黒い電話~返信~
広い心でお読み下さい。
非常ベルが鳴っていた。
松尾敏樹は、何処とも知れない建物の廊下を、非常ベルに急き立てられるようにして歩いている。
走ろうとしても、まるで水の中に居るかのように、前へ進むことができない。
窓のない廊下は薄暗く、端の黒くなった蛍光灯がジリジリいいながら点滅している。
誰も居ない廊下は薄ら寒く、コンクリートが剥き出しの床と柱が一層寒さを強調している。
敏樹は必死に走ろうとするが、前に進んでいる気がまったくしなかった。空気が水のようにまとわりつき、身体の自由を奪っている。
敏樹は階段に辿り着くと、降り始めた。しかし、いつまで経っても一階に着かない。
階段をゆっくりと駆け降りながら、敏樹はいま自分が何階に居るのかさえ判らないことに気がついた。
敏樹は非常ベルに急き立てられながらも立ち止まると、壁を見上げた。しかし、そこには各階や踊り場には必ずあるはずの、そこが何階なのかを示す表示がなかった。
何処まで降りれば地上に着くのか不安に思いながらも、敏樹は再び階段を降り始めた。
しかし、何処まで降りても階段は続いている。
そのうちに、階段の様子がいつも同じことに気がついた。
階段に積もったホコリ、壁の染み、手摺の塗装の剥げ具合い。総てが1つ上の階と同じだ。
しかし、敏樹はそれを訝しく思うこともなく、ひたすら階段を降り続ける。
どれだけ階段を降りたか判らなくなった頃、敏樹は階段を踏み外した。
「!」
声にならない悲鳴を上げ、恐怖から目を瞑る。すると、落下感が敏樹を襲ってきた。しかし、階段を転げ落ちる痛みはいつまで経っても訪れない。
敏樹は恐る恐る目を開けると、そこにあるはずの階段がないことに気がついた。
階段を踏み外したのではなく、階段が消失していたのだ。
何処までも落ちて行く敏樹。
ほんの少し前までは階段を降りていたはずなのに、いまは階段どころか手摺や壁すらもない。あるのは、何処までも続く白い闇だけだ。しかしそれなのに、非常ベルだけは敏樹の耳に響いていた。
何処までも落ちていく中、不意に非常ベルの音が消えると、敏樹は夢から覚めた。
目が覚めたからにはベッドから起き出して、トイレで用を足して洗面所で顔を洗い、朝食を済ませたら大学へ行かなくてはならないと敏樹は思った。しかし、敏樹は起きることができなかった。それどころか手や足、さらには首までも動かすことができない。
敏樹は寝違えたかと思ったが、首どころか身体の何処も痛くはない。不思議に思いながらも、まだ身体が睡眠から覚めていないのだろうと思った。
しかたなく、敏樹は天井を眺めながら、身体が覚醒するのを待つことにした。しかし、朝の微睡みを貪っていられるのも、そこまでだった。
『!』
天井が、自分の部屋とは違っていたのだ。
まず敏樹の目についたのは、蛍光灯だった。
敏樹の部屋の蛍光灯は、ストレートの蛍光管が3本ある、天井に張り付いている蛍光灯だ。しかしいま目にしている蛍光灯は、確かに天井に張り付いてはいるものの、ストレートの蛍光管が2本の一回り小さいものだ。
そして次ぎに気がついたのは、壁に貼ってあるポスターだった。
首を動かせないのでハッキリとは判らないが、男性歌手グループのポスターのようだった。芸能人に疎い敏樹には、斜め下から見上げた状態では尚更判らない。
『ここは、何処だ?』
小さな声で呟いてみたものの、それでいま居る場所が判る訳ではなかった。
なんとなく見たことがあるような場所なのだが、敏樹はどうしても思い出せない。
直後、すぐ横で人の気配がすることに気がついた。
しかし、相変わらず身体は無論のこと、首すら動かないので確認することができない。
『誰が居るんだ?』
敏樹は耳を澄ませ、気配を窺った。
すると誰かの動く気配と共に、衣擦れの音が聞こえた。
『何をしているんだ?』
首も動かせず、状況を確認できないことが、敏樹を苛立たせた。
「あーっ! 充電するの忘れてたっ」
声を耳にした刹那、敏樹は心臓を鷲掴みにされたように驚いた。
声が、女性のものだったからだ。それも、聞いたことがある。
敏樹は一瞬、《朝目が覚めたら、隣りに見知らぬ女の子が寝ていた》などと言う、マンガのようなシチュエーションを連想してしまったが、そんな都合のいいことが自分の身に起きる訳がないと思い直した。
『じゃあ、誰だ?』
敏樹が呟いた瞬間、突然視界を奪われたかと思うと、高速エレベーターで上昇するような感覚に襲われた。
『うわっ! な、なんだ?』
上昇感はすぐに治まり、代わって部屋の様子を見ることができた。
『!』
そこに見えたのは、滅多に見ることはないが、しかしよく知っている風景だった。
『な、なんで僕は秀美の部屋に居るんだ?』
敏樹が見たのは、4つ違いの妹の、秀美の部屋だった。
敏樹の妹は17歳の高校2年生で、敏樹が通っていた高校とは別の高校に通っている。それは、中学までは敏樹と同じ学校に通わざるを得ず、何かにつけては敏樹と比較されて嫌だったからだ。
妹の秀美曰く、「お兄ちゃんと、同類と思われたくないの」とのことで、意図的に敏樹とは違う高校へと通っている。
もっとも、秀美の言うところの『同類』とは、何を指しているのか敏樹には判らなかった。
その秀美の部屋に何故自分が居るのか、敏樹にはまったく身に覚えがなかった。
『ヤバイ。早く部屋から出ないと、これじゃ秀美にエッチだとか変態だとか言われかねないぞ』
しかし手足の動かない敏樹はどうすることもできず、ただ目の前の壁を見つめるだけだった。
「どうしよう。今日1日ぐらいなら、バッテリー保つかな?」
声の主は、もう間違えようがなかった。妹の秀美だ。
そして身体中を触られる感触は、秀美のものに違いなかった。
どう言う訳か、敏樹は秀美に身体中を撫で回されているのだ。
『おい、秀美。何やってる。僕の身体を撫で回すんじゃない!』
敏樹は声を上げて抵抗しようとしたが、その声は妹に届いてはいなかった。
「長電話さえしなければ、大丈夫よね」
秀美が決断すると同時に、階下から秀美を呼ぶ母親の声がした。
「はーい。いま行くー」
秀美は鞄を持つと、部屋を出て階段を降りた。
洗面所に入って鞄を足元に置くと、手にしていた携帯電話を洗面台の鏡の前に置いた。
刹那、敏樹の身体に電流が走った。
一瞬見えた鏡に写っていたのは、携帯電話を手にした秀美。そして携帯電話だけが、敏樹に近付いてきた。
しかし、携帯電話が視界一杯に迫ったかと思うと、急に天井が視界を覆った。
『…………』
この一瞬の出来事で、敏樹は自分の置かれている状況を理解した。
理由は判らないが、敏樹は秀美の携帯電話になってしまったのだ。
だから手足を動かすことも、首を動かすこともできなかったのだ。視界が固定されているのは、携帯電話のデジタルカメラのレンズを通して見ているからで、レンズの向いている方向しか見ることができないのだ。
その時、敏樹は今朝見た夢を思い出した。
非常ベルと思っていたのは、目覚まし時計代わりにセットされていた、携帯電話のアラーム音だったのだ。
自分の置かれている状況が判ったことで、敏樹は少しだけ落ち着いた。
『秀美の携帯電話だったのが、不幸中の幸いだったな。これが見ず知らずの女性の携帯電話だったら、絶対にストーカーと間違われていたはずだ』
ホッと一息ついた敏樹だったが、顔を洗い終わった秀美に掴まれると、慌ただしい朝が再開された。
「お母さん、おはよう」
「何やってたの。早くしないと、遅刻するわよ」
ダイニングに入るなり、母親から叱責の声が飛んできた。
「判ってる」
秀美と母親の朝の会話を、敏樹は初めて聞いた気がした。無論、いままでに何度も聞いていたのだが、意識して聞いたことはなく、いつも聞き流していたので記憶に残っていなかったのだ。
秀美が食事をしている間、敏樹の視界は再び天井に向けられた。
自分の見たいものを、見たいときに見られないことがこれほどもどかしいとは、敏樹は思いもしなかった。
『あと少し。あと少し携帯電話が斜めになれば、可愛い秀美の食事姿を見ることができるのに……』
しかし、敏樹の思いも虚しく、妹の食事姿を見ることはできない。
秀美は朝食を終えると、携帯電話と鞄を両手に持って立ち上がった。
次ぎの瞬間、敏樹は今までこれほど間近で見たことがないと言うほどの近くで、秀美が穿いている制服のスカートを目にした。しかしスカートと認識した途端、今度は暗闇に覆われてしまった。
敏樹は、自分がスカートのポケットに入れられたことに気がついた。
ドタドタと振動が襲ってきたかと思うと、すぐそばで秀美の声がした。
「行ってきまーす」
玄関の開閉音に続いて靴音がすると、すぐに自転車を漕ぐ音に変わった。
全身を覆う生暖かい感触は柔らかく、敏樹はスカートのポケットを通して妹の太腿に密着していることに浮かれた。
『ああぁー、これが秀美の太腿の感触かぁ。……いかんいかん。妹の太腿に頬擦りして悦ぶ兄貴なんて、目茶苦茶変態じゃないか。そんなふしだらなことを考えちゃいけない。兄は兄らしく、もっと威厳をもって振舞わないと』
しかし、携帯電話になってしまった敏樹が、人として振舞うことなどできない。敏樹はそのことに、まだ気づいていない。
『そうだ。それよりも、助けを呼んでもらわないと。おーい、秀美ぃ。助けてくれぇ。誰か助けを呼んでくれぇ』
敏樹は、声の限り叫んだ。しかし、妹の秀美はまったく気づかず、軽快に自転車を漕いでいる。
『ダメかぁ。……そうか! ポケットの中からじゃ、声が届かないのかもしれない。秀美が僕を取り出したときに、助けを求めればいいんだ』
敏樹は、光明が見えると安堵した。
しばらくすると、秀美は自転車から降りて歩き出したようだった。
『駅に着いたのか。なんとかして、秀美に助けを呼んでもらわないと』
敏樹が思案に暮れていると、揺られることもなく、いつの間にか秀美が立ち止まっていることに気がついた。
『あれ? 券売機に列んでるのかな? いや、定期券を持ってるはずだから、券売機に列ぶ訳ないか。すると、もうホームまで降りたのか』
敏樹は、自分の置かれた状況を想像してみた。しかし、女子高生のスカートのポケットの中という場所が、そもそも想像できなかった。
『……ダメだ、思い浮かばない。だいたいが、スカートのポケットの中なんて、見たことないんだからしかたないよな。スカートのポケットの中って、どうなっているんだろう。一度くらい、見ておけばよかった。……って、いまがそのポケットの中なんじゃないか。見ようと思えば、いくらだって見られるはずだ』
しかし、どんなに目を凝らしても、ポケットの中を見ることはできない。闇が視界を覆い、自分が縦になっているのか横になっているのか、それとも逆さまになってるのかさえも判らない。
その時、突然敏樹の視界は光の洪水で溢れた。
『うっ……』
