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ゲームが⇔現実になったら。  作者: タナカつかさ
ゲームと繋がるもの。
13/30

変遷

 ――ハァっ、ハァッ――っ!


 男は山中を駆け、落ちるよう飛んでは必死に斜面を蹴り、何かから逃げ惑う。

 大ぶりのザックを背中から振り落としストックを捨て、遮二無二にただ樹木を潜り抜け、ジグザグに駆けずり回る。

「――なんなんだよ、なんなんだよこれ――っ!」

 一瞬、走りながら首だけで後ろを見た。

 それは追ってくる。

 聞いたこともない、奇妙な叫び声を上げながら、涎と牙をむき出しにして。

 すぐに前を向く――

 後ろから追ってくる。足音はしない。ただ、吐く息と奇声だけが追ってくる。

 それは赤く揺らめく光を纏い、まるで幽霊のように地面を飛び跳ねて来る。

 その気配を感じ――

 振り返る。

 肉食獣の様に四肢で疾駆し、森の木々の枝を掴み、猿の様に柔軟な動きでそこら中を飛び回り、もう指先が届くそこまで迫っていた。

 その姿は、小鬼――汚泥塗れの草色をした、飢鬼。

 男はそれに気を取られ、斜面からせり上がった岩に足を取られ派手に倒れ込む。

 その勢いのまま必死に生にしがみ付こうと起き上がり、叫んだ。

「――これはっ……これはゲームなのか!?」

 錯乱している――そう分るほど、音域は恐怖に震えていた。


 そして、悲鳴が上がる。

 


 世界初の完全没入型VRゲーム、Unison:worldが世に出回り一年――増産に次ぐ増産と出荷を重ねて今やそのゲームは世界中の国々を席巻していた。

 それは今時極めて珍しい、筐体ハードとソフトの一体型で、別ソフトとの互換性が存在しない――そのゲームしか出来ないゲーム機だった。

 まるでアーケードの基盤売り。第一世代――ビデオゲーム最初期のテレビテニスを思い起こさせ、業界界隈の人間にそれは『ゲームという遊びの終わりを感じた』とまで批評された。

 しかし、その下馬評は覆された。

 ――このゲームにはすべての可能性が詰まっている。

 これまでのゲームが、そしてこれまでのゲームでは出来なかったことが全て出来る。

 ただ遊ぶだけでなく現実での経験に変えられる。

 好評に次ぐ好評――伸び脚が悩むことを知らず、一年たってもまだ予約は常に抽選になるという異例の超長期的大ヒットを飛ばし、その好評は業界関係者やプレイヤー、オタクだけでなくごく普通の一般人からも発せられていた。

 司会者はそう言い背後を振り返る。

「――今日はそのVTRが届いています。じゃあ見てみましょうかね」

するとコメンテーターが座るテーブルと、自身の司会席との間に設置された大画面にそれが映し出されていく。

 まずは街を歩く主婦らしき人にリポーターがマイクを向け、

『ええ、もうそれが突然――うちの子が、今日から外に出て働くって……!』

『――なぜ息子さんが突然、そう決意されたのかはお答え頂けますか?』

『――ゲームです。……もっとちゃんとゲームで遊ぶなら、外に出て色々な事を『経験』しなくちゃって、突然言い出して』

『突然ですか――一体何があったんでしょうか?』

『さあ……結局ゲームかとは思いましたけど。外に出て普通に生きてくれるなら、もうそれだけで構いませんよ……』

 なんとも複雑な表情であるが、息子が立ち直ったという吉報にスタジオの面々は関心を見せつつ場面が切り替わる。

 次はとある古都の街中で――

『こちらは友禅染の製造過程における、糊置き、と呼ばれる工程を行う工房ですが、長年その後継者に悩まされていました。しかし――なんでも彼は、ゲームの中で体験した和裁に魅せられその職人を志そうとこの門を叩いたそうです』

 リポーターの視線に合わせカメラが動く。そこに居る面々を全員写しながら、一人をズームアップし、リポーターと、マイクをを向けられた若者に画面が寄る。

『――一体どういった理由で、この伝統文化の職人という道を志したんですか?』

『はい。最初はゲームの中でみた着物が綺麗で――その画像とか、歴史を遡って作業工程の資料とか集めていたんですけど、仲間からゲーム内の作業工程自体がもう現実と全く変わらないって聞いて――これ本物なんだ、こういう世界が実際にあるんだ、って思ったら、僕もそこに飛び込んでみたくて、居ても立っても居られなくなりまして』

 その隣には、作務衣を着た老年の職人が、生来のしかめっ面のような顔をしながら腕組みに胸を張っている。どうも、決して歓迎しているわけではない様子だ。

 若者の就職、その志望動機はゲームというそれに難色を示しているように見える。

 わざとらしくリポーターが、それにマイク片手に頷きで関心を表現し――同時にどこか怪訝な様子で、一般視聴者の疑問に共感を呼ぼうとし、

『はぁ~。……師匠さん、ゲームが理由で弟子入りを志願したということはご存じだったのですよね?』

 どこか軽薄で人を煽る口調だ。若者が空想の世界を夢見る様な気持ちで目上の人間に世話になっているのかと、どこか見下したようにも見える。

 しかし、その職人は冷静に、

『――ええ。ですがそんなことは問題じゃありませんよ。こんな地味な仕事を熱心に、毎日コツコツと、今時職人の子供でもこんなにはやりませんよ』

弟子を擁護する、以外にもその師弟関係は良好の様子だ。しかめっ面なのは顔だけで、

『それに最近はこの仕事も絵図面さえあればロボットで作れて、新素材や最新の染料のお陰で着物も洋服の様に普通に洗えて、安く買えて……和服も普段着として見直される様になりましたがね、職人の腕までは買って貰えませんからね……そこをあくまで手作り――それに興味を持ってくれたことがなにより有り難いことですよ』

 他にも、木工、家具職人、大工、漁師、上流マナー講座から、ごく普通のバイト、料理人、農業、林業、プロの猟師までが映像に映り、そしてそれぞれが職人の卵や生徒を抱えている様子を見せる。

