喪失。
眩しさに目を閉じ、開くと。
一目で飛び込んで来る花が揺れる光景――
立体的な花壇――空に、風に投げ出されるよう花弁を咲かせ実らせ吊り下げられた色彩が、華々しくも淡い香りになって鼻孔に寄り添う様な世界――
木造の高層建築が建ち並ぶ、静かに張り巡らされた組み木細工の幾何学的模様が、花以外の川や草木、風や水の波、動物や音が織り成す自然の陰影を形作り、与え、街中に居ながら森の中に佇んでいるような、不思議な印象を与える。
街全体が生け花の為の花器になったような。
陰影礼賛と、風光明媚を両立させた。
現代科学ではなく、古来の日本文化が他国に犯されることなくそのまま進化した――
どこか歪んだ日本の街――
何気に外観に一番手の込んだ街だ。他が海外の歴史を如何に掘り下げるかに終始したつくりと、これまで世に出て来たファンタジー世界を体現することを目指したのに対して。
自国贔屓と言うか。単純に、知識で再現したものと、感性で発展させたものの差と言うか。
それはともかく。
待ち合わせの場所へ向かった。
「――もう着いてるかな?」
正絹を染め上げた暖簾をくぐる。
そこには大文字で『冒険者協会・案内所』――多数の言語で小さくその下にギルドやらクランなどと色々と印字されている。
中はお座敷の酒場と、赤い布を被せた野立てや茶屋風で見られる長椅子の待ち合い席、壁に掛けられた高札に、更に木札で引っ掛けられた依頼書――
その前に、事前に聞いていた見た目の男を見つける。
灰色のレザーコートに、艶消しのチェインメイル、刀を腰のベルトには刺さずに手に持った。
割と小柄な少年、
「――モズくん?」
「――ホークさん?」
こちらは黒の上下に革ベスト、フード付きのローブに肩を通している。そしてその其処彼処にポーチや小型の容れ物を取り付けている。
武器らしい大きな武器は無い。
「ここでは『鷹』だけどな」
「そのまんまですね……こっちは漢字で『百舌鳥』です」
「そのまんまかよ。まあ、他のゲームの知り合いに会うには分りやすくていいよな?」
「……そうかもしれないですね。……今日はどうしたんですか、急に連絡なんかくれて」
「――それなんだけどさ、失恋しちゃってさ……憂さ晴らしに付き合ってくれよ……みんなでワイワイやる気分じゃなくて、でもなんか、一人じゃなんか、彼女のこと思い出しちゃって」
「……鷹さんでもそういうことってあるんですね」
「……いやあ、結婚申し込もうとしたらやんわり――いや一刀両断? されちゃって。さすがに一ヶ月この中で廃人化してたよ」
「……そ、そう、ですか」
あれ? 話術の筈が、なんだか本気で古傷が痛んできたぞう?
「ま、とりあえずどれ行く?」
「……じゃあそうですね……無謀な特攻しちゃいます?」
「いいね、行こう行こう」
「あ、今職業なんなんですか?」
「――旅人? スキルでいうなら人形遣いかな?」
「……またそういうマニアックな」
戦闘終了後のフィールドで。
お互いの武装を魔法の袋に仕舞い込む。
周囲は土が捲れ、岩が砕け、野原は洪水でもあったかよう水浸しに揺らめいている。
その跡地で適当な岩塊に腰掛け、一息つく。
「……まさか人形遣いにそんなのがあるなんて」
「いや、ロマンロマン」
「……巨獣用装備ですか?」
「いや、趣味でやっちゃった系――この世界、オリハルコンとか非常識な金属あるから、人形師の人に投資して作って貰った。ついでにホームと倉庫兼用の飛空艇買ったから今ほぼ一文無しなんだけどね。はは、失恋って怖い怖い」
「たった一ヶ月で億万長者から浮浪者一文無し……」
「ワイルドだろう?」
「いや、怖いです。ていうかたった一ヶ月でどれだけやり込んでるんですか……」
「失恋すればこうなる」
「嫌ですよそんなの……でも相変わらず楽しそうですね。……このゲームが始まる前のことですけど、あのときは心配しましたし」
「ああー、……あれは地味にへこんだ」
コネで筐体貰いました、とは言えないので、そういうことにしておく。
「……そっちはどう? ここ一年」
「……そうですね……まあボチボチって感じです」
口の濁し方から、その心情を鑑みる。あまりいい過ごし方はしていないのかもしれない。
