変わるもの、変わらない者、それを拒むもの。
待ち合わせをした喫茶店に入る。
もちろん現実の喫茶店だ。そこでなければ出来ない事がある、と、自分の彼女――というよりその友達からの強制的な誘いを受けたのだ。
出来れば気を利かせて二人きりにして欲しかった。溜まりにたまった話やなんやら――やりたいことが山ほどある。
カウンター席にはいない。テーブル席の片隅――
見慣れた髪型――黒髪おかっぱを見つける。季節は残暑がようやく消えた秋口、薄手の黒のカーディガンに、秋桜色のブラウス、白のスカートを組み合わせて、少女趣味な配色を上品な黒で包みドレスダウンした、彼女のお気に入りの勝負服だった。
テストやら創作物の公募に赴くとき必ずといっていいほどこの組み合わせにする。ついでに言うならデートで何度も遭遇している。
彼女も気付いた――何やら視線が泳いでいる。
なんだ? と思うが、とりあえずちゃんと謝ろうと思う。ここのところまともに連絡が取れなかった。
その前まで行く。彼女が座すテーブル席に着かずに、きちんと腰を曲げて、
「――まず。ごめんなさい、連絡が殆ど取れなくて」
「――明人さん後ろ!」
「はい?」
振り返る、瞬間、雲雀が本気で振り被った右ストレートが見えた。
それを軽い上体逸らしで避ける。不意打ち、冗談ではなく明らか暴行罪とか気にしていないそれだ。
そして空振った自身の勢いに振り回され回転しこけそうになった雲雀の腹を、片手で下から捕まえピンと立たせる。
「久しぶりー、元気してたー? あ、悪い。無断で中性脂肪を触ってしまって」
「――くっ、殺す! あたしの妹分を泣かせて平然としてるその暢気な面を――正当な皮下脂肪よ!」
「ああうん、それは本当にごめんと思ってる。でもちょっとやらなくちゃいけないことが立て込んでてさ。そのへんの事もこれからつぐみと話そうと思ったんだけど……席いい?」
乱れた服と髪を雲雀は整え、しかし怒りで顔が真っ赤だ。
そして自分の恋人は、何やら顔を赤くしこちらを見ている。女友達とはいえ自分以外の女をハグ気味に助けたからか?
何誤解してるの? 騒ぎを注意しに来た店員さんに注文しつつ席に着く、もちろん恋人の隣にだ、でないと女友達の隣に座ることになるし。
しかし、まるで尋問を始める様な空気があったが、何やら両名共に非常に怪訝な顔をして、
「……ていうか、アンタ明人なの?」
「え、なにその疑問形」
れっきとしたご本人登場だと思う――と、自分の恋人を見る。
「……あの、顔つきが……体つきも」
ちょっと頬が赤い……うん、ホの字?
「……ああ、ちょっと筋肉ついたかな? 田舎の山の方でちょっと色々とやってたから」
「なんか背も伸びてない?」
「それは気の所為じゃない?」
雰囲気で体が大きく見えたり、背中が小さく見えたり、あるだろう。
ただ、腹筋はもともと割れる程度には体脂肪がない体を維持していたが確かに、筋肉はかなり増量されたと思う。
「……色々って? あ、ていうか何部屋引き払ってんのよ」
「ああ、学生価格で借りてたのを無理言って半年伸ばしてたから、部屋が決まったからすぐにね。あ……ごめん、その辺連絡してなかった、ホントごめん」
「連絡が付かなかったのは?」
「僻地に行ってたり海外に行ったりしたから。その辺短い期間になる予定だったからこっちに置きっぱなしで電源切れてて――ごめん、心配したよね?」
隣の、眉間に皺をよせ目が潤んでいる彼女を見る。
「……もう、いいです……でもその辺の事情をちゃんと聞かせてください……後で改めてきっちり埋め合わせと……やっぱり謝ってください」
「うん、ごめん……」
テーブルの下でキュッとこちらの服を握りながら――そこにある太腿の筋肉もちゃっかり抓り上げてしっかりと恨みがましげに睨んで来る。痛い、でもうん可愛い。
しかし、それでもまだ全然、自身の感情を抑え込んでいるのが分る。彼女には本当に申し訳が無かったと思う。彼女にも色々と関係のある話でもあるのに。
意図的であるとはいえ、色々な決心が鈍るとか、そんな理由で……情けないと思う。
それに、ひと段落が付いたから、今日ここに連絡を取ったのだが――
「……じゃあまずはこれまでの報告ってことで……でもどこから話したもんかな……」
「……まず、明人さんは何をしていたんですか?」
「あー、うん、そこからか、やっぱり……」
注文のコーヒーとケーキがやって来たのを受け取り、一口、苦い液体を含む。適度に舌が湿ってから、
「――端的に言うと、村作ってた」
告白すると、女性二人が、ん? と目を細めた。耳が遠くなったかように――
そして目をシパシパと瞬きさせながら、
「……もう一度」
大切な事なので。
「――村を作っていました」
やや沈黙。やはり聞き間違いではないかと目で『もう一度言え』と催促してくるが、首を横に振って答える、それは事実であると。
そして女性陣の瞳がカッと広げられた。
これでもかというくらい唖然としている――否、呆れている? 人外魔境の何かを見る様なそれだ。
自分は冷静にフォークでケーキを一欠け食い、苦み走った酸味をまた一口、口に入れて、昼下がりの悠長な珈琲休憩を入れる。
その姿に、処置無しとなんらかの悟りを見出したのか、
「……ええーと、なんで?」
女友達はシンプルな疑問を掲げてくる。と同時、自分の恋人はその目的を察してくれた。
その答えは、
「……ひょっとして、将来の……フリースクールの運営の為ですか?」