 そのそれぞれの場所で、ゲーマー達が精力的に働き、一般社会における職業はおろか、一度は廃れた文化や技術を研究し、あらゆる場所で活動し、中には過疎化で廃村した地域を見事再生したグループまでいた。

 そこでVTRは途切れ、画面にそれぞれの場面がぶつ切りの九分割で固定されている。

 それを確認し司会者は、

「――はい。これ以外にも、日本に限らず世界各地でゲームをきっかけに現実の様々な分野に進出する人が増えてきております。それはスポーツ、農業、料理、ちょっとしたアクセサリー作りから昔ながらの伝統工芸まで、本当に様々ですが――」

 大画面を向くと、映像が切り替わる。

 その中央には、堂々と件のゲーム筐体があった。そしてスタジオの脇からカートに乗せられ、実際のそれが映像ではなくスタジオの中央に配置される。

 司会者はその傍まで行き、両手を広げて紹介した。

「――このゲーム。世界初の完全没入型VRゲームということで――それも仮想世界の中で完全に現実の五感を再現することも出来るという、これまでの常識を覆したゲームなわけですが」

そこで解説者コメンテーター席に座った、有名大学の電子工学科の教授に話を振る。

「三島さん。なんでもこのゲームの中に作られた仮想世界そのものが、現実とほぼ全く変わらない法則をシミュレーションし動かしているという――これもまた科学史における一つのブレイクスルーと呼べるということですが――」

「――そうですね。今までその手のシミュレーションと言えば状況――条件、環境を限定することでコンピューター内で動かす数値を抑えてどうにか動かせるという状況でしたが、これは世界一つ丸ごと――ということですから文字通り桁が違いますね、ここまで来るともうそれをプログラムで演算しているというほうが不自然なくらいです。映像を見た限りですが――もうまるで、現実の世界そのものを鏡のように写し取っているとしか思えませんでしたね」

「それは――これまでの様に、情報を数値やプログラムに置き換えて、シミュレーション上の状況を動かしているのとは違う、というように聞こえますが」

「ええ。ここまで複雑なシミュレーションとなると、人には感じ取れない要素――入力することが出来ない数値が存在し、その所為でシミュレーション上のどこかで現実とは違う現象――エラーが起こる筈ですから」

 司会者は眉間に皺をよせ腕組みし、うん、うんうん、とさも自分の中で情報を整理し、分かったように頷いた。そして、

「ははぁ――専門家ではない私にはよく分りませんが、そういうものなんですか?」

「ええ。どれだけ高精度にシミュレーションを行おうとしてもそれを作るのは人間ですから。どんな機材を用いても、人間に全てを見通す眼も知性もない以上不可能と言えるでしょう。もちろん他にも様々な技術的問題はありますが――」

司会者、そして教授の台本通りともいえる会話を無視して、

「――そんな問題じゃないでしょう?」

 同席していた教育評論家の女性が声を荒げる。

 司会者は慌てることなくその声を拾い話を振ると、

「――小木さん、そんな問題じゃない、というと……では何が問題なのですか?」

「――ゲームですよ。ゲームで現実が再現されるっていうところが問題だと思いますよ、私は。……宮城さん、あなたはこのゲームがどういうものなのかご存知ですか?」

 カメラが慌てて切り替わり、軽く女性評論家を拡大した。

 それに応じ、相槌を打ちながら、

「ええまあ――携帯端末とか家のテレビ画面でドンパチとかピョイ~ンってする奴ですよね? RPG、アクション、格闘、音ゲーとかあとは――クレーンゲームとか」

「――そうじゃありません! このゲームと言ったらそのゲームのことですよ!」

「あっそういう意味ですか――ええ知ってますよ? ネットに繋いでみんなでやる――MMO・RPGって言うんですよね?」

「そうそれよ。RPGって言ったら剣と魔法の世界でしょう? その仮想現実なんだから、その中で武器を持って戦って――って。……それが現実と同じ感覚で行われるってことでしょう? これは問題だと思うわね、私は」

「あー、……おっしゃりたいことがなんとなく分りますが――」

司会者は言う。

「つまりこういう事ですか? ゲームの中で現実と同じ人殺しが出来てしまう――と」

「そうよ。これまでも過激な描写がされるゲームや何かが出ると必ずこの論議が出てきましたけど……私は今度こそ本当の意味で『ゲームと同じ感覚』で人を殺そうとする輩が出てくると思いますよ?」

「まあ現実と同じ体感なのですから、それは無い、とは確かに言い切れないかもしれませんねえ――はい、ではそこで、スタジオにこのゲームをプレイしたことのある一般の皆様にお越し頂いておりますので、その辺りの意見をお聞きしてみましょうか……」

 そう告げると、情報バラエティー番組のセット――その外に用意された、本来なら画面の裏側の部分――

 観覧席に向けられていたカメラに切り替わる。

 それは通常の観覧席ではなく、上下二段の席にのみ限定さて作られていた。

 そこに計六人、映像上で番号札と仮の名前、そして職業が記載されたプレイヤーたちがちょっと綺麗過ぎる普段着で座っている。

 その顔には、それぞれ目の周辺だけ隠す蝶々のマスクが付けられていた。昼の生番組ということもあるが、モザイク処理だと解析され取られてしまうことがあるからだが、顔を隠してある方が本当に本物の素人っぽいからだ。

「――ええー、じゃあ一番の、大学生さんですか? 今の小木さんの意見に関してどう思いますか?」

「――いや、絶対に出来ませんよ」 

 司会者の振りに、彼は、何空気読めない冗談言ってんだよ、と言わんばかりに尖った、しかし平坦な口調で答える。それに煽られることなく、こちらも平常運転で。

「それはどうしてですか?」

「――だってリアルすぎますよ。いくらゲームだって思っててもあれじゃあ現実の人を殴るのと変わらないですから――逆に怖くて出来ませんよ。人を殴るのなんて……まして武器でですよ? 普通に嫌ですよ」