「……ボチボチかあ~、人生山ありゃ谷ありだもんなあ……はぁ、彼女と寄り戻せないかなあ」
「それですか」
「それですよ? 何せ結婚まで考えましたからなあ……」
「……どうして、そこまで行ったのに、別れることになったのか――」
「ん。それはあれだね……生きてく速さを合わせられなくなっちゃったからかな……お互いの好きな事、やりたい事、人生の目標を――その人と分かち合えなかったから」
「……それって……出来ないと、ダメなんですか?」
「……場合によると思うよ? でも彼女とは恋人だったから。これが友達とか、職場仲間とかだったら、別にいいやってなってたと思うし……いや、それでも絶対譲れないことだったら、やっぱり一番大切な人とでも、むしろそういう事の方が多いんじゃないかな……でも、そこを、何とか許し合わないと、必ず、段々人を嫌いになって行くから……そうやって許していけない事、嫌いなことが増えていくとさ、その内、誰とも付き合えなくなって気がして、凄く怖いんだよね」
少し焦点がずれたが、人付き合いってそういうものだろう。個性とか趣味とか自由とかいう言葉で、ただ自己を主張し生きたいように生きていたら、必ずと言っていいほど『他人嫌い』になって行く。それは当然、他人にも嫌われる。
それが、自然とか個性とか効率だとか合理だという、とても見目麗しく正常なモノに見えたら、その所為でただ人を嫌っていったことはないだろうか? 人として自然に見えて、理屈として正しく見えて、実はすごく我儘なのではないのか。
あるがまま自然に、好きに生きたい。半面、それは他人と合わせられない恐怖と向き合わなければ、恐れを失くした理性でしかない。狂信や妄信というものだ。そこまで行くと個人の趣味とかそういうことばでは片付けられないと思う。
「でも、そういうことって、割と日常的にどこにでもころがってるだろ、友達うぜえとか親うぜえとかなんで俺の言うこと分らねえんだ、それぐらい放って置いて自由にさせてくれよとか……そう思うと、酷く怖いんだよなあ……」
「……それは……」
何か言い分があるようだが、
「……でも、それで……彼女さんを嫌いになったんですか?」
彼は目を逸らす様に、こちらの話題に寄り添おうとする。
それに気付いたが、気付かない振りをして、
「……いいやまさか。……むしろ好きになったよ。だけど、自分の事は嫌いになった。正直、彼女を傷つけてでも手放さずに一緒に居ればよかったんだ――とか思ってるし」
自分はその話題を続ける。一つの目的に対し二つの思考を、正常に働かせる。
嘘は吐かない。あくまで、世間話の自分語り。
彼が言いたいことは彼が言う。その蓋が開くまでそっと待つ、開かなくてもいいと前提に置いて。
「自分を嫌いになったのはさ……彼女に割りを喰わせたからなんだよ。二人で、両方、彼女も、自分達の事の大切なことも手放さないように――したかったんだけど出来てなくて、そこで彼女にだけ酷い寂しい思いをさせてた。自分が心底嫌いになった……何で彼女の事を考えていなかったんだろう、ってそこも。――人としても恋人としても、将来を考えるに至っていなかった。その所為で彼女を苦しませた」
しかしそういう事だなあと話していて自分の内情に納得する。
もうちょっと、どうにかならなかったのかなあ、と。
彼にとってはどうでもいい、しかし、そこに置いておける、言葉を発する。
さきほどの、彼の奥歯の引っ掛かり方からして、何かしらの種にはなるかもしれない。
彼との状況は違うが、これから言う事は、それなりに共通項はあると思う。
「……自分の好きな事、やりたいことをやるって難しいなあ……上手く行ったり行かなかったりでストレスたまるし、他人とも簡単に上手く行かなくなるし……」
そのとき百舌鳥は、大人が錆びれていくような自分の語り口を、真摯に受け止めていた。
そして、彼の眼の中で、光と、影が混じり合い揺らめいていた。
「……その点、ネトゲ仲間と自由気ままにやるのいいよなあ――最初からやりたいことが合ってるし、切るも切られるも気楽でいいし、こいつとは絶対合わないって奴もいるし……気分転換になる……今日は助かったよ、悪いな付き合わせて」
