彼女の裏側で。
「――別れた?」
「うん。別れちゃった――人生初……恋人を振っちゃった?」
「……まあ、一年近く彼女をほったらかしにしたんだから、それも当然か……」
雲雀はつい先日の事を思い出す。
おそらく――明人は正式なお付き合い――所謂、求婚を言い渡すのではないかと思っていた。
残念なことで。
雲雀はつぐみに対してではなく、今――ここには居ない明人に向け内心そう呟く。
でも正直自業自得だと。一年ほったらかしにしていたのだ。そして同じ女だから妹分はこれについてそれほど心配していない。これで身を持ち崩すとか非行に走るとか自殺とか、そんなことは無いと思う。ただ贔屓目に今度あの男に会ったら手酷く嫌味を言ってやろうと思う。
しかし、
「……そういう理由じゃないよ」
男の好き勝手に振り回されて――
それでもそれどころか、深い微笑みを浮かべる。そこに影が浮かべて尚――
雲雀はつぐみに、まだ途切れていない明人へ感情を感じた。処女臭いのに、何故だか大人びた――女の色香をかぐわせるそれだ。
小悪魔、というか、化粧をしていないのに化粧をしている。ちょっとした、化生、というか。
酷薄な愛情――薄ら寒い美を感じるというか。
悪女の片鱗というか。
「……じゃあ、なんで?」
「だって明人さん、私といたら自分の仕事思い切り出来なくなっちゃうから」
感情は感じるものの未練は感じさせずそう言い切る。
「……なんでよ。そんなことなかったわよ? あんたの事大切にしながら、ちゃっかり自分の事も同時進行でやる奴よあいつは」
破天荒に見えてその実、入念な下調べをして行先も足元もしっかり地図とコンパスと自分の目で確認しながら進むタイプだ。RPGで当てもなく無謀な冒険をするのではなく行ける範囲の地図を全て書き込み埋め尽くしてから行くタイプというか。
「そうかもしれないけど……明人さんの目標は、やっぱり私には合わないなあって……」
「……なんで? アンタの目標とも、そう違わないでしょ?」
児童文学やら絵本やら――夢みたいな夢を目標にしてるけどそれは子供を喜ばせたいからだ。
伝えたい事がある、楽しませたい事がある――幼い頃から自分が得ていた感動を誰かに与えたいと思ったからだというのは雲雀の方が明人より付き合いが長く知っている。
それ故に、二人は同じ、飢えに似た欲求を抱えている。
同じ疎外感を抱えている。自分に我儘で、しかし基本として思い遣りある行動を取る。
だから――お互いの弱い所を分かって支えて行けるんじゃないかと思っていた。
でも、
「……この一年みたいにね? 半年に一回とか、二ヶ月、三か月も、連絡が無いとか、離れてるとか……これからしばらくあると思うの……明人さんのやろうとしていること、それくらいは時間が必要でしょ?」
致し方なし――それは恋人として致命的なポカだった。ただ、明人のアグレッシブな行動力、長所が短所になったということは理解している。
一概に悪いとは言い切れない、だからフォローを入れる。
「それはしょうがないでしょ。あたしみたいにネット受注で人の分も針子しながら細々と――で、出来る事じゃないし」
自身と違い、言って見れば組織を作って扱うのだ――それも人の面倒を見る責任を重く伴うそれだ。コスプレ衣装の制作受注とオリジナルの布雑貨をネットで細々と展開しながらバイト生活をするようなそれとはわけが違う。
運営の転がし方から始まり土台も何もかも、規模も責任も必要とされる能力も違う。
正直フリースクールなんてよくやる気になったと雲雀は思っていた。人を育てることほど難しいものはない。まして何かしらの課題を抱えた繊細な子供達だ。出来るともやろうとも普通は思わないものだ。
いわゆる善人だ。仲間内では変人ぶったりカッコつけたりしているけど。愛すべきすげえバカ野郎だ。でも、そんな人間を好きになったのだからそこは耐えなければいけないと思う。
しかし、振った割りにそれには同意なのか、
「うん。正直惚れ直した。一年もほったらかしで、心配して、だからどれだけ困らせてやろうかと思ったのに……たった一年で、やりたいことに手が届きそう。すごいなあ、って」
これ、まだまだ全然普通に愛してるんだろうな――ああこれ失意の残念会じゃなく惚気たかったの?