 思った以上に常識的で良心的なコメントに、コメンテーター達は皆、興味深げに各々ポーズを取り口を窄めて聞いている。

「――そんなに同じなんですか?」

「はい。……ええっと……そうですね……じゃあ――今、ここで目の前にいる人達に――宮城さんは、暴力とか振るえますか? それと同じですよ」

「……そういう感覚なんですか?」

「はい――僕はですけど」

 あくまで一例、と彼が口にしたことを無言の頷きで確認し、

「じゃあ、二番さん、こちらは普通の会社員さんのようですが、あなたはどうですか?」

「僕ですか?」

「ええ。あなたですよ?」

「そ、そうですね――僕は普通にPvP――プレイヤー対プレイヤーのバトルとかもしますから、普通に剣とか武器で殴り合ったりしますけど……そんな現実感は在りませんね」

 その発言に露骨にコメンテーター達は顔を顰めた。そしてそれは同じ側に立つ一部のプレイヤーも同じ様な顔を浮かべる。

 そこで、

「――それはどうしてですか?」

「それはですね。僕の設定した感覚で言うと、普通にテレビ画面に写ってるキャラクターを『コントローラーで操作してる』って感じだからですね。実際にはゲームの中で体で動かしてる感じなんですけど、剣を振ったり技を使ったりするのは、ほとんど音声入力の自動操縦なんで、自分でやってる感覚は無いんですよ。……そのときは、これまでのVRと同じように動きに合わせて視界が動いている感じで」

「――そういうものなんですか? 一番さんとは全く別の見解なんですけど」

「それはゲームモードの違いの所為ですよ。このゲームはその辺の操作性の調整が聞くようになっているので。あ、ただ、一番さんの言う様なゲームモードでやってみたことがあるんですけど、あれは本当に無理です。本当にゲームじゃない感じなんで――本当に痛いんですよね、殴られたり、その状態で怪我したりすると。だから僕には無理でしたね」

 ゲームなのに現実の痛みを伴う、という言葉に司会者とコメンテーター達は驚きを隠せず、

「ええっ!? 本当に痛いって、それ本当なんですか?!」

「あ、はい。本当ですよ?」

「それ、現実の体に何の影響もないんですか?」

「ええ。痛いのはゲームの中だけですから。現実の体には何の影響もありませんし。あ、もちろん脳にも――この前健康診断受けましたけど、何の問題もありませんでした」

 そこで司会者はあんぐりと口を開け、絶句した風にした後……何かを思案して、

「……ええー、これはここに居る皆さんに向け質問しますけど……じゃあもし、それでもゲーム内で暴力的な犯罪を犯すような人がいるとしたら、その人が現実でも犯罪を犯すようなことをすることは――在り得ると思いますか? お手元の札を上げてお答えください」

 すると、膝の上に握られた赤でYes、青でNoの札をプレイヤー達は上げた。

 赤が六人――

 包み隠さず自身の意見を告げた。

 それはプレイヤーなら誰もが否定しつつも、しかし、否定しきれない部分だった。そして誰一人、犯罪者が出ない、と思う人間が居ないという事でもあった。

 その結果が当のゲーマーである彼らから出たことに、教育評論家は少し意外そうな顔をしていながらも(ああ、普通じゃなさそうに見えて、でもやっぱり普通なのよね)と、常識的な良心が根付いていることに一人頷いていた。

 が、三番の高校生が、

「あ、でも、そういうのってようするに、逆に言うと、ゲームとは関係なしに、どこででも? 何かの切っ掛けで犯罪を起こす人なんじゃないっすか? その在り得るとか在り得ないって、ゲームとは関係ないっすよね?」

「まあ、それはそうなんだけどねえ……」

 司会者、一同が苦笑い。そして教育評論家が、

「でもそのゲームをすることで、人の命が軽くなる様な気にはならないって、絶対に言える?」

「いやそれは人に寄るんじゃないすか――絶対なんて誰にだって言えないっすよ?」

「じゃああなたは?」

「いや無理っすよ。犯罪なんて普通にやること自体が怖いっすから。捕まるじゃないっすか、もう少年法だって改正されて一五歳以上は普通に刑務所行きなんすよ? ていうかそうじゃなくても普通に迷惑じゃないっすか……俺ゲームが悪く言われるようなことはやらないって決めてるんで――そういうのってみんな嫌じゃないっすか?」

 高校生が周囲を見渡すと、うんうんとプレイヤー一同が頷いている。

「……ごめんなさいね、でもそれは、そうじゃない人達にはそうじゃない、ってことよねえ……それがそのゲームをプレイする人間の中に居ないとは限らないし――そこで万が一、更に人に暴力を振るうことに慣れてしまって、良心って感覚が麻痺してしまう人が出てこないとは限らないのよねえ」

 プレイヤー達の眉間に一気に皺が寄った。

 そこで司会者が焦らず、照明の多大な熱で照り返った額も露わに、

「――はい、ここでCM入りまーす」

 さわやかな笑顔で締め括った。

 




大量のスポットライトに照らされた、四角いリング。その四隅から対角線上に二つの花道が伸びている。

 そこでは拳撃、蹴撃、投げ技、関節技の全てが解放され、しかしそれ以外の反則――凶器以外の反則は存在しない。ルールは、八百長ブックを用意しないこと。

 異種格闘技戦――なんでもありのバーリトゥードや、総合格闘技ともまた違う。

 それはしいて言うのなら、必ず己の流派の技を用いるという事――

 今、二人の武道家が戦っている。一人は白い道着に黒帯の空手家、もう一人は、薄手の生地で出来た演武服――小林拳のそれのようだった。

 試合は、懐に手が届く位置での接近戦での展開となっている。

 空手家が肩幅を狭め、コンパクトに腕を畳んだ構えで、常に重い一撃を狙える体制を維持しながら決定打を避け、軽やかで鋭い、掌打と拳撃、震脚を利かせたを肘打ちを、多彩な角度で織り交ぜてくるその隙を伺っている。

 小林拳士は、その固く、重く、確実に自身を捉えるタイミングでのみ打ち込まれてくるそれを、いなす際に体ごと歩法で半回転、更に受ける前腕を捻り、その打撃に体を乗せ自身を巻き込ませる様にし空手家の懐に、脇に、鋭く、尖った肘を乗せる確実に数が吸い込まれていく反撃――しかし、重くまっすぐなそれはいなせばいなすほど確実に彼の腕を削り取っていた。

