プレイ・ドールは心を知らない
後書きに人物紹介と用語説明があります。
長年、忙しなく家族を放置し続けていた公爵アーノルド・グランヴィルが連れてきたのは──心が芽吹き始めた愛玩人形だった。
アーノルドは人形を床に立たせ、その肩を抱くように隣へしゃがみ込んだ。目隠し越しに、同じく黒い布で目元を覆われたジェイドとローレンへ、満面の笑みを向ける。
「今日からお前たちの弟になるイオンだ。仲良くしてやれよ」
一拍の間があった。
「いい加減にしろよ色魔親父!」
声を荒らげたローレンは隣のジェイドを守るように抱き寄せる。
「なにその女の子!目隠せよ!ジェイドが危ないだろうが!」
「安心しろ、性別は無い。それに此奴は──」
ジェイドはただ呆然と、目の前の人形に見惚れていた。
白銀に虹色を反射させる構造色の髪、瞬きするたびに宝石のように煌めく瞳。まつ毛も眉毛も同じ白さから、地毛なのだろう。七歳のジェイドと同年代か、身長もほぼ同じくらいだった。
その子は、呼吸すら殺しているかのように微動だにせず、まさしく人工的に作り出された人形そのものだった。
「まだ心が育ち切ってないんだ」
沈黙が落ちる。
「……は?」
ローレンが眉を下げて、人形を睨みつけた。
「心って……え、何。感情ないってこと?」
「今は人格形成の初期段階ってとこだな。ある程度は済ませた」
「何それ。いつもいつも仕事って、ずっとそいつ育ててたわけ?」
「否定はできないな」
アーノルドは目を細めて薄く笑う。
「俺たちのことは放置だったくせに」
「事情が事情だ。いつか話してやるよ」
その時──、
「こんにちは」
二人の会話を傍らに、ジェイドがローレンの腕の中から人形へ声をかけた。ローレンは名残惜しみながらもジェイドに絡めていた腕を下ろす。
反応はない。表情筋も口を動かす気配もない。
「色々と面倒なんだよ。脳の発達を避けられてきた分、中身は赤子と変わりない」
「赤ちゃん?」
「だと思って接してやれ」
アーノルドは立ち上がりながら人形を抱き上げる。
「特別な部屋を用意させた。ついて来い。入り方を教えてやる」
そう言いながら屋敷の奥へと歩き出した。
「ジェイド、兄様が抱っこしようか」
「いえ、自分で歩けます」
ジェイドはローレンの提案を笑顔で躱しながら、アーノルドの隣に並んだ。
「さすが兄様の弟だ!」
廊下にローレンのわざとらしく張り上げた声が響く。
「ここをイオンの部屋とする。異論は一応聞いてやるが認めない」
「うわっ……監禁部屋じゃん……」
三人が訪れた部屋は、家具も生活必需品も過不足なく揃えられた普通の部屋だった。
ただ一つ、他の部屋と決定的に異なるのは、窓も扉もないということだった。
「監禁じゃない。保護だ」
「イオンは……ここで暮らすんですか?」
「そういうこと」
アーノルドは抱えていた人形をベッドに寝かせた。
「コイツの出入りは俺の許可制にする。勝手に連れ出すなよ。お前たちは制限しないから遊びに来てやれ。人格形成にはスキンシップが重要らしいからな」
「理由は」
「誘拐事件怖いだろ」
「……そいつの母親は?囲ってんの?」
「両親の話もまだできない」
「じゃあ実の弟ではないんだ」
アーノルド・グランヴィルは数多くの妻と娘を別の領地に囲っている。ローレンは異母兄弟の増加には慣れているが、今回は血縁にない他人の子らしいと推測した。
「パ、パ」
アーノルドは人形の下顎に指を添え、口をパカパカと開け閉めして遊んだ。実の息子二人の目の前で、他所の子に「パパ」と教え込んでいる。
「早く喋れるようになれよー」
「……」
アーノルドのオレンジ色の髪と耳飾りのエメラルドを反射して、人形の瞳はダイヤモンドのように冷たく煌めいていた。
◇◇◇
あれからイオンの日常が始まった。
アーノルドやジェイド、使用人が積極的に「イオン」「イオン様」と声をかける。クーイングから始まり、喃語を経て──たった一週間で自分の名前を発音できるようになった。
