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泥だらけのスパイク 息子の友達を好きになった母 

掲載日:2026/09/28

家族がいて、仕事があって、何も問題のない日々。

それでもふと、自分が誰からも見られていないように感じることがある。

これは、そんな日常の隙間から始まった、ある女性の物語です。

息子のスパイクを磨いている時間だけが、四十歳になった早苗にとって、

日常の泥から脚を引き抜ける唯一の時間だった。


部活から帰った翔太が玄関に脱ぎ捨てたスパイクを、早苗はいつも拾い上げる。


乾いた泥をブラシで落とし、布で表面を拭く。


黒い革が少しずつ光を取り戻していく。


その作業をしている間だけ、早苗は何も考えなくてよかった。


埼玉の住宅街に建つ、築十五年の建売住宅。


夫の和夫は中堅メーカーの課長で、帰宅すれば業績とローン残高の話をする。

高校二年になる息子の翔太は、思春期特有の無愛想さを少しずつ抜け始めていたが、

母親に向ける言葉は相変わらず少ない。


「飯、ある?」


「洗濯物、そこ置いといて」


それで一日が終わる。


早苗の人生は、何ひとつ狂っていなかった。


だからこそ、息が詰まるほど退屈だった。


かつては違った。


翔太が小さかった頃は、毎日が忙しかった。熱を出せば夜中でも病院へ走り、

運動会が近づけばゼッケンを縫い、泥だらけの靴を洗った。


あの頃の早苗には、「母親」という役割が自分の全部だった。


それでよかった。


けれど翔太が大きくなるにつれて、その役割だけが少しずつ手元からこぼれていった。


洗濯物は減らない。


食事も作る。


家の中も整える。


なのに、自分だけが、どこにも必要とされていないような気がした。


その空いた場所に入り込んできたのが、秋吉蓮だった。


「お邪魔しまーす。あ、おばさん。これ、うちの母さんから」


初夏の夕暮れ、翔太と一緒にやってきた蓮は、葡萄の箱を差し出した。


額には汗が浮かび、黒い髪が少し濡れている。


「ありがとう。お母さんにお礼を言っておいて」


「はい」


蓮は笑った。


その笑顔を、早苗はなぜか長く見ていた。


翔太の友人は何人も家に来た。


けれど、蓮だけは少し違った。


他の少年たちが早苗を家の背景のように扱うのに対し、蓮は必ず目を見て話した。


「おばさん、この唐揚げ、めちゃくちゃうまいっす」


「そう?」


「うちのより好きです」


「そんなこと言ったら、お母さんに怒られるわよ」


「じゃあ、内緒で」


そんな他愛のない会話だった。


けれど早苗には、それが妙に嬉しかった。


自分がまだ誰かの目に映っている。


そんな当たり前のことが、いつの間にか特別なことになっていた。


ある日、蓮が食卓で言った。


「おばさんって、いつもちゃんとしてますよね」


「そう?」


「家もきれいだし、飯もうまいし」


早苗は笑った。


「普通よ」


「俺、こういう家、好きです」


その言葉が、いつまでも胸に残った。


ある晩、ハンバーグを食べながら、蓮が言った。


「こういうの、久しぶりです」


「ハンバーグ?」


「家で誰かと食べるのが」


早苗は何も言わず、蓮の皿にサラダを足した。


「食べなさい」


「はい」


蓮は少し笑った。


その顔を見て、早苗も笑った。


蓮の母親は家を空けることが多く、食事を一人で済ませることも珍しくないらしかった。


早苗は最初、それをただ気の毒に思った。


だから、夕飯に誘うようになった。


「蓮くんも食べていけば?」


「いいんですか?」


「余ってるから」


本当は、余っていなくても作った。


ハンバーグ。


グラタン。


唐揚げ。


蓮の好きだと言ったものを、いつの間にか覚えていた。


そして気づいたときには、蓮が来る日を楽しみにしている自分がいた。


ある夜、和夫が帰宅した。


早苗が夕飯を並べると、和夫は椅子に座った。


「今日、翔太どうだった?」


「普通よ」


「そうか」


和夫は味噌汁を一口飲んだ。


「これ、うまいな」


「いつもと同じよ」


「そうか」


和夫は少し笑った。


それから、ふと思い出したように言った。


