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プレイ・ドールは心を知らない

作者: 真縞しろま
掲載日:2026/05/29

後書きに人物紹介と用語説明があります。

長年、忙しなく家族を放置し続けていた公爵アーノルド・グランヴィルが連れてきたのは──心が芽吹き始めた愛玩人形(プレイ・ドール)だった。

アーノルドは人形を床に立たせ、その肩を抱くように隣へしゃがみ込んだ。目隠し越しに、同じく黒い布で目元を覆われたジェイドとローレンへ、満面の笑みを向ける。

「今日からお前たちの弟になるイオンだ。仲良くしてやれよ」


一拍の間があった。

「いい加減にしろよ色魔親父!」

声を荒らげたローレンは隣のジェイドを守るように抱き寄せる。

「なにその女の子!目隠せよ!ジェイドが危ないだろうが!」

「安心しろ、性別は無い。それに此奴は──」

ジェイドはただ呆然と、目の前の人形に見惚れていた。

白銀に虹色を反射させる構造色の髪、瞬きするたびに宝石のように煌めく瞳。まつ毛も眉毛も同じ白さから、地毛なのだろう。七歳のジェイドと同年代か、身長もほぼ同じくらいだった。

その子は、呼吸すら殺しているかのように微動だにせず、まさしく人工的に作り出された人形そのものだった。

「まだ心が育ち切ってないんだ」

沈黙が落ちる。

「……は?」

ローレンが眉を下げて、人形を睨みつけた。

「心って……え、何。感情ないってこと?」

「今は人格形成の初期段階ってとこだな。ある程度は済ませた」

「何それ。いつもいつも仕事って、ずっとそいつ育ててたわけ?」

「否定はできないな」

アーノルドは目を細めて薄く笑う。

「俺たちのことは放置だったくせに」

「事情が事情だ。いつか話してやるよ」

その時──、

「こんにちは」

二人の会話を傍らに、ジェイドがローレンの腕の中から人形へ声をかけた。ローレンは名残惜しみながらもジェイドに絡めていた腕を下ろす。

反応はない。表情筋も口を動かす気配もない。

「色々と面倒なんだよ。脳の発達を避けられてきた分、中身は赤子と変わりない」

「赤ちゃん?」

「だと思って接してやれ」

アーノルドは立ち上がりながら人形を抱き上げる。

「特別な部屋を用意させた。ついて来い。入り方を教えてやる」

そう言いながら屋敷の奥へと歩き出した。

「ジェイド、兄様が抱っこしようか」

「いえ、自分で歩けます」

ジェイドはローレンの提案を笑顔で躱しながら、アーノルドの隣に並んだ。

「さすが兄様の弟だ!」

廊下にローレンのわざとらしく張り上げた声が響く。


「ここをイオンの部屋とする。異論は一応聞いてやるが認めない」

「うわっ……監禁部屋じゃん……」

三人が訪れた部屋は、家具も生活必需品も過不足なく揃えられた普通の部屋だった。

ただ一つ、他の部屋と決定的に異なるのは、窓も扉もないということだった。

「監禁じゃない。保護だ」

「イオンは……ここで暮らすんですか?」

「そういうこと」

アーノルドは抱えていた人形をベッドに寝かせた。

「コイツの出入りは俺の許可制にする。勝手に連れ出すなよ。お前たちは制限しないから遊びに来てやれ。人格形成にはスキンシップが重要らしいからな」

「理由は」

「誘拐事件怖いだろ」

「……そいつの母親は?囲ってんの?」

「両親の話もまだできない」

「じゃあ実の弟ではないんだ」

アーノルド・グランヴィルは数多くの妻と娘を別の領地に囲っている。ローレンは異母兄弟の増加には慣れているが、今回は血縁にない他人の子らしいと推測した。

「パ、パ」

アーノルドは人形の下顎に指を添え、口をパカパカと開け閉めして遊んだ。実の息子二人の目の前で、他所の子に「パパ」と教え込んでいる。

「早く喋れるようになれよー」

「……」

アーノルドのオレンジ色の髪と耳飾りのエメラルドを反射して、人形の瞳はダイヤモンドのように冷たく煌めいていた。



◇◇◇



あれからイオンの日常が始まった。


アーノルドやジェイド、使用人が積極的に「イオン」「イオン様」と声をかける。クーイングから始まり、喃語を経て──たった一週間で自分の名前を発音できるようになった。

「……ぃ、お」

最初にそれを聞き取ったアーノルドの瞳が揺れた。震える手を伸ばし、イオンの存在を確かめるように、力強く抱きしめた。




次に覚えたのは人の体温らしい。

ジェイドが笑ったとき、アーノルドが目を細めたとき、使用人が笑いかけたとき。頬へ触れたり、袖を掴んだり、幼子のように抱きついたり──イオン自ら接触を求め始めたのだ。