「……ぃ、お」
最初にそれを聞き取ったアーノルドの瞳が揺れた。震える手を伸ばし、イオンの存在を確かめるように、力強く抱きしめた。
次に覚えたのは人の体温らしい。
ジェイドが笑ったとき、アーノルドが目を細めたとき、使用人が笑いかけたとき。頬へ触れたり、袖を掴んだり、幼子のように抱きついたり──イオン自ら接触を求め始めたのだ。
(やっぱり、この顔……)
ローレンが伸ばした指を握られた。反射に過ぎないだろう。ただ、無理に離す理由もなかった。
イオンが歩き始めたのは屋敷に来て三週間目のことだった。
自ら立ち上がり、拙い足取りで誰かのあとを追う。親鳥について歩く雛のように。その誰かは定まっているわけではない。しかし、一番多く接してくれるジェイドに懐いていたことは確かだった。
言語と書字を教えた。
「こんにちは」「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」といった挨拶と簡単な落書きから、五十音の発音となぞり書き練習を並行する。四ヶ月もすれば、イオンはジェイドの名を迷わず呼べるようになっていた。
紙いっぱいに歪な線を重ねた末、イオンはようやく自分の名を書き上げた。
『イオン』
「イオンのなまえ」
「おー、上手上手」
「イオン名前書いてる!すごい!」
アーノルドとジェイドに褒められ、イオンは返す言葉を探し当て「ありがと」と小さく笑った。
「ジェイドー!兄様が会いに来たぞ!ふっはっはっは!」
「にいさま」
「お前違う」
ローレンはイオンを見下ろし、目の前にしゃがみ込んだ。イオンの頭へ無造作に手を置く。
「……あほの子に育ってない?兆候あるよ」
「あほの子はお前だ」
アーノルドの言葉で、ローレンはこめかみに青筋を浮かべる。
「何しに来たんだ?」
「そろそろ、俺も何か教えてやろうと思って。振る舞いとか」
「そうか任せた」
「うしっ、任された」
「「うしっ/牛?」」
ローレンが立ち上がる掛け声に、イオンとジェイドが同時に反応した。
「揃って拾うな」
ローレンは礼儀作法と会話作法を教えることなった。
「なんで、めかくすの?」
「マナーだから」
「まなぁ」
「事情があるんだよ」
「じじょー」
ローレンはイオンにも目隠しを着ける。
「うん、わかった」
「いいか。お前の顔には兆の価値があるらしい。傷つけるなよ」
「ちょう?」
「顔だけじゃない。身体もだ。その血も、力も」
「ちから?」
「……何にも分からんか」
ローレンは溜息を吐き、イオンの額を軽く小突いた。
「つまりお前は国宝級の高級品なんだよ。めちゃくちゃ高い」
「こくほうきゅうのこうきゅうひん。うん、わかった」
「えらい」
教育を受けてしばらく経った頃、ジェイドは友達を紹介した。
「僕の友達の…………。友達!」
「ルミナス・スノーローズ……です」
「エレン・ハーティ。よろしく」
「ぼく、ハニー・クラウンって言います!よろしくお願いしますっ、イオンさま!」
イオンの白銀の髪が照明の光を反射し、七色に淡く煌めく。
ハニーは目を輝かせ、ルミナスは緊張からか無意識に背筋を伸ばす。エレンは一度逸らした視線を、再び引き寄せられるように向けた。
イオンは教えられた通り一礼する。
「グランヴィル公爵家にお世話になっている、イオンと申します。よろしくお願いします」
完璧な挨拶だった。完璧すぎて、年相応の幼さだけが欠けていた。
◆◆◆
『生死は問わない。プレイ・ドールを回収しろ』
『あのプレイ・ドールがまだ生きているとでも?』
『ラプラスの皇帝が動き出した。早急にプレイ・ドールの所在を洗い出せ』
『プレイ・ドールねぇ……味見に行くか』
『プレイ・ドール。──のお人形さん』
「使用人の新規雇用と解雇はしばらく中断だ。外部との接触も全員俺を通せ。勝手な判断を下した者は処罰対象とする」