正解である。自分が何をしていたかというと、
「そうだね……その前身、ていうか土台になる地域捜しだったんだけど、放置されてる農地や過疎化で移住者を募ってるところなんかの情報を色々と集めて一通り見て回って……そこにいる人達の気質を観たりしてたんだけどさ、自分がやろうとしていることをもうやってる団体さなんかもいてそこも色々と見て回って――で、その中に廃村の再開発の中で人間関係の構築や農業訓練も含めた場所を一から築こうってのがあって……」
「……それに、参加していたんですか?」
「うん。」
「何でいきなりそんなことを……」
地域の理解を得られないと子供たちが白い眼で見られるからだ。
が、その目的ではなく動機部分としては、
「んー、それはあれだなあ……目標を叶えてる人を――その人が作ったすごいものを見たからかな。触発されちゃって」
自分があのゲームに触れて思ったことは、ああ、やっぱり自分の目標を追わなくちゃー―という事だった。あの時自分は、ゲームをゲームとして見ていたのでも、仮想世界という新たなゲーム世界の広がりを見ていたのでもなく、彼のそれを見ていたのだ。
どこまでも突き詰めた――人が作った物、その向こう側――
多分、人の夢を見て、必然的に、自分の夢を問いかけることになったのだと思う。
遊ぶだけでいいのか、それとも、単純で微々たる欲求や目標や指標、遊び染みたそれをそれ以上のものにしたいのか。
遊びはどこまで行っても遊びだ。『自分の楽しい』を追い掛けるだけでは、その行きつく先は結局自分の心の中のみ――一人遊びになってしまう。仲間と遊ぶそれでも、そこで得られるものは『他人と遊ぶことは楽しい』という自身の感情が第一位である。
目標の規模がとても小さい、子供のそれだ。
それも大切な物だ、遊びには遊びの役割がある。
が、大人になったら生きられなければいけない。
仕事は遊びじゃない――そんな当たり前のことだが。
趣味でも何でも。遊びでも人の役に立つことでも。
『人が生きていけるようになる何か』を他人に与えられる様になったとき、初めて遊びは遊びから抜け出せる。だが、その上で自分が生きられるだけの十分な報酬を貰えるようになって初めて『仕事』になる。
ああじゃあ、自分はどうするのかと。
いつまでも遊んでいていいのかと。それは二の次でいいんじゃないのかと。
ただそれだけなのだが、ただ遊ぶだけの時間が勿体なくなったのだ。
「それならそうと……どうして言わなかったの?」
雲雀はそう訊ねて来る。つぐみは、何かを一人得心しながら、何故か、睨めつける様な気配を発しながらこちらから視線をそらした。
心苦しくも、自分は言葉を濁すことにする。
「……それは色々と将来が関わってくるからさ、どうしても一人で悩んだ方がいい……という部分もあって……」
「何カッコつけてんのよバカじゃないの」
容赦ないが、その理由を言ったら傷付くかもしれない人が居るので……。
「……んー、まあそうなんだけど……」
これは自分の目標なので、余人を介さず決めなければならない部分だったというか。
そうする必要があったというか、彼女に相談する必要はないと思っていたというか――甘えてしまうような気がしたのだ。応援されたら、逆に後ろ髪が引かれるというか、彼女ごと連れて行ってしまいたくなるというか、そんなことをしたら彼女の将来はどうなるのかと。通していい我儘なのか、それでも通したい我儘なのか、彼女を巻き込んでいいのか、その将来を潰していいのか――
そんなことを話せば、彼女は自分のそれをこちらの都合で諦めることになるんじゃないだろうか。
その結論を出すのはまだ早いと思ったのだ。
まあ、逃げだ。今は、逃げた分の決意も、固めて来たのだが――
その所為か、微妙に落ち着かない気分だ。
珈琲に目を移し、静かに、啜る。黙って、そこはまだ誤魔化したいと思う。
「まあとにかく、そんなわけで一年、全国津々浦々、将来を見据えての経験を積んでいたんだけどさ、途中でお世話になった人に里親業――個人で道場やってる人なんだけど、孤児院みたいなことをしている人がいて、一緒に不登校児も引き受けて面倒見ててさ――そこで勉強教えてる先生が来れなくなって……その都合が付くまで間、そこで講師をやることになったんだよ。ただ中々代わりの先生の都合が付かないから、今後もしばらく俺がそこで先生をすることになって、色々と教材が必要になって……借りてた部屋の引っ越しと整理も兼ねて一度纏まった荷物を取りにこっちに戻って来たんだよ。内定蹴ったのは惜しいことしたと思うけど……あそこでしか経験出来ない事だったし」
「……じゃあなに? そこに就職するってこと?」
「いや? そこはあくまで臨時採用――なんだけど、――その近くでやってるお寺で寺子屋――私塾を立てて講師として働いたり村にある仕事で生計が立てられるか試してみないかって言われてる」
「……それって……」
根を下ろしてみないか? ということだが。
「悪くはないと思うよ。ただ自分一人で生活するならともかく、そこで家族を支えての生活の安定っていうとキツイね。多分それ以外にも色々と副業をしてどうにかってところかな……」
ちなみにその道場主さんも門下生からの月謝のみで暮らして子供の面倒を見ているのではなく、兼業で農家や猟師やら陶芸やら林業やらまでしている。そしてそこで勉強を教える教師役はすべからくそれを手伝うことになる。
収入を得る為だ。個人で社会福祉、公共事業ではない慈善業の大きな欠点だ。