眩しさに呻くと、ホワイトアウトした視界が元に戻るのを待った。
視界が色を取り戻すと共に、それまで気にならなかった音が聴覚を襲ってきた。
駅のホームは、通勤通学の人々の足音、遠くの大通りから聞こえる車の音、どこからとなく聞こえる自転車の錆びたブレーキ音で溢れ返っていた。
そして視界には、サラリーマンに混じって新入生と思われる、真新しい制服に身を包んだ学生も散見される。
敏樹は身体を開かれると、信じられないような早さでボタンを押され続けた。
無論敏樹には、秀美が何をしているのか判っている。メールを入力しているのだ。
相手は、秀美との会話でたまに聞いた『三原紀香』だ。もっとも、アドレス帳には『ノリちゃん』と入力されている。それでも敏樹に判ったのは、彼女が秀美の中学からの友達だからだ。敏樹の知る限りでは、中学1年のとき以来の、同じクラスのはずだ。
メールの内容は他愛なく、朝の挨拶に始まって、昨夜の歌番組のことや今朝の出来事など、どれを取っても学校で会ってから話せばいいようなものばかりだ。もっとも、所々敏樹には理解できないフレーズや、なんと読めばいいのかさえ判らない文字もある。
何故こんなくだらないことを、わざわざメールするのか敏樹には判らない。どう考えても、電気とパケット代の無駄遣いとしか思えない。
敏樹は、秀美の他愛ないメールに思いを巡らせていると、重大なことに気がついた。
『そうだ! この距離なら、僕の声が秀美に届くかもしれない』
ポケットに居たときは、遠くて声が秀美に届かなかった。しかし、目の前でメールを入力しているいまなら、声が届くと思ったのだ。
『おーい、秀美。助けてくれぇ。誰か助けを呼んでくれー。おーい、秀美ぃ……』
もうこれ以上声が出ないというほど、大きな声で敏樹は叫んだ。しかし、秀美には届かなかった。
それ以前に、声が音として出ていないことに敏樹は気がついた。
原因は、すぐに判った。
携帯電話には、口がないからだ。
口がなければ、声が出ないのも当然であり、いまの敏樹にはどうすることもできないことである以上、助けを呼んでもらうのを諦めるほかなかった。
秀美がメールを送ってしばらくすると、稲妻のような光が敏樹の額と思える辺りを上から下へと走った。その直後、敏樹は紀香からのメールが着信することが判った。
一拍置いて、メールの着信を知らせる「わんわん」という犬の吠える声が鳴った。
敏樹には、秀美がメールを見るまでもなく、その内容が判った。
先刻秀美が送ったメールの返信であり、内容もくだらないものだった。
『まったく、よくこんなメールのやり取りができるなぁ。携帯電話の僕としては、もう少し有意義なメールを受信したいもんだな』
敏樹がぼやく間にメールを読んだ秀美は、さらに返信のメールを打ち込み始めた。
内容は、またしても他愛のない、女子高生のおしゃべりだ。
敏樹はメールの内容をチェックしながら、入力しているメールや受信したメールが読めていることに気がついた。
『ん? なんでメールが読めるんだ? なんで着信相手が判るんだ? てゆーか、凄いじゃないか。メールを送ってきた相手が、着信する前に判るなんて、まるで超能力者になったみたいだ』
敏樹は無邪気に喜んだが、携帯電話の機能として、着信して一拍おいてから着信音を鳴らしているだけで、着信する前に相手の電話番号が判っている訳ではない。
『もしかしたら、着信したと見せかけて、秀美と話ができるかもしれない』
敏樹は、その思いつきが素晴らしいアイデアに思え、早速試してみた。
まず、携帯電話の着信音を鳴らす。が、友達からの着信音は着メロであったのに、敏樹からの着信音は初期設定のままだった。敏樹には、それが酷く寂しく感じられた。それでも、着信拒否設定にされていなかっただけ、ヨシとしようと思い直した。
「なーにー、お兄ちゃん。朝の忙しい時間に、電話なんかしてこないでよ」
メールを入力しているところへ着信したためか、秀美は不機嫌そうな声だ。
敏樹は通話ができるかどうか半信半疑だったので、秀美が電話に出たときには小躍りしそうなくらい嬉しかった。
嬉しさの余り、声が上擦ってしまうのを抑えながら、敏樹は声を発した。
「いや、ちょっと秀美に頼みたいことがあって……」
「頼みたいことって、何よ。着替えを大学まで持って来いって言うんなら、嫌よ」
いつもの素っ気ない返事に敏樹は落胆したものの、それが本題ではないのでいつものように酷く落ち込むことはなかった。
「いや、そうじゃなくて、助けて欲しいんだ」
「助けるって、お兄ちゃんを?」
「そう、僕を」
「一体、どうしたのよ。彼女と喧嘩でもしたの?」
「な、何を言うんだ。ぼ、僕には、彼女なんか居ないぞ」
秀美からの唐突な質問に、敏樹は焦って声が裏返ってしまった。
「なに威張ってんのよ。そんなこと、百も承知よ」
秀美の口調は呆れたと言わんばかりだが、敏樹は決してバカにされたとは思わない。第一妹の秀美が、人を傷つけるようなことを言うとは、敏樹には思えない。
「いや、威張った訳じゃないんだけど……。で、頼みと言うのは、助けを呼んで欲しいんだ」
「助けを呼ぶって、どう言うこと? 大体お兄ちゃんは、何に困ってるの?」
「いいか、よく聞け。驚くんじゃないぞ。実はいま、僕はお前の携帯電話になっているんだ。だから携帯電話から、人間に戻して欲しいんだ」
「…………」
敏樹は、秀美に希望を託した。しかし、いくら待っても秀美からの返事はなく、敏樹は痺れを切らして声を掛けた。
「おい、秀美。ちゃんと聞いているか? 僕を助けて欲しいんだけど、頼めるかな?」
「お兄ちゃん」
秀美の声音が変わっていた。たったそれだけで、敏樹の兄としての威厳は、簡単に吹き飛んだ。
「…………」
「そんなくだらないことで、この朝の忙しい時間に電話してきたの? そんなバカなこと言ってるくらいなら、お兄ちゃんらしいとこ、少しはして見せてよ。なんの実験してるのか知らないけど、ここのところ大学に泊まり込みっぱなしでしょ。お母さん、心配してるんだからね。いーい、今夜は帰ってくるのよ」
言い終わると同時に、電話は切られてしまった。
『……また、怒られた』
いまの敏樹に人としての身体があれば、肩を落とし、ガックリと項垂れたところだ。しかし、携帯電話になってしまった身体は、肩を落とすことも、項垂れることもできなかった。
敏樹は、もう一度秀美に電話をする勇気もなく、おとなしくスカートのポケットに収まった。
結局、この日の放課後までに、敏樹は自分に秘められた能力についてある程度まで理解した。
電話が掛かってくれば相手の電話番号が判り、その番号がアドレス帳に登録されていれば名前まで判る。着信音の音量を変えたり、バイブレーションモードへの変更も可能だ。その上、着信もないのに着信音を鳴らして、恰も通話しているかのように敏樹自身と会話することもできることが判った。
逆にできないことは、試してはいなかったが、敏樹が勝手に電話をし、相手に通知される電話番号を敏樹が持っている携帯電話の番号に偽装することだ。無論、勝手に電話することはできそうだったが、そのとき通知される番号は、いまの敏樹自身である秀美の携帯電話の番号だ。
夕方と夜の狭間。夜と言うにはまだ早い時間でありながら、夕方と言うには陽が沈んで辺りが暗くなってしまった時間。秀美は私服に着替えて塾に向かった。
秀美は、7時から9時まで月水金の週3回、数学と英語の授業を受けに塾へ通っている。
本当は、敏樹が秀美に教えてやりたかった。しかし、敏樹自身が英語を大の苦手とし、数学は教えることはできても、英語だけは教えることができなかった。そのため、敏樹は秀美に教えることを諦め、塾へ行くことに反対しなかった。
7時に授業が始まってしばらくした頃、秀美の鞄の中に居るにも拘らず、突然敏樹の額があった場所と思われる辺りに光が走った。
刹那、敏樹はユッコなる人物から電話が掛かってきたことを知覚した。無論、敏樹はユッコが何処の誰なのか、知っていた。と言うよりも、今日学校で知った。
木下祐子、バスケ部での友達だ。部活を終えて帰るとき、駅まで一緒だったのだ。
しかし、タイミングが悪い。いまは塾の授業中であるにも拘らず、携帯電話はバイブレーションモードにはなっていない。このままでは、高らかに歌謡曲がかかるのが敏樹には判った。
『マズイ。このままでは、秀美が先生に怒られてしまう』
授業に集中している中で、突然着信メロディーが鳴り出したら、非難の視線の集中砲火を受けるのは目に見えていた。
咄嗟に敏樹は、着信モードをバイブレーションモードに切り替えた。
ヴィーン、ヴィーン、ヴィーン……。
間一髪、着信メロディーではなく、バイブレーションで着信を知らせることができた。
しかし、授業中に電話に出られる訳もなく、10回ほどバイブレーションした後、電話は不意に沈黙した。
ホッとしたのも束の間、敏樹は空腹になっていることに気がついた。
いつの間にか、電池マークの残りが1本になっている。このまま電池が切れてしまったら、自分の意識まで消えてなくなりそうで、敏樹は怖くなった。しかし、どうすればいいのか敏樹には判らない。
電源を切ればいいのだろうが、その後の自分の意識がどうなるのか判らず、リスクが大きすぎる。かと言って、節電する方法がまったく判らない。唯一判っていることは、発着信すればそれだけ電気を喰うということだ。
秀美が携帯電話を充電器に載せてくれればいいのだが、ここは塾であり、充電器などない。乾電池で充電するアダプターを秀美が持っているかと言えば、今朝の言葉を思い出すとそれも絶望的だ。
結局敏樹には、着信がないことを祈ることしかできなかった。
それから授業が終わるまで、電話は掛かってこなかった。
空腹で、いまにも腹の虫が騒ぎ出しそうになっても、秀美は家に帰ろうとはしなかった。駅前のコンビニに入ると、雑誌の立ち読みを始めたのだ。
『おい、秀美。早く家に帰ってくれ。このままだと、バッテリー切れになってしまう。そうしたら、僕はこの世から消えてしまうかもしれないんだぞ』
敏樹の叫びは、しかし秀美には届かなかった。
敏樹は疑似着信をさせて、秀美に早く帰るように言おうかとも考えたが、なんと言って帰らせればいいのか判らなかった。しかしそれ以上に、着信音を鳴らしただけでバッテリー切れを起こしそうで、怖くてそれもできない。
『早く帰ってくれよぉ。秀美は、僕を殺す気かぁ?』
今にも泣きそうな声で、敏樹は懇願した。しかし、相変わらず秀美は雑誌を読み耽っており、帰る様子はまったくない。
10時近くまで立ち読みをすると、秀美はやっと帰路についた。
だが、敏樹の空腹はピークに達しようとしており、いまにも空腹で気絶しそうだ。
『早くっ。早く帰ってくれ。このままじゃ、僕は死んでしまう』
その時、突然敏樹の腹の虫が鳴り出した。
アラーム音に気づいた秀美に、敏樹はポケットから取り出された。