普段の軽薄さを消した声音に、部屋の空気が張り詰める。誰一人として異を唱えられなかった。
◇◇◇
見知らぬ顔の男が整然とした一礼を見せる。
「このたび、世話役と護衛を仰せつかいました」
屋敷内の空気がピリピリと殺気立っていた頃、やってきたのはノア・ラヴィという男。首元に黒革の首輪が見える。どこかの家で執事をしているらしい。
「旧知の仲だ。信用していい」
「よろしくお願いします、イオン様」
ノアはイオンに目線の高さを合わせると、目を細めて優しく微笑んだ。
◇◇◇
「おやすみなさい、イオン様」
「おやすみなさい……」
眠るイオンを横目に、ノアは背を向けて立ち上がった。レッグホルスターから通信機を取り出しながら部屋を出る。
『──プレイ・ドールは俺が回収する。それと……、ボスも出向くらしい。万が一にでも、醜態を晒すような真似をした奴は処分対象とする。二度とベリアルの勢力圏を踏めると思うな』
『ニュイ……、お前がボスを連れ出したのか』
『勝手に乗り込んでたんだよ』
声の奥に走行音が混じる。移動中だ。
(さすが幹部)
青白い月明かりに照らされた廊下に、革靴の足音が静かに響いた。通信機を仕舞い、代わりに銀のナイフを取り出す。
中庭へ出たノアは、左手の手袋を歯で引き抜き、そのまま袖を捲り上げた。銀のナイフで前腕を浅く切り裂く。滲み出した赤が指先を伝い、一滴が地面に落ちた。
「あーあ、もったいない」
赤い双眸が夜闇に浮かび上がった。見知らぬ男が草を踏みしめながら、悠然と姿を現す。その視線は流れる血に釘付けになり、喉を鳴らした。吸血鬼だった。
「どうせなら俺にくれてもいいのに。なあ?人間サマ」
ノアは吸血鬼を見据えながら、唇を緩く開いて手袋を落とした。
「劣等種の分際でラプラスの地に踏み入るとは」
「人間の貴族サマと違ってマナーを教えてくれるヤツが居ないんだ。多少の無礼は許してくれよ。追い出したのはそっちだろ?」
ノアが踏み込む。銀の刃が吸血鬼の喉元を狙って走った。
吸血鬼は舌打ちを漏らしながら身を捻る。掠めた切っ先が頬を浅く裂いた。
瞬間、宙に展開された複数の銀の刃が、一斉に吸血鬼へ降り注いだ。
「……っ!?」
肩、脇腹、太腿──幾本もの銀が、目にも止まらぬ速度で肉を穿った。
吸血鬼は口元に流れた自らの血を舐め取り、顔を歪めた。
「チッ、不味っ……。だからさぁ、痛てぇもんは痛てぇんだよ」
辛うじて動く右腕で一本だけナイフを引き抜く。
低く笑ったノアの眼光が鋭く光った。
「なっ──」
黒い鎖が吸血鬼の四肢へ絡みつき、そのまま地面へ叩き伏せた。
「私は現在、貴方の処刑を是とされる状況だと判断しています」
青白い月明かりを背に、ノアが這いつくばる吸血鬼に影を落とした。
遠くでエンジン音が近づいてくる。
同時に、赤い双眸が次々と増えていった。
「あれ。やっぱやられてんじゃん」
「この匂い……、ラプラスのお貴族サマだァ」
「うぇー……女居ねーじゃん、この屋敷。大ハズレ」
吸血鬼が三人。飢えた獣のように牙を覗かせていた。
「……チッ」
◇◇◇
──ラプラスの子よ、おいでなさい。
青白い道を裸足で歩く。誰も居ない廊下は静かだった。使用人の気配もない。
イオンはただ前へ進む。向かうべき場所へ。
◇◇◇
「……っ旦那様!イオン様がいらっしゃいません!」
使用人の悲鳴が部屋に響き渡った。
床に伏せたアーノルドが、汗をびっしょりと吹き出して苦しげに喘いでいた。白い歯が、自ら噛み裂いた手に深く食い込んでいる。
使用人の視線が、傍らに立つ人影を下から上へと這い上がっていく。滑らかなシルエット——この屋敷にいるはずのない女だった。
女はゆっくりと振り向いた。短い桜色の髪を弾ませながら、我が物顔で凍りついている使用人に近づいてくる。
「ふふっ」
使用人の心臓が、激しく警鐘を鳴らしていた。