 運びは、すり足を基本に、一歩一歩、質実剛健な突きと蹴り、そして打ち払いを駆使し相手を確実に隅に追い詰めようとする。片や、舞を舞っているのかと見紛うほど柔軟な動きで螺旋を描きながら、絡みつく蛇のよう、その隙間に、懐に、流れるように滑り込み入り込む。

 一撃の大きさ、重さ、打ち込まれた数――形は違えど、天秤のつり合いは取れいるように、互角に見える。

 しかし、相手の武器を削るか、鎧を削り取るか……その差が出始めた。

 息が切れる。

 確実に内臓へと打ち込まれ蓄積されたそれと、あくまで体の表面、それも端所である腕や足の筋肉に蓄積されたそれとの差――攻勢の手を緩めざるを得なかったのは空手家の方だった。

 だが同時に、少林拳士の両腕に、もはや力はない。分厚く固い筋肉と骨を鍛え上げたその打撃は、度重なる激突で神経と皮膚の感覚を麻痺させていた。

 構えは緩く、通常のそれより下げられている。

 それに空手家は勝機を見出し、背中の力をほんのわずかに抜いた。

 武器が無い人間と鎧が無い人間が打ち合った時、相手の命を奪えるのは前者だ。

 ――そう思っていた。

 勝ちを狙いに行くその気迫を読み取り、少林拳士は更に脱力したよう体の力を抜いた。

 空手家は無視した――力のない打撃ならいなす必要もない、と。

 そして拳士が先に動く。速くも遅くもない――これまで通りの歩法。

 空手家はあえてそれを懐深くに誘い込み、引く瞬間に、引き切れないほど踏み込ませる。

 これまでなら致命打を警戒し必ず打ち払って来た。それは武術として枝分かれした思想の違いだった。起源や発達の真相は分からないが、空手は琉球王国から育った武術で、そこに日本古来の剣術や柔術などによって培われた思想と理念が合流している。前提として鎧を着こんだ人間や刀を持った人間に対し素手での有効な打撃、もしくは、倒せないまでも組み伏せる事を前提とした技術に重きを置いている。

 相手を殺せないことを前提とした、もしもの時の護身術としての武術だ。

 その防御の技巧は、重い一撃を打ち払うことを前提としたものが多い――

 それ故に、慎重になりがちである。

 

 彼は勝機を見出していた。腕を削り切った今なら渾身のそれでも耐えられる。

 しかし、拳士はその未来位置を予想していた。

 これまでより半歩、懐に深く来る。

 空手家は見た、そこから引くなら渾身の鉤突きをわき腹に叩きこむのにちょうどいい位置に拳士は退く――その予測通りに、来た。

 拳ではなく手の平を当てた掌底、力はない――それは予想以上に軽く体に当たった。

 内臓に衝撃を与える掌打として失敗し、これから彼は引く――

 しかし、そう思ったその逆に彼は半歩、更に前へと踏み込んできた。

 それはとてつもなく柔らかな仕草だった。

 打撃ではない――そこで、掌打には触れてから遅れて衝撃を与える打法があることを思い出す。

 一拍遅れて、本能が危機を訴え思わず半歩後退った。

 そこで――掌と身体との接点が、マイナスでもプラスでもなく丁度ゼロになる。

 

 その刹那、拳士は震脚を行う。

 同時に足裏から、下肢から腰へ、背中から両肩へ、腕の先へ――

 全身の骨格と筋肉で螺旋を描いた。

 地響きが轟いて、一cm、手の平が皮膚から筋肉に食い込んだ。


 内臓を襲うとてつもない衝撃に、空手家は吹き飛んだ。 

 互いを削り合う攻防に、決着の刻が近付いていた。

膝を折り、手を着いている。

 拳士は熱の余韻に浸りながらも残心、彼から目を離さずにいた。

 カウントが入る……1、2、3、4、5、6、7、8、秒で立った。

 しかし、レフリーは空手家がこのまま試合続行可能かどうか、もしそれをするなら致命的な危険が無いかを判断するためいくつか問診する。

 その間に膝が落ちた。

 続行は不能と判断し、勝利宣言がなされる――

 その瞬間、スポットライトが落た。


 ほんの数秒の暗転――そして明転、これまで見ていた光景に違和感が生まれる。

 観客が、そして選手たちが疑問を覚えた。

 リング内に、誰かいる。

 それは二人の選手でもレフリーでもない。

 全身黒尽くめ――

 大昔の野良着にも似た和服の意匠――顔は覆面、目許ですら炭か何かを塗り、眼球以外は真っ暗闇のいで立ちである。

 そして、反りの無い、中途半端な長さの刀――忍び刀を背に纏っている。

「――誰?」

 客のそれには無言で、懐から半紙を折り畳んだそれを一つ取り出す。そしてパッと広げた。

 意外に大きなそれには――【乱入】と簡潔に二文字で書かれていた。

 意味は分かる。つまり、その黒尽くめはろうというのだ。

 今この場での勝負の決着を、これまでのそれもすべて無視して。

 しかし、決勝戦である。

 二人の技と躰、心を削って経た道に水を差すようなものだ。

 リングの上で、二人は視線を合わせるだけでその憤慨と苛立ちを確認し合った。

 その物々しい気配を意に介さず、黒尽くめ――強いていうなら忍者は、そこで初めて、

「あ、ちゃんとスポンサーさんと主催者には許可取ってあります」

 言葉を発した。

 