「あちゃー、電池切れかぁ。もうすぐ家だから、まっ、いいや」
敏樹が聞いた言葉は、それが最期だった。
この後バッテリーを使いきり、携帯電話がダウンすると同時に、敏樹の意識も途切れた。
『…………』
敏樹が再び意識を取り戻したのは、秀美の部屋でだった。
しかし、状況が飲み込めない。判っていることは、充電器に載せられたまま、秀美が塾の授業中に電話を掛けてきたユッコに電話をしていることだけだ。
『……なんとか、死なずに済んだみたいだな。電源が切れるのは、仮死状態みたいなものなのか。とにかく、無事でよかった』
敏樹が安堵しているうちに、秀美はユッコと話を始めていた。
会話の内容は、帰り道での続きであり、明日学校で話してもいいようなことばかりだ。
「じゃあねぇ、バイバーイ」
1時間以上経ってから、やっと秀美が電話を切った。
そのまま勉強机に置かれると、敏樹の視界は天井だけだ。
衣擦れの音が聞こえてくると、敏樹はあらぬ妄想を始めた。
秀美が服を脱ぎ、下着姿になるとブラジャーをはずす。素肌の上に、今度はパジャマを羽織る。
『……って、なにバカな妄想をしてるんだ! 秀美は妹だぞ。そういう目で見ちゃいけないんだ』
しかし布越しとは言え、秀美の太腿に触れていたとき以上に興奮しているのは確かだ。それは、携帯電話に変わってしまった身体の触覚よりも、聴覚の方が生身の身体の頃に感覚が近いからだ。
『見てはいけない。でも、ちょっとぐらいなら……。いや、やっぱりダメだ。でも……』
悶々としているところで、突然辺りが暗くなった。秀美が電気を消したのだ。
『うおー! 見たかったよぉ』
結局その夜、敏樹は悶々としたまま明け方まで寝ることができなかった。
昨日に比べれば遥かにマシではあったが、決して爽やかな目覚めとは言えない朝を敏樹は迎えた。
昨日のことは総て夢であり、自分は携帯電話などではなく、正真正銘の人間としてベッドに横たわっていることを敏樹は期待していたのだ。しかし、その期待は脆くも崩れ去り、携帯電話に設定されていたアラーム音で目を覚ました。
『やっぱり、夢じゃなかったのか……』
敏樹は小さな溜息をつくと、ボンヤリと天井を見つめた。
しばらく天井を眺めていたが、いつまで経っても秀美が起きて来ないことに敏樹は気がついた。
『まだ寝てるのか? 早く起きないと、遅刻するぞ』
敏樹はベッドまで行って、秀美を起こしてやりたかった。しかし、いまは携帯電話の身であり、充電器に固定された状態ではどうすることもできない。
『おーい、秀美ぃ。早く起きろー。遅刻するぞー』
しかし、敏樹の声はやはり秀美には届かず、虚しく時間だけが過ぎていく。
『おかしいなぁ。昨日はすぐ起きたのに、なんで今日はなかなか起きないんだ?』
昨日は敏樹自身の目覚めが悪かったこともあり、秀美は敏樹より先に起きていた。昨日だけではない、敏樹が中学生や高校生の頃も、必ずと言っていいほど秀美の方が早起きしていた。それを思うと、秀美が寝坊することなど考えられない。
敏樹は、昨夜のことを思い返してみた。
秀美は寝る前に、学校の友達と電話をした。1時間ほど話し込んでいたが、12時前には電話を切って、電気も消してベッドに潜り込んだ。その後、何時頃寝入ったのか判らないが、悶々として眠れずにいた敏樹が1時頃に気づいたときは、すっかり寝入っていた。つまり、秀美は夜更かしなどしていない。
『そうすると、寝ている間か、今朝になってから何かあったのか?』
敏樹は、今朝起きてからのことを思い返した。
携帯電話に設定された時間にアラームが鳴ると同時に、敏樹は目が覚めた。
そして天井を眺めながら、秀美が起きるのを待った。
『おかしいなぁ。起きてからは、秀美が起きるのを静かに待っていただけだし。その間、秀美が寝言を言ったり呻いたりすることはなかったもんなぁ。白雪姫みたいに、毒リンゴを食べたとも思えないし……』
そこで、敏樹は違和感を覚えた。
明らかに、何かがおかしい。しかし、その違和感の原因が判らない。
いまも、秀美は安らかな寝息を立てて眠っている。
『あ!』
かすかに聞こえる秀美の寝息は、本当なら聞こえてはいけないことに敏樹は気がついた。
『ヤバイ! 僕がアラームを止めてしまったんだ』
目覚まし時計の代わりにセットされていたアラームを、敏樹が勝手に止めてしまったことに気がついた。
敏樹は慌ててアラームを鳴らすと、秀美が早く起きることを祈った。
ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ……。
5回、6回、7回とアラームは鳴り続け、14回目にして、やっと秀美の起きる気配がした。
敏樹は安堵すると、アラームを止められるのを待った。その間アラームは鳴り続け、頭の中でアラームが鳴り響いているようで喧しい。
『おーい、秀美ぃ。早く起きて、アラームを止めてくれぇ。五月蝿くて、かなわないんだよぉ』
すると敏樹の祈りが通じたのか、秀美が起きてきてアラームを止めた。
『ふぅ……。五月蝿くて、頭が割れるかと思ったよ』
テキパキと支度をする秀美の気配を感じながら、敏樹はこれからのスケジュールについて考えた。
8時半までに学校へ行き授業を受ける、放課後は5時まで部活動をして家に帰ってくる。今日は木曜日なので、塾はない。
しかし敏樹には、それ以上のことが判らない。
妹とは言え、秀美の普段の行動を把握している訳ではない。それどころか、初めて秀美のプライベートを垣間見ているのだ。しっかりしているようで、いままで自分には見せることのなかった抜けているところもあって、敏樹は一層秀美を愛しく思うようになっていた。
敏樹が考え事をしているうちに、秀美は支度を整えテーブルに着いていた。
「そう言えばお母さん。お兄ちゃん、まだ帰ってこないの?」
「そうなのよ。どこで何をしてるんだか。電話ぐらいすればいいのに」
「お兄ちゃんのケータイに、電話すればいいじゃない」
「掛けたわよ。でも、全然出ないのよねぇ」
「じゃあ、あとであたしが掛けてみる」
「頼むわね」
「お兄ちゃんも、お泊まりするなら電話ぐらいすればいいのに」
「もしかして、彼女のところに泊まってるのかしら」
「ないないない。お兄ちゃんに、彼女なんか居る訳ないもん」
『…………』
秀美の言葉が、敏樹の胸に深々と突き刺さった。しかし、事実であるだけに、言い返すこともできない。
「そうなの? 駄目ねぇ。20歳過ぎなんだから、彼女ぐら居てもいいはずなのに……」
「お兄ちゃんには無理よ。どうせ、ナンパすらしたことないんじゃない?」
「はぁ……。意気地がないわねぇ」
妹と母親の会話を聞いて、敏樹は落ち込んだ。
確かに秀美の言う通り、敏樹はナンパをしたことがない。しかしそれは、彼女など欲しくないと思っていたからでは断じてない。彼女を欲しいと思っても、大学での研究が忙しく、それだけの時間が取れないだけのことだ。それを、こうも悪し様に言われるとは、敏樹は思いもしなかった。
『僕だって、彼女くらい欲しいさ。けど、ゼミやらレポート書きが忙しくて、彼女を見つける時間すらなかったんだ。それにいまは携帯電話の身。これじゃあ、彼女なんてできる訳ないだろ』
敏樹は弁解を試みてみたが、人間に戻れる目処が立っていないので、却って落ち込むことになってしまった。
敏樹が落ち込んでいる間に秀美は朝食を終え、席を立った。
「それじゃあ、お母さん。いってきまーす」
「あっ、秀美。今日は、塾なかったわよね」
秀美が台所に立っている母親に声を掛けると、敏樹ですら知っていることを聞き返してきた。
「うん。部活が終わったら、真っ直ぐ帰ってくる」
秀美の言葉に、敏樹は安堵した。
いつも9時過ぎまで大学に居る敏樹が家に帰る頃には、秀美は家に居たが、それで安心できるほど敏樹は楽天的ではない。
5時に部活が終わり、1時間ほどで帰宅できるので、6時半には家に着くはずだ。仮に家に帰ってくるのが9時だとすれば、2時間半もの空白時間があることになる。2時間半もあれば、それこそ色々なことができる。敏樹はそう思うと、不安で不安でしかたない。無論、秀美を信じない訳ではなかったが、悪い虫が付いていたらと思うと、気が気ではなかった。
と、敏樹は唐突に名案を思いついた。
悪い虫が居るのなら、必ず携帯電話の電話帳に登録していると思ったのだ。
敏樹は、すかさず登録されている名前を検索した。
アイちゃん、アキちゃん……、佳織先輩、さなっち……、ネコ先輩、ノリちゃん……、ヒナ、マコちゃん……、ユッコ、リナ。
全部で50人ほどの名前があった。
まだ電話が掛かってこない、誰だか判らない名前も沢山あったが、女子高生らしいニックネームばかりだ。
『良かった。まだ、悪い虫は付いていないようだな』
敏樹は、この日何度目かの安堵の息をついた。
学校へ行くまでの間は、これから学校で会うクラスメイトや友達とのメールのやり取りに終始した。特に、クラスメイトの三原紀香とのやり取りが一番多い。
そして学校に着くなり、メールの続きのお喋りが始まった。
その間、携帯電話は机の上に出されたままなので、敏樹は周囲の状況を観察することができた。
「秀美ぃ。おっはよー」
「ノリちゃん、おはよー」
突然声を掛けられた秀美は、振り返ると同時に相手が誰なのか確認もせずに返事をした。
教室に入ってきたのは、ほんの少し前までメールのやり取りをしていた三原紀香だった。
紀香が秀美の後ろの席に着くと、メールでの内容と同じことを話し始めた。
敏樹は、よく飽きないものだと思う反面、携帯電話やメールだけの付き合いだけでないことに感心もした。それに引き換え、いまの自分は携帯電話を通して、それも妹の秀美としか繋がらないことを思うと、情けなくなった。
授業が始まると、携帯電話は秀美の手でバイブレーションモードにされ、敏樹は安心して秀美の様子を伺うことができた。
放課後になると、秀美はバスケ部の部室に荷物を置き、ユニフォームに着替えると体育館へと行った。無論敏樹は、部室の暗いロッカーの中に取り残され、部員たちの会話や着替える音だけを聞くことになった。
秀美が部室を出て行ってからも、部員がやって来ては甲高い笑い声を上げて着替えを済ませ、部室を出て行く。
無論、制服を脱ぎ、ユニフォームを着る音を敏樹は間近で聞くことができたが、その様子を見ることはまったくできない。見えるのは、狭く薄暗いロッカーの天井だけ。部室の天井どころか、壁すら見ることができずにいた。
『覗きをしたい訳じゃないけど、声だけを聞かされるのは拷問に等しいな。せめて足元だけでも見えたらいいんだけど、レンズが上を向いてたんじゃそれも無理か』
しばらくすると、全ての部員が体育館へ行ってしまったのか、間近から聞こえる女生徒の声がなくなった。しかしそれでも遠くからは、色々な声や音が聞こえる。