(やっぱり、この顔……)

ローレンが伸ばした指を握られた。反射に過ぎないだろう。ただ、無理に離す理由もなかった。




イオンが歩き始めたのは屋敷に来て三週間目のことだった。

自ら立ち上がり、拙い足取りで誰かのあとを追う。親鳥について歩く雛のように。その誰かは定まっているわけではない。しかし、一番多く接してくれるジェイドに懐いていたことは確かだった。




言語と書字を教えた。

「こんにちは」「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」といった挨拶と簡単な落書きから、五十音の発音となぞり書き練習を並行する。四ヶ月もすれば、イオンはジェイドの名を迷わず呼べるようになっていた。

紙いっぱいに歪な線を重ねた末、イオンはようやく自分の名を書き上げた。

『イオン』

「イオンのなまえ」

「おー、上手上手」

「イオン名前書いてる!すごい!」

アーノルドとジェイドに褒められ、イオンは返す言葉を探し当て「ありがと」と小さく笑った。




「ジェイドー!兄様が会いに来たぞ!ふっはっはっは!」

「にいさま」

「お前違う」

ローレンはイオンを見下ろし、目の前にしゃがみ込んだ。イオンの頭へ無造作に手を置く。

「……あほの子に育ってない?兆候あるよ」

「あほの子はお前だ」

アーノルドの言葉で、ローレンはこめかみに青筋を浮かべる。

「何しに来たんだ?」

「そろそろ、俺も何か教えてやろうと思って。振る舞いとか」

「そうか任せた」

「うしっ、任された」

「「うしっ/牛?」」

ローレンが立ち上がる掛け声に、イオンとジェイドが同時に反応した。

「揃って拾うな」




ローレンは礼儀作法と会話作法を教えることなった。

「なんで、めかくすの?」

「マナーだから」

「まなぁ」

「事情があるんだよ」

「じじょー」

ローレンはイオンにも目隠しを着ける。

「うん、わかった」




「いいか。お前の顔には兆の価値があるらしい。傷つけるなよ」

「ちょう?」

「顔だけじゃない。身体もだ。その血も、力も」

「ちから?」

「……何にも分からんか」

ローレンは溜息を吐き、イオンの額を軽く小突いた。

「つまりお前は国宝級の高級品なんだよ。めちゃくちゃ高い」

「こくほうきゅうのこうきゅうひん。うん、わかった」

「えらい」




教育を受けてしばらく経った頃、ジェイドは友達を紹介した。

「僕の友達の…………。友達!」

「ルミナス・スノーローズ……です」

「エレン・ハーティ。よろしく」

「ぼく、ハニー・クラウンって言います!よろしくお願いしますっ、イオンさま!」

イオンの白銀の髪が照明の光を反射し、七色に淡く煌めく。

ハニーは目を輝かせ、ルミナスは緊張からか無意識に背筋を伸ばす。エレンは一度逸らした視線を、再び引き寄せられるように向けた。

イオンは教えられた通り一礼する。

「グランヴィル公爵家にお世話になっている、イオンと申します。よろしくお願いします」

完璧な挨拶だった。完璧すぎて、年相応の幼さだけが欠けていた。



◆◆◆



『生死は問わない。プレイ・ドールを回収しろ』


『あのプレイ・ドールがまだ生きているとでも?』

『ラプラスの皇帝が動き出した。早急にプレイ・ドールの所在を洗い出せ』

『プレイ・ドールねぇ……味見に行くか』

『プレイ・ドール。──のお人形さん』




「使用人の新規雇用と解雇はしばらく中断だ。外部との接触も全員俺を通せ。勝手な判断を下した者は処罰対象とする」

普段の軽薄さを消した声音に、部屋の空気が張り詰める。誰一人として異を唱えられなかった。



◇◇◇



見知らぬ顔の男が整然とした一礼を見せる。

「このたび、世話役と護衛を仰せつかいました」

屋敷内の空気がピリピリと殺気立っていた頃、やってきたのはノア・ラヴィという男。首元に黒革の首輪が見える。どこかの家で執事をしているらしい。

「旧知の仲だ。信用していい」

「よろしくお願いします、イオン様」

ノアはイオンに目線の高さを合わせると、目を細めて優しく微笑んだ。



◇◇◇



「おやすみなさい、イオン様」

「おやすみなさい……」

眠るイオンを横目に、ノアは背を向けて立ち上がった。レッグホルスターから通信機を取り出しながら部屋を出る。

『──プレイ・ドールは俺が回収する。それと……、ボスも出向くらしい。万が一にでも、醜態を晒すような真似をした奴は処分対象とする。二度とベリアルの勢力圏を踏めると思うな』