と思いつつ雲雀は、
「だったら――」
「でも私の為にそれを止めようとしちゃうんだよ? 何も迷わずに」
頷けってか? あ、やっぱこれ、私ってこれだけ彼に愛されてるし愛してるんだよ、って言いたいだけかな? うぜえ。心底うぜえ、一歩間違えれば悲劇のヒロインぶった悪役令嬢もどきのサブキャラであることに気付け――
そんな内心は速やかにスルーして。
まあそうではなく恋人の為の献身と見れば可愛い物で、いじらしくもあり、
「……それは普通でしょ?」
フォローする。
誰かと将来一緒になろうと思ったら――上か下かで引っ張り合うなり支え合うなりで迷惑も愛情も掛け合うものだ。その中で男が夢を諦めて『女』を選んでもらえるならそれこそ女冥利に尽きるとも思う。尽し、還そうと思うものではないか。自分ならそうだ――
と、やはり口にせずに雲雀は思うのだが、
「ダメだよそんなの……私のこと気にしなければ、この人ならきっともっと先の大きなことも出来るって思うの」
「それだけじゃないでしょう人生は! アンタが支えてやればむしろ大きな力になるでしょう!?」
ああもう真面目系泥沼バカップルめ! と、もう何度目か雲雀は声に出さず罵った。その善人特有の損な性格を思わず殴り出したくなるような激昂を押さえ込んだ。フィクションの世界なら『バカぁ!』とか叫びながら平手打ちか右ストレートの拳を頬にぶち込んでいるところだ。
しかし、
「アンタのそれは確かに、男としての幸せをアイツに与えてるかもしれない。でもそれじゃあこれから先やってけないわよ!? バカじゃないの!? それはただの独り善がり!」
現実にはただの説教タイムだ。
そしてそれでも、
「でも、明人さん、私にそんなこと、絶対望まないよ?」
理解し合っている。
ように見えて、ここまで来ると愛情が深いとは言わない――ただの盲目的感情だ。恋愛経験知の薄い世間知らずとも言う。
まさか夢をかなえるだけで男が幸せになれると思っているのか? だとしたら甘い、甘すぎる、そんなのは自分の夢が叶えばそれでいいとか調子こいたふざけたこと言ってる幼稚な子供と同じだ。男というか人間はもっと貪欲なのだ、家庭と社会どちらか一方だけでは満足できないから両方を充実させようとする。そのどちらか一方だけで収まると言っているのは自分の欲に対してうそぶいた怠け者だ。それだって両方欲しいがどちらかだけで我慢するしかないから我慢しているだけだ。
その分別が付かない彼女は、
(――子供か!)
そうかそうだ。子供だ。この娘まだ子供なんだ。
……いや、どうなんだろう?
捉えようによっては、それ以外の物を与えたいのに与えさせてくれないとも――
あー……ひょっとしてあれか? 彼氏に必要とされてない、とか、無意識に感じてるのか?
だから本人もそこだけは気付いてないのか?
いや、いやいやいや。それは深読みのしすぎか――気づくでしょうそこは。
いや、その寂しさを、嫌われたくなくて善意で誤魔化して尽そうとしてる?
あるあるある、よくある!