昨日は、初めて女子バスケ部の部室に入ったことでパニクッてしまい、訳が判らない内に帰宅してしまったが、今日は2度目と言うこともあり、聞き耳を立てて周囲を観察するだけの余裕がある。
どこの部かは判らないが、「サ--、ファイト、ファイト、ファイト」と歯切れのいい掛け声のほか、演劇部の練習と思われる「あーえーいーうーえーおーあーおー」と訳の判らない声も聞こえる。別の方角からは、1人だけ音程のはずれたトランペットの音も聞こえ、敏樹は懐かしく感じた。もっとも、中学高校時代の敏樹は部活に入っておらず、こう言った放課後の喧噪を聞くことは滅多になかったが。
しばらくすると、バッテリーの消費が激しいことに敏樹は気がついた。
まだバッテリーマークの目盛りが1つ減っただけだが、いくら携帯電話とは言え、ここまでバッテリーの減りが早いのはおかしいと思った。
携帯電話でゲームをした訳でもないし、音楽を聞いていた訳でもない。確かにメールの入力は多かったが、それとて通学途中の電車の中だけだ。授業中にメールの入力をしていた訳ではないので、精々30分ぐらいだ。それでここまで早くバッテリーが減るとは思えない。
敏樹は、別の原因を探した。もしかしたら、自分が携帯電話になったことで、バッテリーの減りが早くなったのかも知れないと思ったからだ。もしそうなら、秀美に携帯電話が故障したと思われかねない。修理ともなれば1週間や2週間はメーカーに携帯電話を渡さなければならず、その間敏樹は秀美と離ればなれになる。敏樹にとって、それだけは避けなければならないことだ。
『携帯電話のバッテリー消費の1位は通話なんだけど、今日はまだ1度も通話してないからこれは違う。第2位は動画の再生だけど、秀美は動画を入れてないから関係ない。第3位はゲームだけど、これもやってない。第4位はパケット通信だけど、これもやってない。第5位が音楽再生で、これもやってない。最下位がメールの入力で、これが30分くらいで可能性は低い。となると、他になにがあるだろう……』
携帯電話について、雑誌や新聞に載っていた以上の知識を持たない敏樹は、インターネットにアクセスして情報を得ようかとも考えた。インターネットなら、敏樹の知りたい情報をすぐに見つけられると思ったのだ。しかしそれでは、尚更バッテリー消費を増やしてしまうと思い、思いとどまった。
『このままだと、メーカーへ修理に出されてしまう。そうしたら、秀美に迷惑を掛けるだけじゃなく、ケースを開けられて痛くもない腹を探られることになる。それは、なんとしてでも避けなくては。第一、そんなことをされたら、2度と人間に戻れなくなるかもしれないからな』
敏樹は自分の置かれている状況を、もう1度見直してみた。
『授業が終わってバイブレーションモードから着信音モードに変更されて、スカートのポケットから出されて秀美のロッカーの棚に載せられている。ディスプレイのライトは消えているし、着信待ちしているから消費電力は少ないはずなんだけど……』
そこまで呟いて、敏樹は電波の送信が妙に多いことに気がついた。
『なんだ? 着信待ちしてるのに、なんでこんなに電波を送信しているんだ』
そこで敏樹は、はじめて圏外になっていることに気がついた。
『そっか! スチールロッカーの中だから、圏外になってしまうのか。だから基地局を探して、不必要に電波を送信していたんだな』
原因が判れば、対応は簡単だ。人間が指を動かすのに、どの神経を使ってどの筋肉を動かすのか意識しないのと同じように、敏樹は電波の送信を止めることができた。
部活が終わると、再び部室が騒がしくなった。それは部活が始まるときの比ではなく、女子バスケ部の部員全員が一斉に着替えを始めたのだから当然とも言えた。無論、秀美もロッカーの扉を開けたまま着替えをするので、生の声が聞こえる上に女子高生の体臭が漂ってきた。ただし、携帯電話に臭いセンサーなど付いている訳もなく、敏樹は溢れんばかりの女子高生の体臭を堪能することができないばかりか、部室に体臭が篭っていることにすら気づかない。
女子高生たちの着替えを見たという誘惑に襲われ、敏樹はデジカメを望遠にしてみたりノーマルに戻してみたりと試行錯誤を繰り返した。しかし、所詮はロッカーの棚に置かれた携帯電話、10年以上使い込まれて綺麗とは言えないロッカーの天井以外、敏樹は見ることができない。
『いいさ。僕は覗き魔でも変態でもないんだから。秀美たちの着替えを覗き見るなんて真似、できやしないのさ』
既に覗き見ようとしていたのに、敏樹はそのことを忘れて負け惜しみのように呟いた。
「秀美。今日は塾がないんだから、マックにつき合いなさいよ」
声を掛けてきたのは、同じバスケ部部員の木下祐子だ。
昨日もマクドナルドに行こうと誘ってきたのだが、秀美は塾を理由に断わっていた。
「うん、いいよ。すぐに着替えるから、ちょっと待ってて」
秀美は勢いよく答えると、既に着替え終わっている祐子を待たせて、ワイシャツの袖に腕を通した。その衣擦れ音が、敏樹の妄想を掻き立てる。
それは、テレビドラマの1シーンのように、どことなく在り触れたシーンだ。
制服の紺色スカートに白いブラジャー姿の女子高生が、糊の効いたシャツの袖に腕を通す。サスペンスドラマに有り勝ちな光景だ。
しかし、その女子高生の顔が秀美になった瞬間、敏樹の妄想はシャボン玉が割れるように消えてしまった。秀美で妄想すると、秀美を汚してしまうような気がしたからだ。
『僕は、なんて想像をしてたんだ。これじゃ僕は、変態じゃないか。それも妹の裸で興奮するなんて、異常だよ』
敏樹が自己嫌悪に陥っている間に、秀美は着替えを終えて祐子と共に駅前のマクドナルドでハンバーガーにかぶりついていた。
ここでも話すことは、学校で話していたことの続きだ。アイドルや芸能人の話で盛り上がり、たまに携帯電話で芸能人の公式サイトを閲覧したりする。それは、敏樹が想像できる女子高生像とまったく変わらない。
『おーい、秀美ぃ。今日は部活が終わったら、真っ直ぐ家に帰るんじゃなかったのかぁ? 真っ直ぐ帰らないと、母さんが心配するぞぉ』
今朝の秀美と母親との会話を思い出した敏樹は、秀美に早く帰るよう訴えた。しかしその声は、目の前のテーブルの上からでも秀美に届かなかった。
7時を過ぎて、2人はやっと席を立った。
「じゃあ、明日学校でね」
「うん。バイバーイ」
改札口を抜けると、2人は上りホームと下りホームへと別れた。
ところが、いま別れたばかりなのに、ホームに立つと秀美はすぐに携帯電話を取り出して、メールの入力を始めた。
文面から、相手が祐子だと敏樹にも判る。
結局地元の駅に着くまで、秀美は祐子とメールを交わし続けていた。
電車を降りて階段を上り切ったところで、秀美が呼び止められた。
「秀美ぃ。いま帰りなの?」
その声に、敏樹は聞き覚えがない。少なくとも、この2日間に秀美と会話をした人ではない。
「石川さん……」
秀美の戸惑う声に、敏樹はこの石川という女性が秀美の知り合いであるものの、このような場所で遭う人でないと想像できた。
「そうだけど。石川さん、今日も休んでいたんじゃないの」
「石川さんだなんて、堅苦しい言い方しないでよ。中学からの仲なんだから。アイちゃんって、呼んでよね。今日は、またサボっちゃった」
「サボっちゃったって……。そんなことしてたら、留年しちゃうよ」
「大丈夫。留年したら、その時はその時よ」
慣れ慣れしく話し掛けてきた女性が、秀美のクラスメイトだとやっと思い出した。朝のホームルームでの出席取りで、石川という女生徒が休んでいたのを思い出したのだ。
「いまから新宿へ遊びに行くんだけど。一緒に行かない?」
「いまから?」
「そっ、いまから。あたしの彼氏も紹介するから、ねっ」
「ねって言われても、あたし制服のままだし……」
秀美が言い澱んでいると、上り電車が入線してくる音がした。
「じゃあ、1度家に帰って着替えてきなよ」
「でも、明日だって学校があるんだから、やっぱり行けないよ」
「いいじゃない、学校なんて休んじゃえば。先に新宿に行ってるから、新宿駅に着いたら電話ちょうだい、迎えに行くから。じゃあ、待ってるからね」
駅員のアナウンスに紛れて、愛の声が小さく遠のいて行った。
「ちょっと、あたしは行かないからね!」
敏樹には、秀美の叫びが愛に届いたかどうかは判らない。判ったことは、秀美に夜遊びをする意志がないことだけだ。しかし、それだけで敏樹は安堵した。
『中学時代からの友達とは言え、友達は選んだ方がいいぞ』
敏樹は秀美に声が届かないと知りつつも、小言を言わずにはいられなかった。
その夜、10時半を回った頃、『アイちゃん』から電話が掛かってきた。
「もしもし秀美ぃ。いまどこに居るのよぉ。秀美が来るの、ず---っと待ってるんだからねぇ」
電話の相手は、石川愛だった。
敏樹は、秀美と愛がそれほど親しくないと思っていたので、電話帳に『アイちゃん』の名で登録されていたことが意外に思えた。
「あたしは行かないって、言ったじゃない」
「聞いてないよぉ。いいから、早く出てきな。絶対、後悔させないから」
「後悔させないってねぇ……」
敏樹には、秀美が困り果てているように思えた。
ここで可愛い妹を助けなければ、兄として失格だとさえ思った。
『けど、どうしたら秀美を助けられる?』
電話を切っただけでは、すぐに掛け直してこられてしまう。かと言って、敏樹自身が会話に介入する訳にもいかない。
『うーん、どうしたらいいのかな? 電話を切って、なおかつ掛けてこれない上に掛けられない方法って、ないもんかなぁ?』
「あたしが誘っているのに、つき合えないって言うの?」
業を煮やしたのか、愛が凄味を利かせた声で言ってきた。
「そう言う訳じゃなくてぇ。いまから遊びに行ったら、明日学校に行けなくなっちゃうじゃない」
「だから、そんなの休めばいいって言ってるだろ」
『不味い。秀美が押されてる。早くいい方法を考えないと』
名案はないかと焦れば焦るほど、敏樹の思考は空回りをした。
人間だった頃なら、顔面蒼白で、脂汗を流していただろうと敏樹は思った。
高出力電波を出して、愛の携帯電話を破壊できないか。愛の携帯電話にウイルスを侵入させて、機能を一時的に麻痺させることはできないか。愛の携帯電話にハッキングして、通話をできないようにすることはできないか。敏樹は色々と思案を巡らせた。しかし、そのどれもが非現実的だった。
ところが名案というものは、突飛な発想からよりも、常識的な発想からの方が得易いようだった。
『そうか! 意図的に、圏外と同じ状態を作ればいいんだ』
そうと判れば、実行は簡単だ。
秀美に対しては、ディスプレイに圏外表示をすればいい。愛に対しては、携帯電話からの送信電波を止めて、本当に圏外通知をすればいいのだ。
敏樹は通話を切ると同時に、電波を止めて圏外表示をした。
