心細げな月
11
仕事が終わった放課後、僕は、屋上へ向かった。
新鮮な空気が吸いたかった。
理由は、それだけだ。
別に、綾乃がいることを、期待していたわけではなかった。
でも、綾乃はいた。
大声で、ローズを歌っていた。
でも、この前と違って、音程はめちゃくちゃだ。
涙声だった。
そして、歌い終える前に、嗚咽を漏らして、崩れ落ちた。
僕は、迷いなく、綾乃の肩を抱いた。
「・・・綾乃?」
綾乃は答えない。うつむいて、泣いている。
「どうした・・・?なんか、悲しいことでもあったか?」
僕には、思い当たることがあった。
そう、高倉。
綾乃は、きっと、高倉のことで、泣いているのだろうと思った。
ゆっくりと、綾乃を抱き起す。
「・・・顔を見ないで・・・ぐちゃぐちゃだから・・・」
「・・・わかった」
長い沈黙。
綾乃の呼吸が、だんだん落ち着いてくる。
僕たちは、並んで座った。
優しく、そっと手を握った。綾乃が握り返す。
「せんせ?・・・願いがかなわない世の中ってのも、なかなか、つらいのね・・・」
「うん・・・」
「私、いままで、どんな願いも叶えてきた。
馬鹿みたいに、なんでも手に入った。それが、つまらないと思ってきたわ。
でも・・・どんなに願っても、叶わない願いって、あるのね・・・。
それが、こんなにつらいということを、いまさらながらに知ったわ・・・」
「そうだよ・・・。
どんなに、どんなに、努力しても、叶わない願いがあることを
ひとは、恋をして、初めて知るんだ。
学歴も、金も、努力次第で、手に入るけど、
恋だけは、どんなに努力しても、叶わないことが多い。
ひとの心は、生ものだからね。
思い通りには、ならない・・・」
綾乃は、ため息をついた。
「なんだか、森永先生には、なんでもお見通しみたいね・・・」
「・・・そんなことないよ。
でも、もし、君に悩みがあるとしたらきっと・・・そんなことかなって・・・」
綾乃が僕の肩に、頭を預ける。
「・・・好きよ。森永先生・・・」
「・・・ありがとう。でも、そのセリフは、乱用しないほうがいいな」
どんなに、努力しても叶わない願いがある。
そのことを、僕は、何度思い知れば、気が済むのだろう・・・。
12
次の日の朝、森永の下駄箱に手紙を入れたの。
「十六時半、第三ピアノ室にて、待っています 綾乃」
仏様にお祈りしたわ。
森永先生が来てくれますように。
なんだか、不思議ね。
あんなに、森永のこと、馬鹿にしていたのに・・・。
なんだか、いつのまにか、森永のこと、
少しは、見直しているみたい・・。
放課後が、待ち遠しかったわ。
大丈夫。
今日こそ、来てくれる。
果たして、十七時少し前、ドアが開いた!
「森永先生!待ってた!」
「ごめんね、遅くなって・・・」
森永は、少しすまなそうに立っていたわ。
「いいのよ、さあ、入って?」
森永の腕を引くと、ドアを閉める。
「君の歌を聴きたくなってね。
・・・ローズをもう一回歌ってくれないかな」
「もちろん。大好きな歌なの。先生も好き?」
「好きだよ。一番好きな歌だ。タンブリッジ・ウェルズでよく聴いた」
「弾き語りするわ。森永先生、隣に座って?」
森永を、ピアノの長椅子の隣に座らせると、ピアノを弾き始めた。
「Some say love・・・」
愛は 川のようという人がいる
それは時に 穏やかな葦をおぼれさせる
愛は かみそりだという人がいる
それは時に 人の心に血をにじませる
愛は 飢餓のようという人がいる
それは時に 終わりのない欲望の痛みとなる
愛は花だと わたしは思う
それは種に過ぎないと あなたは言う
折れることを恐れている心
それは 踊ることを決して学ばない
起こすことを恐れている夢
それは チャンスを決してつかめない
愛を与えることができない人は
愛を受けることも決してない
死ぬことを恐れている魂は
生きることを決して学ばない
夜がとても孤独で 道がとても長く感じるとき
愛が 幸せな人と強い人だけのものに思えるとき
これだけは覚えておいて
冬 深い雪のしたに眠っていたその種は
春 太陽の愛をうけて バラの花を咲かせる・・・
歌い終わって、少し、間があった。
私は、歌の余韻に浸っていた。
思い出したように、森永が拍手をする。
「素晴らしい!素晴らしいよ。感動した」
「ありがとう。・・・せんせ?キスして・・・」
森永は、前を見つめたまま、言った。
「僕は教師だ」「だから?」「だから・・・特定の生徒と、そんなに親しくしてはいけないんだ」「特定の生徒って?」「もし、君がそんな気持ちなら、こんなふうに会ってちゃいけないんだ」
私は、笑った。
「馬鹿ね。馬鹿正直だわ。まじめすぎる。
・・・高倉先生のように、大胆に生きないと、損をするわよ?」
「高倉先生?」
「そうよ」
「彼は、誰にも見向きしないじゃないか」
「そう思うのなら、訊いてみるのね」
私は、笑った。
「さ、時間だわ。次の生徒が来る」
「じゃ、僕は先に。素敵な声をありがとう」
森永はそう言って、そそくさと出て行った。
13
「高倉先生のように、大胆に生きないと損をするわよ?」
綾乃の言葉が耳に残って、離れなかった。
一体、どういう意味だ?