やはり専業で慈善事業をするには母体となる大掛かりな収入元――企業や行政、社会的な補助、あるいは、多大な個人の能力が必要になるとあらためて思い知った。善意のみでそれをすることなどできない、子供の世話をする為子供の面倒を見る、それ以外のところで暮らしてく為の収入源がいる。そして周囲の人間の理解と支援――その潤滑油として利害の一致があると尚良いということも。
人が一人増えるということは、食い扶持が増えるという事である。その土地が賄える人の数には限界がある。熟練の農家でも林業家でもない――そこで出来る仕事――役場の人間、公務員でもなく。そんな自分の為に、そして村から巣立つ若者のためにも、本来なかった寺子屋を作るという話だ。
それどころか村の娘と結婚させ家業と畑を分けるような話まで出ていた。あとはその道場主のやっていること自体を継いで――なんて話まで出た。
元々、出来ればここに馴染めて根を下ろしてくれる、そういう生徒さんにも理解ある教師役を探していたらしい。それまでの間、定期的に、子供たちに勉強を教えてくれる人間を道場主さんが伝手を使って募っていたそうだが、その人もそこそこいい歳なので、万が一の時に最後の子供たちを送り出すまでの後を継ぐ人をと考えていたそうだ。だが若く、そこの『土地の生活』や人の関わりにまで馴染む人は居なく……。
道場の稽古にも参加し村の人達とも仲良くなった自分は、その眼鏡に叶ってしまったようなのである。夢のような話だ。
でもまあまだ本当に本気の話ではない――酒の席での与太話程度の内容だ。
それでも正直、都合の良すぎる話だとも思った。今の自分では分不相応であると。もちろん最初から完璧に出来る筈もなく、いずれはという話であるのも分かっていたが。
先達の助けを得ながら学べるというのは仕事として至れり尽くせりだ、そして何より普通の学習塾で働くのでは得られない経験だ。この経験は欲しいと思ったのだが……それは彼らを踏み台や自分を叩き上げるための場数にするようで嫌だった。
それも踏まえて、時間を置きたい。
そして本当に、腰を据えるかどうか考えなければならなかった。
そうなると、当然ながら、考えなければならないことがある。それを――
「……じゃあ、とりあえず保留ってこと?」
雲雀は、つぐみのことを見て、それから問い掛ける。
そこで自分も、恋人に目を向ける。
それは、あくまで自分一人の人生として考えてみたら、の結論だからだ。
だから、一人の決断では決められない。
彼女もこちらを一瞥し、そして、目と目を合わせた――
「当然な。……正直勿体ない話だとは思うけど、――今は無理、残念がられたけど向こうもまだ、こっちの今後のことも考えればもっと大勢と繋がりがあった方がいいから、まだ定住はしないほうがいいだろう、って。まあ今はしばらくそこに世話になることだけは確定だけど――」
そういうことである。
あそこで師匠の仕事を引き継ぐのなら、そこにある人脈と自分自身が縁を作れればそのまま行けるかもしれない。そしてそこにある縁以外にも、自分自身の繋がり、他の地域にある学校やフリースクールの教職員達との、個人的なネットワークや就職やバイト先の斡旋が出来るだけの信頼あれば孤軍になることもないと思う。
そこまで行って初めて、どうにか目標が叶う――その仕事を続けられるだけの土台が出来上がる。そこまで、もう少しのところまで行ける。
でも、今は――
「……今はそこまでかな」
そのことについてこれから話そうと、つぐみと目と目で会話する。
「……じゃあ、あたし席外すわ。あんたたちもここじゃなくて、余人を交えず腰を据えて話して来たら」
そう言い、自分の分のレシートを取り、雲雀は席を経つ。
その通りだと思った。ここから更に、二人で、よく話し合った方がいいことだ。
意思を込め、テーブルの下で深く指先を絡めて彼女の手を離さないよう握る。
「……これから大切な話があるけど、いい?」
「……うん」
彼女は目を丸く、歪める。その意図を問い掛けるような彼女の目に、まだ曖昧な微笑を還すと彼女は顔を背けるような気配が流れる。
その瞬間、時間のずれた時計を見ているような、奇妙な感覚がした。
前の部屋で使っていたものは段ボールに入れたまま。
一通り移して、カーテンと、ソファーベッドのみ置いてある、真新しい部屋に入る。
その光景を見て、
「……ゲーム、やめちゃったんですか?」
「ううん。旅してたから離れてただけだよ」
「そうなんですか? ……あっちでも全然連絡取れないから、本当に心配したんですよ?」
「流石に旅行先にまであれは持って行けないよ……でも本当にごめん」
組んでいた腕を、そのままに、体だけ反転し彼女を抱き締める。
久しぶりの恋人の体とその瑞々しい果実の香りにほっとする。そしてひとしきり抱擁を交わした後、ソファーにそのまま、彼女を隣にして座った。
彼女は、そこでいつも肩を寄せ身を任せてくれるのだが、今日は距離があった。
ああ、うん、これは怒っている。当然だ、ここ一年、ほぼ放って置いたのだ。会ってくれただけで奇跡かも知れない。ややあって、
「……どうして携帯も何にも繋がらなかったんですか?」
抗議してくる。怒るでも悲しむでもなく褪めた声でだ。
うやむやには出来ない。
「電波もアンテナも立たない所だったんだよ……今時辛うじてインターネットの回線だけが繋がってる様なところだから。稽古で山の中にも入ってたし、海外にも行ったし」