「いーい、かな……」
「…………」
無音状態が続いて不思議に思ったのか、秀美が携帯電話のディスプレイを見た。
「なんだ、圏外になってるじゃない。これじゃ、いくら待っても声が聞こえないはずよね」
秀美にしばらく見つめられていたが、パタリと閉じられると机の上の充電器に載せられた。
「行くって約束した訳じゃないんだから、ほっといてもいいか」
自分を納得させることができたのか、秀美はCDで流行りの歌を聞き始めた。
敏樹は、愛からの電話を上手く切ることができて安堵した。
圏外に見せかけるのが、これほどまで簡単だとは思いもしなかった。その上、応用範囲も広そうに思え、色々な状況で試してみたいと思った。
日付が変わろうとした頃、突然着信があった。
着信メロディーが流れ出す直前、敏樹はその相手が誰だか判った。携帯電話の電話帳に、『マコちゃん』の名で登録されている女の子からだ。
秀美の好きな男性歌手の着信メロディーが鳴り出すと同時に、秀美が電話に出た。
「もしもしー」
「よぉ、秀美。元気してっか?」
相手の声は、敏樹が想像していた可愛い女の子のものではなく、明らかに男のものだ。
「元気にしてたよ。それよりマコちゃんはどうだったの? 昨日は塾があったから電話がないのは判ってたけど、日曜日も火曜日も電話がなかったじゃない。何かあったの?」
「お前なぁ。その『マコちゃん』っての、やめろって言ってんだろ。俺には誠って名前があるんだ、女みたいな呼び方するなよなぁ」
「いいじゃない。それに、親やお兄ちゃんに電話を聞かれても、彼氏だとは思わないでしょ。あたしだって、少しは考えてるんだから」
秀美の言葉に、敏樹は大きなショックを受けた。
電話の相手が男だったこともあるが、可愛い妹に悪い虫がついている事実に、兄として何もできなかったことが口惜しいのだ。
「考えてるってなぁ。一体、何を考えてるんだよ」
「内緒。平和な家庭を維持するための、ちょっとした心遣いよ」
「なんだかなぁ」
「で、マコちゃんの方は、なんかあったの?」
「いや、何かってほどのことじゃないんだけど、日曜からバイト始めたんで、毎日バテて電話どころじゃなかったんだ」
「バイト? どんなバイト」
「レンタルビデオ屋。駅向こうにアテネって言うレンタル屋、あるだろ。あそこで夕方の5時から11時まで、みっちり働いてるよ」
「へー。じゃあ、今度行ってみようかな」
「来なくていい来なくていい。それにあそこ、メインはアダルトだから、女性客はほとんど来ないんだ。来るとすれば、そういった趣味の女性くらいらしいぞ」
「そういった趣味って、どう言うの?」
「知るか。俺も、バイトの先輩に聞いただけだからな」
「まったく……。あんまり、変なところでバイトしないでよね。第一バイトなんかしてて、大学受験は大丈夫なの? あたしと同じ大学に、行ってくれるんでしょ?」
「大丈夫だって。それよか、女子大なんか受けるなよ。いくらなんでも、女子大には入学どころか、受験すらできないんだから」
「そこは、期待してて」
「期待って、なに期待すればいいんだよ」
「さあねぇ」
2人の会話を聞いて、敏樹はバッテリーの電圧が急激に下がったような気がした。
『同じ大学を受験するって、そんなに仲が進んでいるのか? いやいや、秀美がアダルトビデオ店でバイトするような野郎と、つき合う訳がない』
誠のバイト先を、レンタルビデオ店からアダルトビデオ店に間違えていることに気づかないほど、敏樹は動揺していた。
『そうさ。きっと、たぶらかされているに違いない。なんとか秀美を救わないと……』
敏樹がどうやって妹を助けようかと思案しているうちに、2人は本題に入った。
「で、そんなことを言うために、電話してきたんじゃないんでしょ。用件を言いなさいよ」
「それなんだけど、電話じゃ話しにくいから、いまからちょっと出てこれないか。いつもの……」
「…………」
「…………」
「……もしもし、もしもし」
話の途中で声が途切れてしまい、秀美は焦った様子で誠に呼び掛けた。しかし、誠からの返事はない。
『秀美。どんなに呼び掛けても、駄目だよ。もう、回線は切ったんだから。それに、野郎からも、掛かってくることはない。こっちの電波を止めてあるから、《電波の届かないところに居られるか、電源が入っていません》ってアナウンスが流れてるはずだ』
敏樹は、アナウンスの物真似こそ裏声でおどけていたが、それ以外はまるで悪魔か鬼のような声だ。
「えー、また圏外? 待ち合わせの場所が聞けなかったから、どこへ行けばいいのか判らないし、これから外出しようって言うんだから、家電でマコちゃんに電話する訳にもいかないし……。どうしよう」
『秀美。悩む必要なんてないぞ。あんな野郎のことなんか、放っておけばいいんだ。第一、こんな夜遅くに女の子を外に呼び出す非常識なヤツなんか、相手にする価値もないんだぞ』
敏樹は秀美を諭したが、その声は届かない。
「でも、なんでだろう? いままで家に居て、圏外になったことなんてなかったのに。もしかして、壊れたのかな?」
秀美は携帯電話のディスプレイを見つめていたが、いつまで経ってもアンテナマークが立たないので痺れを切らせたのか、手を伸ばして高く上げてみたり、上下に振り始めた。しかし、圏内であるにも拘らず敏樹が圏外表示をしているので、アンテナマークが立つ訳がなかった。
そんなことをしているうちに日付も変わり、誠からの電話から30分以上が経ってしまった。
「はぁー。もうこんな時間かぁ。これじゃあマコちゃん、家に帰っちゃったろうなぁ」
『おっ。秀美のヤツ、諦める気になったのか』
「しかたないか。明日の朝、マコちゃんに電話して、なんの用事だったのか聞こっと」
秀美は落胆した声で呟くと、携帯電話を充電器に戻した。
秀美が部屋の電気を消し、ベッドに入る音が聞こえると、敏樹はやっと安心した。
翌朝、敏樹は再びアラーム音で目が覚めた。
秀美も時を移さずして目を覚ましてくれたので、アラームの喧しい音で頭痛に悩まされずに済んだ。
『いつもこのくらい寝起きがよければ、助かるんだけどな』
敏樹は、自分の寝起きの悪さを棚に上げて呟いた。
秀美が着替えを済ませてダイニングへ入ると、突然驚きの声を上げた。
「なんでお父さんが居るの。今日、会社は?」
「秀美。お父さんが居ちゃ、いけないか」
「え、そう言う訳じゃないけど。こんな遅い時間にお父さんが居るなんて、珍しかったから」
敏樹は、秀美が驚いたことに納得した。
父親は、片道2時間以上のところにある会社へ通勤しており、いつも6時半前には家を出ていた。それが7時半近くになっても居るのは、敏樹ですら不思議に思う。
「今日は客先へ直行だから、いつもより遅くていいんだ」
「なんだ。そうなんだ」
秀美が携帯電話をテーブルに置いて椅子に座ると、そのタイミングを見計らっていたかのように、台所から母親が聞いてきた。
「秀美、敏樹に連絡するように、言っといてくれた?」
「ごめーん。忘れてた」
屈託なく答える秀美に、敏樹は少なからずショックを受けた。しかし、それ以上にショックを受けたのは、両親の言葉だった。
「まあいいわ。便りがないのは元気な証拠って言うから」
「なんだ。敏樹のヤツ、帰ってないのか?」
「ええ。ここしばらく、帰ってこないのよ」
「そうか。あいつも色気づいてきたか」
「それが、どうも違うらしいのよ。ねえ、秀美」
「うん。お兄ちゃんに、彼女ができる訳ないもん」
「そうなのか?」
「困ったことに、そうらしいのよねぇ。誰に似たのかしら」
「ナンパもできないとなると、困ったことになるなぁ」
「そうねぇ。いつまでも彼女ができないようなら、お見合いをさせないといけないかも。でないと、老後が心配だわ」
「そうだな。それに、松尾家の家系も途切れてしまう。そうなったら、誰が墓を護ってくれるんだ」
行方不明の息子の安否よりも、自分たちの老後や墓の心配をする両親に、敏樹は落ち込んだ。
『父さんも母さんも、酷いよ。僕だって、好きで彼女を作らない訳じゃないんだ。大学での勉強や実験が忙しくて、そんな暇がないだけなんだ。彼女を作ろうと思えば、いつだって……。でも、携帯電話のままだったら、どうしよう。確かに老後の面倒を見ることもできないし、死んだ後の墓参りだって、携帯電話のままじゃできない……』
敏樹は数十年後に確実に訪れる両親の老後や死後を思うと、不安に押し潰されそうになった。
「大丈夫よ。そのときは、あたしがお婿さんをもらって、この家を継ぐから」
「そうか、秀美は頼もしいなぁ」
「ほんと。敏樹に秀美の爪の垢を煎じて、飲ませてやりたいくらいね」
敏樹は、3人の言い分に言葉を失った。
「ところで秀美、そろそろ行かなくて大丈夫なの? お父さんも、もう行く時間じゃないの?」
敏樹は、母親の言葉に時間を確認すると、既に7時半になろうとしていた。
「あっ、ヤバイ!」
秀美は食べかけのトーストを口一杯に頬張ると、ミルクで流し込んだ。
「それじゃあ、お父さんお母さん、行ってきまーす」
秀美は携帯電話を掴むと、慌ててリビングを飛び出した。
駅に着いたときには、秀美の息は酷く上がっていた。
駅のホームに降りても秀美の息は上がったままで、そのせいか携帯電話で時間を確認しただけで、手にしたまま電車に乗った。
電車はいつものように混んでおり、この日は吊革に掴まることもできなかった。
そのとき、敏樹は身体に電流が走るような感覚に襲われたかと思うと、誠から着信があることを察知した。
敏樹は咄嗟に着信音をオフにすると、秀美が着信に気づかないことを祈った。
10秒、20秒と着信が続き、30秒を過ぎたところで電話は切れた。
『ふうー。気づかれずに済んだ。着信があったことを悟られないように、早く着信履歴を消さないとな』
敏樹は何事もなかったかのように、着信履歴から誠の着信だけを消した。
しかし敏樹が安堵したのも束の間、5分もしない内に再び誠から電話が掛かってきた。
『しつこいなぁ。いまは電車に乗っているから、電話に出られないんだ。いや、そもそもお前からの電話に、秀美が出る必要なんかないんだ』
30秒以上続いた着信も、着信音をオフにされているため秀美に気づかれることもなく切れた。
『この調子だと、ヤツから数分おきに電話が掛かってくるな。それではいつ秀美に気づかれるか判らないから、もっと根本的な対策を取らないと』
敏樹は着信履歴を消すと、思いついた方法を次ぎに着信があったときに試してみようと思った。
その後、しばらく電話は掛かってこなかったが、ホームルームが始まる直前になってまたしても誠から電話が掛かってきた。
携帯電話の基地局から着信通知が来て応答を返すまでの一瞬の隙を突いて、敏樹は電波の送信を止めた。
『これでアイツには、圏外アナウンスが流れてるはずだ』