「早苗も、ちゃんと食べろよ」


「食べてるわよ」


「ならいいけど」


和夫はそれ以上、何も言わなかった。


早苗は味噌汁を飲んだ。


少し冷めていた。


夏の午後、突然の雨が降った。


インターホンが鳴った。


玄関を開けると、蓮が立っていた。


「すみません。雨、すごくて」


「びしょ濡れじゃない。入って」


早苗はタオルを渡した。


「ありがとうございます」


蓮は髪を拭きながら、ふと早苗を見た。


「おばさんって、なんか安心しますよね」


「何それ」


「いや……うち、こういう感じじゃないから」


早苗は笑った。


「そんな大した家じゃないわよ」


「俺は好きです」


その言葉に、早苗の胸が小さく鳴った。


その夜、鏡の前に立った。


何年ぶりかで、自分の顔をじっと見た。


頬。


目元。


髪。


四十歳。


そう書かれた数字だけが、自分の中に先回りしているような気がした。


それから少しずつ、早苗の中で何かが変わった。


服を選ぶようになった。


鏡を見る時間が増えた。


スマートフォンが鳴ると、以前より早く手に取るようになった。


そして、蓮から届く短いメッセージを、何度も読み返した。


夏の終わり、翔太が部活に出ている夕方だった。


夕食の下ごしらえをしていると、蓮が一人でやってきた。


「翔太、まだ帰ってない?」


「ええ。部活よ」


「そっか」


蓮は玄関に立ったまま、帰ろうとしなかった。


「どうしたの?」


「……おばさんに、言いたいことがあって」


早苗は包丁を置いた。


「何?」


蓮はしばらく黙っていた。


「俺、おばさんのこと、特別だと思ってる」


早苗は返事をしなかった。


台所の時計の音だけが聞こえていた。


「……どういう意味?」


「そのままです」


蓮は笑わなかった。


早苗は視線を落とした。


「蓮くん、もう帰ったほうがいいわ」


そう言いながら、玄関を指ささなかった。


蓮も動かなかった。


しばらくして、早苗はテーブルの端に置かれた蓮のスマートフォンを見た。


「これ、忘れてる」


蓮が手を伸ばした。


受け渡すとき、指が触れた。


早苗は手を引かなかった。


蓮も、すぐには引かなかった。


翌朝、早苗はいつもと同じように味噌汁を作った。


翔太は何も知らずに朝食を食べている。


「ごちそうさま」


「行ってらっしゃい」


いつもの朝だった。


ただ、早苗だけが知っていた。


昨日までと同じ朝ではないことを。


秘密は、最初は小さかった。


スマートフォンの画面を伏せること。


メッセージを消すこと。


家族の前では何事もなかったように振る舞うこと。


その一つ一つが、やがて日常になった。


早苗は変わっていった。


鏡を見る時間が増えた。


外出するときの服も変わった。


そして何より、蓮から連絡が来るかどうかで、一日の気分が決まるようになった。


ところが、ある週を境に、蓮からの連絡が途絶えた。


既読がつかない。


電話にも出ない。


早苗は何度もスマートフォンを確認した。


朝。


昼。


夜。


眠れない夜には、暗い画面に自分の顔だけが浮かんだ。


「母さん、最近なんか変わったよね」


夕食の席で、翔太が言った。


「そう?」


「うん。服とか」


早苗は箸を置きかけて、やめた。


「そうかな」


「そうだよ」


翔太は少し考えるように黙った。


「そういえば、最近、蓮が家に来なくなったな」


早苗の指先が止まった。


「……そうね」


翔太はそれ以上、何も言わなかった。


けれど、その沈黙が早苗には怖かった。


そして、ある雨の土曜日。


早苗はとうとう蓮の住むアパートへ向かった。


自分でも、どうしてそこまでしたのか分からなかった。


ただ、答えが欲しかった。


古びたアパートの二階。


玄関の前に立つ。


ベルを押す。


返事はない。


もう一度押す。


やはり返事はなかった。


それでも早苗は帰れなかった。


ドアがわずかに開いていた。


「蓮くん……?」


中から、かすかな話し声がした。


早苗は迷った。


そして、ドアを開けた。


部屋の奥に、蓮がいた。


