いざ、イギリスへ
23
職が完全になくなった僕には、することがなかった。
ただ、ぼろアパートでごろごろし、昼も夜も、寝て過ごした。
無精ひげを生やし、ろくに飯も食わなければ、風呂にも入らなかった。
なにもかも失って、僕は途方に暮れていた。
こんな状態が続けば、金が底を尽きるのは、目に見えていた。
しかし、働く気になれない・・・。
僕は、完全に鬱状態だった。
東京を捨てて、田舎に帰るか・・・?
少し、のんびりして、なにもかも、忘れたい。
綾乃のことも・・・本気で、恋をしたことも・・・。
そんな状態だったから、
パソコンのメールを開けたのは、ほとんど奇跡に近かったかもしれない・・・。
懐かしい、故郷の友達にメールしたくて
パソコンを開けた。
新着メール、一通。
タイトルは、「forget-me-not」・・・。それは知らないアドレスだった。けれど、僕は確信した。
綾乃だ!
胸が騒いだ。いそいでメールを開けた。「祐介、お久しぶり!
お元気?
心配させてごめんなさい。私は元気よ。
学校は楽しいかしら。ゴールデン・ウィークになったら、タンブリッジ・ウェルズに来れない?ジョンソンズ・タウンというバーに、十九時くらいに来て。待ってるから。
楽しみにしています 綾乃」
タンブリッジ・ウェルズ?!
しかも、ジョンソンズ・タウン?!
僕の行きつけだったカフェ・バーだ。
ゴールデン・ウィークなんて、待っちゃいられなかった!僕は、急いでロンドン行きのチケットを取った。
最短で、四月十一日の土曜日発。
昼過ぎに、ヒースローに着く便だ。
僕は、久しぶりにひげをそり、風呂に入った。
飯も食いたかったけど、固形物は、もはや胃が受け付けなかった。
仕方なく、栄養ゼリーを流し込む。
久しぶりに、スーツに腕を通して、
必要最低限のものだけまとめると、アパートを後にした。
飛行機の予約時間まで、まだ、間がある。
僕は、高倉のアパートへ向かった。
高倉とは、そこで、何回か、飲み明かしたことがあった。
「高倉!いるか?!」
僕は、ドンドンとドアを叩いた。
「なんだよ・・・。
・・・!・・・森永!
お前・・・痩せたな・・・」
「僕は、これから、綾乃に会いに行く。まだ、終わっちゃいなかったんだよ!」
「森永・・・お前のことは、心配していた。
でも、スーツケースなんて持って、一体どこに行くんだ?」
「イギリスだよ!タンブリッジ・ウェルズだ」
高倉は驚いていた。
「そこに、綾乃がいるのか?」
「いる!メールが来たんだ。そこに来い、と書いてあった」
「・・・その話、本当か・・・?タンブリッジ・ウェルズって、
前にお前が住んでたとこだろ・・・?」
高倉が、僕の頭を疑ってる・・・。
僕の心が見せた、妄想なのではないかと思っている。
仕方のないことだった。
実際、僕は、半分おかしくなりかけていた。
顔も身体も、骨と皮だけだ。
ひとめ見ただけで、おかしいとわかる。
「高倉、いままで、本当に世話になった。
僕は、綾乃とうまくやる。
お前も、環とうまく行くことを祈ってる・・・」
高倉は、笑った。
「馬鹿だな・・・。お前はほんとに、馬鹿な男だよ、森永。
ひとの心配はいいから、自分のことを心配しろ。
おれは大丈夫だよ。
おれは、世界一、いい男だ」
「そうだ・・・。そうだったな」
「最後に一言だけ言っておく。
森永・・・お前も、世界一、いい男だよ。こんなお人よしは、見たことがない。
少しは、自信持て!人間、なにもかも、自信ひとつだよ」
「・・・ありがとう。胸に刻むよ」
「なんせ、天下の綾乃さまがほれた男だぞ?お前は、相当いけてるよ」
僕は、涙が出そうだった。
「・・・ありがとう・・・」
つぶやくと、高倉の目を見ないで、アパートを出た。
大丈夫。なにがあっても、僕は生きてゆける・・・。
24
飛行機のなかで、ブランデーを頼むと、一気にあおって爆睡した。
目覚めたとき、なんだかすごく、すっきりした気がしていた。
懐かしい、イギリスの匂い。
ヒースロー空港から、車で一時間。
タクシーを拾った。
風景が、だんだん田舎に変わってゆく。
懐かしい・・・。
茶色の煉瓦造りの、タンブリッジ・ウェルズの大きな街に来たときには、
なんだか、生まれ故郷に戻った気がして、僕はひとり、涙した。
いま、この街で、綾乃が息をしている・・・。
ジョンソンズ・タウンの近くの、花屋の前で止めてもらった。
僕は、その店の忘れな草を、全部買った。
花屋のおばさんは笑った。
「忘れてほしくない娘がいるのね?」
「そう、そうなんだ!」
僕は、胸が高鳴った。
十七時。まだ、早い。
僕は、近くの店で、ポテトスープとパンを頼んだ。
イギリスで、飯がうまいと思ったのは、初めてだった。
こんなに空腹だったと、改めて気づく。
ポテトスープをおかわりした。
十八時半になると、もう我慢できなかった。
ジョンソンズ・タウンに向かう。
中に入ると、綾乃の姿を席に探した。
そのとき・・・!
「祐介!」
不意にとびこんできた、日本語のアクセントの、自分の名に驚いた。
それは、マイクを通した、はっきりした明るい声だったからだ。
綾乃だった・・・!
