無花果と柘榴、 或いは片想いと両想いの話
本気でリハビリがてら唐突に思いついた話を唐突に書き、満足したところで終えただけです。びっくりするぐらい唐突に終わる――いえ、ほんとに。
「片想いでも良いの、 二人分愛するから――って、 知ってる?」
「……いいえ、 残念ながら」
クラリネットだか、 サックスだか、 多分そんな感じの楽器が奏でる曲名も知らない音の連鎖をBGMに其の喫茶店の喫煙席には彼と私しか居なかった。
ちょっとしたショッピングの其の休憩に、 ふらりと立ち寄った喫茶店に余程の偶然以外で知人とかち合う訳もなく。 故に此の喫煙室という狭い空間での一時を共にしているという縁以外は、 私と彼は全くもって赤の他人であるはずだった。
なのに――どうして?
BGMを邪魔しない程度の、 けれど邪魔されない程度に鼓膜を揺らした声色は実に耳心地良いテノールで私の関心をひいた――否、 ひこうとした。
二人がけのテーブル席一つと、 5人分のカウンター席。
其の端と端とで我関せずを貫いていた空気を壊した彼の意図はくめぬ儘、 私が煙草を咥えかけたまま止まった半開きの口をそのまま動かして彼にそう応じると、 彼は 「そうか」 と首肯した。
「俺、 恋は片想いの方がずっとずっと幸せだと思うんだ。 だって、」
「片想いはキレイな夢で、 でも両想いになれば其れはリアルな現実になるから?」
「そう、 正しく」
後を引き継いだ私の言葉に、 彼が至極満足そうに笑ったのが横目に映る。
私がそれきり何も言わずにいたせいか、 或いは元からそのつもりだったのか、 彼はつかの間の沈黙の後、 直ぐに言葉を続けた。
「片想いっていうのは、 いわば観客の居ない一人舞台みたいなもので、 始めるのも終わらせるのも自分次第。 些細なことでときめいて、 浮ついて、 それで一日中幸せな気分で居ても誰も責めやしない。 それでそのうち熱が冷めて、 今度はまた別の人間相手を想っていたって、 誰一人傷つけず、 傷つかずに済むんだから、 これほど気楽な恋ってやつはそうないよ」
「まあ、 確かに」
一見して寡黙そうに見える彼は存外、 良く喋る男のようで。
対して一般的にやかましいと称される女の割に、 私は格別無口なようにも見えるのか。
煙を吐き出し頷きながら、 けれど私はそんなことよりも、 此の見ず知らずの男が同じく見ず知らずである私相手に己の恋愛観を語り始める其の心境にばかり気をとられた。
(――例えば、 愛してやまなかった相手に振られてしまったとか)
失恋直後の心境というのには、 おおよそ個人差はあれど波がある。
前向きに次の恋を見つけようという心境になったと思えば、 不意に其の過程で終わった恋の足跡を見つけて、 得た幸せと失った幸せを突き付けられて、 寄る辺のない気持ちが打ち寄せてくるのだ。
恋をしようと思った次の瞬間には、 もう恋なんてしないなんて思うこともままあって、 そういう嵐を彷徨う小舟みたいな気持ちも、やがて時が解決してくれるものだけれど、 さりとて時というのは無情にも早送りなんてさせてくれないのだから厄介だ。
時が来て、 やがて嵐が収まるまで、 船酔いしている最中みたいなあんな最悪に耐え続けなければいけないのだから――嗚呼、 本当に確かに。
「確かに貴方の言う通り、 恋というのは片想いで済んでいる方が余程幸せなのかもしれないですね」
私がそう同意を示すと、 彼は特別嬉しそうにするわけでもなく、 ただそうだろうと言うようにちらりと私に視線を寄越した。
「――私ね、 昔、 柘榴と無花果を間違えたことがあるんですよ」
一見結末に到着したかのようにも見えた此の会話の着地点を、 敢えて無視して更に言い募った私に、 私自身が驚いた。
対して彼はと言えば、 大して驚いた風もなく、 僅かに小首を傾げながら私の方を黙って見やっただけで、 私に先を促すのだ。
彼が唐突に結んだ会話を、 私も唐突に引き繋ぐ。
まるで身勝手な一人相撲を、 それでも煩わしく思わずに済んでいるのは、 きっと此が対話というよりも、 独り言の其れに近いせいかもしれなかった。
片想いと同じ。 お互いがお互い、 好きなときにやめられる。
そんな気軽さが、 多分今の私達には心地良いのだ。
「名前だけは知っていたんですけど、 私、 一度も食べたことが無くて。 柘榴も、 無花果も――ほら、 苺や林檎みたいにメジャーな果物でもないですし」
柘榴はベルセポネーが食べた死の果実。 無花果は一説によれば禁断の果実。
活字だけで与えられた情報は、 明確な視覚情報に直結しないまま、 私の眼前に其の実をようやっと差し出してくれたのは、――かつての恋人だった。
「スーパーで売ってたからって、 買ってきてくれた実を出してくれて。白い果肉に囲まれて、 中は綺麗なワインレッド。 小さな種みたいなのが沢山あったから、 私はてっきり柘榴だと思ったんですけどね」
「――無花果だった?」
「ええ、 そう」
些細な間違い。
此が柘榴かと言った私に、 彼が笑って「無花果だよ」と教えてくれた――そんな本当に些細な一場面。
「でもそういうことに限って、 忘れられなかったりするんですよね」
私がそう笑うと、 彼は何も言わずに煙草をふかした。
けれどきっと其の沈黙は同意に違いなく、 私はそうやって共有した感情に更に言葉を乗せた。
「最近スーパーとかケーキ屋さんとかでも、 無花果って見かけるから。 だから私その度に、 此は無花果だって思い出すんです。 柘榴じゃないんだって」
「……それで?」
「成長って、 ほどのことでもないんですけどね。 でも私はそうやって、 彼と居たから世界の一部を知ったんです」
一人舞台では得られない何かを。 過ぎ去った幸せは痛みだけではない、 もっと別の何かを残したのだと、 私は其の果実を見る度に思い出すのだ。
「だからね、 私、 思うんですよ。 両想いは苦しくて、 幸せなことの方が少なくなるようなときもあるぐらいのリアルだけれど、 でもそうやって好きな人の――好きだった人の何かが私の人生に残っていくなら、 其れは其れで良いかなって」
「――君は、 見かけよりずっと前向きなんだね」
彼は心なしか寂しそうに、 そして少し羨望も混じっているような声を響かせた。
「そうかもしれませんね――でも、此も私の両想いが、 残していったものの一つですから」
私がそう言うと、 彼はそれきり黙りこくった。