泥だらけのスパイク 息子の友達を好きになった母
家族がいて、仕事があって、何も問題のない日々。
それでもふと、自分が誰からも見られていないように感じることがある。
これは、そんな日常の隙間から始まった、ある女性の物語です。
息子のスパイクを磨いている時間だけが、四十歳になった早苗にとって、
日常の泥から脚を引き抜ける唯一の時間だった。
部活から帰った翔太が玄関に脱ぎ捨てたスパイクを、早苗はいつも拾い上げる。
乾いた泥をブラシで落とし、布で表面を拭く。
黒い革が少しずつ光を取り戻していく。
その作業をしている間だけ、早苗は何も考えなくてよかった。
埼玉の住宅街に建つ、築十五年の建売住宅。
夫の和夫は中堅メーカーの課長で、帰宅すれば業績とローン残高の話をする。
高校二年になる息子の翔太は、思春期特有の無愛想さを少しずつ抜け始めていたが、
母親に向ける言葉は相変わらず少ない。
「飯、ある?」
「洗濯物、そこ置いといて」
それで一日が終わる。
早苗の人生は、何ひとつ狂っていなかった。
だからこそ、息が詰まるほど退屈だった。
かつては違った。
翔太が小さかった頃は、毎日が忙しかった。熱を出せば夜中でも病院へ走り、
運動会が近づけばゼッケンを縫い、泥だらけの靴を洗った。
あの頃の早苗には、「母親」という役割が自分の全部だった。
それでよかった。
けれど翔太が大きくなるにつれて、その役割だけが少しずつ手元からこぼれていった。
洗濯物は減らない。
食事も作る。
家の中も整える。
なのに、自分だけが、どこにも必要とされていないような気がした。
その空いた場所に入り込んできたのが、秋吉蓮だった。
「お邪魔しまーす。あ、おばさん。これ、うちの母さんから」
初夏の夕暮れ、翔太と一緒にやってきた蓮は、葡萄の箱を差し出した。
額には汗が浮かび、黒い髪が少し濡れている。
「ありがとう。お母さんにお礼を言っておいて」
「はい」
蓮は笑った。
その笑顔を、早苗はなぜか長く見ていた。
翔太の友人は何人も家に来た。
けれど、蓮だけは少し違った。
他の少年たちが早苗を家の背景のように扱うのに対し、蓮は必ず目を見て話した。
「おばさん、この唐揚げ、めちゃくちゃうまいっす」
「そう?」
「うちのより好きです」
「そんなこと言ったら、お母さんに怒られるわよ」
「じゃあ、内緒で」
そんな他愛のない会話だった。
けれど早苗には、それが妙に嬉しかった。
自分がまだ誰かの目に映っている。
そんな当たり前のことが、いつの間にか特別なことになっていた。
ある日、蓮が食卓で言った。
「おばさんって、いつもちゃんとしてますよね」
「そう?」
「家もきれいだし、飯もうまいし」
早苗は笑った。
「普通よ」
「俺、こういう家、好きです」
その言葉が、いつまでも胸に残った。
ある晩、ハンバーグを食べながら、蓮が言った。
「こういうの、久しぶりです」
「ハンバーグ?」
「家で誰かと食べるのが」
早苗は何も言わず、蓮の皿にサラダを足した。
「食べなさい」
「はい」
蓮は少し笑った。
その顔を見て、早苗も笑った。
蓮の母親は家を空けることが多く、食事を一人で済ませることも珍しくないらしかった。
早苗は最初、それをただ気の毒に思った。
だから、夕飯に誘うようになった。
「蓮くんも食べていけば?」
「いいんですか?」
「余ってるから」
本当は、余っていなくても作った。
ハンバーグ。
グラタン。
唐揚げ。
蓮の好きだと言ったものを、いつの間にか覚えていた。
そして気づいたときには、蓮が来る日を楽しみにしている自分がいた。
ある夜、和夫が帰宅した。
早苗が夕飯を並べると、和夫は椅子に座った。
「今日、翔太どうだった?」
「普通よ」
「そうか」
和夫は味噌汁を一口飲んだ。
「これ、うまいな」
「いつもと同じよ」
「そうか」
和夫は少し笑った。
それから、ふと思い出したように言った。
「早苗も、ちゃんと食べろよ」