綾乃が、舞台の上のピアノの前に、座っていた。
変わってなかった!
綾乃は、日本にいたときよりも、むしろ元気そうに見えた。
その姿に、僕は心から喜んだ。
「ねえ、みんな?今日は、私の愛するひとが来ているの。
その人のために、日本語の歌を歌っていい?」
綾乃が、客席に、英語で、語り掛ける。
「ああ!もちろんだ!」
拍手が起きた。
綾乃が、ステージから降りてきて、
暗闇にいた僕を、まぶしいステージへと引っ張り出した。
そして、ピアノの前に座ると、一息ついて、鍵盤に指を置いた。
そして、語りかけるようにゆっくりと歌いだした歌は、中島みゆきの「糸」だった。
「失恋の女王」と呼ばれている、中島みゆきが、
友人にせがまれて、その結婚式のために作った歌。
だから、それは、たまらなく切なくて幸せな、ウエディングソングだった。
僕は、こみ上げる涙を抑えることができなかった。
気がつくと、綾乃は演奏を終えて、僕の前に立っていた。
「祐介・・・逢いたかった・・・」
「・・・僕もだよ、綾乃」
「私のこと、もう忘れてるかも、って怖かった・・・」
「忘れられるはずないよ・・・。君のことで頭がいっぱいだった・・・」
「馬鹿やろう!英語でしゃべれよ!」
誰かが叫んだ。
拍手と笑いが興った。
「私たち、結婚するよ!!」
綾乃が、英語で叫んだ。
周りがどよめいたが、僕も、正直、びっくりしていた。
「なにそれ?プロポーズのつもり?」
「そうよ?いけない?」
僕は、笑った。
綾乃らしい。
どこまでも、綾乃らしかった。
驚くほどの拍手と歓声が飛んだ。
スポットライトが、肌に熱かった。
「なにか言えよ!この幸せ者!」
また、英語の罵声。
笑いが起こる。
僕は、手に持った忘れな草の花束ごと、
綾乃をぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと確かめるようにキスをした。
唇に、耳に、首に・・・。
「全く、見ていられないよ!!」
あちこちで口笛をヒューヒュー鳴らして、冷やかしや祝福の歓声が上がった。
幸せすぎて、涙が出た。もう耳に何も聞こえなかった。
ただ、温かい綾乃の身体と、優しい綾乃の香水の香りと眩しく熱い、
スポットライトだけを感じていた・・・。
僕は、瞳を閉じて、めいっぱい息を吸った。
そうだ・・・。
この街で、綾乃と、一から始めよう!
休憩を何回かはさんで、綾乃の仕事は、二十二時まで続いた。
僕は、客席に座って、ビールを飲みながら、綾乃の歌に聴き入っていた。
綾乃が、こんなにも元気な理由がわかった。
彼女は、いま、自由だ。
ここでは、綾乃は、ただの、美人で歌のうまい日本人に過ぎなかった。
綾乃の幸福を、僕は心から喜んだ。
舞台が終わると、綾乃は、ドレスから着替えて、
「おまたせ。行きましょ」
と、言った。
「どこに?」
「私のアパートメントによ?」
招かれた部屋には、ベッドのほかには、ほとんどなにもなかった。
・・・本当に、自分の身、ひとつで来たんだな・・・。
こんなに狭い部屋、たぶん、いままでの綾乃じゃ、有り得なかっただろうな・・・。
そう思うと、
笑いが込み上げるとともに、綾乃の勇気に恐れ入った。
交代でシャワーを浴びると、僕たちは、裸で抱き合った。
「祐介・・・かなり、痩せたわね」
「心配ない。ただの、恋煩いだよ」
「これからは、私が、たくさんお料理を作って、太らせてあげる」
僕は、いつだかの朝食を思い出して、笑った。
「なによ?なにがおかしいの?」
「いや・・・。なんでもないよ。飯は僕が作る。僕のほうが、まだましだ」
「失礼ね!なによ―――」
綾乃の口を、唇で封じた。
「黙れ。これからは、ラブリータイムだ・・・」
僕たちは、口づけを交わした。熱く、甘く・・・。
舌は、次第に下へと降りてゆく。
充分に、期は熟した、というとき、
「くっ・・・」
と、綾乃が、顔を苦痛にゆがめた。
「え?・・・もしかして、バージン?」
「そうよ・・・。当たり前じゃない」
僕は思わず笑ってしまった。
なんだよ、高倉の言うことは、でたらめばかりじゃないか!
「笑うことないでしょ!誰だって、初めはバージンよ!」
綾乃が、僕の頭を枕で殴った。
「ごめん、ごめん。君の初めての男になれて、僕は幸せ者だよ」
「あなたは、私の、最初で最後の男よ!・・・優しくして」
「わかった」
そして、その晩、僕たちは、「優しく」した。
僕は、心底、綾乃が愛おしくてたまらなかった。
25
そして、僕たちは、タンブリッジ・ウェルズに、今も住んでいる。
小さな煉瓦の家の庭には、
ブルーの忘れな草たちが、かわいい花を風にそよがせている。
「やあ、おはよう。幸せだなあ」
僕が、朝食を作りながら言う。
「ほんとね。心の底から、幸せだわ」
綾乃が、お花に水をあげながら言う。
左手の薬指に、指輪が光っていた。
タンブリッジ・ウェルズ。素敵な街だよ?
いつか、訪ねて来ることがあったら、僕たちの家にも、寄って欲しいな。
≪完≫




