聖女様が僕にだけ重すぎる——昔助けた少女は、王国ごと敵に回しても僕を守るようです
王都では、奇跡の聖女エリシア・ブランシェの名を知らぬ者はいない。
王国の民の病を癒やし、痩せた土地に豊穣をもたらし、結界により魔物の侵入を防ぐ、まさに王国の至宝。
その姿は美しく、声は穏やかで、微笑みは慈愛に満ちている。
少なくとも、世間ではそう言われていた。
「……帰りたい」
その「至宝」を遠目に見ながら、ユリウス・ベルナールは小さく呟いた。
煌びやかな王都の夜会場は、男爵家の次男でしかないユリウスにはどうにも落ち着かない場所だった。天井から下がる豪奢なシャンデリア、磨き上げられた大理石の床。隙あらば他人の値踏みをしてくる貴族たち。
自分のような地味な人間がいていい場所ではない。
それでもここにいるのは、招待状に聖女エリシア本人の名が記されていたからだ。
『ぜひいらしてください、ユリウス様』
美しい文字で、たったそれだけ。
この王都にいて、聖女の招待を断れるはずがなかった。
この王国において、聖女は国王と比肩する存在、いや、今の聖女エリシアであれば、それ以上の発言力があると言ってもいい。
「ベルナール卿でしたかしら?」
不意にかけられた声に、ユリウスはびくりとしてしまう。
振り向けば、これまた煌びやかなドレスに身を包んだ若い貴族令嬢が三人、扇の陰からこちらを眺めていた。その中心に立つのは、赤い髪を高く結い上げた令嬢だった。自分より身分が高いであろうことだけはすぐにわかった。
「はい。ユリウス・ベルナールです」
一礼すると、令嬢たちは顔を見合わせ、くすりと笑った。
「本当にいらしたのね」
「聖女様はどこまでもお優しいこと」
「まさか男爵家の方までお招きになるなんて」
どの声も柔らかい。だが、社交界に慣れていないユリウスですら、嫌味であることは感じ取れた。
ユリウスは曖昧に微笑んでやり過ごそうとした。
だが、令嬢たちは逃がすつもりがないらしい。
「ベルナール卿は、聖女様と親しいのですって?」
「ずいぶん特別に目をかけていただいているとか」
「まあ……勘違いなさらないでくださいませね」
中央の令嬢が上品な笑みを浮かべて一歩前に出る。けれどその目は、ユリウスを明らかに見下していた。
「聖女様はとても慈悲深いのです。道端の捨て犬にも、手を差し伸べてしまうほどに」
周囲から、くすくすと笑いが漏れる。
「あなたのような冴えない男爵令息に声をかけたのも、それと何ら変わらないのです」
「聖女様の『施し』を、くれぐれも勘違いなさいませんようにね。身の程をわきまえてほしいものですわ」
その瞬間だけ、ユリウスの胸がちくりとした。
自分が笑われるのは別にいい。
男爵家の、それも次男。社交界の中心に立てるような身分ではない。見下されることにも慣れている。
だが、エリシアの親切を「施し」と呼ばれるのは、少しだけ腹が立った。
彼女はそんなふうに人を見る人ではない。
それでもユリウスは何も言わなかった。自分が耐えれば、それで済む。
「……ご忠告ありがとうございます」
そう言って頭を下げ、その場を離れようとした、そのときだった。
「何のお話ですか?」
背後から、澄んだ、柔らかな声がした。
場の空気が一瞬で変わる。
笑っていた令嬢たちが息を呑み、周囲にいた貴族たちが一斉に姿勢を正した。ユリウスが振り向くと、そこには純白に金糸の刺繍の入ったドレスをまとった聖女エリシア・ブランシェが立っていた。
白銀の髪をなびかせ、誰に向けても平等に優しい、完璧な微笑みを浮かべたその姿は、誰もがため息をついてしまうような美しさだった。
彼女はゆっくりとユリウスの隣まで歩いてくると、自然な動作でその腕に手を添えた。
「ユリウス様」
その呼び方に、周囲がざわつく。
あまりに親しげ。
少なくとも、社交界の、いや、王国の中心人物とも言うべき聖女が、たかが男爵令息に向ける態度ではない。
それは誰の目にも明らかだった。
「エリシア様……」
「お待たせしてしまいました。少し王太子殿下に捕まってしまって」
そう言って微笑む彼女は、あくまで穏やかだった。
ただ、その視線が令嬢たちへ向いた瞬間、ユリウスは背筋に妙な寒気を覚えた。
「先ほど、何か楽しそうなお話をなさっていましたよね? ベアトリーチェ・ローゼンベルク様……でしたよね」
「い、いえ、そんな——。あ、私の名前を覚えてくださっていたんですね」
「ただ、ベルナール卿に少し助言をしていただけでございますわ」
中央の令嬢——ベアトリーチェは動揺と喜びとがないまぜになったような複雑な笑みを浮かべた。