『ニュイ……、お前がボスを連れ出したのか』

『勝手に乗り込んでたんだよ』

声の奥に走行音が混じる。移動中だ。

(さすが幹部)

青白い月明かりに照らされた廊下に、革靴の足音が静かに響いた。通信機を仕舞い、代わりに銀のナイフを取り出す。

中庭へ出たノアは、左手の手袋を歯で引き抜き、そのまま袖を捲り上げた。銀のナイフで前腕を浅く切り裂く。滲み出した赤が指先を伝い、一滴が地面に落ちた。

「あーあ、もったいない」

赤い双眸が夜闇に浮かび上がった。見知らぬ男が草を踏みしめながら、悠然と姿を現す。その視線は流れる血に釘付けになり、喉を鳴らした。吸血鬼だった。

「どうせなら俺にくれてもいいのに。なあ?人間サマ」

ノアは吸血鬼を見据えながら、唇を緩く開いて手袋を落とした。

「劣等種の分際でラプラスの地に踏み入るとは」

「人間の貴族サマと違ってマナーを教えてくれるヤツが居ないんだ。多少の無礼は許してくれよ。追い出したのはそっちだろ?」

ノアが踏み込む。銀の刃が吸血鬼の喉元を狙って走った。

吸血鬼は舌打ちを漏らしながら身を捻る。掠めた切っ先が頬を浅く裂いた。

瞬間、宙に展開された複数の銀の刃が、一斉に吸血鬼へ降り注いだ。

「……っ!?」

肩、脇腹、太腿──幾本もの銀が、目にも止まらぬ速度で肉を穿った。

吸血鬼は口元に流れた自らの血を舐め取り、顔を歪めた。

「チッ、不味っ……。だからさぁ、痛てぇもんは痛てぇんだよ」

辛うじて動く右腕で一本だけナイフを引き抜く。

低く笑ったノアの眼光が鋭く光った。

「なっ──」

黒い鎖が吸血鬼の四肢へ絡みつき、そのまま地面へ叩き伏せた。

「私は現在、貴方の処刑を是とされる状況だと判断しています」

青白い月明かりを背に、ノアが這いつくばる吸血鬼に影を落とした。

遠くでエンジン音が近づいてくる。

同時に、赤い双眸が次々と増えていった。

「あれ。やっぱやられてんじゃん」

「この匂い……、ラプラスのお貴族サマ(ごちそう)だァ」

「うぇー……女居ねーじゃん、この屋敷。大ハズレ」

吸血鬼が三人。飢えた獣のように牙を覗かせていた。

「……チッ」



◇◇◇



──ラプラスの子よ、おいでなさい。


青白い道を裸足で歩く。誰も居ない廊下は静かだった。使用人の気配もない。

イオンはただ前へ進む。向かうべき場所へ。



◇◇◇



「……っ旦那様!イオン様がいらっしゃいません!」

使用人の悲鳴が部屋に響き渡った。

床に伏せたアーノルドが、汗をびっしょりと吹き出して苦しげに喘いでいた。白い歯が、自ら噛み裂いた手に深く食い込んでいる。

使用人の視線が、傍らに立つ人影を下から上へと這い上がっていく。滑らかなシルエット——この屋敷にいるはずのない女だった。

女はゆっくりと振り向いた。短い桜色の髪を弾ませながら、我が物顔で凍りついている使用人に近づいてくる。

「ふふっ」

使用人の心臓が、激しく警鐘を鳴らしていた。

女は使用人の横を通り過ぎると、いつの間にか背後に立っていた二人の男に合流した。床に落ちた影越しに軽く手を振り、立ち去っていく。

「……っ、ぁ……」

足が震え、呼吸が浅くなる。

それでも使用人は、縺れそうになる脚を必死に叱咤し、通信機へと手を伸ばした。

「だ、誰か……!応援を!旦那様がっ……!」



◇◇◇



ローレンは物音に目が覚めた。窓の外で銀の刃が閃く。

