ふたりの夏
19
それ以来、高倉とは、ろくに口をきいていなかった。
その代わり、僕は、綾乃と、恋の言葉を紡ぎ合った。ピアノ室で。
夏休みに入っても、それは続いた。
僕は、生徒と違って、夏休みでも仕事があったし、
綾乃は、わざわざ、僕に会いに、ピアノ室に練習に来た。
僕たちは、完全なプラトニックラブだった。
抱きしめることはあっても、キスはしない。
夏休みのある日、僕は、綾乃の家に招かれた。
父上が不在とかで、女中もみんな、はらっていた。
綾乃の家は、想像以上の豪邸だった。
真夏の光のもと、僕たちは、綾乃の家のプールで遊んだ。
水の照り返す光が、綾乃の顔に、きらきら光って、まぶしかった。
綾乃は、無邪気に笑っていた。
すました、計算された笑顔とは違う、少女の笑みがこぼれて、まぶしい。
僕たちは、いたずらに、水をかけ合っては、笑った。
綾乃の白い肌が、なんだか守ってあげたい気持ちにさせて、
濡れた素肌は、一層色っぽく・・・
逃げた綾乃を追いかけて、捕まえた僕は、たまらなくキスをしたかった。
綾乃を水のなかで抱きしめて、僕らは沈黙した。
高まる胸の鼓動に、綾乃が気づかないことを祈った。
見つめ合う・・・。
永遠のような、時間・・・。
「ここなら・・・」
綾乃が言う。
「ここなら、キスしても、いいんじゃないかしら・・・」
僕たちは、おでこをすり合わせる。
「だめだ」
僕は言った。
「一度、たがが外れると、元にはもどれない・・・」
もう一度、綾乃をぎゅっと抱きしめると、
「そろそろ、上がろう」
と言って、手を引いた。
「森永大先生?まじめなのね」
綾乃がからかう。
「女を抱いたこと、ないの?」
もちろん、ある。
僕だって、それなりに、恋をしてきた。
でも、それを言っては、台無しだ。
「君の、その手には乗らない。さあ、シャワーを浴びよう」
綾乃の家には、バスルームが五つもあった。
そこで、めいめいシャワーを浴び、バスローブに着替える。
僕たちは、地下にある映画室で、映画を観た。
もちろん、ラブストーリーだ。
綾乃は、ずっと僕の肩に、頭をもたげていた。
愛してる・・・愛してる・・・愛してる・・・
胸の鼓動が、そう打っていた。
映画が終わると、十九時くらいだった。
「私、お料理できないの・・・。申し訳ないけど」
綾乃は、ホテルのコックを呼んで、料理を作らせた。
生ハムとルッコラのサラダ、豚頬肉のラグーソース・トリュフ添え、
キャビアを薄いフランスパンに乗せたもの・・・
なんだか、別の世界の食べ物みたいだった。
いつも、牛丼食ってる、僕とは違う。
綾乃は、シャンパンを冷蔵庫から出した。
「大丈夫よ、アルコールフリーだから。それとも、先生は、ワインがいい?」
「いや、シャンパンで結構だよ。酔って君を襲ったら困る」
「私は困らないけど?」
まったく・・・。
この娘は、困った子だよ。
「では、私たちの、永遠の愛に、乾杯!」
「乾杯!」
ちん。
グラスを合わせた。
コックは、料理を出すと、帰って行った。
料理は、最高に美味しかった。
僕たちは、食事をしながら、散々、笑った。
なんだか、箸が転がってもおかしかった。
食事が終わると、綾乃が食器を食洗機にぶち込み、
シャンパンを飲みながら、夏風の涼しいテラスで、語り合った。
月明かりの下で、僕らはじゃれ合った。
でも、楽しいひと時も、やがては終わる。
時計は一時を刻んでいた。
「もう寝よう」
「そうね、残念だけど・・・」
僕だって、もっとこうしていたかった。
でも、もう、寝なくては。
綾乃は、きちんと掃除の行き届いたゲストルームに入れてくれた。
「夜中に、どうしても、どおおおおしても、襲いたくなったら、来てもいいわよ?」
「大丈夫。そんなことには、ならないよ」
僕は、笑って、綾乃を、もう一度、ぎゅっと抱きしめた。
「おやすみなさいのキスは?」
「綾乃、おやすみなさい」
僕は、綾乃のおでこにそっとキスをして、綾乃を外に出すと、扉を閉めた。
でも、僕だって、男だ。
その晩は、もやもやして、なかなか寝付けなかった。
朝、起きると、綾乃が朝食を作っていた。
「おはよう、せんせ。
・・・目玉焼き、うまくいかなかったから、スクランブルエッグにしちゃった・・・」
焦げたパン、牛乳、オレンジジュース、スクランブルエッグ。
スクランブルエッグには、塩が入りすぎていたし、卵の殻さえ入っていた。
でも、僕は、綾乃が作ってくれたことがなにより嬉しかった。
「美味しいよ、ありがとう」
僕は、残さず全部食べた。
でも、楽しい時間も、もう本当に終わりだった。
「そろそろ、行かなくちゃ・・・」
「そうね・・・お仕事、がんばって」
「今日、ピアノの練習ある?」
「あるわ。十五時」
「行くよ。それまで、少しの間、さよならだ」
僕は、最後に綾乃をぎゅうっと抱きしめると、豪邸を後にした。
本当に、夢みたいな一日だった。