そんなわけで、金曜の夜、高倉をまた、飲みに誘った。
「なんだか、最近、お前とばかり飲んでるな」
高倉が笑った。
「少しは、おれを自由にさせろよ。
彼女が寂しがる」
「彼女?高倉、彼女、いるのか?!」
「ははは。
いまはいないよ。冗談の通じないやつだな。お前の欠点だ」
高倉が笑った。
だったら・・・なおさら、綾乃の言葉の意味はなんだ?
「高倉、お前、好きな女、いるか?」
「ああ・・・いるよ」
「誰?・・・生徒か?」
高倉が、ビールをあおる。
「おれの好きな女、教えよっか?」
僕も、ビールをあおる。
「義国 環だ」
義国 環?
一瞬、誰だかわからなかった。
だんだん、思い出した。
そうだ。
義国・・・。
あまり、目立たない娘だ。
ピアノAクラスの。
ふっくらとした赤いほっぺと細い目。他には、これといって特徴もない。
あの高校では、一番、地味な部類の女だった。
高倉は、あんな女が好きなのか・・・?
「安河内綾乃は・・・?」
「けっ!興味ねえよ、あんな派手な女。
欲しければ、お前にやるよ」
高倉は笑った。
僕は、猛烈に腹が立った。
「なんだと?!ひとを、ものみたいに!」
「お前こそなんだよ!好きな女、ひとりに告白もできないくせに
一人前の口をきくな!」
僕は、沈黙した。
「・・・お前は、義国に、告白、したのか・・・?」
「・・・ああ。振られたけどな。・・・彼女、綾乃が好きらしい」
綾乃?!
女同士じゃないか!
「そろそろ帰ろう。酒がまずい。
ここの会計は、お前持ちだぞ?」
高倉が笑う。
僕はわけがわからないまま、金を払って、店を出た。
「もう、すっかり初夏だな」
「ああ・・・」
「森永、お前も馬鹿だな。おれに言わせれば、人生はばくち打ちだ。
笑って生きないと、損をするぞ」
なんだか、切なかった。
本当に、おれはだめ人間だな・・・。
綾乃は、このことを、知っていたのだろう。
だから、あの日、泣いていたのだろう。
かわいそうに・・・。
さぞかし、傷ついたろう。
「かわいそうに・・・」
ひとりごちる。
「なに?」
「なんでもないよ」
夜空には、心細げな、細い月が出ていた。
14
次のピアノのレッスン日も、手紙を入れたわ。
いつも通り。
「十七時、第二ピアノ室にて、待っています 綾乃」
今日は、来てくれるかどうか、不安だった。
だって、この前、あんなことを言われたから。
「もし、君がそんな気持ちなら、こんなふうに会ってちゃいけないんだ」
森永・・・。果たして、勇気があるかしらね。
ショパンを弾きながら、待ったわ。
十七時過ぎ。
ドアが開かれた。
「待っていたわ!」
けれど、振り向いた先には、森永じゃなくて、環が立っていた。
「うふふ。待っていたの?嬉しいわ」
「ち、違うわ!あんたなんか、待ってない!」
「じゃあ、誰を待っていたの?」
「誰でもいいでしょ。出てってよ」
環は、椅子の隣に腰かける。
「ふたりっきりになりたかったの」
環は、甘えた瞳で、私を見つめる。
「ね、してみない、キス」
「な、なんで、環とキスしなきゃなんないのよ!わけわかんない!」
環は、笑った。
「怖いのね?」
なによ!むかつく!
「私に怖いものなんてないわ!」
私は、環の唇を、強引に奪った。強く吸う。
そのとき!
「遅くなって・・・」
森永が、扉を開けたのよ!なんてタイミング?!
私、固まっちゃったわ・・・。森永も。
沈黙が流れた。
「・・・失敬!」
森永は、踵を返すと、部屋を出て行った。
私、環を思いっきりひっぱたいたわ。
・・・私が悪いの。
・・・キスをしたのは私・・・。
でも、環のことを、恨まずにはいられなかった。
「見られたわ!誤解された!」
ひっぱたかれて、床に転がっていた環は、
頬を押さえながら、ゆっくり立ち上がった。
「・・・森永のこと、待ってたの?」
私は黙った。
「森永のこと、好きなの?」
答えられない。
「森永・・・あんな、つまらない男のこと、綾乃ちゃんは、好きなの?」
「森永は・・・森永は!つまらない男なんかじゃないわ!」
そう叫ぶと、ピアノ室を後にした。
私、私・・・自分の気持ちに気付いてしまった!
こんな形で!さいってい!