次の瞬間、何かが庭に叩きつけられ、石畳が砕ける音が響いた。

「……は、」

呼吸が止まる。夜闇の中に立っていたのはノアだった。

腕を伝う鮮血。握られた銀のナイフ。その周囲を囲む赤い双眸。

「な、に……あれ」

聞いたこともない咆哮が夜を裂いた。

ローレンは反射的に踵を返した。

「ジェイド……っ!」




勢いよく扉を開ける。

「ジェイド!」

「……兄上?」

一人、ベッドの上で寝起きしたジェイドに血の気はなく、無事だった。その事実にローレンは安堵の息を呑む。

「良かった……」

しかし安堵は一瞬で消えた。

イオンは──。

思考がそこで止まる。

「……っ、」

ローレンは自身の唇を強く噛み、寝室の扉を閉めて鍵を掛けた。遠くで足音が響いている。

ベッドのサイドテーブルから魔水晶を乱雑に掴み、魔力を注ぎ込む。手の中で仄かに熱を帯びた魔水晶を握りしめると、注いだ魔力が薄い膜となって部屋全体を覆った。

「何かあったんですか……?」

状況を理解できていないジェイドを抱き上げ、ベッドに腰を下ろしながら自分の膝の上に乗せた。手放さないように、守るように背中に腕を回し、力強く抱きしめる。

(ヘタに動けない……。親父は何をしているんだ?イオンは?ラヴィ卿がいる。大丈夫だ……大丈夫。きっと──……。誰か──)



◇◇◇



夜風が寝着の裾を靡かせていた。

裸足のまま立ち尽くしていたイオンの身体が、不意に浮き上がる。背後から伸びた腕が、そのまま軽々と抱き上げた。

煙草と火薬の匂いが鼻を刺激する。

男はイオンを抱えたまま、停車していた黒塗りの車へ視線を向けた。

「ボス」

後部座席の窓がゆっくりと下がる。顔を出した男の赤い瞳が、イオンを捉えた。

「……へぇ」

細められた目が、七色に煌めく白銀の髪を映す。

「やっぱ生きてたのか」

イオンはじっと男の顔を見返した。どこかで見た覚えがある。

「オークション以来だな。プレイ・ドール」

イオンは恐怖も緊張も見せず、ただ状況を理解できていない顔で男を見つめ続けた。

「お前に銃口向けた奴。あれ僕」

男は誇らしげに薄く笑う。

「商品に何してんすか」

夜風に鉄の匂いが混じり、空気を震わせる振動が伝わってくる。

「……撤退だ。野良(ヴァンパイア)もいるみたいだしな」

男が窓を上げかけたその瞬間、鋭い金属音が夜気を裂いた。

ニュイが反射的に後方へ跳ぶ。白刃が空を薙ぎ、先ほどまで首があった位置を銀色の剣閃が通り過ぎた。

軍士たちが庭へ雪崩れ込む。車のヘッドライトが乱暴に旋回する。

「チッ……ニュイ!プレイ・ドールを傷つけるなよ!」

タイヤが石畳を激しく擦り、黒塗りの車が急加速した。

ニュイはイオンを抱えたまま屋根へ飛び乗る。

銃声。怒号。魔法陣の閃光。

夜が一瞬にして戦場と化した。

「……っ、寄越せ」

ノアから逃れてきた吸血鬼が、牙を剥いて飛びかかる。

ニュイが舌打ちした。避けきれない。

その瞬間——

イオンが吸血鬼を見た。月光を受けた虹色の瞳が淡く輝く。

「──ぁ、」

吸血鬼の動きが止まる。

喉が鳴り、本能が悲鳴を上げた。

格が違う。これは捕食対象ではない。もっと別の、圧倒的な何かだ。

吸血鬼の膝が崩れ落ちる。

「な……ん、だ……これ」

額から冷や汗が滴り、視線を合わせることすらできない。

吸血鬼は震えながら、頭を垂れた。

(神威眼……)