女は使用人の横を通り過ぎると、いつの間にか背後に立っていた二人の男に合流した。床に落ちた影越しに軽く手を振り、立ち去っていく。
「……っ、ぁ……」
足が震え、呼吸が浅くなる。
それでも使用人は、縺れそうになる脚を必死に叱咤し、通信機へと手を伸ばした。
「だ、誰か……!応援を!旦那様がっ……!」
◇◇◇
ローレンは物音に目が覚めた。窓の外で銀の刃が閃く。
次の瞬間、何かが庭に叩きつけられ、石畳が砕ける音が響いた。
「……は、」
呼吸が止まる。夜闇の中に立っていたのはノアだった。
腕を伝う鮮血。握られた銀のナイフ。その周囲を囲む赤い双眸。
「な、に……あれ」
聞いたこともない咆哮が夜を裂いた。
ローレンは反射的に踵を返した。
「ジェイド……っ!」
勢いよく扉を開ける。
「ジェイド!」
「……兄上?」
一人、ベッドの上で寝起きしたジェイドに血の気はなく、無事だった。その事実にローレンは安堵の息を呑む。
「良かった……」
しかし安堵は一瞬で消えた。
イオンは──。
思考がそこで止まる。
「……っ、」
ローレンは自身の唇を強く噛み、寝室の扉を閉めて鍵を掛けた。遠くで足音が響いている。
ベッドのサイドテーブルから魔水晶を乱雑に掴み、魔力を注ぎ込む。手の中で仄かに熱を帯びた魔水晶を握りしめると、注いだ魔力が薄い膜となって部屋全体を覆った。
「何かあったんですか……?」
状況を理解できていないジェイドを抱き上げ、ベッドに腰を下ろしながら自分の膝の上に乗せた。手放さないように、守るように背中に腕を回し、力強く抱きしめる。
(ヘタに動けない……。親父は何をしているんだ?イオンは?ラヴィ卿がいる。大丈夫だ……大丈夫。きっと──……。誰か──)
◇◇◇
夜風が寝着の裾を靡かせていた。
裸足のまま立ち尽くしていたイオンの身体が、不意に浮き上がる。背後から伸びた腕が、そのまま軽々と抱き上げた。
煙草と火薬の匂いが鼻を刺激する。
男はイオンを抱えたまま、停車していた黒塗りの車へ視線を向けた。
「ボス」
後部座席の窓がゆっくりと下がる。顔を出した男の赤い瞳が、イオンを捉えた。
「……へぇ」
細められた目が、七色に煌めく白銀の髪を映す。
「やっぱ生きてたのか」
イオンはじっと男の顔を見返した。どこかで見た覚えがある。
「オークション以来だな。プレイ・ドール」
イオンは恐怖も緊張も見せず、ただ状況を理解できていない顔で男を見つめ続けた。
「お前に銃口向けた奴。あれ僕」
男は誇らしげに薄く笑う。
「商品に何してんすか」
夜風に鉄の匂いが混じり、空気を震わせる振動が伝わってくる。
「……撤退だ。野良もいるみたいだしな」
男が窓を上げかけたその瞬間、鋭い金属音が夜気を裂いた。
ニュイが反射的に後方へ跳ぶ。白刃が空を薙ぎ、先ほどまで首があった位置を銀色の剣閃が通り過ぎた。
軍士たちが庭へ雪崩れ込む。車のヘッドライトが乱暴に旋回する。
「チッ……ニュイ!プレイ・ドールを傷つけるなよ!」
タイヤが石畳を激しく擦り、黒塗りの車が急加速した。
ニュイはイオンを抱えたまま屋根へ飛び乗る。
銃声。怒号。魔法陣の閃光。
夜が一瞬にして戦場と化した。
「……っ、寄越せ」
ノアから逃れてきた吸血鬼が、牙を剥いて飛びかかる。
ニュイが舌打ちした。避けきれない。
その瞬間——
イオンが吸血鬼を見た。月光を受けた虹色の瞳が淡く輝く。
「──ぁ、」
吸血鬼の動きが止まる。
喉が鳴り、本能が悲鳴を上げた。
格が違う。これは捕食対象ではない。もっと別の、圧倒的な何かだ。
吸血鬼の膝が崩れ落ちる。
「な……ん、だ……これ」
額から冷や汗が滴り、視線を合わせることすらできない。
吸血鬼は震えながら、頭を垂れた。
(神威眼……)
ニュイの思考が一瞬凍りついた。
ハッと我に返り、吸血鬼の顔面を横から蹴り飛ばす。
「がッ!?」
吸血鬼の身体が屋根から転落した。
「東に回れ!プレイ・ドールを確保しろ!」
怒号が飛び、魔法光が夜を裂き、石畳が爆ぜる。