「……一言、電話ぐらい出来たんじゃないですか?」
「――ごめんなさい。なんか――色々な事で頭いっぱいで…………あと、甘えてました……これぐらい、後で分ってくれるとか」
「――そうですね……明人さん、本当にやりたい事やってるとき、周りの事あまり考えなくなっちゃいますから」
「……そう、かな?」
「そうですよ。……知らなかったつもりですか?」
「……これから気を付けます。絶対同じことはしません」
「……」
それから何も言わずに、力を失ったような横顔を、こちらの胸板に預けて来た。
その髪を手櫛で漉きながらに撫でる。
するとつぐみは静謐とした声で。
「……でも、そんなところに住むんですか?」
「……しばらく、です」
「……中途半端なこと、しない方がいいと思いますよ?」
「うん、分ってる………………ついてくる?」
「……うん?」
「…………一緒について来て欲しい、って言ったら?」
「……何の話ですか?」
「……将来の話」
「…………続きは?」
「…………将来、俺と一緒になってください……」
「……他の、都合の良い人の方が、いいですよ……」
「……将来の話でも?」
「うん。だって……私にだってやりたいこと、あるんですよ?」
「……うん、知ってる……」
「働きながら、色んな勉強を――経験をするなら……田舎暮らしは不便すぎますよ……」
それは作家だ。今はライトノベルや女性向けの小説に応募しているが、本命は児童文学や絵本の脚本を手掛けることが彼女の目標、もしくは、それに携わること。
だから、それをするなら大手の出版社がある地域にいた方がいい。少なくとも田舎ではダメだ。
もし、今ここで自分と来るのなら……彼女は彼女の目標を諦めることになる。
だから、今じゃない――そういう結論で、そしてプロポーズだったのだが。
伝わらなかったのだろうか。何か言い間違えていただろうか。今はまだ定住するつもりはない――将来一緒になれる道を模索している。だから今まで通り――否、これからは明確に、それを意識した付き合い、結婚を前提に生活を考えて行こう、と言ったつもりだった。
ただの煮え切らない答えだったろうか……。
遠距離恋愛で付き合い続けるのは難しいから、別れよう、という話にするつもりはなかった。それともこれは、自分にだけ都合の良い話だろうか。
だから縋りつくように、彼女の手の平を取り、恋人繋ぎにした。
そして、静かに力を込めて、
「……今じゃないから。今すぐにじゃなくて、将来の話……それでもダメですか?」
丁寧に、真剣に目を向ける。
彼女はそれを受け止め、そしてまるで目を背けるように、
「……諦めてって、言わないんだよねえ……明人さん、優しいから」
わけのわからないことを言う。何が優しいのか。これまで散々彼女に甘えているし、だから彼女の頼みには全て無条件降伏することが多い。それに、
「……自分がわがまま言ってるって……自覚はあるんで」
「……どうしてそんなこと言うの? 我儘を言っているのは私でしょ?」
そんなことはあるわけない。
「……ううん。この1年、俺はやりたい放題で、全然。つぐみはそんなこと言ってないよ」
恋人としての時間は無かった。付き合い出してからの時間は短いが、それ以前の時間も加味すれば三年近い馴れ初めだ。
お互いに、目標、やりたいことがある――その為には他者との時間をどうしても潰す必要が出て来る。もっと自分の時間を取りたい、誰かと一緒に居れば当たり前にどうしてもその誰かが邪魔になる瞬間がある。でもそれは人付き合いの上で避けられないこと、それをお互い分かっている――半ば当然だと思っていた人間関係の不利益な部分、でも、お互いにお互いを尊重出来るならそれが許し合える。
でも、深く文句は言わない、諦めを付けるしかない、我儘は言わない――自由に見えて酷く不自由でもある――
当然であろう。付き合い方が上手くなってそういう衝突を避けられるようになれるまでは。
そこで生まれる不快な感情を、誤魔化していることはもちろんあった。
が。
付き合い出してからの不備ではない。それ以前に他人に対して感じたものだ。そして、彼女に対してそれを抱いたことは一度もない。彼女はそういう我儘を嫌った。そこを出して他人に嫌われることを嫌っていた。だから、自分は余計に、彼女に自由であってほしかった。
自分に許せることであれば、なんでも許したかった。
「…………明人さん」
だが、
彼女は――
「……暫くの間、別れませんか? 私のやりたい事、貴方のやりたい事、お互いにお互いの事大切にしてたら、もうどっちも破綻しちゃうでしょ? だから」
「駄目だ――それなら別れるなんて言わないで遠距離恋愛にしよう」
「……いつまで?」
「結婚するまで」
「……はっきり言わせちゃった」
それでも彼女は笑顔でそれを誤魔化そうとする。
「……でも、いずれ、どっちかがどっちかの夢を諦めるなら……それはたぶん私だよ? だってもう、明人さんのやりたい事、すぐそこまで来てるもん……、私は、叶わない位、凄く遠い……だから、諦めるのは私」
自分の所為で――こちらの都合で、それを諦めさせることはしたくなかった。彼女の目標がどんな結末になってもその時は彼女のそばで肩を支えたいと思った。
「そんなことまだ決まったわけじゃないだろう?」
「……明人さんは、私がそれを諦めるところを見るの、嫌なんでしょ?」
なぜそんな結論になるのか。いや、何を言っているのか分からない。
話が食い違っている。彼女は何を諦めるんだ?