「……いえ、いいんですよ――恋愛話は正直疎かったんで、眠くなりましたけど」
「――なんかあったらそっちも連絡しろよ、すぐ駆けつけっからさ……ていうかひどいな! 正直すぎじゃねえ?!」
「いや、いい大人が子供に失恋で泣きつかないでくださいよ。ここでの見た目、親と子供ぐらいあってもおかしくないすよ?」
「おいこれでもリアルじゃぴっちぴちの二十代だからな!」
「十分おっさんじゃないすか」
「いや、あれだぞ? 社会に出ると分るぞ? 二十代、マジ若い――それから上に行けば行くほど人外鬼畜の魍魎だらけ」
「マジすか」
「うん。性格なんて悪くて当たり前、捻くれてて当然――だからいい子を見てると自分がそうじゃないってことに責められる気がするんだろうね、だからいい子ほどいじめられる」
「見た目の話なんスけど」
「……うん、普通かな」
「逃げたっすね?」
「年相応だよ」
うん、種は撒けたと思う。
それほど、深く思い詰めている様子ではない、といいのだが。正面切って聞けるには、まだ時間が足りない。
「じゃあ今日はここで解散すっか」
「そうですね……俺はもう少しその辺ぶらついてます。あ、ドロップごちです」
「二人だけだと結構美味しいな」
「いや、まさか二人で狩れるとは思ってませんでしたよ」
「……あ、そういえば最近妙な噂があるんだけど知ってるか?」
「え? なんですか?」
「いや、リアルでこのゲームのプレイヤーが暴力事件を相当数起こしてるんだって、で、その原因がこのゲームだとか」
「あー、そういう話よくありますよね、なんかゲームが流行る度に」
「まあそうなんだけどな。でもその所為かこのゲーム内でもPKが一部ではやってるとか――まあ、そんなのどこにでもあるけど、念の為ソロで動くなら気を付けてな。やばくなったら逃げろよ?」
「――わかってますよ、大丈夫です」
その瞬間、強固な自己を見せつけるように、彼は自分に視線を送る。それに一抹の不安を覚えながらも、
「それじゃ、またな」
敬一郎は明人の背中を見送った。
久しぶりに会った彼は、相変わらずだった。
それはプレイヤーとしてで、一人の人間としては、嫌に爺臭くなったような気がした。自分の人生観を恥かしげもなく語るところなどまさにそれだ。
モズ、百舌鳥――万代敬一郎はアバター越しのその姿を丘の上から見透かす。
彼の大人な態度は、嫌いではないし、好きでもない、それでも話していたら、他の大人よりだいぶ楽な方だとは感じていた。
感情での争いを嫌うが、競技なら燃える――そんなキレイなプレイヤーだ。嫌ではなかった。彼とのゲームは楽しい、バカな指示も自分勝手なそれもしない、全体を見渡しながらも突出すべきところではそう出来る。だから彼一人が居ると居ないとでは格段に戦闘速度が違う。
協調が得意なプレイヤーだ。会話でも。
それに、年の差なんて感じない。こうして顔を合わせられる様なゲームの中ですら、ネットの書き込みの一つのようにすら感じることもある。
そのスタイルは飄々と移り気で、戦闘も生産も何でも手を出し、気が付けばそこに浮かんでいる――浮雲、とでもいう様な遊び方を好む。
それ故か、リアルにもネットにも固執しないのが見て取れる。
それは、単純にゲームなんて《《それほどでもなくて》》現実の方が充実しているだけではないかと思う。
(僕とは違う――)
そう敬一郎は思った。
自分にはゲームしかない。ゲームでしか遊べない、ゲームでしか楽しめない。
何一つ理解できない、共感も出来ない。それのどこが楽しいのかとしか思えない。だからゲームにのめり込む。他は目に映らない。映っても、魅力的に見えない。
やってみた、野球も、サッカーも、音楽も、何が面白いのかと思う。
前はもっと、そんな自分に近い雰囲気があった。好きなことの為になら何でもやる、それを他の人間には譲らない――生粋のゲーマーだ。
でも、彼はやっぱり違ったようだ。もう、どこにでもいる普通の大人のようだった。
「……もう付き合うの辞めようかな」
でも、と。
そう思った瞬間、彼が呟いた言葉が胸に刺さっていることに気付く。
それでは彼の言う通り、どんどん他人を嫌いになって行く。