それは、携帯電話自身である敏樹だからこそできる、0.1秒にも満たない早業だ。
秀美が二股でもしていない限り害虫は誠だけだから、誠からの電話だけを遮断すればいい。それ以外の電話は、普通に通話させればいいので、着信のチェックが楽になったと思った。
しかしそのとき、敏樹の思いがけない方法で誠からメッセージが届いた。
不意を突かれたため、敏樹は着信を許してしまったものの、着信メロディーが鳴るのだけは阻止することに成功した。
敏樹の思いがけない方法とは、メールだ。
メールは、着信応答を基地局に返してからでないと、相手が誰だか判らなかったのだ。
しかし、メールは電話より扱いが楽だった。受信したメールをスパムメールとして、破棄してしまえばよかったのだ。
『どんな方法で来ようと、僕の目が黒いうちは絶対に秀美を護るからな』
敏樹は秀美を護るためなら、なんでもする決意をした。
午前の授業中に電話が掛かってくることはなかった。しかし昼休みになると、早速誠から電話が掛かってきた。
敏樹は基地局からの着信通知を受信して、相手が誠だと判った瞬間、応答を返す前にまたしても電波の送信を止めた。
無論、着信履歴にも痕跡は残らない。
秀美は携帯電話を机の上に出して弁当を食べていたが、着信があったことにまったく気づかない。
「それでノリちゃんは、ゴールデンウィークの予定はどうなの?」
ご飯を口に運びながら、秀美は一緒に食べている紀香に訊ねた。
「うーん。特に予定はないけど、渋谷へ買い物に行きたいとは思ってるのよね。そう言う秀美は、どうなの?」
「あたし? あたしは、まだハッキリしないんだ。ここのところマコちゃんと連絡がつかないから、予定が決まらないんだぁ」
「連絡がつかないって、ゴールデンウィークは来週からよ。そんなんで、大丈夫なの?」
「うーん。大丈夫だと思うんだけど……」
自信なさそうに呟く秀美に対し、敏樹はほくそ笑んだ。
『大丈夫な訳ないだろ。僕がアイツからの電話を、絶対に取らせないんから』
秀美は敏樹の決意に気づくことなく、紀香と渋谷へ買い物に行く相談をしている。
その間も、5分毎に誠から電話が掛かってきた。しかしそれらの着信は、敏樹によってことごとく阻止されていた。
放課後になると、ホームルームが終わるタイミングを見計らっていたかのように、誠から電話が掛かってきた。しかし、これもまた敏樹が着信を阻止した。
『本当にしつこいなぁ。いい加減、諦めろよ。お前からの電話は、僕が絶対に繋がないんだから』
バスケ部のロッカーに入れられると、敏樹は気が楽になった。
スチールで囲まれたロッカーの中であれば、何もしなくても圏外になるからだ。
敏樹は秀美に気兼ねすることなく電波の送信を止めると、部活が終わるのをジッと待った。
部活が終わり、同じ部の木下祐子と帰る途中にも、誠から電話が掛かってきた。
無論、この電話も着信通知が届くと同時に敏樹が送信電波を止めてしまったので、誠には圏外通知された。
祐子と別れて電車に乗っているときには、メールが送られてきた。
無論、メールは受信したものの、着信メロディーは鳴らさず、秀美にメールの着信があったことは教えなかった。
今度のメールはすぐに削除せず、敏樹はその内容を確認した。
《朝にもこれと同じメールを送ったんだけど、全然連絡がないんでもう1度送るよ。このメールを読んだら、連絡が欲しい。電話しても、いっつも電波の届かないところに居られるか電源が入っておりませんってアナウンスされるけど、電源を切りっぱなしにしてるのか? そうでなければ、秀美から電話して欲しい。俺なら、いつでも大丈夫だから。by誠》
メールの内容に、敏樹は安堵した。文面から、敏樹の着信阻止が効を奏していると判ったからだ。
『秀美に直接会いに来るなんてことをされなければ、そう遠くないうちに秀美から害虫を駆除することができるぞ。もっとも、家に会いに来る度胸なんてないだろうし、学校で会わないってことは、違う学校の生徒だろうから、秀美と直接会う機会は殆どないはずだ。と言うことは、間違いなく駆除できる』
敏樹は確信すると、メールを削除して声もなく高らかに笑った。
秀美は家に帰ると、塾へ行くために少し早めの夕食を採った。
無論、携帯電話は手の届くテーブルの上に出したままだ。
「そう言えば秀美、敏樹に電話してくれた?」
秀美が食後のテレビに見入っていると、母親が食器を洗う音をさせながら聞いてきた。
「ごめーん。すっかり忘れてた。お兄ちゃんって、家では物凄く存在感ないから、お兄ちゃんが居るってことそのものを忘れてたよ。どうする、いま掛けてみる?」
「いいわよ。あんた、もう塾に行く時間でしょ」
「うん。じゃあ、いってきまーす」
『…………』
秀美は携帯電話を掴むと、塾へ向かった。
塾のある7時から9時までは、誠から電話が掛かってくることはなかった。
夕方のメールで、秀美からの連絡待ちをしているのか、塾があることを知っているので掛けてこないのか、敏樹には判らなかった。しかし、どちらにせよ秀美から電話を掛ける素振りがないので、誠は害虫に過ぎないのだろうと敏樹は確信した。
塾が終わって家に向かっていると、またしても誠から電話が掛かってきた。
敏樹は、既にルーチンワークになりつつある手順で送信電波を止めると、誠に圏外通知を送り突けた。
『まったく。あんまりしつこいと、女の子に嫌われるぞ』
敏樹は余裕のある口調で呟くと、不敵に笑った。
秀美が家に帰ってしばらくした11時頃、家の固定電話が鳴った。
そのとき、秀美は部屋で宿題をしていたため、常に秀美の側に居る敏樹には、電話の相手が誰なのか判らなかった。そのうえ、秀美への電話はみな携帯電話に掛かってくるので、敏樹は気にも止めなかった。しかし次ぎの瞬間、母親の声がそんな悠長な気分を吹き飛ばした。
「秀美ぃ。郷田君って子から、電話よぉ」
敏樹は、誠が携帯電話に掛けてくるものと思っていたので、家の電話に掛かってきたことに驚いた。しかしそれ以上に驚いたのは、秀美のようだった。
秀美は携帯電話を鷲掴みにすると、部屋を飛び出して居間へと駆け降りた。
「はい、代わりました。秀美です」
「秀美か? ケータイ、全然繋がらないんだけど、どうなってるんだよ」
「繋がらないって、どう言うことよ」
「いつ電話しても、電波の届かないところに居られるか、電源が入っておりませんって、アナウンスされるんだ。もしかして、電源切ってるのか」
「そんなことないよ。ケータイなら、電源入れたままだもん」
「ホントかよ。それにしちゃあ、昨日から何度も電話を掛けてるけど、1度も繋がらないぞ」
「ホントだってばぁ。いまだって、ケータイ手元にあるけど、電池マークは2本立ってるもの。アンテナマークだって、3本立ってるんだから」
「それじゃあ、メールは読んでないのかよ」
「えっ? メールなんて、来てないよ」
「そんなはずはない! 朝と夕方、同じ内容のメールを2度も送ったんだぞ」
「ホントだってば。ちょっと待ってて、いまメールチェックするから」
秀美はメールの受信がなかったか、携帯電話でメールボックスを確認した。しかし、敏樹が誠からのメールを全て削除したので、受信した痕跡すら残っていない。
「ねぇ、ホントにメールしたの? メールなんか、全然来てないよ」
「秀美。嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつけよな。俺は、間違いなくお前にメールを送ってるんだ。着いてない訳、ないだろ!」
「嘘なんかついてないよ。マコちゃんこそ、なんでそんなこと言うの? あたし、ずっとマコちゃんからの電話、待ってたんだよ。それなのに、全然電話くれないし……。あたし、凄く不安だったんだからね」
敏樹は、秀美の言葉に内心笑ってしまった。
昨夜、誠からの電話を敏樹が切ったときは、今朝電話をして確認しようと言っていたのに、それすら忘れていたのだ。つまり秀美にとって誠の存在など、その程度のものでしかなく、秀美がつき合うほどの価値はないのだと敏樹は思った。
「よく言うぜ。それだったら、秀美から電話してくればよかったじゃないか」
『電話をしなかったのは、秀美にとってお前が大切じゃないからだよ』
誠の言葉に、敏樹は思わずツッコミを入れてしまう。しかし、その声は誰にも届かない。
「だって、電話しようとすると、いっつも圏外で電話できなかったんだもん。なんで信じてくれないの?」
「信じろって言われて、ハイそうですかって信じられるか。丸1日だぞ。丸1日、ケータイの電源切られてみろ、信じろと言われて信じられる訳ないだろ」
「あたし、ケータイの電源、切ってない! もしかしてマコちゃん、あたしと別れたいから、そんな難癖つけてくるの?」
「んな訳あるかっ! 秀美こそ、浮気してるんじゃないだろうなっ」
「してないよ! そう言うマコちゃんこそ、アルバイトとか言って、浮気してたんじゃないの」
「浮気って……。お前と遊びに行こうと思ってバイトしてたのに、そんな風に思ってたのかよ。判ったよ。お前がそんな風に思ってるんなら、浮気でもなんでもしてやるよ!」
「……そんなこと言うマコちゃんなんて、大っ嫌い!」
「ああ、そうかよ。俺も秀美なんか、大っ嫌いだよ」
「……マコちゃんのバカッ!」
秀美は叫ぶと、受話器を叩き付けるようにして電話機に置いた。
『ふふふふふ。いいぞいいぞ。そんなヤツとは、このまま別れてしまえ』
敏樹は、心の底から沸き上がる笑いを、抑えることができなかった。
翌朝、秀美は携帯電話のアラームが鳴っても起きなかった。
『おーい、秀美ぃ。起きなくてもいいから、アラームを止めてくれぇ。五月蝿くてかなわないんだ。なんとかしてくれぇ』
しかし敏樹の悲痛な叫びも、秀美を起こすことはできなかった。
永遠に続くかと思われたアラームは、しかたなく敏樹自身が止めた。これ以上アラームが鳴り続けたら、気が狂いそうだったのだ。
土曜日で学校が休みと言うこともあって、秀美は不貞寝を決め込んでいるようだった。
『秀美。あんなヤツのことで、塞ぎ込むことはないんだぞ。害虫のことなんかさっさと忘れて、明るく楽しい、秀美らしい毎日を送るんだ。そのためだったら、僕はなんだってするからな』
敏樹は耳を澄まして、秀美の一挙一動も聞き逃すまいとした。
小1時間もした頃、かすかに寝返りを打つ音が聞こえた。どうやら、目が覚めたらしかった。
しかし、一向に起きる気配はない。
『これは、本当に不貞寝だな。あんなヤツのことなんて、忘れてしまえ。もうお前は、ヤツから自由なんだ。だから早く起きて、その笑顔を僕に見せてくれ』
敏樹は勝ち誇ったような口調でありながらも、不安に駆られていた。
秀美が塞ぎ込んでいると言うことは、昨夜誠と喧嘩したことを後悔しているのではないかと思ったからだ。
昨日と変わらない天井を見つめたまま、敏樹は聞き耳を立てて秀美の様子を窺った。