つまり男が悪い、やはり男が悪い。うん、男が悪い。これは男が悪い。そんな風に自信を失う原因を作った男が悪い。
――雲雀は数舜でそう穿った。
ならばまだ望みはある――
そう思い雲雀は恋愛コンサルタントとして動き出す。
「……それはそうね? ……でも、そういうところもあるかもしれないけど、そこが可愛いんじゃないの? お互いに。だからあとはアンタが強引に押し掛ければ――」
「辛い顔するのに? 私が、わたしのやりたいことを捨てちゃったって」
「だったらあんたもやりたいこと全力でやればいいじゃない」
「それは無理だよ。私はそんなに頭良くないから――やみくもに、当てずっぽうに思い切ることは出来ても、そんな器用に立ち回れないよ」
これだから臆病で小利口で奥手な女は……。
ゲフンゲフン、と、雲雀は内心の苛立ちを立て直す。
そうだった。自分の妹分は真面目系の締めるところはきっちり締める賢母タイプだ。
それは男にとっては堅実な良妻――見た目は地味系なのも手伝い、割とロクでもない男を引き寄せやすい。反して、優しい男であればその臆病さが天然の媚態で、悪意なくむしろ善意で男を振り回す――酷く生々しい牝を兼ね揃えた、とんだ悪女の面を隠し持っている。
付き合い辛く、扱い辛い女――
一歩踏み外すと、最終的に女にも男にも嫌われる天然真面目タイプ――
ここに来てつぐみがそういう女であることを雲雀は再度認識した。
普段は真っ直ぐに尽すタイプなのに、変なところでへそ曲がりで奔放になる最悪なタイミングで最悪に面倒くさい女でもある――
「それに私のやりたいことは、必ず……努力すれば必ず叶えられる類の夢じゃないから」
「真・面・目・か! だったら今潔くそんな夢諦めなさいよ! はっきり言っていい男を掴まえておく方が普通より幸せになれるわよ!?」
「……そうするとね? 明人さん、私に本当に笑ってくれなくなるような気がするの。あのときも気を使っちゃって……明人さんは『それでいいの?』なんて顔をするんだよ? そのくせ、自分の大切なことは抑えて我慢しちゃうんだから、困るよね?」
ああうん、こりゃあ両想いだ。両想いすぎて駄目な奴だ。好き過ぎて大切にし過ぎて駄目にしちゃう奴だ。
ていうか。
雲雀は唐突に理解した。
あれ、これ惚気か?
――私はそんな彼を愛している。
――そんな彼に私は愛されている。
まあそう見えるのは、愛情をひけらかしているからではなく、意図的に自慢しているわけでもなく、自覚的に悦に入っているわけでもなく、ただの聞き手の被害妄想である。
実質、今どうしたらいいのか? なんて聞いていない。ただ、弱り切って弱音を吐き出しているのである。思考の袋小路に陥っているのだ。
それでもよりを戻せるなら戻したいというところが見え見えな所為で、そう見えてしまうのだ。本当に聞きたいのは、「でも好きなんでしょ? 愛してるんだったら我慢しなさい?」と背中を押す言葉だ。
そしていざ男が寄りを戻しに来たら、気丈なふりしてかなり説得されたがっちゃうんだろ?
そういう手間暇掛けた放置プレイ――と思うのは心が汚れているのだろうか?