そんなわけがあるわけない――良い人なら嫌いにはならない。
そう思う。しかし、そんな人間がリアルの自分の周囲に誰も居ない。そしてそれもどうしようもないことだとしか思えない。
いい所が見つからないのだから仕方がない。
それでも、他人に迷惑を掛けていないのだから自分一人で居てもいいではないかと思う。
たとえ善人であろうと家族だろうと、自分の好きな所、好きな物、それは侵害しないで欲しいとしか思えない。それらは自分で決めていいもので、他人に決められるものではないと思う。
それが全員同じでなければいけないのも理解できない。
流行とか、ただの意見とかだ。
十人居ればその中に一人ぐらい違うことを必ず選ぶ、同じことを好きにはなれない。そういうときは数の多い方に合わせなければいけないのも分かる。
でも、その一人が十人くらい、別の場所で集まることもできるだろうに。それじゃダメなのか。仲良くしろと言うなら、そちらだけでなく、こちらにも合わせて欲しい――一人になりたい。ただ一人にしてくれれば迷惑はかけないのだから。それでいいじゃないか、と。
それでも同じところで同じ作業をしなければいけないときぐらいは我慢する。毎日我慢くらい出来る。人は必ず集団に属さなければいけない。だから、その一人は永遠に我慢するしかないのだ。それくらい、わかる。
でも、その外側までその付き合いを広げなくちゃいけないというのが分らない。別の場所に行くことも許してくれない。学校でも、教室でも、部活でも――
そして、
「あれえ―――万代ちゃんじゃ~ん」
「こんなところでどうしたの~? またリアルでいじめられちゃった~?」
「あはは! おい止めろよ、そんなこと言ったらここでも居場所がなくなっちゃうじゃんかよ~」
「うわ~カメちゃんマジ優しい! まじリアルで聖人じゃね?」
「ところで誰と一緒に居たん? ――また捨てられちゃった!?」
「違うよ、捨てられたんじゃなくて、捨てたんだよ~? なっ?」
……こんな仮想世界の中だって。
自分の居心地の良い場所が存在しない。
追い掛けて来る。逃げた先に廻ってくる。
ああそうだ、彼の言う通りだ、大人になれば大人しくなる、立派になる、なんて嘘だ。
もっと醜く腐って行く。子供の頃よりずっと陰湿に、悪質に。
場所を替えれば替えるだけ、それら全てが酷くなるって事だってわかっている。
「――あ、また逆切れしちゃう? ダメダメ、暴力禁止よ?」
「っ……」
奥歯を噛む。そのエグミに満ちた感覚さえ現実と変わらない。
「あれ? どうしたん? ――ひょっとして悔しいん?」
「じゃあやれよほらやれよ――ダメだよ? 暴力だからね暴力」
「ったくよ、おめーが教室来ねえせーで退屈なんだから、ここでぐらい一緒に遊ぼうぜ?」
「あっはっは、そうだよなあ? 一緒に遊ぼうぜ?」
「なあなあなあ? な?」
悪童たちに、何も言わずに、その横を通り過ぎようとする。
それに彼らは追随する。
「なに? どこ行くん?」
「あれ? まじ無視すんの?」
「あ、俺らと同じ方向じゃん……一緒に行くべ、な?」
「おれらリアルで仲良しだろ、な?」
「……」
走って脇目もふらずに逃げ出すことはしなかった。
刀は護身用で見せ掛けだけ、アバターのステータス、そしてスキル構成は、ゲーム開始当初の攻撃力重視の戦闘職から、アップデートに合わせて魔法職に育成し直していた。
運動神経の無い人間には、後衛のそれらでやっていくしかない。
逃げられないし、囲まれたら叶わない。
「……」
無視し続ける。
するとやがて、彼らは反転し、
敬一郎に向けてではなく、内輪で話し始める。
「……あーあ、誰かさんの所為でこの中じゃもう満足に飯も食えねーなあ」
「……知ってたらぜってーこんなの構わなかったのになあ」
「まったく、リアルでもこっちでも毒虫かよ」
彼らはこのゲームで敬一郎に会うまで、ごく普通にプレイし、Realモードが解放されていた。が、敬一郎に会ってから、現実と同じ悪質な行為がカウントされ、それが封印処置されていた。それだけでなく、マナー違反として味覚と攻撃スキルの封印、そして他のモードでも痛覚のみの現実準拠化されている――