「――私に勝てたら賞金は倍です。もちろん二人掛かりでいいですよ?」

 気を乗らせるために。

そしてそれは正当なハンデだった。すでに一戦を終える寸前、二人の武道家の疲労と負傷が満身創痍と呼ぶほどに蓄積されている。

 しかし、高潔な競技者でもある二人にはただの侮辱と挑発でしかなかった。

 なにより、許可を取ってある、とは言うが、むしろ、だとしたら主催者にも物申さないと気が済まない――

 そこでまず拳士がリングを降り、直近の解説者からマイクを奪った。

 そして要求する。

「――勝ったらぼこぼこにしたその面拝ませろ」

 そして空手家にマイクをパスし、

「俺もだ――と言いたいが……戦うのだけは止めておく、まともに戦えそうもない。負けたら一発殴らせろ」

 空手家はそう答えを返した後、解説者にそれを投げて帰した。

 すると解説者はその事態を煽る様にアドリブでコメントを出し、想定外のエキシビションマッチが行われることを高らかに会場中に宣言した。

 観客達がブーイングと歓声に沸騰する。

 それに忍者は腕組みしたまま頷き、彼らと睨み合い、

「――いいでしょう。この場は私の――師匠の我儘ですので、ほんの迷惑料替わりです」

 拳士は、師匠? と、疑問を浮かべたが、それはどうでもいいとでも言うように剥き出しの戦意を浮かべる。

 しかし、

「……何の師匠だ?」

 その出立コスチュームがハッタリでなければ彼は忍者だが、本当にそうなのかと。

 そこで空手家も、これからライバルが戦う相手のことを少しでも情報収集をしようと、敢えて確認を取る。

「……忍者か?」

「ええまあ」

 やはり忍者なのか、と、微妙に衝撃を受ける。反面妙に冷静に、

「……忍者がこんな派手なことしていいのか?」

「……そこは一応、恥を忍んでいるということで」

「……忍術を使うのか?」

「ええまあ……今はただの古流武術なんですけど」

 忍術は武道とはまた別の昔からの技術だ、それは解釈としては間違いではないと分る――

 だがそこではなく、

「……いや」

 黒尽くめの背中に差された忍者刀に、二人の視線が突き刺さる。

 それに気付き、

「……あ、大丈夫ですよ? 使いませんし、これ、撮影用のゴム製品なんで」

 そう言いながら、しっかりレフリーに手渡す。

 ついでに懐から忍者らしい凶器――手裏剣や火薬玉、煙幕、その他暗器を提出し、ボディーチェックもして貰う。それも、最初から持ってくるなよ、と思うくらい細々と色々なものがあちこちから出た。まどろっこしいそれに二人の闘志に更なる苛立ちが募る。

 しかし、

「……十分な休憩になりましたか?」

 準備が終わると忍者にそう問いかけられた。

 確かに、連戦という状況――すでに半ば精も魂も付き果てる寸前の様なものだ。

 フェアに、休ませるために。その間観客を冷めさせず、むしろ熱を上げさせる為の悪役ヒールめいた演出だったということだ。

 それでも公正とは言い難い。だが、

「じゃあ、始めますか?」

 その言葉に、リング上で拳士が前に出た。

 そこで空気を呼んだ審判がゴングを鳴らした。

 

 拳士は即座に前に出る。

 二戦目――それもさして間をおかずの連戦だが。

 同門や今日の様な異種格闘の経験――日本固有の武術とのそれもあるが流石に忍術とはやったことが無い。それも漫画でもアニメでもない、武器も使わない徒手空拳の忍術など聞いたことが無かった。

 未知数であるからこそ、受けに回ればいいように相手に術中に嵌る可能性がある。

 それならまず相手の手の内を探り出さねばならない。しかし体力の残りに不安はある。

 その状態で勝利を収めるには短期決戦しかない。なら、相手にその未知数の力を出させないようにする必要がある。

 だから攻める。敵は自然体――腕をだらりと下げ重心を地面に真っ直ぐ下ろした、柔軟な姿勢だった。

 様子見か、反撃狙いか。

 そこに踏み込みながら、腰を低く構えた位置から拳を、左腕を軸にし、右腕を添わせる様に走らせ下から上に打ち上げる。体の中心線に向け真っ直ぐ放たれたそれは軽く半身を捻って《《ゆっくり》》右に躱された。だが回避されることも前提として放った打撃は同時に反動で引いた右腕に、肘打ちに繋がりそれを反動で突き出す。

 それを知っていたかのように、忍者は自然体のまま二歩、《《ゆっくり》》余裕を持って躱した。しかし攻撃は続行される。拳士は放った肘を開いて拳の甲を打ち込もうとするが、その可動範囲を見切ったのような位置に忍者は既に移動していた。

 それでも構わず続ける 拳撃、蹴撃、組み技、歩法――先程から連撃は続いている。

 しかしその全てが間合いの外ギリギリの位置に、余裕を持って逃げられ続けている。

 見切られている、手数を何もかも読まれている。

 拳士は察する。忍者はこちらの手の内を知っている。

 打撃の速度も、型も、間合いも、こちらの一手先に余裕を持って回避している。

 こちらの思考より先に彼は居る。これまでの試合を研究していたのか先ほどの試合から読み取ったのか、どちらにせよ対応は練られているようである。

 それでも拳士は連撃を続ける。

 しかし……息が続かない。小さく攻撃の前に息を止め、やがて連撃の間が大きくなり、その速さも徐々に落ちて来た。

 体力は消費された。そこで忍者は動きを止めた。

 相手の消耗を待つ、基本に忠実な戦術だった。回避に徹していたのはそれを見計らってか。

 えげつない。わざわざ時間を稼いで体力を回復させたと思いきや、それを削る。性格は最悪だ。しかし拳士は思う、自分でもそうする。勝負の世界はやられた方が悪い。ならこれから彼の攻勢が始まる――

 

 その何かをやらせる前にと攻撃の手を緩めず拳撃を放った。

 忍者が、初めて自然体から拳を握って動き出す。

 警戒した。

 しかし、その拳は中途半端な握り、親指までしっかりと握ったそれではなく、軽く、四指の横に立てられたものだった。それも自身の体に向かってこない――崩拳として突き出したこちらの腕の内側への軌道を取っている。

 打ち崩し――

 しかし、まるで握手を差し出すような緩慢な動きだった。

 その印象につい、警戒を怠った。

 そして刺すような痛みが奔り、振り払うように腕を引き、その場から飛び去った。

 見えてはいた。拳撃ではない、空手家のような打ち崩しでもない。握った四指の横に、自然に添えてほんの微かに突き出た親指――それで、腕が伸びきった瞬間に肘の裏側を親指で突かれたのだ。指突だ。それも速くも鋭くもないそれだが。正確に経脈――神経を突いてきた。

