならない。
「……あなた達は技術を占有しているから探しているんですか? それとも、そんなシステムは危険だからですか?」
「――両方だが?」
「どちらにしても犯罪行為ですよね? ……どのみち、そんなやり方で世間が評価するとは思えないですけど――要するに自作自演、犯罪の幇助、未必の故意ですよね?」
これを人はどう評価するのか。そんなゲームを本当に評価するのだろうか?
世間に悪人が居なくなるのか、社会に問題が無くなるのか。たとえそうだとしても、その手段は――どれも人の倫理観に尋ねれば悪徳行為としてしか映らないだろう。
そんなことが分らないわけがないだろう。
「だから先に成果を上げようとしているんじゃないのかな? 社会秩序に貢献する事を証明すればゲームとしては無理でも、犯罪者の更生プログラムに転用したり」
「――ゲームクリエイターがそこまで深く考えますか?」
「ただのそれならそうかもしれない。……だが、彼は天才だ」
「だったら尚更最初から――ゲームとして完璧なシステム、にすると思いますけど。天才なら」
そんな危険性は開発段階で徹底的に排除するだろう。
彼がゲームクリエイターだからこそ、そんなゲームを許すとは思えない。
そもそもいちいち犯罪者をマッチポンプで――なんて合理的でも効率的でもないし、犯罪者の心の根本的な解決を図っているわけでもない。それがどうして評価されると思うのか。犯罪者など出さずに最初からそいつらを洗脳してでも強制的に善人にするほうが遥かに評価されると思うのだが。
それに、ゲームが社会で貢献を――ゲームにそんな副次的評価を与えたいなら。それも含めてこんな事件を起こす必要なんてない。犯罪者に限らず人格の更生と矯正に拘るのなら、表沙汰になる事件を起こさなくとも、それこそ裏でこそこそとがっちり握手して政府が推進すればそれで十分だ。
それも、評価を得るならほかの分野の方がVRシステムは向いているだろう。
ゲーム機は娯楽文化の文明機器だ。ゲームの社会的地位を向上させるなら正直もっと有益で世間からの評価を得られる文化的なものになるのではないのか? それこそ捨てられていく文化の保存や流布、推進の一助でもう十分それを得ているだろう。
しかも、それだってただ予算とバーターの都合で組み込んだという話である。
天才クリエイターなら、そうしてそこら辺にあるなんでもないものをゲームとして楽しめるように工夫するものではないのか?
杦田自身が本当に人を善人に変えようなんて思っているのなら別だが――しかし、それをわざわざゲームで行おうとするのか? という疑問もある。
作品にそういうメッセージ性を込めようとするのは脚本家や監督は居るかもしれないが、それはあくまで演出を演出と弁えた上での創作で感動を作り出すためだ。
しかもそれはソフト開発の話――彼はハード寄りの技術者だ。
だとして、心に訴えかけるゲーム機を作ろう――とするだろうか?
素人でも分る、それはゲーム機である必要はないだろう。たとえもし作るとしてもゲーム機とは別にそういう機械を作るのではないか?
ゲームは楽しむものだ。そんなことを彼も言っていた。わざわざゲームで心の教育なんてしようとはしないだろう。彼らが姿を消したのも、サーバーを隠匿しているのも……もっと他の、別の何かの目的があってこんなことをしているとしか自分には思えない。
彼もそれについて何か言っていなかっただろうか?
そんな実際に目で見た彼と照らし合わせると、洗脳だのなんだのの方が――こじつけに見えてしまう。
「……あ、すいません……喧嘩腰になっちゃって」
「いやいや。……ゲーム好きの君の立ち位置は分かった」
「はあ……」
つまり見解は変えないということか。
いや、また何かを確かめていたのだろうか?
ひょっとして杦田さん達の共犯者、ないし、協力者だと思っているのだろうか。
「とにかく、君には改めて――正式に協力を仰ぎたいんだが」