しかし本当に邪気がない辺りただの天然(同性に嫌われる)なんだよなあ、と、雲雀はどこか遠い目をしながら呆れ――否、諦めた。
何故なら、
「……それはそうだけど」
雲雀も、実際悩むよなあ、と。自分の為に夢を諦めるとか停滞させるとパートナーとして気を使う。
が、それくらい、
「……それは男なら誰にでもある女々しい所でしょうが……変なところで気を使うっていうか男らしくなくなるっていうかさ、優しいっていうか……うーん……」
もしかしたら男気とか言うのかもしれないが、その辺は仕事も恋愛も両立させるのが本当の男気――器量というものだと思う。その辺の男の機微は残念ながら女なのでよく分らないが、残念ながら男女共用であろう。
ただその辺は、男は女じゃないから、女と違ってその辺りを隠すことが軒並み下手なのだ。
そこまで気が利いて立ち回って――であると、逆にこちらが負担を掛けてしまっていることが丸わかりになる。
だから対等――器量として、能力として渡り合える――が欲しくなる。
自分の妹分は今そこに居るということを雲雀はなんとなく理解した。
「……まあ、がんばんなさいな。どうせ寄り戻すんでしょ? そのうち」
「どうかなあ……」
いや、戻すから。
絶対、あんたの彼氏、あんたのところに土下座しに来るから。
「……ていうかやっぱり速い話が『私の彼、凄くカッコいいんです! 私、彼の事が好きなんです! どうしたらいいの!?』って話でしょうが――!」
「え? そんな話してないよ?」
「どこからどう聞いてもそうだったわよ!」
雲雀はもう全力で声に出してそう罵った。
「……そういうわけじゃなくて」
「じゃあ何の話、ねえ? 何の話がしたいの?」
「――雲雀ちゃんから聞いて来たのに……」
「――そりゃまあそうだけど!」
そう、実は別につぐみからそれを口走ったわけではない。愚痴を聞いて貰いに来たわけではない。
雲雀は結婚報告か婚約指輪を見せて貰うか破局か。一週間、二人が報告に来ることを待っていた。が、いつまでたっても来ないので、妹分の部屋に来てそして聞き出してしまったのだ。
その結果が失恋に見せかけた糖度100%の現在ただの両想いから片想いの両想いに戻りましたクスン♪ にしか見えないという事態なのである。
とんだ地雷だった。
「……ああぁ~、もうなんでこんなことになってんのよっ!」
「ごめんね? せっかく雲雀ちゃんの目に叶った男の人、紹介して貰ったのに」
「別にいいのよ。今のところ寄りを戻しに来ないってことは所詮女より夢を取ったってことでしょ? その程度その程度」
「……でも、雲雀ちゃんも明人さんのこと好きだったでしょ?」
口からお茶が霧を噴いた。
「だから雲雀ちゃんも友達付き合いもしなくなっちゃうのはなしね? ごめんね?」
「――え? なにが?」
「え? ……本当は狙ってたんじゃないの? 雲雀ちゃん、好きでもない男の人と好んで一緒にいないでしょ?」
「……いや、別にそんな目でなんか見てなかったから――ていうかその話久しぶりね」
「ない?」
「ないない――」
前にもそのことについて尋ねられそして否定したことがあった。
雲雀は訴えた。ただ、
でも正直、この辺りで手を打って膜を捨ててもこいつならまあ後腐れないかな~? とか酔った勢いで酷いこと言って、本人にガチ叱られたことならばある。
若気の至りだ。肉体的には未遂だが別の意味でやらかしてはいる。それは本人にも自覚のない――そしてあまりにも色気の無い、男として見ていない好意だったとしても好意であったのだが。
雲雀は、恋愛に際し性欲や肉欲が発生しない、精神的な恋、というか愛を好む腐っても(意味深)ピュアな女子である。抱かれてもいいというのも好意をくれた相手に対するお礼程度のおまけ程度――それに対する欲は持っていない。
その上で、まず明人のことは異性としては見ていない。
とも、同性だったら友達としてアリだとも思っていた。それが精一杯の、本当に恋未満の好意だった。
自覚のないなんちゃって肉食系――実は性愛が苦手。サバサバに見せかけた世話焼き、お節介系の現実主義に見せかけた恋愛至上主義、誰よりも恋と愛に夢見ている女子である。
その所為で、他人のそれに対する機微には敏いのに、実はつぐみより遥かに自分の恋愛に疎い残念女子である。
人当たりがよく面倒見もよく、適度な聞き上手で竹を割った喋り口に男女ともに好意は持たれるのに、自他ともにその気にならなくて――つぐみはその辺のところ、割と本気で嘆いていた。自分が異性だったら多分養って干物にしてあげてもいいと思うくらいに。当の別れた彼氏以上に男気を発揮してしまいそうな覚悟くらいに。一歩間違えれば速攻で百合の花が咲き乱れるくらいに。