敬一郎も、未遂とはいえ殺傷行為に至ったとして。プレイヤーへの障害行為は禁止されている。
両者過失の相殺に寄り、アカウントの停止だけは免れたが。
それを自然に、聞こえる様に。
それも無視して歩き、距離が出来ると、
「ちっ」
「……」
「……〝あ~ッ」
「……出てけよ」
「……ったく」
今度は独り言のように悪態を吐いた。
そしてそのまま彼らは敬一郎の前から去った。
それから敬一郎は、一人拳を握りしめる。
あくまで、手は出さずに、口での嫌がらせに徹する。
それも単なる口喧嘩の範囲――もしくは、彼に向けて呟いたのではない、独り言として。
手は出していない。悪質なゲームの妨害はしていない――拘束らしい拘束もなく、一緒に歩いていただけ。行き先が同じだったで言い訳が利く。
この程度では、GMに訴えられない。
何せ、実質被害は受けていない。だがそれ以上に、
(何が、リアルの事実に言及してるだけ――だよ)
以前絡まれたとき、そう言われた。
痛い所を突かれた。学校へ通わず連日、大検を取ろうと自宅学習と共に、ゲームにログインしているせいところもあり――
そういう非がある側面、GMも自身を責めるのではないかと思っていた。
でも、彼らのしていることは十分悪質なゲームの阻害、妨害行為でもある。
(それだって、ネットのマナー違反なんだよ!)
そんなごく当たり前のことの知らないのか。もちろんそうではない、ただの悪意だ。
しかし、彼らは以降、そんな悪質な行為をしても捕まらない――
このゲームのアカウント、リアルの素性が運営に割れていないからではない。
――軽い、いじめ程度だからだ。
この世界の刑務所は、この世界の法律に則っている。そこ収監されるまでのそれも同じだ。口喧嘩は口論――そこから暴力行為に発展した場合であるならともかく。おまけに精神的な自由の拘束――にもならない範囲。あくまで、精神的な《《自由もあり》》、敬一郎自身にも負い目のある被害として弱い嫌がらせでは、これ以上の厳罰や刑罰に処し切ることは出来ないのだ。
GMが虚偽を見抜けないからでも監視が行き届かないからでもない、巧妙にすり抜けているのだ。あれ位なら気にしてはいけない――気にしたら負け、と、当人以外は誰でもそう思う範囲に留めている。それも会話ログを一見しただけでは、むしろ敬一郎の方がその人間性を疑われかねない話でだ。
そんな方法で周囲のプレイヤーの介入をやりすごしていた。これは現実のいじめでよくあるやり方だ。たまたまそれを見抜き、現場で誰かが良心で彼らを叱責こそすれ、刑罰には至らない。これも現実と同じである。教師などは、これで自分の出来る仕事はした、と、認識することもあるだろう。
その上、敬一郎を守ろうとする密接な人間関係も、ここにはなかった。
一人プレイ――ソロだから。仲間を作らなかったからだ。
そのことを敬一郎自身も分かっていた。そして責任は感じ、それを負っていた。
このゲームには以前からのギルドメンバーも多数いたが彼らに迷惑を掛けたくもなく、リアルの自分を知られたくないとも思っていた。
そうして、現状を許容していた。
そして無気力に、溜息を吐く。
(……とりあえず、今日はもう会わないかもしれないけど、もう別の街に行こう……)
そう思いながら、敬一郎はその日のログイン自体を辞めることにする。
楽し気にバカ笑いしながら去って行く敵の顔が頭にこびりついて離れなかったからだ。
ゲームの中でまで、むかつきたくなかった。
ヘッドセットを外し、ベッドに横になる。
こうしてみると――
ただの部屋の中の方がはるかに落ち着く、ゲームの世界にいるより遥かに静かだ。
今の現状を、これ以外にどうすればいいのか誰かに教えて欲しかった。
根性論とか、努力とか精神論とか、その状況や事態に対する明確な解決の手段と方法を提示できない人間の言い訳にしか聞こえない。
何かあるなら教えて欲しい。
逃げても逃げても追い掛けて来る。
きっかけは無い。ただ理由だけあって、こいつならいじめても問題ない、誰も文句を言わない、それだけのことだ。何も悪いことはしていない。不快に思われるだろうこともしていない。悪目立ちも善人ぶった態度も取っていない。誰の邪魔もしていない。