時折寝返りを打つ音が聞こえるものの、秀美が何を考えているのか敏樹にはまったく判らない。時間が経つほどに、敏樹の不安は膨れ上がっていく。
敏樹は着信した振りをして、秀美と話をしようかとも考えたが、誠との喧嘩を知らないはずの敏樹がその話題を持ち出したら、秀美が気味悪がると思えそれもできない。かと言って、このままでは不安が募るばかりで落ち着かない。
敏樹はジレンマに苛まれながらも、まんじりともしない刻を過ごした。
そして不安は、的中した。
ベッドから出て着替える音がしていたかと思うと、敏樹は不意に充電器からはずされた。
秀美はそのまま着信履歴を表示させると、深い溜息をついた。
「はぁ-----……」
『…………』
敏樹には、何故秀美が溜息をついたのか判らなかった。いや、判りたくなかった。
秀美が携帯電話のディスプレイを見つめているので、敏樹には床と秀美の足元しか見えない。
秀美は、敏樹が居るときはジーンズしか穿かないのに、この日はデニム地のミニスカートだった。
素足に生脚は、妹でありながら眩しく感じられた。
「マコちゃんから、メールは来てないか……」
秀美の呟きで我に返ると、敏樹は勝ち誇ったかのように呟いた。
『ああ。ヤツからメールなんて、正真正銘来てないぞ』
「電話もなかったみたいだし、ホントに怒っちゃったのかな」
『あんなヤツが怒ろうが何しようが、どうってことないだろ』
「マコちゃんが、あたしに嘘つくなんてことないのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう」
『嘘は言ってないだろうけど、それと同じくらい事実も言ってないと思うぞ』
「マコちゃんが、浮気なんかする訳ないのに……。それにバイトだって、あたしのためにしてくれてるみたいだし……」
『夜中に女の子を連れ出そうとするヤツが、浮気をしない保証なんて何処にもない!』
「でも、電話もメールもないなんて、ホントに浮気しに行っちゃったのかな」
『ああ。アイツは、そういうヤツさ。さっさとあんなヤツとは、別れちまえ』
「そんなこと、ないよね。売り言葉に買い言葉で、マコちゃんは心にもないことを言ったんだよね」
次第に暗く沈んでいく声に、敏樹は焦った。
昨夜はあのまま別れるのではないかと期待できたのに、いまの秀美の口調では、すぐにでも縒りを戻しそうだからだ。
「あたし、なんであんなこと言っちゃったんだろう」
秀美が同じ言葉を繰り返したことで、心の底から後悔していることを敏樹は認めざるを得なかった。
『秀美。後悔なんかするんじゃない。お前は、全然悪くない。悪いのは、すべてアイツなんだ!』
「やっぱりマコちゃん、怒ってるのかな」
『あんなヤツが怒ったって、痛くも痒くもない! 秀美は秀美らしくしてれば、それでいいんだっ』
「はぁ--……」
『あんなヤツのことなんか、早く忘れろ。お前には、もっと品行方正な男が似合ってるんだ!』
敏樹は床と妹の足元しか見えない中で、聞き耳を立てながら必死に叫んだ。しかしその想いは、妹の秀美には届かない。
秀美は携帯電話の電話帳を開き、カーソルを誠に合わせた。
『おいっ、秀美。あんなヤツのところに電話しようたって、僕が絶対にさせないからな』
敏樹の想いが通じたのか、秀美は電話帳の表示を終了させると、携帯電話を持ったまま1階へと降りた。
「秀美。学校がないからって、いつまで寝てるつもりだったの?」
居間に入ると、母親が朝のワイドショーを見ているようだった。
なにか大きな事件が起きたのか、アナウンサーが興奮気味にがなり立てているのが聞こえる。
「別にぃ……」
気だるげに答える秀美に、母親はそれ以上なにも言ってこなかった。恐らく、テレビに見入っているのだろう。敏樹には、その様子が目に浮かぶ。
秀美は居間からダイニングへ移ると、携帯電話をテーブルに置いて朝食を採り始めた。
トーストにマーガリンかジャムを塗る音と齧る音、それにコーヒーカップをテーブルに置く音以外はなにもしない、静かな朝食だ。
居間から聞こえるワイドショーの騒がしさも、ダイニングでは遥か遠い場所での喧噪に思える。
静かに食事をしている秀美に、敏樹は再び不安を募らせていった。
なにも喋らないのでは、なにを考えているか判らない。無言が、敏樹を不安にさせる。
食事を終えた秀美は、食器をシンクの桶に浸けると、自室へと戻った。
部屋に戻るとすぐに、敏樹の視界は天井で覆われた。しかし、夜寝る前に見る天井と、わずかに違う。敏樹には、それで秀美がベッドに寝っ転がって携帯電話を見ているのだと判った。
「あ----っ、ダメッ! こんなことでウダウダしてるなんて、あたしらしくない! マコちゃんに電話して、謝ろう」
言うが早いか、秀美は電話帳を開くと誠に掛けた。
しかし、敏樹はそれを許さなかった。
秀美が通話ボタンを押した瞬間、電波の送信を止めると共に、ディスプレイのアンテナマークを圏外に変えた。
「え---、またなのぉ?」
ボタンを押した瞬間に圏外になってしまったのを見て、秀美が不満の声を上げた。
「なんでだろう。電話しようとすると、すぐに圏外になっちゃう。ケータイ、壊れたのかなぁ」
秀美は起き上がると、思いっきり腕を伸ばして携帯電話を高く上げた。
しかし敏樹は、そんなことで表示を変える気は毛頭ない。
敏樹は圏外表示をしたまま、知らん顔を決め込んだ。
「おっかしーなぁ。ホントに、壊れちゃったのかなぁ」
秀美は不貞腐れた声で呟くと、携帯電話を思いっきり振った。
これは、堪ったものではなかった。
いままで経験したことがないような振動は、水晶発振器の周波数が狂うのではないかと思えるほどだ。
余りの激しさに目が回り、敏樹はディスプレイの表示を元に戻してしまった。
秀美は携帯電話を振るのを止めると、嬉しそうに声を上げた。
「あ、直った。マコちゃんに、電話しよっと」
まだ目を回している敏樹を嘲笑うかのように、秀美の親指は電光石火のごとくボタンを押して誠に電話をした。
呼び出し音が2回3回と続き、8回目で誠が出た。
「もしもし、郷田です」
「マコちゃん……」
「…………」
お互いに言葉を詰らせてしまったのか、2人とも言葉が続かない。
しばらくして、沈黙を破ったのは誠だった。
「秀美、なんの用だよ。俺のこと、大嫌いだったんじゃないのか」
「あの、マコちゃん、ごめんなさい。昨日は、あたしが悪かった。それで仲直りしたくて、電話したの。ホントにごめんね、マコちゃん」
「…………」
しかし、いくら待っても誠からの返事はなかった。
それもそのはずで、秀美が話し始めるとすぐに、敏樹は電波の送信を止めて通話を切ってしまったのだ。
「あ--っ。また圏外になってる」
秀美は表示に気づくと、通話終了ボタンを押して回線を切り、再び携帯電話を振った。
『うわぅ……。バカ……、秀美、止めろ……』
敏樹は、また振られるとは思いもしなかったので、振られた途端に表示を元に戻してしまった。
秀美は振れば電波を掴まえられることを予想していたのか、圏外からアンテナマークに戻ると、振るのを止めてすかさず電話をした。
今度は、最初の呼び出し音が鳴り終わる前に誠が出た。
「もしもし。秀美、俺のことからかってるのか?」
「違うの。なんかケータイの調子が悪いみたいで、すぐに圏外になっちゃうの」
「まあいいよ。それ……」
誠の声が途切れると、まったくの無音状態が続いた。
振られる時間が短かったので、敏樹はすぐに回線を切ることができたのだ。
「もうっ! なんですぐに圏外になるかなぁ。振りが足りなかったのかな」
今度は、一心不乱に携帯電話を振った。
しかし、敏樹はそれを予想していたので、今度は表示を元に戻してしまうようなヘマはしなかった。
「あれぇ。完全に壊れちゃったのかなぁ」
秀美は、何度も携帯電話を振ってはディスプレイを見た。しかし、圏外表示がアンテナマークになることはなかった。
「もう。こんな大事なときに壊れるなんて、ついてないなぁ」
秀美は携帯電話を手にしたまま、家の電話がある居間へと降りた。
秀美は誠の電話番号を覚えていないらしく、携帯電話の電話帳を開くと、ディスプレイを見ながら電話を掛けた。
今度は、すぐには出なかった。
5回目の呼び出し音が終わると、やっと誠が電話に出た。
「もしもし……」
その声は、どこか警戒している。
昨夜、誠は家の固定電話に掛けてきたので、電話番号を知らないはずがない。なのに警戒していた。敏樹には、それが不思議でならなかった。
「あたし。ごめんね、マコちゃん。また圏外になって、切れちゃったの。今度は家電から掛けてるから、大丈夫だと思う」
「そんなにすぐ切れるんなら、機種変した方がいいんじゃないか?」
「うん、あたしもそう思う。でね、昨日は大人げないこと言って、ごめんね」
「俺の方こそごめん。こんなにケータイの調子が悪いなんて知らなかったから、秀美に酷いこと言って、ホントにごめん」
『おいおい、なに2人して謝ってるんだよ。秀美も秀美だ。あんな酷いことを言ってたヤツに、謝ることなんてないんだ』
敏樹は、内から沸き上がる怒りと不満を秀美にぶつけた。しかし、その言葉はやはり秀美に届かない。
「しっかし、いつから調子が悪いんだ? 1週間前に電話したときは、なんともなかったじゃないか」
「うーん。2、3日ぐらい前かな。それまでは、全然調子よかったのに、急に圏外になるようになったんだ」
『当たり前だ。僕が通話できないようにしてるんだから』
「そっか。それじゃあ、早いとこ機種変してくれよ。でないと、まともに話しもできないからな」
「うん。判った」
『判ったって……。故障なんかしてないぞ! 至って良好だ。秀美が金かけて機種変なんかする必要は、まったくないんだ』
敏樹の怒鳴り声は、またしても秀美には届かなかった。
「それで、昨夜の話の続きなんだけど、明日会えるかな?」
「電話じゃ話せないことなの?」
秀美は心配そうだが、敏樹は苛立ってしかたがない。話の内容からして、どう考えてもデートとしか思えないからだ。
デートともなれば2人っきり、親兄弟や友達が一緒に居る訳がない。そうなれば、誠がどんな悪さを秀美にするか、敏樹は想像するのもおぞましかった。そして、そんなおぞましいことを誠は必ずすると、敏樹は確信していた。
「うーん。ホントは直接話して、秀美の驚いた顔が見たかったんだけど……。バイト始めたって言っただろ。ゴールデンウィークにはもう間に合わないからダメだけど、夏休みに2人で何処か旅行ができたらなって思ってな」
『なんだぁ。高校生のくせに、婚前旅行だぁ? そんなこと、この僕が許さん!』
「旅行、行きたーい。……でも、あたしアルバイトなんかしてないから、そんなお金ないよぉ」
『行きたいだなんて、秀美……。アイツには、絶対に下心があるに決まってるんだ。そんな獣の元に、行くんじゃない!』