「……違うよ……それは違うよ。俺だってまだ勉強中だって――全然さっき言った話に乗るつもりなんかじゃ」
「……ああもう、だからね? 明人さんは、優しいの」
「……は? どういう意味……」
「……じゃあ、誤魔化さないでくださいね? これは、私の問題……私が将来を諦める話なんですから」
「……そんな言い方」
自分は何の話をしているのだろうか。自分の将来と彼女の将来――二人の将来の話をしようとしていた筈だが。
彼女は――まるで、それを否定する様な話の進め方をしてくる。
どうしてなのか。
「……私は本当は……夢を追いかけるのが、辛くなってきたから。だから、明人さんの優しさ、実は凄い逆効果なんだよ? 正直ね、私は自分の夢が叶うなんて思ってないの。努力はしてるけど、あくまで趣味で、運が良ければって程度……だから正直ね? 明人さんと本当に傍で一緒に居られる人は――同じ夢を追いかけている人か、それか同じくらい、自分のやりたいことを本気でやれる人なんだろうなあ――って」
「……そんなこと」
ああ、彼女は自分と一緒にいるのが苦しかったのか? 目標を追うのに疲れていたのか?
そんな素振りも見せずに?
言えなかったのか?
どうして? ――自分が頑張っているから?
本当に?
……楽になりたかったのか?
分からない。けど、嘘を吐いている様には見えない。
それは弱り切った困り笑いで。
「……だからね? 私は明人さんと、もう別れたいんです」
真摯にキーボードを叩き、本を読み漁り、空想と妄想にニヤケ笑いしていたのに?
信じられない。彼女は、自分が夢を語る時、そんな疎外感を味わっていたのか?
好き同士の『好き』の熱量の違い、悩まされるのと同じ。夢や目標、理想を語ると場がしらけてしまうような、熱を上げている自分がバカになる感覚――
それと同じものを彼女は自分といるとき味わっていたのだろうか。
今も――今まで、彼女にそうしてしまっていたのか?
ああ、そういうことか――案外ちゃんとした、別れる理由だった。
「……私は夢を叶えたいとは思っているけど、私の夢が叶うなんて、ほとんど思ってないの」
それに『頑張れ』ということは酷なのだろうか。何かをもうやりたくない、辞めたいと思っている人間にはそうかもしれない。その一言で死に追いやることだってあるのは分かる。
でも、彼女のそれはそこまで深刻だったか?
分からない。彼女が何を言っているのか。それも踏まえて支え合うものなんじゃないのだろうか。
「ごめんなさい……ホントはこのことを言わないで、自然に別れられたらって思ってたんですけど……喫茶店にいるときも『まさかね?』とは思ったけど……まさか、本当にプロポーズしてくるなんて……」
「言うよ、どのみち今日は最初からそのつもりで来たんだから」
結婚ではなく、正確には婚約なのだが。
「……でもそれなら、どうして『今すぐ結婚して俺の嫁になれ!』って命令してくれないんですか? それで私はお嫁さんになったんだけど……」
「それは――」
「私の夢の為、ですよね?」
もはや彼女は瞳をぼやけさせながら、
「……だから、明人さん優しいから、私にそういうこと、言えないでしょう? 本当はね? 私、凄い依存体質だから、命令して、楽にして欲しかったのに……」
「……そんな……」
「ほら、命令してくれますか? ……じゃあ、許してくれますか? 私が、私の夢を、今、諦めること」
「それは――……」
考えてしまう。どうしても、彼女が諦めなければならないのかと。
……こういうところなのだろうか。
これがいけないのだろうか。
彼女に諦めろと言えない所が。前向きに考えろと言ってしまうところが。
もう既にそれを諦めて、本気にしていない彼女にとって、酷く辛いことだったのか? 今結論を急ぐ必要なんてないだろう――こう思ってしまう事さえダメなのか?