それはさておき、
「……はあー、ともかく、……本当にいいの?」
「……結果待ちかな」
「何の? ……公募の?」
多分彼氏と渡り合う為に何かしてるのだろうと。
「……それもあるかな?」
「……それも?」
「うん、ちょっとね?」
わけが分らない。
女としてミステリアスさを増した、そんな妹分に一抹の不安と疑問を覚えながらも、雲雀はどこか物憂げな妹分に、何かまだ隠し事があるのではないかと存分に話し合った。
つぐみは曖昧な笑みを浮かべ、ひどく困ったように口を濁した。自分で寄りを戻しに行くのが怖いなら自分が話を付けるというそれに。
そこで二人だけの女子会はお開きにした。自身の姉役ももう社会人なのだ。そう多く時間は取れない。何の用意もなく他人の家で寝れば明日に響く。ごく当たり前の、生活の維持――それだけの理由だ。
姉役はできるだけ、根掘り葉掘りことの真相と心情を探ろうとしていた。
明人を振ったとき、嘘を吐いた。本当は別れたいとは思っていなかった、本気で嫌いになったのではない、好きなままだ。それは明人も分かっていたかもしれない――分っていてほしい。
それは雲雀も察していた。
しかし、それ以上に何が不安なのか、何か心配事でもあるのかと。
嘘はついていないが、本当のことは言わなかった。
今一番不安に思っていることは。
明人に産婦人科で避妊処置を受けて来ると言ったが、そうしなかった。
嘘を吐いたというわけではない。確かに医院の入り口まで行ったのだ。
ただそこで一組の夫婦が。
出て来たのがいけなかった。
「これからは、体調がおかしかったらすぐに相談するんだよ?」
「うん、ごめんなさい? 心配かけちゃったね?」
「まあ、今回は嬉しい報告だったからさ……な?」
「……家族になるんだねえ……」
そんな温かな会話をする恋人達――否、もう、母親、と、父親、の顔を見ていたら――
自身の幼稚さに吐き気がした、次いで酷い動悸と後悔が襲って来た。
彼の言う通り、長い将来の話としてちゃんと受け止めていればよかったと。もしあのとき彼に甘えてプロポーズを素直に受け取っていたら、そんな甘い一時を過ごせたのかと。
後悔している自分に嫌気がさした。それと同じぐらい、彼に脇目もふらず夢を叶えて欲しい、そう思っていた自身がどれだけ甘かったのかを認識し胃が捩じられた。
明人の気持ちを優先したつもりだった。
――否、それは自身の気持ちの優先だ。
ということに、実質、彼の気持ちをただ何も聞き入れずに無視したということに気付いた。
罪悪感で心臓が潰れそうになった。
明人は何度も愛してくれた、これまで何度もお世話になった。取材に都合の良いバイトだって何度も背中を押してくれた。飲み会でたちの悪い先輩に絡まれた時も自然と助けてくれた。舌足らずなところがあった自分に呆れも苦笑いもせず平然と普通にしてくれた。そういう能力で役に立てることは無いからと、せめてとお菓子や料理を作って持って行くと、変わることなく、ありがとう、いつも美味しい、嬉しい、と、何気なく言ってくれた。風邪を引いたら静かにつきっきりで面倒を見てくれた。
その瞬間の様々な表情が蘇る。
あの日の彼のうつろな表情が蘇る。
そして、産婦人科というその神聖な門を潜ってはいけない気がして引き返した。
恋人として愛して貰った時――少し困ったような笑顔、見栄を張る父親のような優しい顔、逞しくて、誰よりも真摯に、慎重に触ってくれた時の顔――
あんなに、大切にして貰ったのに――
一年放って置かれたことは、本当に堪えたし心配もした――
けれど、ほんの少し大きな喧嘩して、それで終わりにすればよかった。
それを全て、自身の幼稚さで全て台無しにしてしまったのだ。
それとも、それが出来なくらい心がすり減っていたのは彼の所為だろうとも思う。
いや、それなら最初からちゃんと、聞き分けの良いふりなどせずどこにも行かないで欲しい、せめてあのとき、これからは一緒に行かせてほしいと訴えていればよかった。
仲直りできるならしたい。ちゃんと謝って、もう一度、二人でやり直す方法を考えたい。
けど、自身が明人をわざと傷付け、凄惨な離別にしたのに――
罪悪感や自分の都合で、また彼を振り回していいのだろうか。
きっと、今はまた自分の目標を邁進しているだろう。それとも、傷ついて立ち上がれなくなっているだろうか?