その隣には、翔太と同じ高校の制服を着た少女がいた。


二人は親しげに肩を寄せ合っていた。


早苗は何も言えなかった。


少女が驚いて立ち上がる。


蓮はしばらく黙って早苗を見た。


その目には、以前のような親しさがなかった。


「……おばさん、何しに来たの」


「蓮くん。私……」


「もう、こういうのやめようよ」


声は冷たかった。


「どうして……?」


「どうしてって」


蓮はため息をついた。


「最初から、そんなつもりじゃなかったから」


早苗は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「でも、あなたは……」


「優しくしただけだよ」


その一言が、早苗の胸に落ちた。


蓮にとっては、早苗が何カ月も大切に抱えていたものなど、その程度だった。


「俺も悪かったよ」


蓮はそう言った。


けれど、謝っているようには聞こえなかった。


「でも、おばさんも、もう分かってよ」


その「おばさん」という呼び方が、以前とは違って聞こえた。


早苗は何も言えず、部屋を出た。


外では雨が降り続いていた。


傘を開くことも忘れて、歩いた。


頬を伝う雨が、涙なのかどうかも分からなかった。


駅までの道は、何度も歩いたことがある。


スーパーもある。


コンビニもある。


見慣れた住宅もある。


なのに、その日は全部が知らない場所のように見えた。


家に戻ると、玄関に翔太の靴があった。


「母さん?」


リビングから翔太が出てきた。


「どこ行ってたんだよ。ずぶ濡れじゃん」


早苗は答えられなかった。


翔太が、母親の顔を見た。


そして、何かを察したように目を伏せた。


「……蓮のところ?」


早苗の喉が鳴った。


「なんで……」


「知ってるよ」


翔太は拳を握った。


「部活のグループに、蓮が送ってきた」


早苗の顔から血の気が引いた。


「俺と母さんのこと、笑い話みたいにしてた」


「翔太……」


「俺、学校でどんな顔すればいいんだよ」


翔太の声は震えていた。


早苗は息子に近づこうとした。


けれど翔太は一歩下がった。


「母さんが何したかより……」


そこで言葉が途切れた。


「俺の友達だったんだぞ」


その一言のほうが、怒鳴り声より痛かった。


早苗は何も言えなかった。


翔太は階段を上がった。


ドアが閉まる音。


そのあとに、鍵のかかる小さな音がした。


その夜、和夫も帰ってきた。


何が起きたのかを知った夫は、しばらく黙っていた。


怒鳴りもしなかった。


ただ、早苗の顔を見てから、低い声で言った。


「……もう、ここにはいられないだろ」


「和夫……」


「明日から、しばらく出ていってくれ」


早苗は何も言えなかった。


和夫はそれ以上、何も聞かなかった。


その夜、早苗はほとんど眠れなかった。


朝になると、必要なものだけをスーツケースに詰めた。


玄関を出る前に、一度だけ家の中を振り返った。


いつもの玄関。


いつもの靴箱。


壁に掛けられた家族写真。


そして、その脇に、泥のついたスパイクが置いてあった。


翔太のものだった。


昨夜、帰ってきたときに脱ぎ捨てたのだろう。


早苗は無意識に手を伸ばした。


いつものように、泥を拭おうとした。


けれど、指が止まった。


もう、自分が磨いていいものなのか分からなかった。


スパイクの先には、乾いた土がこびりついていた。


早苗はしばらく、それを見つめた。


昔は、どれだけ泥だらけでも綺麗にできた。


布で拭けば、少しずつ元の黒さが戻った。


けれど、人間の時間は、そうはいかない。


早苗は手を下ろした。


そして、玄関を出た。


朝もやの住宅街は、驚くほど静かだった。


駅へ向かう途中、高校生たちとすれ違った。


笑い声が聞こえた。


早苗は顔を上げなかった。


ただ、スーツケースの取っ手を強く握った。


背後で、始発前の街が少しずつ目を覚ましていた。


早苗は歩いた。


もう、振り返らなかった。

早苗のその後を、読者の皆さんそれぞれに想像していただけたら嬉しいです。

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