「――だから。しばらく……別れましょ?」
そちらの結論を急がされる。
「……それは、今……答えを出すことじゃないだろ……」
「……じゃあ、今日から排卵予定日ですから、避妊せずしてくれますか? それなら、私はあなたと結婚して、夢を追いながら――」
「――おいっ!」
「……ほら、私を、支えるつもりなら、そんな中途半端な覚悟をしないでください。どちらかを諦めるように言ってください。夢でも、貴方でも……。もしくは、貴方もどちらかを諦めてください。……貴方に放って置かれて待たされるなんで、もうごめんなんですよ……こんな長い時間、ずっと放って置かれて……平気だと思っていたんですか?」
「……それが本音か?」
夢とかどうとかではなく――それなら最初からそう言って欲しかった。
「……ええそうですよ? 本当はあなたのいい加減さに飽き飽きしてたんです……付き合い始めたばっかりなのに、一年、ろくに顔も合わせなくて、連絡すらくれなくて……それなのに結婚ですか? 可笑しいですよ……。それでも、今すぐ夢なんて捨てて貴方に付いて行って支えたかったりする私も、……もう、分けわかんない。なんなんですか……都合の良い事ばかり言って、出来ない事ばかり言って……」
「だから……それを整えて行くって話だろう、これから。……今する話じゃないんだよ」
「だから――離れたい気分なんですって……言ってるじゃないですか……」
「そういうことって一人で頑張るだけじゃないだろう? 夢を追う叶えるとかじゃなくて、……そういうところも無視するのか?」
「……もういいです。私が本気だってこと、分からせてあげますから……」
彼女は眼鏡を外しテーブルに置く、それから柳が揺らめくような動きでこちらの首に腕を絡み付け、両足を開きソファーの上で膝立ちに、腰に跨る。
そして身体にある女の部分を惜しみなく擦り付け、舌を伸ばし首筋を舐め削って来た。
後頭部を抱えられ逃げ道を塞がれる。なまめかしい湿った舌使いが粘り付くように口を割って侵入してきた。貪ってくる、妖艶に、淫蕩に、淑々と、背筋も凍る様な劣情と息が焼け爛れるような情熱を唾液に溶け込ませてこちらの粘膜に嚥下させる。
それを冷たく観じる。普段の彼女からは、あまりにも艶やかであり過ぎた。
「おいっ!」
本気なのかと彼女を引き剥がし、自分の下に組み敷く。
家族になることも子供を育てることもそんな簡単じゃない。それなのにこんなこと――
「ほら、本気じゃない……私と、本当は結婚したいんじゃなくて……本当は一年間放っておいたこと許してほしくて、反省してないのにあんなこと言ってるだけなんだから……」
意地と、我慢比べだと思った。
「……なら、本当にするぞ」
脅そうと思った。彼女も本気じゃないだろうと。
「……じゃあして? ……結婚してほしいんだったら……いま……して見せてください。じゃないと、信じられません」
「……」
だから。
悲鳴を上げさせようと思った。正気に返ってほしかった。
でも――彼女は今までで一番嬉しそうな顔をして甘く濃厚な啼き声を上げて行くばかりだった。
服も、肢体も、心も、何もかもが乱れている。
妖しく淫靡な輝きを放つように。淡い桜が夜は月光と闇に色濃く染まり狂うように。
自分も、心が酷く怜悧になっていくのに頭と体が赤熱感に焼かれて行く。
男の欲望が鎌首をもたげて行く。こんなに艶っぽい彼女は知らない。
逆に狂わされていく。その所為で、一夜の過ちを、何度も、何度も――
途中から、彼女を説得しようとかそういうことではなく全てを吐き出そうとしていた。
なんでもいいから彼女を繋ぎ留められればいいと思うようになっていた。子供でも快楽でも暴力でも間違いでもなんでもいい。
彼女の言う通り、強引に、彼女を力尽くでも自分のものにしようとした。
だけど、
「……産婦人科に行ってきます。アフターピル、処方して貰わないと」
彼女は、完全に縁を切ろうとしている――
本気なのだから必要ないだろう。そんなことさせないように、続けて三日三晩抱き続けてやろうか――
そんな事を一瞬でも考えた自分のバカさ加減と同時に頭が冷え切った。
彼女にそんな酷い事をさせるのか?