 拳士は顔を顰める。肘裏に響くその鋭さと鈍さが同居した痛みは後を引く――それこそ刺さった針をそのままにしたかのよう忸怩たる痛みだ。

 空手家がしたことの踏襲だ。打撃に伸びきった腕のピンと張った筋を狙らわれた。速度が落ちた打撃に合わせ、すれ違いの間際の――腕を狙ったカウンターだ。

 衝撃でも、筋肉への痛みでもなく、神経を直接狙ったそれを拳士は――面白いと感じた。

 先ほどの空手家が見せた、愚直な――自身へのダメージを許しながらのそれとは違う。

 適格に急所を、一撃で、効果的に――

 理に適っている。此方の体力の消耗と合わせて勝ちを急いたそれを狙い済ましていた。急所を正確に打つには卓越した技巧が居る。それも、的としては大きくほぼ止動かない胴体や顔面ではなく、打撃で加速中のそれを打ったのだ。

 面白い――

 先程の空手家よりも遥かな高みに居るのが分る。技術の研鑽の相手として格好の相手だった。

 それに向け、牙を剥き出し獣のよう笑う。

 ――いい獲物だ。

 しかし忍者はそれに眼球だけで辟易としているのが拳士には分った。疑問する。何故か、こんなところに来るからにはお前もこちら側だろうに――

 武術家、もしくは戦闘狂だ。でなければルール無用の異種格闘技戦なんてやらない。精神性だけの突き詰めならば同門だけで十分だ。

 だがその思考を即座に否定する。

 いや、ああ、こちらにもう勝ち目はないと思っているのか、と。

 確かに、この腕ではもう普通の打撃は見舞えない。しばらくすれば回復するだろうがその時間を与えるわけがない。

 だが、そう思っているのなら、先ほどの空手家と同じ目に遭う。

 

 拳士はそう判断した。

 それは忍者が、先ほどの掌打の本質も捉えられずに、空手家と同じ対応を取っているからだ。

 果たして本当にそうなのか――そうほんのわずかに迷うが、体の痛みと勝利の愉悦がそれを否定した。

 拳士は相手の攻めを待つために、腰をほんのわずかに落として動きを止めた。

 すると忍者は、待ちの体勢から何かを狙っていることを察知してか、動きを止めた。

 反撃の一打を警戒している。やはり先ほどの試合の決め手を警戒しているのだと判断する。

 膠着する。互いに戦術的思考の終局を読み、待ちに入った。

 会場には、張り詰めた苛立ちと、どよめきが満ちていた。

 拳士は悠然と待った。先程から、忍者は動いて来ない――こちらの手札を見切っていても、それをどう対処するのか決めかねているのか。

 否、カウンターという手段を崩すために、こちらに攻めさせるために待っているのだ。

 自ら攻めるより待った方が、先ほどの掌打の危険は減る。相手の力を利用する打撃だからこそ空手家は倒されたのだと判断したのだろう。

 そして、こちらは少々休憩を挟んだとはいえ体力を消耗しているジリ貧だ。攻めれば攻めるだけ消耗し損耗していく――だからあえて攻めない。

 それが狙いだと拳士は当たりを付けた。なら攻めればいい――

 しかし、拳士はその漂う空気に微笑み――腰を据えて膠着を続ける。

 忍者はこちらの攻めを待とうとしている。勝ちに気が急いて、必勝の手番を狂わせようとしている。

 なら、それに乗る必要はない、腰を据えて、痺れた腕の回復を待つだけだ。

 必ず彼は攻めて来る、その確信があった。

 何故ならそれは――


「――てめえ! 乱入なんてしたくせに地味なことしてんじゃねえぞ!」


 会場に罵声が響く。

 突然の乱入者の、やる気のない態度に対する――正当な手順を踏んでの対戦中だった自身との決定的な差だった。

 正当に戦いを見せて来た自分達と、突然横やりを入れた彼との差――

「そうだそうだ! せっかくの決勝に水差しやがったくせに、そんな意地汚ねえもん見せんじゃねえ!」

「――帰れ! ――帰れ!」

 ただの観客であるそれが彼には敵地になる。

 野次が飛ぶ。その不満の声は連呼される。そしてそれは事実だ、彼のその立場ではそう言われるしかない。乱入という不正規手段で試合に介入したにも関わらず消極的な戦いではとんだ興醒めだ。しかもこれは金が掛かったエンターテイメントだ。

 逃げが許される筈がない。

 格闘という世界には絶対的な暗黙のルールがある。ボクシングでも、空手でも、柔道でもなんでも、それは徹底した『逃げ』を禁じられているということだ。そして戦う意思が無いと見なされればそこに『指導』が入る。それも先ほどまで拳士が果敢に攻めていたという印象上、どうしても一般の観衆には彼の方が逃げ一辺倒に見えてしまう。

  忍者の戦いの本意は遁術――つまり逃げることだ。ある意味で、戦うことがエンターテイメントであるこの場に最もそぐわない技術である。

実際には戦略としては彼の方が攻めていて、自身の方が攻めてはいるが守りに入っていたのだがそんな暗闘など普通の人間には解説されない限り分るわけがない。

 だから、

「卑怯者――っ!」

「そんな臆病だったらこんなところに出てくんな――っ!」

 決してこれを意図的に狙っていた訳ではない。しかし武術家として消極的な逃げは行わずに攻めていた。その姿勢が呼び込んだ状況だった。

 笑う、これで彼は攻めざるを得ない。

 これは客から選手への指導だ。解説者がなんとかその罵声と野次をマナー違反だと止めようとするが関係ない。

 その指導を聞き――いや、聞くまでもなかったのか。

 既に思考を終えたのか忍者は一瞬で走り出した。

 

 爆発的加速だ。

 それは音もなく水平に、リングと平行に一直線に来た。

 自身の掌打が、間合いとして対応できない距離まで詰めようとしている――

 拳士は思う、理に適っている。

 打点を外すとしたら相手に合わせて動くのではなく、相手が対応できない速度で攻める事、出来るならそれが一番確実だ。しかしそれには相手の力量――特に身体能力や反射神経を上回ることが出来なければならない、ある意味で一番現実的ではない手段でもある。