そうだとしたら――
仄暗い嬉しさが湧き上がる自分に吐き気がする。
許してくれるだろうか、許してくれるかもしれない――許してほしくない。
ただ、ごめんなさいと謝りたい――
また恋人に戻れなくてもいいから幸せになって欲しい――
(……でも、)
彼は優しい。
彼は、自分を罰してくれない気がした。つぐみはそれが何より嫌だった。それが返って辛かった。
だからこそ、会わない方がいいと思った。
それも自己弁護――擁護かもしれないと分っていたが。
下腹をさすると、嬉しいと思うと同時に黒い感情がどろどろ泥の底から湧きあがってくるような気がした。
……万が一に備えて、もうここに命が宿っているなら、貰っておきたかった。
――狡いなんてもんじゃない。
浅ましくただの考え無しの無責任な行動だということは分っていた。きっと嫌われる、愛想を尽かされる。姉役にも彼にももちろん自分の両親にもだ。
子供は欲しいと思ってしまっている。もし、もし本当に出来ていたら――
これは愛情ではないのかもしれない。本当はただ、殺すのが怖いだけかもしれない。
そんな自身は地獄行きだと思う。こんな母親は子供も願い下げだろう。
悪魔でも天使でもない何かが自身の中でそれを求めようとしている。自身の為に、それとも彼に取り入る可能性を残す為になのだろうか?
愛しているから生むのじゃない、本当に愛されたからでもない。
命を見捨てなかったのかもしれないけど。
なんの責任も負おうとしていないのではないのか? 父親、母親、子供。自分の人生の行き方も、大切な人のそれも、このままでは台無しにしてしまうかもしれない。
――そのどれか一つでも、今本当に大切にしているだろうか?
していない。それでいいのだろうか?
育てられるわけがない。やはり彼が必要だ。そうさせたのは一年ロクに構いもせず放って置いた彼だけど――
その事に関しては本当に怒っていた。謝っていたけどどこかケロリとして、本当はすごく怒っていた。彼の目標を応援したかったのもその枷になりたくなかったのも本当だけど。
でもそれ以降、それからのあの日のことは、こちらが悪かった。
でも――それでもやっぱり、彼の事を好きな気持ちは変われなかった。
雲雀の言う通りだ。結局、よりを戻したくなった。彼の事が好きなままだった。
そもそも、嫌いになろうとしていなかった――それが一番虫の良すぎる話だったのかもしれない。自分だけ彼を好きなままとか、彼だけこちらを嫌いになって貰おうとか。
彼に会いたい。会って、何かしらの結果が欲しい。
でも、許されるのが怖い。
そこで気付く。
「……ああ、わたし、まだ甘えてたんだ……」
感情の処理も、弱音も、諸処の問題も全部彼に任せようとしているのかもしれない。
自身より何もかも彼の方が上に居たから。
彼が優してくれる、無制限に、無条件で、どんなときでも愛してくれる、そんな傲りがあったのかもしれない。
大変だったろう、それらを大らかに許してくれて――
初めて全部任せられる人が現れて――両親以上に良くしてくれて、甘えていた。
だからか、……こうなった原因は、これまでの自分の生き方に責任があるのだ。
それを、まるで彼の所為にしていなかっただろうか。
応援をしてる、みたいな言い方をして。
自身の夢の折り合いを言い訳にしてしまったのは――彼にそれをただ押し付けたのも。
彼の愛情に罪悪感を感じてしまったのは――
全て自分の至らなさではないだろうか。
彼の夢の邪魔をしなくなかったのも本当だが、それで自分のこれまでの努力が無意味になる様な気がしたもの事実だ。まったくの嘘ではない。