でも――そういうことをしていた。彼女は乱れた髪を手櫛で好き、ブラを前後逆に前でホックを止めてから、くるりと一周させ、乳房を中に仕舞い込み、上下を調整する。
「……ごめん、付いてく」
「……うそです。本当はちゃんと安全日でしたから」
嘘だったのか? と理解すると同時に、もうとっくに、彼女は彼女の心が離れていることを証明する為だけに自分に自分を犯させたのだ――ということが分った。
彼女は下着の上に、昨日と同じ服を一つ一つ、床に無造作に散らされたそれから身に付けられるものだけ身に着け、縒れた生地を叩いて直し髪を手櫛で撫でつけている。
満足に動けない、いつも彼女がそうなっていた。ノックダウンされた。限界を超えて完全に搾り取られた所為か、本当に動けなくなるまでしたことなんてなかった、こんなことは初めてだ。
「……そうじゃなくて」
「……」
「……別れないでほしい。もう絶対身勝手なことはしません。必ず最長でも週一、できるのなら毎日連絡します」
「……もう――大嫌いです」
こちらの様子を見に、彼女が近付いてきたところでどうにか身体を起こし、抱き締めた。やり捨てられそうになった処女かと思う。
しがみ付く。けど彼女に縋りたい。それを諦めたよう彼女は無抵抗で、しかし笑って、
「……納得するまでそのままでいいですよ?」
……その、決意の揺るがなさを確認させられた。
もう、放すしかなかった。
彼女のことは好きなままだが、もう何もできないということに気付かされた。
次の瞬間から彼女を説得できる言葉もそれを求める感情も、自分の中に無くなった。その暗澹で出来た空白に骨格が内側からひしゃげて押し潰されそうになる。
それを見かねてか……、彼女はやけに、慈愛染みた声で言う。
「……明人さんは、明人さんがやりたいこと、ちゃんと頑張ってください……私の事なんか、気にせずに」
順番なんてなく、彼女のことも大切だったはずなのに……。
どうしてこうなったんだろうか。
それから彼女からの抱擁を無防備に受けた、しかし、抱き返す力が湧かない。
それにまたほんの少し困ったように、彼女は笑い、唇を重ねて来た。――何かを与えようとする様なそれだった。一体彼女は何を与えようとしているのか分からない。でも暖かな彼女の体温のそれは何故だかもう失くした筈の愛情のように感じられる。
ほんの少し、正気が戻ってくる。
彼女を見上げると、もう一度だけ、というように、彼女はその胸に自分を抱き締め、それから何も言わずに部屋を出た。
その背中を茫然と見送った。
しばらくして、服を着た。
昨夜に付けられた肩にある彼女の歯形を撫でる。とりあえず、項垂れた。
床には理性をなくして引き千切ったストッキングも落ちている――何故だか彼女の下着も落ちていた、そんなものを残した彼女の意図が分らない。穿き忘れなんてことは無いだろう。これは……とりあえず大胆に透けて見える三角の布だけは自分の荷物の中に仕舞った。
酷く女々しい自分が情けなくなった。
軽く頭を抱えてどこかに打ち付けたくなった。
もう……泣く余地が無いくらい……眼球も残らないぐらいのブツ切りにされ死んだ気分だ。
何でもない筈の肩が酷く重い――自分の体重だけの筈なのに。
そして自分は廃人になった。
ゲームに逃避した。
あの道場に戻るまでは、と、自分に言い訳して。風邪を引いたことにして、道場に帰る時間を一月ズラして貰った。
熱中した。寝ずにぶっ通しでやった。トイレ休憩だけはした。
朝のランニングは全力疾走系のゾンビの様に続けた。そうしないと体のだるさが抜けなかった。頭の中に――ウジ虫が湧いて腐った汁が耳から垂れ流しになりそうだった。正気を保つためにゲームと現実を何度も行き来した。河川敷や路上だけでなく、道なき山にも入り狂ったように飛び跳ねながら登頂した。それでも邪念が振り払えず、中古のサンドバックを購入しただひたすらに血と汗と拳を布に滲ませた。ログインした時顔を合わせるナビゲーターのスライムに様子がおかしいと聞かれ、手酷く失恋したことを話すと気を紛らわすことを手伝ってくれた。自分のことを話ていると不思議と相手のことを尋ねたくなる。彼女(声)の生活を尋ねると「静かな湖畔の森の陰で、優しいお姉さんが手製の童話を読んでくれる」とのことだ。AIの習熟活動のようだが、そこからゲーム内の特に景色が綺麗な場所、壮大な冒険が待つダンジョン、何度通っても飽きさせてくれないグルメ街などのおすすめスポットを教えて貰った。
ゲームの中で彼女と会うかもしれないので、基本装備にピエロの仮面を着けた。服装も、道化師っぽく整えた。武器はサーカスらしく投げナイフ、輪投げ代わりの円月輪、ジャグリングに使うボーリングのピンに見立てた棍棒を三つ、防具らしい防具は無い、攻撃力に全振りした悪魔のピエロだ。その恰好で山やダンジョンに入ると高確率で魔物か何かに間違われて襲われた。だがピエロらしく無言でニィ、っと笑いながら撃退した。
賞金首になった。非公式モブだ。武闘派プレイヤーをボコボコにしたせいで逆恨みされた。
装備を変更する。仮面の狂戦士だ――正体を隠して闘技場で対戦に凝った。プレイヤー同士だと怨恨を生むのでもっぱらNPC相手に理性を忘れて爪を砥ぎ牙を剥き咆哮を上げた。
人間を辞めた全難易度でクリアした。そして狙われることは無くなった。一つの到達点に達したのだ。
人間に負ける気がしなくなった。誰も挑んでこなくなった。更なる強敵を求めた。巨人に、ドラゴンに、悪魔に、更なる戦いを求めた。スキルを網羅しよう、アイテムを集めよう、更なる冒険が待っているはず……。
……でも全然楽しくない。
もう既にやり尽したのかもしれない。
あの頃の楽しさを思い出したくて昔のオンラインゲームにアクセスする――驚くことに、まだサーバーが死んでいなかった。