「食べてるわよ」
「ならいいけど」
和夫はそれ以上、何も言わなかった。
早苗は味噌汁を飲んだ。
少し冷めていた。
夏の午後、突然の雨が降った。
インターホンが鳴った。
玄関を開けると、蓮が立っていた。
「すみません。雨、すごくて」
「びしょ濡れじゃない。入って」
早苗はタオルを渡した。
「ありがとうございます」
蓮は髪を拭きながら、ふと早苗を見た。
「おばさんって、なんか安心しますよね」
「何それ」
「いや……うち、こういう感じじゃないから」
早苗は笑った。
「そんな大した家じゃないわよ」
「俺は好きです」
その言葉に、早苗の胸が小さく鳴った。
その夜、鏡の前に立った。
何年ぶりかで、自分の顔をじっと見た。
頬。
目元。
髪。
四十歳。
そう書かれた数字だけが、自分の中に先回りしているような気がした。
それから少しずつ、早苗の中で何かが変わった。
服を選ぶようになった。
鏡を見る時間が増えた。
スマートフォンが鳴ると、以前より早く手に取るようになった。
そして、蓮から届く短いメッセージを、何度も読み返した。
夏の終わり、翔太が部活に出ている夕方だった。
夕食の下ごしらえをしていると、蓮が一人でやってきた。
「翔太、まだ帰ってない?」
「ええ。部活よ」
「そっか」
蓮は玄関に立ったまま、帰ろうとしなかった。
「どうしたの?」
「……おばさんに、言いたいことがあって」
早苗は包丁を置いた。
「何?」
蓮はしばらく黙っていた。
「俺、おばさんのこと、特別だと思ってる」
早苗は返事をしなかった。
台所の時計の音だけが聞こえていた。
「……どういう意味?」
「そのままです」
蓮は笑わなかった。
早苗は視線を落とした。
「蓮くん、もう帰ったほうがいいわ」
そう言いながら、玄関を指ささなかった。
蓮も動かなかった。
しばらくして、早苗はテーブルの端に置かれた蓮のスマートフォンを見た。
「これ、忘れてる」
蓮が手を伸ばした。
受け渡すとき、指が触れた。
早苗は手を引かなかった。
蓮も、すぐには引かなかった。
翌朝、早苗はいつもと同じように味噌汁を作った。
翔太は何も知らずに朝食を食べている。
「ごちそうさま」
「行ってらっしゃい」
いつもの朝だった。
ただ、早苗だけが知っていた。
昨日までと同じ朝ではないことを。
秘密は、最初は小さかった。
スマートフォンの画面を伏せること。
メッセージを消すこと。
家族の前では何事もなかったように振る舞うこと。
その一つ一つが、やがて日常になった。
早苗は変わっていった。
鏡を見る時間が増えた。
外出するときの服も変わった。
そして何より、蓮から連絡が来るかどうかで、一日の気分が決まるようになった。
ところが、ある週を境に、蓮からの連絡が途絶えた。
既読がつかない。
電話にも出ない。
早苗は何度もスマートフォンを確認した。
朝。
昼。
夜。
眠れない夜には、暗い画面に自分の顔だけが浮かんだ。
「母さん、最近なんか変わったよね」
夕食の席で、翔太が言った。
「そう?」
「うん。服とか」
早苗は箸を置きかけて、やめた。
「そうかな」
「そうだよ」
翔太は少し考えるように黙った。
「そういえば、最近、蓮が家に来なくなったな」
早苗の指先が止まった。
「……そうね」
翔太はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その沈黙が早苗には怖かった。
そして、ある雨の土曜日。
早苗はとうとう蓮の住むアパートへ向かった。
自分でも、どうしてそこまでしたのか分からなかった。
ただ、答えが欲しかった。
古びたアパートの二階。
玄関の前に立つ。
ベルを押す。
返事はない。
もう一度押す。
やはり返事はなかった。
それでも早苗は帰れなかった。
ドアがわずかに開いていた。
「蓮くん……?」
中から、かすかな話し声がした。
早苗は迷った。
そして、ドアを開けた。