ニュイは屋根を蹴り、腕の中のイオンを抱えたまま滑るように着地した。
イオンは静かだった。状況を理解していないのか、それとも——妙に大人しい。
背後で爆音が響き、振り返れば黒塗りの車が横転して炎を上げていた。
ボスが笑いながら軍士を蹴り飛ばす姿が遠くに見える。その向こうでは、武装した構成員たちが銃撃戦を繰り広げていた。
「逃がすな!」
魔法陣が展開され、銀の槍が飛ぶ。
ニュイは身体を捻り、今度は別方向からの銃声に反応した。
血飛沫が上がり、悲鳴が響く。軍士の身体が宙を舞った。
イオンの瞳は、その惨状を焼き付けていた。
爆炎が夜空を赤く染め上げていた。
悲鳴と怒号、魔法の閃光が渦巻く惨状を、屋根の上から三つの影が静かに見下ろしていた。
「ふふっ……、ふはははははっ」
両足を揺らしながら、女が喉の奥で低く笑う。
「本っ当に愚かなこと」
タレットに凭れかかった男が、欠伸を噛み殺すように息を吐いた。
「必死すぎ」
嘲笑を含んだ気怠げな声が、夜風に溶ける。
「まだ足りないなぁ」
赤い瞳が細められ、飢えた獣のような笑みが浮かんだ。
ゆっくりと挙げられた右手から、パチンと乾いた指鳴らしの音が響いた。
□□は、ただ楽しそうに笑っていた。
屋根を駆けていたニュイの足が、ぴたりと止まった。
腕の中のイオンも、ゆっくりと視線を上げる。
そこに三つの影があった。
ただ笑っている。それだけで十分だった。
本能が激しく警鐘を鳴らした。
「──っ!」
黒い鎖が夜空を裂く。ノアの拘束魔法だった。
だが、
「あはっ」
女が笑った瞬間、鎖は虚しく空を切った。残ったのは、淡く霧散する魔力の残滓だけだった。
「またね。お人形さん」
その姿は夜闇に溶けるように消えた。
「──ァ゛ッ!!」
蹲っていた吸血鬼が、突如として獣のような咆哮を上げた。
膨れ上がる殺気と、血走った赤い双眸。
吸血鬼がノアに向かって飛びかかる。
その牙が届く寸前、銀の閃光が走った。
「ぎ、ぁ──」
ノアは振り返りもしなかった。
右手に握られた銀のナイフが、吸血鬼の喉を深く貫いていた。
吸血鬼の身体が、崩折れるように地面へ崩れ落ちる。
ノアは血を払うことすらせず、次の戦場へと視線を移した。
「残党を制圧します」
◇◇◇
「総員!撤退だ!」
炎と煙が上がり、崩れた石壁が赤く照らされていた。
ニュイは屋根を強く蹴った。腕の中のイオンが、激しく揺れる。
「っ」
閃光が走り、銃声の残響が空気を震わせた。
ニュイは反射的に身体を捻る。腕の中の重みが、ふいに外れた。
「……!」
放り出されたイオンの身体を、ノアが片腕で素早く受け止めた。
直後、銃弾がニュイの肩を掠め、血飛沫が舞う。
ニュイはそのまま屋根を滑り落ち、煙の中へ身を投げ込んだ。
「急げ!」
構成員の叫びが響く。
魔法弾が二人の間を爆ぜ、地面を抉った。
「逃がすな!」
軍士の怒声が夜を裂く。
黒塗りの車が急旋回し、タイヤを激しく鳴らしながら門を突破した。
追撃の魔法光が夜空を掠めていく。
爆音、銃声、エンジン音——それらが徐々に遠ざかっていった。
残されたのは、焼け焦げた庭と、濃厚な血の匂いだけだった。
ノアは懐から白いハンカチを取り出し、イオンの鼻先へそっと当てた。
「イオン様、鼻痛いですか?」
血と火薬の臭いを遮るように。
「ううん。痛くない」
「それは良かった」
ノアが僅かに目を細める。
空いた左手が静かに動き、まるで鎖を引くような仕草をした。
直後、遠くで吸血鬼の苦悶の声が響く。黒い拘束魔法が、さらに強く締め上げられたのだ。
「今夜はジェイド様の元へお邪魔しましょう」
淡々とした声音だった。しかしその右腕は、イオンをしっかりと、確実に抱き支えている。
「私が護衛いたします」
「うん」
焼け焦げた中庭は、まるで何事もなかったかのように、元通りになっていた。
◇◇◇
公爵家襲撃の報は、夜明け前には社交界へ広がっていた。