ニュイの思考が一瞬凍りついた。

ハッと我に返り、吸血鬼の顔面を横から蹴り飛ばす。

「がッ!?」

吸血鬼の身体が屋根から転落した。

「東に回れ!プレイ・ドールを確保しろ!」

怒号が飛び、魔法光が夜を裂き、石畳が爆ぜる。

ニュイは屋根を蹴り、腕の中のイオンを抱えたまま滑るように着地した。

イオンは静かだった。状況を理解していないのか、それとも——妙に大人しい。

背後で爆音が響き、振り返れば黒塗りの車が横転して炎を上げていた。

ボスが笑いながら軍士を蹴り飛ばす姿が遠くに見える。その向こうでは、武装した構成員たちが銃撃戦を繰り広げていた。

「逃がすな!」

魔法陣が展開され、銀の槍が飛ぶ。

ニュイは身体を捻り、今度は別方向からの銃声に反応した。

血飛沫が上がり、悲鳴が響く。軍士の身体が宙を舞った。


イオンの瞳は、その惨状を焼き付けていた。


爆炎が夜空を赤く染め上げていた。

悲鳴と怒号、魔法の閃光が渦巻く惨状を、屋根の上から三つの影が静かに見下ろしていた。

「ふふっ……、ふはははははっ」

両足を揺らしながら、女が喉の奥で低く笑う。

「本っ当に愚かなこと」

タレットに凭れかかった男が、欠伸を噛み殺すように息を吐いた。

「必死すぎ」

嘲笑を含んだ気怠げな声が、夜風に溶ける。

「まだ足りないなぁ」

赤い瞳が細められ、飢えた獣のような笑みが浮かんだ。

ゆっくりと挙げられた右手から、パチンと乾いた指鳴らしの音が響いた。


□□は、ただ楽しそうに笑っていた。


屋根を駆けていたニュイの足が、ぴたりと止まった。

腕の中のイオンも、ゆっくりと視線を上げる。

そこに三つの影があった。

ただ笑っている。それだけで十分だった。

本能が激しく警鐘を鳴らした。

「──っ!」

黒い鎖が夜空を裂く。ノアの拘束魔法だった。

だが、

「あはっ」

女が笑った瞬間、鎖は虚しく空を切った。残ったのは、淡く霧散する魔力の残滓だけだった。

「またね。お人形さん」

その姿は夜闇に溶けるように消えた。

「──ァ゛ッ!!」

蹲っていた吸血鬼が、突如として獣のような咆哮を上げた。

膨れ上がる殺気と、血走った赤い双眸。

吸血鬼がノアに向かって飛びかかる。

その牙が届く寸前、銀の閃光が走った。

「ぎ、ぁ──」

ノアは振り返りもしなかった。

右手に握られた銀のナイフが、吸血鬼の喉を深く貫いていた。

吸血鬼の身体が、崩折れるように地面へ崩れ落ちる。

ノアは血を払うことすらせず、次の戦場へと視線を移した。

「残党を制圧します」



◇◇◇



「総員!撤退だ!」

炎と煙が上がり、崩れた石壁が赤く照らされていた。

ニュイは屋根を強く蹴った。腕の中のイオンが、激しく揺れる。

「っ」

閃光が走り、銃声の残響が空気を震わせた。

ニュイは反射的に身体を捻る。腕の中の重みが、ふいに外れた。

「……!」

放り出されたイオンの身体を、ノアが片腕で素早く受け止めた。

直後、銃弾がニュイの肩を掠め、血飛沫が舞う。

ニュイはそのまま屋根を滑り落ち、煙の中へ身を投げ込んだ。

「急げ!」

構成員の叫びが響く。

魔法弾が二人の間を爆ぜ、地面を抉った。

「逃がすな!」

軍士の怒声が夜を裂く。

黒塗りの車が急旋回し、タイヤを激しく鳴らしながら門を突破した。

追撃の魔法光が夜空を掠めていく。

爆音、銃声、エンジン音——それらが徐々に遠ざかっていった。

残されたのは、焼け焦げた庭と、濃厚な血の匂いだけだった。

ノアは懐から白いハンカチを取り出し、イオンの鼻先へそっと当てた。

「イオン様、鼻痛いですか?」

血と火薬の臭いを遮るように。

「ううん。痛くない」

「それは良かった」

ノアが僅かに目を細める。

空いた左手が静かに動き、まるで鎖を引くような仕草をした。

直後、遠くで吸血鬼の苦悶の声が響く。黒い拘束魔法が、さらに強く締め上げられたのだ。

「今夜はジェイド様の元へお邪魔しましょう」

淡々とした声音だった。しかしその右腕は、イオンをしっかりと、確実に抱き支えている。

「私が護衛いたします」

「うん」

焼け焦げた中庭は、まるで何事もなかったかのように、元通りになっていた。



◇◇◇