 自身と忍者との体格にそれほどの差はない。体格が同程度の人間の能力に大差はない。あとはどれほど鍛えていたかという差だけ。

 ――この速度なら対応できる。

 真っ直ぐに来る。この速度では、右、左、上、下、どの角度に足を振ってもたかが知れている。その上で、そんな様子はない。まっすぐに突っ込んで来る。

 打点を平面上でずらし急所を外そうとしているのではない。奥行きの打点をずらそうとしている。この爆発的速度での体当たりによる重量攻撃で自身の打撃そのものを喰らい潰そうとしている。だがその突進力は狭いリング内ではたかが知れている――なによりその足音は軽く、体重を乗せたそれではないことが聞き取れた。

 潰されない、十分捉え切れる。

 拳士は脱力し予備動作を行う。

 右手は使えない。痛みで無駄な力が入ってしまう。

 左手のみを前に五指を自然に、腰を低く、相手の速度に押し込まれないように足裏を据えた――

 そこで、腕の筋力をほとんど必要としない手段を選ぶ。

 発勁、と呼ばれる技法だ。先程空手家を仕留めたそれだ。

発勁は震脚に寄る踏み込みの反発力を身体に乗せ、円運動――反作用が働かない遠心力を描く身体の捻り――螺旋の動きで損失なく全身から隈なく集め、そして腕の先から打点を通して相手に移す技だと思っている。それは物理で言うところの作用反作用の法則の――特に反作用部分を注視しそして利用したものだ。

 エネルギー損失のない、理想的な力学をまさに体で体現したといえる。

 その打ち方の結果としては――運動量保存則、力学的エネルギーの保存則――見てわかりやすいのは『ニュートンのゆりかご』だろうか。作用反作用の反作用を消すという性質上、その効果を綺麗に体現し最大限に発揮するには、打撃を相手の体に押し込んだりしてはいけない。打点以上に掌打を入れず衝突する瞬間にそこで止めると、打撃としての反作用も消え、無駄のない綺麗な力の伝導が起こる。

 そしてその力の伝導を阻害しないためには、力んではいけない。筋力が抵抗になってしまうからだ。

 筋力をほぼ使わない、そうすることで足裏で生まれた力を身体の内外から淀みなく伝導することができる。

 それは完全な脱力でもない、自然体――

 だから打った側はそれほど力を入れていない、と言うし、打たれた側も、本当にうまく決まったときはそれほど打撃としてのダメージを感じない、派手に吹き飛ばされたと感じる。

 あくまで発勁の基本を理想的に体現すると、だ。だがこれなら腕のダメージは関係ない、打撃として有効にするにはこれをもう一歩、浸透勁としてアレンジする。

 経験で培い努力で捥ぎ取った当て勘に従い、相手の速度の動き、これまで何度も繰り返し修練してきた自身の挙動から、考えずして適切に身体を動かす――

 掌底を、彼我の距離が0になる地点と時点に――

 震脚と、螺旋の終点を置いた。

 運動エネルギーを移す衝突の瞬間のみ、更に1cmに満たない深さ掌打を沈め、震脚の要領で体を震わせ体内で波を起こし爆発させる。

 打ち込む腕力は何一つ要らない。

 衝突する。

 そう思った瞬間しかし、音がずれた(・・・・・)

 

 拳士は目を疑った。

 距離と、目の前の光景と、自身の想像のズレに。

 捉えた筈の忍者が――

 体が揺れる。視界がブレる。

 確かに掌底に捉えた筈の忍者の動きが、幻の様に虚影を残して消えた。

 一瞬、そして既に自身の懐に食い込んだ彼の肘鉄砲に気付いた瞬間には膝を折り、拳士は息を詰めリングに崩れ落ちた。レフリーは駆け寄りその状態を判断する。そして十秒待たずに続行不能をアピールし勝者を告げる為、黒装束の腕を取り挙げさせた。

「――勝者……っ」

 そこで気付いた。名前を全然聞いていないということを。

 なので視線で尋ねると、

「……あ、じゃあ……謎の忍者で」

 リングネームくらい決めておけよ、と。レフリーは微妙な顔をしやけくそ気味な内心のまま、

「――勝者、謎の忍者!」

 

 ブーイングが湧く。

 それはエンターテイメントの結果としては当然だったのかもしれない。

 打撃の乱舞も応酬もない。はっと手に汗握る一閃も、胃がキリキリ痛むような組合いもなかった。

 最高潮に盛り上がった決勝戦の水差しの結果がそれだった。

 しかし気にせず、忍者はリングを飛び降り、いそいそと解説席に預けられていた道具の数々を引き取りに行く。レフリーが再び彼をリングに上げ、勝利者へのインタビューをしようと催促をするがそれも気にしない。

 それぞれを懐やら足袋のそこ此処に入れ直していると。

「――おい、最後のあれは何だ?」

「……あれ?」

 拳士が腹を押さえながらに問う。

 それに忍者は覆面越しの顔を合わせて答える。

「……しいて言うなら、忍術です」

「……まさか、分身か? 本当にあるのか?」

 拳士には、あの時確かに、ほんの刹那だが自分には彼が二つに割れ、まるで影法師のように消えたように見えた。

 非現実染みたそれが――と思った。

 しかし忍者は淡々と、

「いえ。ただの歩法です。それに遁術の一つらしいんですけど――相手に強烈な印象を与えながら移動先を予測させて、直前でそれをズラす――それを組み合わせると、視覚的補完やら思い込みやら、色々な要素が重なって……ってことらしいです」

 理屈としては、分る、分るが――

 そんな脳の誤作動を、狙って起こせるものなのか?

 武術家のフェイントは、あくまで誤った予測させるミスリード、意図的に相手に隙を作らせるそれと同じだが。あんなに鮮明に、幻覚と見紛うような錯覚まで起こせるものではない。現実との誤差に体が硬直するくらいだ。

 消えた、なんていう風には絶対に錯覚しない。その動きを見切れなかった、とは感じてもだ。

 しかし、

「それと、腕が本格的に使えなければ打撃として筋力をほとんど必要としない『発勁』に頼ることは先人が証明していましたから――まして、それで一度は勝ちを決めていましたし、それも忍ばせました」

「……こちらの決め手を操作したのか?」

「――ええ」

 事も無さげに言うが、それは明確な力量差や、戦略、戦術に置ける視野の広さがなければ出来ない事だ。それもただ技巧や型を習得しただけでは至れない、センスがなければ成し得ない。

 力量差は、拳を交えていればなんとなく分る。遊ばれているのか、どれくらいの全力があるのか。

 それを分っていただろうか?