部屋の奥に、蓮がいた。
その隣には、翔太と同じ高校の制服を着た少女がいた。
二人は親しげに肩を寄せ合っていた。
早苗は何も言えなかった。
少女が驚いて立ち上がる。
蓮はしばらく黙って早苗を見た。
その目には、以前のような親しさがなかった。
「……おばさん、何しに来たの」
「蓮くん。私……」
「もう、こういうのやめようよ」
声は冷たかった。
「どうして……?」
「どうしてって」
蓮はため息をついた。
「最初から、そんなつもりじゃなかったから」
早苗は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「でも、あなたは……」
「優しくしただけだよ」
その一言が、早苗の胸に落ちた。
蓮にとっては、早苗が何カ月も大切に抱えていたものなど、その程度だった。
「俺も悪かったよ」
蓮はそう言った。
けれど、謝っているようには聞こえなかった。
「でも、おばさんも、もう分かってよ」
その「おばさん」という呼び方が、以前とは違って聞こえた。
早苗は何も言えず、部屋を出た。
外では雨が降り続いていた。
傘を開くことも忘れて、歩いた。
頬を伝う雨が、涙なのかどうかも分からなかった。
駅までの道は、何度も歩いたことがある。
スーパーもある。
コンビニもある。
見慣れた住宅もある。
なのに、その日は全部が知らない場所のように見えた。
家に戻ると、玄関に翔太の靴があった。
「母さん?」
リビングから翔太が出てきた。
「どこ行ってたんだよ。ずぶ濡れじゃん」
早苗は答えられなかった。
翔太が、母親の顔を見た。
そして、何かを察したように目を伏せた。
「……蓮のところ?」
早苗の喉が鳴った。
「なんで……」
「知ってるよ」
翔太は拳を握った。
「部活のグループに、蓮が送ってきた」
早苗の顔から血の気が引いた。
「俺と母さんのこと、笑い話みたいにしてた」
「翔太……」
「俺、学校でどんな顔すればいいんだよ」
翔太の声は震えていた。
早苗は息子に近づこうとした。
けれど翔太は一歩下がった。
「母さんが何したかより……」
そこで言葉が途切れた。
「俺の友達だったんだぞ」
その一言のほうが、怒鳴り声より痛かった。
早苗は何も言えなかった。
翔太は階段を上がった。
ドアが閉まる音。
そのあとに、鍵のかかる小さな音がした。
その夜、和夫も帰ってきた。
何が起きたのかを知った夫は、しばらく黙っていた。
怒鳴りもしなかった。
ただ、早苗の顔を見てから、低い声で言った。
「……もう、ここにはいられないだろ」
「和夫……」
「明日から、しばらく出ていってくれ」
早苗は何も言えなかった。
和夫はそれ以上、何も聞かなかった。
その夜、早苗はほとんど眠れなかった。
朝になると、必要なものだけをスーツケースに詰めた。
玄関を出る前に、一度だけ家の中を振り返った。
いつもの玄関。
いつもの靴箱。
壁に掛けられた家族写真。
そして、その脇に、泥のついたスパイクが置いてあった。
翔太のものだった。
昨夜、帰ってきたときに脱ぎ捨てたのだろう。
早苗は無意識に手を伸ばした。
いつものように、泥を拭おうとした。
けれど、指が止まった。
もう、自分が磨いていいものなのか分からなかった。
スパイクの先には、乾いた土がこびりついていた。
早苗はしばらく、それを見つめた。
昔は、どれだけ泥だらけでも綺麗にできた。
布で拭けば、少しずつ元の黒さが戻った。
けれど、人間の時間は、そうはいかない。
早苗は手を下ろした。
そして、玄関を出た。
朝もやの住宅街は、驚くほど静かだった。
駅へ向かう途中、高校生たちとすれ違った。
笑い声が聞こえた。
早苗は顔を上げなかった。
ただ、スーツケースの取っ手を強く握った。
背後で、始発前の街が少しずつ目を覚ましていた。
早苗は歩いた。
もう、振り返らなかった。
早苗のその後を、読者の皆さんそれぞれに想像していただけたら嬉しいです。