でも、彼のような生き方をしていれば、自身の目標にも努力の結果にも何らかの答えが出ていたのではないのか。
明人のようにそれが出来ていたら――何の憂いも無く彼の傍にいられた。やましい所があったからこうなった。自身の将来が曖昧なままだから彼の傍に居られないと思ったのだ。
評価を得られる場所に自分を置けば嫌でもとっくに結論など出ていた。今思えばそれが出来る機会や時間は山ほどあった。部屋や図書館に閉じこもってインターネットを閲覧してどれだけ知識を増やしても、いくら仲間内で作品を批評し合ってもそれではダメだった。
社会での他人の評価ではない。
今更――今更だけど、つぐみは今気が付いた。明人がああして外に出て何でもやるのはただ『行動力がある』なんて言葉で片付けられるものではなく、そういうちゃんとした『経験』、他人の評価を得ていたのだ。
知識を集めるのではなく、経験として人の声を聞いていた。
それを怖がっていなかった。
自分はそれが怖い――人の声を聴いて、ちゃんとした評価を聞くことが。
自分の周囲にいる人から、自分はロクな評価を得たことが無かった。
陰気、地味、ノリが悪い、空気が読めない、甘やかされて育った、世間知らず、ズレている、いい子ぶっている、真面目ぶっている――そんな言葉ばかりだった。
だから人の声を聴くのが酷く怖かった。どこかでそれを断絶していた。どこかで自分の都合の良い所で立ち廻ろうとしていた。
そのツケが回って来たのだ。
もっと頑張っていれば自信が持てた。彼に気後れすることなく「大丈夫だよ、どこでだってやっていけますから、一緒に居させてください」ということも出来た。
彼に合わせられる顔が無い、何様のつもりだったのだ。
せめて彼に宣言した通り、今からそれをしなくなければいけない。それから彼に謝ろう――それも彼に会うまでの時間を引きのばしているだけかもしれないけど。
つぐみは決意する。そしてまず求人広告を漁った。彼に倣ったわけではないがもう卒論は出来ている、就職先だけが決まっていなかった。
建設的に――彼の様に、自分に必要な道筋を捉えようとする。
幼稚園教諭ではないが、単位数は足りていたので保育士の資格は取得していた。それなら保育園、学童保育、なんでもいい、子供に本を読んでもらえる仕事を探そう。
幾つものそれに目を通していた時だった。
――呼び鈴が鳴る。
椅子から離れ、ドアに向かい覗き穴から確認する。
そこにはスーツ姿の女性が居た。髪を短く切りそろえた一糸乱れぬ佇まいだ。
一体何だろうか? 他に誰も居ないことを確認してチェーンロックと鍵を捻り、玄関を開けると、さっそく彼女は恭しい会釈をする。
それから、
「初めまして。未来を創る五芒星、開発室、日本支部での人事を任されている佐藤と申します」
同時に名刺入れから一枚、それを差し出し、
「夜分に申し訳ありませんが、今、お時間宜しいでしょうか? 実は弊社開発部に欠員が生じてしまいまして、かねてより一般からのシナリオコンペに参加されていた白崎様に、室長から臨時採用の申し出が御座います」
名刺の確認をし、顔を上げる。
するとつぐみの立場――大学卒業見込みであること、時期的に就職活動や内定状況に影響を与えてしまうことも鑑みて、臨時採用が終わった後の再就職先についても保証する用意があることまで佐藤は口早に説明した。
あまりにも都合の良い、降って湧いた話につぐみはどこかで、何かが、自身を巻き込む歯車を回し始めていることを感じながらも、
「……詳しく、話を聞かせて頂けますか?」
明人に追いつきたい一心で――
つぐみは自らその運命に身を噛ませていくことになるのだった。