ログインする。プレイヤーがいた。全盛期に比べれば、まったく閑散としているが、それもそこそこの数だ。まだUnison:worldの筐体が廻り切っていない為、ということもあるだろうが。
それにしては、多い気がする。
ギルドの知り合いもいた。確か彼は抽選に当たっていた、それなのに何故ここに居るのか。
疑問に思い挨拶がてら聞く。
「――おっす……あっちには移らなかったのか?」
「……ああ、なんか、合わなかった」
「え? どうして?」
「うーん……それがさ? リアルすぎて、なんか違うなって」
「あー、……それはちょっと分かるかも」
「だろ? ……俺さ、部屋でまったりしながらの……自分とゲーム、他に何もない空気っていうの? あれがいいみたいなんだよね」
「ああ、なんとなく分かる……」
「こんなMMOでワイワイやってるけど……ゲームってさ、ときどき静けさとか軽さが必要だと思うんだよね、時々」
「何か、スゲーよく分るかも」
多分、以前なら理解できなかったであろう、その意見に何故だか今は酷く納得できるのは、間違いない失恋の痛手と感傷もあるんだろう。
そんな頷きを返していると仲間は、
「あ、そういえばなんだけどさ、最近、モズと連絡とってる?」
「モズ? ……連絡とかはなかったけど。なんかあった?」
続けて世間話に興じる。
「いや、なんかUnison:woldの方でやばいことしたらしい」
「……具体的にどんな?」
「いきなりブチ切れてPKにはしったとか……」
「……ええ? いや、そんなことする奴じゃなかっただろう」
「なんだかオタク嫌いの意識高い系のオタクか、一般プレイヤーが『Realモードでプレイしないのは現実じゃ引き籠りの証拠でまともじゃない奴の証明だ』とか言い出して、最初はモズも『プレイヤーには病室から出られない人やなんらかの不自由で外で自由に遊べない人だっている』って言ってたんだけど『じゃあそれ以外はどうなんだ?』って、そこで詰まって」
「……おまえリアルでいじめられてるんだろ、とか?」
「まさにそれ」
「そういう話か……そんなのRPG派か格ゲー派かみたいな問題だろう、バカじゃないのかそいつら」
優良プレイヤーに解放される、というそれは普通に考えれば何の問題もないように思えるが、ゲーム内で良いことをしていれば解放されるという条件を満たさない――つまり、プレイに何らかの問題要素、マナー違反のようなそれがあると見做されるのかもしれない。いや、事実というところもあるかもしれない。
しかし、どのゲームモードを選ぶかなんてそれこそただの趣味の分野だ。それが解放されても選ばない者だっているだろう。そういう人たちまでそれに括られてしまってはたまらない。
それにゲームは遊びだ。万人が遊ぶための物だ。そこに上下関係や格付けを行うこと自体、遊びとしてのマナーに反する。
だが、
「……でも、モズはプレイに関しては絶対にフェアだった。PKつっても、対戦を仕掛けたんじゃないのか?」
「ああ、俺もそう思うけど……それがさ、システムの所為か、このゲーム、現実での運動能力が反映されるところあるじゃん? それで伸び悩んでたから……その鬱憤も溜まってたんじゃないかって」
「……うーん」
「気になるなら連絡とってみたら?」
「考えとくよ」
それからしばらく駄弁ってログアウトすると、荷物を解いて大昔のゲームをやった。
最新の大容量メモリを利用したレトロゲームを何百本と内臓した互換機を起動し、テレビ画面に配線する。四角く限られたそこでチープなドット絵や眼がチカチカするポリゴンが動き、出来の悪いヴィネットのようなマップが映し出され、データ量の少ない背景音楽《BGM》が流れ出す。
ゲーマー心に、高い技術なんていらないのかもしれない。
その中にいると……何故か心が酷く落ち着いた。
――一月経った。
何かに急かされるような罪悪感がする。
手持ちのゲームはやり尽した。
楽しい筈なのに、やればやるほど気力を奪われ思考力が奪われていく気がする。
それは死の行軍だった。ただのノルマ、強迫観念に襲われた作業ゲーだった。
やはりゲームは逃避でやるべきじゃない。現実に帰り無心になって運動に打ち込んだ。
しかし、やはり全て作業のようになる。
ゲームに戻る。
優美で幻想的で、透明感ある水彩画で、自然の音を彩る雅楽のような仮想世界の中を、まるで幽鬼の様に彷徨いながら、淡々とそこら中のクエストやらイベントやらを消化しスキルの研究や考証を一人で行った。
そういうのも、仲間内で熱狂するのがいいと気付いた。
ああ、ゲームはやはり楽しくあるべきだ。
――だからゲームを止めた。
遊びに遊んだ。走りに走った。体も心も苛め抜いた。
もう十分だ。こんなことしても現実は何も変わらない。
何も考えられなくなるまで、ゲームも、運動も、勉強もした。
でも――
それでも彼女の声の残響が、いつまでたっても消えない。
――やりたいこと、ちゃんと頑張ってください。
その言葉と声がいつまでも頭を引っ張ってくる。
――ちゃんと頑張って。
そんな彼女の最後の言葉だけがずっと、自分の中心に突き刺さっている。
自分は何を頑張ればいいのか。
何故なのか分らない。あんな狂おしいほどの愛し方をしたのに捨てられて。
今でも好きなのだろうか?
大切な物や楽しかったものを一つ一つ削ぎ落として削ぎ落として――それでも残った〝その気持ち〟はまだ自分の中心にあった。
それは彼女の意思なのだけど、自分でもどうにもならない自分の一分なのかもしれない。
それに支配され、急かされる。
冷静になる。
自分が情けなくなった――ここまで無為に遊んでいるだけで何もしていなかった自分が。
泣いた。もう辞めようと思った。頑張ろうと思った。
彼女の愛情に従い、ゲームの中から抜け出した。
髭を剃り髪を切る、さっぱり。
どうにか区切りをつけて、そして自分を待っている人達のところへ向かった。