『プレイ・ドール』
『襲撃事件』
『吸血鬼』
『マフィア』
様々な憶測が飛び交う。
アーノルドは後始末と報告、貴族派閥や皇室との交渉に追われていた。
ローレンは珍しく軽口を叩かず、ジェイドとイオンの傍を離れない。
◆◆◆
そして数週間後。
皇室から、一人の執事が派遣された。
「お初にお目にかかります、イオン様。皇室直属執事、ユアン・ロシュフォールと申します。皇命により、貴方様をお迎えに参りました」
胸に手を当て、一分の隙もない完璧な一礼を見せる。
紅い睫毛に縁取られた氷長石のような双眸が、真っ直ぐイオンを捉えた。
その瞳には、白銀の髪が放つ淡い光が映り込み、虹彩はプリズムのように七色を優美に反射していた。
イオンはじっとその顔を見つめた。
「お迎え……?」
ジェイドが小さく呟く。その意味を理解した瞬間、不安げにアーノルドの服の裾を掴んだ。
「イオン、行っちゃうんですか……?」
静かな問いだった。
アーノルドはジェイドの頭にそっと手を置き、
「皇帝陛下の庇護下だ。少なくとも、うちよりは安全だろう」
と言い聞かせるような声で答えた。
ジェイドは俯いたまま、裾を握る力をわずかに強めた。
ローレンが口を開く。
「……会えるんですか」
真っ直ぐ向けられた視線に、ノアは腕の中のイオンを支え直しながら静かに答えた。
「これからは謁見という形になります。ですが、イオン様が許可してくだされば、いつでも」
イオンが小さくノアの服を握る。
「詳細は後日、改めてご連絡いたします。まずは皇帝陛下へのご挨拶と、宮殿での生活に慣れることを優先させていただきします」
ユアンの淡々とした口調に、ジェイドは唇を引き結んだまま、イオンを見つめ続けていた。
ユアンが馬車の扉を開く。
「参りましょう」
呼びかける声は穏やかだった。ノアがユアンの隣を通り過ぎる。
漂ってきたのは、上質な柔軟剤の香り。その奥に微かに混じる、煙草と火薬の匂い。
どこかで嗅いだことがある気がした。
イオンは瞬きを繰り返しながら、ユアンを見つめた。
ノアがイオンを抱えたまま先に馬車に乗り込み、ユアンも向かいの席に腰を下ろす。
扉が重い音を立てて閉まった。
ゆっくりと馬車が動き出す。馬車は公爵家の門を抜けていった。
【登場人物】
イオン
構造色の髪と虹色の瞳を持つ子供。『プレイ・ドール』と呼ばれ、多勢力から狙われている。
アーノルド・グランヴィル
公爵家当主。30代。イオンを保護した。
ローレン
嫡男。10代。イオンに教育を施す。
ジェイド
次男。10歳未満。イオンに友だちを紹介する。
ノア・ラヴィ
20代。皇室の直属執事。アーノルドの要請により派遣された。
ユアン・ロシュフォール
20代。皇室の直属執事。イオンを迎えに来た。
【用語まとめ】
プレイ・ドール
イオンに付けられた俗称。過去に闇オークションで売買され、現在はアーノルド・グランヴィルに保護された。
グランヴィル公爵家
ラブラス帝国の公爵家。特殊な事情から男女で居住区を完全に分離しており、グランヴィル家の者は目隠しの着用を義務付けられている。
ラプラス
『神威』という一族が皇位を継承する帝政国家。近世ヨーロッパ風の文化を持つ一方、科学先進国との交易により現代的な技術や物資も流入している。
首輪
ラプラス帝国において使用人が着用する身分標識。職務や所属を示す役割を持つ。
神威眼
ラプラス帝国の皇族に受け継がれる特殊能力。相手へ本能的な畏怖や服従を与える威光の力を持つ。
吸血鬼
ヒト科(人間)の血肉を食糧とする、オニ科の種族。作中では劣等種扱い。人類に近い遺伝子を持つが、魔法を扱えないので科学を発展させた。
ベリアル
吸血鬼・混血種・人間などで構成される巨大犯罪組織。
軍士
国家や領地に所属する武装兵士・治安維持部隊の総称。剣術・魔法・銃器を用いて治安維持や戦闘任務にあたる。騎士的な扱い。