 そもそも、自分は一体何回彼と拳を交えただろうか――

 背筋に冷や汗が流れ落ちる。 

 そして、

「じゃあ帰りますね――あ、じゃなかった」

普通に、社会人ぽくお辞儀した後、何を思ったのか。

 懐から取り出した、丸い花火に似た物体の導火線に百円ライターで火をつけ、彼はそこら中に無差別に放った。


 蛇の威嚇音のような物騒な音がそこら中で鳴り響き、そして煙が爆発する。

 観客から悲鳴が上がった会場の低い位置は全て煙で覆われている。それは花道も塞ぎ、しかしそこを一つの足音が颯爽と遠ざかって行った。

 周囲の多大な雑音に紛れて、そのことに気付くカメラも人間も居なかった。キャラが仕上がっていないのに、そんなところだけ妙に忍びらしい。

 そんなとき、いつの間にかリングに投げ込まれていた棒手裏剣に気付く。

 それには文が結ばれていた、とりあえず、自分しか気付いていないので、広げてみる。

 ――さらばでござる。ニンニン。

とある。達筆な毛筆で、何故だか酷く年寄り臭い書体のような……。

「……本物、か?」

 それを拳士は微妙な顔をし棒立ちしていた。




 雲雀は可愛い妹分からの報告に仰天する。

「――ええっ!? 別れたの!?」

「わ、別れてないよ! ……ただ、会う時間が取れないな~って話で……」

 なんだ、とほっと思いつつ、

「そりゃまあまだ忙しい時期でしょ。アンタは卒論、あいつは社会人一年目――それも教師って首は無いとか言うけど休日も家もないようなもんよ?」

 なにせ授業外でその資料の作成やテストの採点に、部活の顧問もやればまさに休日も祝祭日もアフターファイブもないのである。問題生徒が居ればそれにかかずらなければいけないし、特に新人は教師向けの講習を業務後・・・に校外で受けないといけない。その重労働たるやその辺のブラック企業と同等かそれ以上かもしれない。

 だが、

「教師じゃなくて講師――学習塾の……の筈なんだけど……」

「何かあったの?」

「いつの間にか、内定取り消して、辞めてたみたい……」

「……まさか、嘘でしょう……」

 絶句する。可愛い妹分の彼氏がまさかのドロップアウトをしていたという事実に。

 しかもだ。

「……ここ一年、ほとんど会って無いし……一週間前に、アパートの部屋もいつの間にか引き払ってて……電話も端末もつながらないし」

「失踪!? ちょ、普通に事件じゃないのよ!?」

 更に雲雀は吃驚と憤慨混じりにテーブルを叩く。

 ただそれは、現実の木では出来ていない――でも驚くほど固い――という感触と鈍い痛みが手の平の骨に返ってくる。

 と、同時に、その怒声に周囲が振り向き、喜色めいた表情で女二人の酒盛りを眺めて来た。

 ゲームの中――雲雀のアバターは唾の広い三角尖がり帽子と、マントにざっくり胸元が開いたドレスを着せた、魔女のようないで立ちだ。肌は浅黒く耳は尖ったダークエルフ風で、髪は黒瑠璃のように煌めく闇色、刀のよう尖った妖艶さ――アップデートで魔法職が解禁されてからそれに作り直したのだ。

 だが貧乳である――その事実一つで残念そうに男たちは自分の酒に目を戻した。

 でも、雲雀はそれでいいと思っていた。何せ、ちょっと残念位にしておかないと露骨にセクハラされるのだ。それで愛想を尽かしてくれるなら有り難いし例え同性でも嗤うようなら見限ろうと思っている。そう狙って貧乳にしたアバターだった。

 余計な付き合いはしたくない。もちろんコスプレイヤーとしては見られることもローアングルにも慣れたものだが、それとこれとは話は別、撮影は撮影、セクハラはセクハラである――なにより自信があるのは尻だというのも一つの理由だ。

 それはともかく、と、雲雀は視線を妹分に戻す。そして、

「……ここにも来てないの?」

「……うん、もう本当に、私どうしたらいいのか……」

 雲雀は何よりそれが信じられなかった。あのバカ(妹分の彼氏から格下げ)がゲーム断ちしているなんておかしい、絶対在り得ない。

 そんな理由で警察に捜索願を出すなんて正直どうかしていると思うが、しかし、人間不信の雲雀に『こいつなら友達になれる』と思わせるくらい人付き合いが出来る男だと思っていた。そんな男が自分の彼女にその程度の気を回さないなんてありえないのだ。

 つまり、何かが起きている――雲雀はそう推測する。それも連絡したくでも出来ないような状況なのだと。

「警察行きましょう、警察――いやまて、冷静に状況を分析しましょう。どこに行くとか聞いてないの?」

「一応、一年くらい前に――しばらく連絡できなくなるけど心配しないでね? って」

「……どんな僻地に行っているのかしら、アンテナが一本もないような砂漠とかジャングル――北極や南極……何しに行くって?」

「……言えない、って。リアルでやりたいことが出来たから、色々探してくる、とりあえず国内を色々廻ってみるって……聞いてたから」

「……色々?」

 脳裏に様々な疑問符が浮かぶ。それはもう、色々あり過ぎて、逆に当たりが付けられない位にだ。でもまさか、明人がゲームを休んで、せっかく決まった内定も夢も目標も恋人すら蹴るなんて思い浮かばなかった。

 だからこそ、

「……いったい何してんのよ……」

 純粋な疑問として。

 しかし、そこでつぐみは何かに気づいたように目を閉じる。

「――あ、メール」

「あっそ。誰から?」

「……明人さん」

「――確保よ」

 雲雀はどこでもいいからあらゆる手段を使って呼び出すよう命令した。

 一体、何をやっていたのか……。そう雲雀は、妹分の代わりに拳を握り込む、可愛い妹分の為だ、ちょっと非人道的なことをするがしかたあるまい。




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