公爵家襲撃の報は、夜明け前には社交界へ広がっていた。

『プレイ・ドール』

『襲撃事件』

『吸血鬼』

『マフィア』

様々な憶測が飛び交う。

アーノルドは後始末と報告、貴族派閥や皇室との交渉に追われていた。

ローレンは珍しく軽口を叩かず、ジェイドとイオンの傍を離れない。



◆◆◆



そして数週間後。

皇室から、一人の執事が派遣された。

「お初にお目にかかります、イオン様。皇室直属執事、ユアン・ロシュフォールと申します。皇命により、貴方様をお迎えに参りました」

胸に手を当て、一分の隙もない完璧な一礼を見せる。

紅い睫毛に縁取られた氷長石のような双眸が、真っ直ぐイオンを捉えた。

その瞳には、白銀の髪が放つ淡い光が映り込み、虹彩はプリズムのように七色を優美に反射していた。

イオンはじっとその顔を見つめた。

「お迎え……?」

ジェイドが小さく呟く。その意味を理解した瞬間、不安げにアーノルドの服の裾を掴んだ。

「イオン、行っちゃうんですか……?」

静かな問いだった。

アーノルドはジェイドの頭にそっと手を置き、

「皇帝陛下の庇護下だ。少なくとも、うちよりは安全だろう」

と言い聞かせるような声で答えた。

ジェイドは俯いたまま、裾を握る力をわずかに強めた。

ローレンが口を開く。

「……会えるんですか」

真っ直ぐ向けられた視線に、ノアは腕の中のイオンを支え直しながら静かに答えた。

「これからは謁見という形になります。ですが、イオン様が許可してくだされば、いつでも」

イオンが小さくノアの服を握る。

「詳細は後日、改めてご連絡いたします。まずは皇帝陛下へのご挨拶と、宮殿での生活に慣れることを優先させていただきします」

ユアンの淡々とした口調に、ジェイドは唇を引き結んだまま、イオンを見つめ続けていた。

ユアンが馬車の扉を開く。

「参りましょう」

呼びかける声は穏やかだった。ノアがユアンの隣を通り過ぎる。

漂ってきたのは、上質な柔軟剤の香り。その奥に微かに混じる、煙草と火薬の匂い。

どこかで嗅いだことがある気がした。

イオンは瞬きを繰り返しながら、ユアンを見つめた。

ノアがイオンを抱えたまま先に馬車に乗り込み、ユアンも向かいの席に腰を下ろす。

扉が重い音を立てて閉まった。

ゆっくりと馬車が動き出す。馬車は公爵家の門を抜けていった。

【登場人物】

イオン

構造色の髪と虹色の瞳を持つ子供。『プレイ・ドール』と呼ばれ、多勢力から狙われている。


アーノルド・グランヴィル

公爵家当主。30代。イオンを保護した。


ローレン

嫡男。10代。イオンに教育を施す。


ジェイド

次男。10歳未満。イオンに友だちを紹介する。


ノア・ラヴィ

20代。皇室の直属執事。アーノルドの要請により派遣された。


ユアン・ロシュフォール

20代。皇室の直属執事。イオンを迎えに来た。



【用語まとめ】

プレイ・ドール

イオンに付けられた俗称。過去に闇オークションで売買され、現在はアーノルド・グランヴィルに保護された。


グランヴィル公爵家

ラブラス帝国の公爵家。特殊な事情から男女で居住区を完全に分離しており、グランヴィル家の者は目隠しの着用を義務付けられている。


ラプラス

神威(かむい)』という一族が皇位を継承する帝政国家。近世ヨーロッパ風の文化を持つ一方、科学先進国との交易により現代的な技術や物資も流入している。


首輪

ラプラス帝国において使用人が着用する身分標識。職務や所属を示す役割を持つ。


神威眼(しんいがん)

ラプラス帝国の皇族に受け継がれる特殊能力。相手へ本能的な畏怖や服従を与える威光の力を持つ。


吸血鬼(ヴァンパイア)

ヒト科(人間)の血肉を食糧とする、オニ科の種族。作中では劣等種扱い。人類に近い遺伝子を持つが、魔法を扱えないので科学を発展させた。


ベリアル

吸血鬼・混血種・人間などで構成される巨大犯罪組織(マフィア)


軍士(ぐんし)

国家や領地に所属する武装兵士・治安維持部隊の総称。剣術・魔法・銃器を用いて治安維持や戦闘任務にあたる。騎士的な扱い。

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