何の理由もなく標的にされた。
ただ毎日、同じゲーム好きの同級生と楽しくゲームの話をしていただけだった。
それの何がいけなかったのか。
もしかしたら、幸せそうなのが気に食わなかったのか。
何も悪いことはしていない。でも、それがいけないのかもしれなかった。
反撃は何も出来なかった。正当なそれでも、暴力をするとなると、彼らと同じになる――それが嫌で。
ああ、真面目にやるだけバカを見る。優しくするだけつけ上がる。
大人の理想や正論なんて実行しようとすればするほど追い詰められていく。バカにも鈍感にもなれない。
生きていくのが辛かった。ゲームをする時間だけが楽しくなるようになった。
もう、ゲームをするのも辛かった。
もう、楽しい所なんてどこにもないのかもしれない。
そんな中、毎日のように思う。
せめて、
「……あいつらが居なくなってくれれば……」
ゲームからも、現実からも――
それ以外、自分が救われる道はないように思えた。
ここのところずっと、その事だけを考えている――
現状は、もうこれ以上確認の取りようがない。
心の変化が心配されたモズも、それほど変わったようには見えなかった。
確かに、不満のような何かを抱え込んでいる節こそ感じられたが、本当に狂気的なそれであるようには思えない。
しかししばらくの間、向こうに帰っても、連絡が取れるようにUnison:worldの筐体だけは持って行った方がいいだろう。通信料金や回線は先生に相談だ。
なりゆきとは言え、噂の真相を探る手段の一つになってしまったことは申し訳ない。
あとは、公衆電話から匿名で警察に報告するくらいか――彼女には、身辺に注意するようにだけ言った方がいいかもしれない。あと、家族にも、最近の調子を聞くくらいの体で、さりげなく戸締りを気を付けるように言った方がいいかもしれない。
家族にはすぐ済ませた。
机の椅子に腰掛け、携帯端末のメールを確認する。
つぐみからの返信はまだ来ていない。電話の着信履歴も、もう深夜に近づいているというのに。
そこまで、愛想を尽かされているのか、それともわずか一ヶ月でよりを戻そうとする情けない男に引いて、身の危険を感じているのか、同じか。
「……仕方ない」
電話帳機能で他の番号を呼び出す。
耳に当て、三秒、四秒、五秒……。
『――なに?』
「すいません、失恋した男ですが、あなたのご友人に話があります」
『よくも私の妹分に辛い思いをさせたわね』
「はい。何も言い訳できません、自分があまりにもバカでした」
『……はぁ――なんていうか、ご愁傷さま。あの娘ああいう娘だから、そのうち冷静になってくるとは思うけど、とりあえずそっちは冷静になったの?」
「……彼女を失った大きさに、心が凍えています」
『あれからまだ連絡も何もしてないの?』
「――色々とへし折られたので、こう、軽くトラウマと言うか……下手をすれば、EDになるような案件でして」
『……一体何した』
「……したっていうか……いやした……? された?」
『……聞かないでおくわ』
彼女はどうもあらぬことを想像しているようだが。
間違えていない、はず。
そして真面目に、
「――あと、ちょっと真面目な話なんだよ、悪いけど、連絡が返って来ないから、繋げるなら繋いでくれる?」
『なら最初から真面目に話しなさいよ……でもごめん、無理』
「いや、ちょっと本当に必要なことだから」
『――ああそういうことじゃなくて』
雲雀は言う。
『私も連絡が取れないのよ』
「え? どうして?」
そして次の瞬間、自分の心臓は凍り付いた。
『フューチャー・ペンタゴンの開発室だっけ? そこにスカウトされたって。シナリオだか、VRを使った新規事業だかの臨時の短期採用で――ばらく社外秘? のそれに関わるからって』
眩暈がする。
何を言っているのか分らなかった。彼女はつぐみと一番親しい――友達が、友達と連絡取れないとかおかしいだろうと。
どこかで歯車が狂っている、そんな気配がした。
自分の手の届かない場所で。彼女の姿が掻き消えていく様な気がした。
手が悴んで、そして震えていく。
女友達はまだ何か言っているが、それももう聞こえていなかった