「バーカ。そのために、俺がバイトしてるんだろ」
「ホントー? ありがとう。でも、マコちゃんばかりに負担かけたくないから、あたしもお小遣い貯めておくね」
「当てにしないで待ってるよ。それで、どこに行くか決めたりしたいから、明日会いたいと思ってな」
「それなら、今日でもよかったのに」
「悪い。今日は、午後一からバイトなんだ。明日は休みだから、バッチリ1日中一緒に居られるから」
「判った。じゃあ明日、10時に駅前でいいかな」
明日が待ち遠しいのか、秀美の声が弾んでいるのが判る。しかしそれが、余計に敏樹を苛立たせた。
「ああ。ついでに、ゴールデンウィークの予定も決めちまおーぜ」
「そうだね。これであたしも、ゴールデンウィークにデートもできないのかって、からかわれないで済むよ」
『いーや。例えからかわれようが、不純異性交友をするよりはよっぽどマシだ。あんなヤツなんかと過ごす予定なんかより、もっと大事なことがあるだろ!』
「あれ? お前の友達って、俺が居ること知ってるんじゃなかったっけ」
「うん、知ってるよ。でも、デートがないと振られたんだろうとか、見捨てられたんだろうとか言って、みんなしてあたしを苛めるんだよ」
「いいじゃん、惚気てやれば。きっと、口惜しがるぞ」
「口惜しがるかなぁ? だってマコちゃんがダサイこと、みんな知ってるんだもん」
「ダサイって……。お前、俺のことダサイと思ってるんだ」
「うん。だって、格好よくはないでしょ」
「はぁ……」
「事実なんだから、気を落とさないで。それじゃあ明日、楽しみにしてるね」
「おう。それまでには、機種変しといてくれると助かる」
「判った。じゃあね、バイバーイ」
「じゃあな」
電話を切ると、秀美は携帯電話の電話帳を開き、敏樹の名前を表示させた。
ダイヤルボタンの音に続いて、しばらく無音状態が続いた。そして誰かが出たかと思ったら、女性の声だった。
「お客様がお掛けになった電話は、電波の届かないところに居られるか、電源が入っておりません」
『当たり前だ。丸1週間充電してないんだ。バッテリー切れしているに決まってる』
「お兄ちゃんのバカッ! 肝心なときに繋がらないんだから。そんなだから、彼女もできないのよ」
八つ当たりであると判ってはいても、敏樹は秀美に返す言葉がなかった。電話に出られないのも、彼女が居ないのも、事実だからだ。
しかしそれと同時に、秀美と連絡を付ける必要性も感じていた。
どんな用事があるのか判らなかったが、秀美が自分を必要としているのであれば、それに応えなければならないと思ったからだ。
『だけどどうしよう。こっちから電話をしたように見せかけることはできるけど、いまのタイミングじゃ不自然だし。かと言って、いつならいいのかなんて、判らないもんなぁ』
敏樹が思案している間に、秀美は自分の部屋に戻っていた。
「あーあ。ホーント、頼りにならないお兄ちゃんだなぁ。あたしの都合が悪いときには電話を掛けてくるくせに、話をしたいときには連絡がつかないんだから」
秀美が携帯電話を握ったまま勉強机に突っ伏してしまったので、敏樹の視界は真っ暗だ。敏樹に判るのは、すぐ側で愚痴る秀美の声のみだ。
敏樹は、秀美と誠のデートを阻止した上で、自分の信用を回復する手立てはないかと考えた。しかし、携帯電話となってしまったいまの状況では、なにもいい方法はなかった。
ならばと、信用回復は諦めて、デートを阻止する方法を考えた。
すると、いとも簡単に名案が思い付いた。
『秀美に、大学の研究室まで着替えを持ってこさせればいいんだ。それも、昼休みに持ってこいと言えば、10時からのデートは中止せざるを得ない。明日は日曜だけど、研究室には誰か居るだろうから、そいつに渡してもらえばいいんだし。僕が居なくても、不自然じゃないだろう。そうと決まれば……』
ピロロロロ、ピロロロロ、ピロロロロ。
秀美の携帯電話から、着信音が鳴った。
「はい、秀美です」
着信音に瞬時に反応すると、秀美は電話に出た。
「秀美か? 敏樹だ」
「お兄ちゃん! いまどこに居るの? 朝から電話してるのに、全然繋がらなくて困ってたんだからね」
朝からもなにも、秀美は1回しか自分に電話をしてないことを敏樹は知っている。しかし、そのことには敢えて触れない。心の中でツッコミを入れるだけで、平然と答えた。
「悪い悪い。ちょっと精密機械が多い部屋へ行ってたんで、ケータイの電源を切ってたんだ」
「もう、しょうがないんだから。それで、お兄ちゃんから電話してきたってことは、なにか用事があるんでしょ」
「ああ、それなんだけど。明日昼休みに、大学の研究室へ着替えを持ってきてくれないかな。そろそろ異臭を放ち始めてるんで、困ってるんだ」
「やーよ。この間も言ったじゃない。あたしがお兄ちゃんの着替えを持って行く理由は、どこにもないの」
敏樹は、断わられることを承知していた。だからこそ、ここで名案が威力を発揮する。
「判ったよ。その代わり家に帰ったら、激しい臭いを発している靴下を、お前の部屋に放り込んでおくぞ」
それはものを頼む態度ではない、脅迫だ。
「ちょっと、止めてよお兄ちゃん。そんなことしたら、一生口を利いてあげないんだから」
秀美が心底嫌そうに反駁すると、敏樹は成功を確信した。
「なら、持って来てくれよ。僕だって、秀美の嫌がることはしたくないんだから」
しかし、秀美の答えはつれないものだった。
「だから、嫌だって言ってるでしょ。それにあたし、明日は約束があるんだもん、行ける訳ないじゃない。それより丁度よかった。お兄ちゃんに聞きたいことがあったの、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
敏樹は秀美と仲が悪い訳ではないが、いままで頼られることなど殆どなかった。それが予想できていたとは言え、こうして頼られると非常に嬉しい。
「なんだ、聞きたいことって」
敏樹は努めて冷静に答えたが、顔があればニヤケていたことだろう。
「ケータイの調子が悪いみたいなんだ。友達に電話しようとすると、すぐに圏外になるし、掛かってくると、すぐに切れちゃうの。それにメールを送ってくれたのに、一晩経っても届かないんだ。なにが悪いのかな?」
秀美が聞いてきたことの原因は、すべて敏樹にある。それが判っているので、敏樹はもっともらしい答えを考えなくてはならなかった。
「そうだなー。取り敢えず、お前の使っている携帯電話は知っているから、友達の携帯電話のキャリアとメーカーは判るか?」
秀美は、メーカーは判らないがキャリアは判ると言って答えてくれた。
「そうだな。圏外になるのは、本当に圏外になってると思うんだけど、ちょっと判らないな。もしかしたら、基地局の調子が悪いのかもしれないし、なんとも言えない。切れるのも、多分同じ理由だと思うんだけど、こっちも判らないな。あと、メールだけど、それはよくあることだよ。お前が使ってる携帯電話のキャリアと、相手の携帯電話のキャリアが違うだろ。だから、メールはいつ届くか保証がないんだ」
「え、どうして? いままでは、メールを送信したらすぐに相手へ届いてたよ」
「いや。それは単に、運がよかっただけなんだ。携帯電話のメールは、インターネットのメールと同じで、いつ届くかの保証もないし、届かないこともあるんだ」
「ホントなの?」
「ああ。僕も以前、友達から飲みに行くけど来るかってメールが来たんで、行くから場所を教えろって返したんだ。で、その返事が来たのが4日後。飲み会が終わってから来ても意味がないって言ったんだけど、友達はすぐに返信したって言うんだ。まあ、そのくらい遅れて届くこともあるし、インターネットでメールが迷子になることもあるから、結局届かないで消失することもあるんだ」
「ふーん、そうなんだ」
秀美は、感心したように唸った。
「でね、このケータイも1年以上使っているし、飽きたんで機種変しようと思うんだけど、どこのがいいかな? お兄ちゃんは理系なんだから、どの機種がいいか判るでしょ?」
妹にここまで頼られると、答えない訳にはいかない。
敏樹は基本機能が充実し、インターネットのできる機種を薦めた。
「ありがとう、お兄ちゃん。教えてくれたケータイに、機種変してくるよ。じゃあね、バイバイ」
秀美は言うが早いか、電話を切ってしまった。
敏樹はと言うと、秀美に頼られたのが嬉しくて、しばらくのぼせていた。
敏樹が我に返ったのは、家電量販店でだった。
『秀美のヤツ、もう買いに来たのか』
そのとき、敏樹はそれまでの浮かれた気分が吹き飛んでしまうようなことに気がついた。
『待てよ。秀美が機種変したら、僕はどうなるんだ?』
それは、恐ろしい考えだった。
携帯電話は、稀少金属や有害金属を含む部品を取り去ってから、破砕処理される。外国と違って、日本には携帯電話の中古市場がないのだ。それを知っている敏樹は、自分の腹が開かれ、臓物を引きずり出されたあとに切り刻まれるのを想像してしまったのだ。
『それは絶対にマズイ! 僕は、まだ死にたくないんだ』
しかし、気づくのが遅かった。秀美は機種変更の申し込み用紙を書き終えたところだった。
「それではお預かり致します。40分ほどかかりますので、40分後にこちらのカウンターへお越しください」
「はい」
男性店員の声に続いて、猫を被った秀美の返事が聞こえた。
『なにが「はい」だよ。秀美、僕を殺す気か!』
敏樹は、慌てて着信音を鳴らした。
「なに、お兄ちゃん」
「機種変するのは待ってくれ!」
「なに言ってるのよ。もう、手続き済ませちゃったんだからダメだよ。40分で機種変が済むって言うから、そしたら電話するからちょっと待ってて」
「待て。お願……」
秀美は敏樹の言葉も聞かずに電話を切ると、そのまま電源も切ってしまった。
そして、敏樹の意識はそこで途切れた。
「それじゃあ、お願いします」
秀美は携帯電話を店員に預けると、その場を後にした。
1時間後、新しい携帯電話を受け取った秀美は、店を出ると早々に敏樹の携帯電話に掛けた。しかし、『電波の届かないところに居られ
るか、電源が入っておりません』のアナウンスが流れるばかりで、何度掛けても敏樹とは連絡がつかない。
「まったく。お兄ちゃんは、こっちから掛けると繋がらないんだから」
秀美は文句を言うと、すぐに誠に電話をした。
「はい、郷田です」
「あ、マコちゃん。よかったー。やっぱり、ケータイの調子が悪かったみたい。いま、新しいケータイで掛けてるの。明日、見せてあげるね」
秀美は嬉しそうに誠と話しながら、家路へとついた。
ジャンルは、カフカ著「変身」と同じかな?
でも、一般的には文学とは認識されないと思うので、ファンタジーとしています。
自分の書く小説は、いつもジャンルに迷ってしまいます。
どのジャンルとして発表すればいいのか、我ながら本当に困っています。