「助言、ですか」
エリシアは小首をかしげる。
「ええ。聖女様はあまりにもお優しいので、誰にでも親しくなさるでしょう? ですが、それを誤解する殿方も中にはおりますもの。ですから——」
「ユリウス様が、私を誤解していると?」
エリシアは静かに尋ねた。責めているわけでも怒りが込められているわけでもない。
それなのに、ベアトリーチェの顔色は青ざめていた。
「そ、その……」
「私は、そうは思いませんけれど」
言い淀むベアトリーチェに、エリシアは微笑んだまま言った。
「少なくともユリウス様は、誰かを値踏みしたり、見下したり、その優しさを『施し』と呼んだりする方ではありませんから」
その場の空気が凍る。
聞いていたのだ。
どこからかはわからないが、エリシアは確かに聞いていた。
ユリウスは胃が痛くなった。
——頼むからここは流してくれ。
エリシアは一歩だけ、ベアトリーチェへ近づいた。
「ローゼンベルク嬢」
「は、はい」
「私の大切な方に、ずいぶん無礼なことをおっしゃったのですね」
大切な方。
その一言が発せられた瞬間、周囲が大きくざわめいた。
誰もが耳を疑い、けれど確かに誰もが聞いた。
聖女が、男爵令息を「大切な方」と呼んだ。
ユリウスはできることならすぐにでも消えてしまいたかった。
「ですが」
エリシアはふわりと微笑む。
「今夜は祝いの場ですもの。これ以上のことは申しません」
その言葉に、ベアトリーチェはあからさまに安堵の表情を見せた。
だが、ユリウスだけは、まだ一抹の不安を覚えていた。
「参りましょう、ユリウス様」
エリシアは何事もなかったかのようにそう言って、彼をエスコートするように歩き出した。断る余地など、まったく与えられていなかった。
夜会の間、ユリウスはほとんど上の空だった。
どこへ行っても視線が刺さる。
聖女の「大切な方」という言葉は、瞬く間にこの夜会の参加者中に行き渡ってしまっているのだろう。
明日になれば王都中に広まってしまっているかもしれない。
しかも当のエリシアは、ユリウスの隣で終始機嫌がよかった。それは、口伝えに聞いた者にすら裏付けを与えてしまうだろう。
「ユリウス様、お料理、あまり召し上がっていませんね」
「……先ほどから胃が痛いもので」
あなたのせいですが、という言葉をぐっと抑える。
「では、胃に優しいものを神官に届けさせます」
エリシアは心から心配そうに、ユリウスの顔を覗きこんでくる。
「大丈夫です。いりません」
「遠慮なさらないでください」
遠慮ではなく本気でいらないのだが、たぶん言っても無駄だろう。
「それより、先ほどのことは大丈夫ですので、気にしないでください。本当に大丈夫ですので」
ユリウスがエリシアの耳元で小声で言うと、エリシアは首をかしげた。
「何がですか?」
「ローゼンベルク嬢たちのことです。ああいうのは、別に珍しいことではないですから」
その瞬間、機嫌の良かった彼女の微笑みが、わずかに翳った。
「珍しいかどうかは、問題ではありません」
しまった、とユリウスは思った。逆に火をつけ直してしまったかもしれない。
「あなたが傷つけられた。それが『珍しい』ことでないのならばなおさら……」
ユリウスは慌てて次の言葉を紡いだ。
「僕は平気ですから。本当に何とも思っておりません」
「ユリウス様はいつもそうおっしゃいます」
エリシアは少女のように口を尖らせる。
「昔からそうですわ。ご自分が傷つくことには鈍感で、他人の痛みばかり気にされるのです」
ユリウスは「はて?」と思った。
「……昔?」
エリシアがユリウスの目を見る。
「覚えていらっしゃいませんか?」
何のことか見当もつかず、ユリウスは首を横に振るしかなかった。
するとエリシアは、少し寂しそうに微笑んだ。
「そうでしょうね。あなたにとっては、きっと取るに足らないことだったのでしょうから」
それ以上は言わず、エリシアはまた完璧な聖女の顔に戻ってしまった。
※
その夜会の日以降、ローゼンベルク伯爵家の領地で異変が起き始めた。
祝福を受けているはずの土地に農作物が一切実らなくなり、病の者が増え、ついには魔物までが発生し、家屋を壊し、死傷者までも出てしまった。
神官たちは首をひねり、やがて青ざめた。
土地を覆っていた祝福や結界が、目に見えて弱まっていたのだ。
それはローゼンベルク伯爵領だけに起きている欠陥のようだった。王国内の他の地域では今までと何事も変わらず、祝福も結界も有効だった。
「……え?」
男爵家の朝食卓で、ユリウスは固まってしまった。
父が深刻な顔で腕を組む。
「知人から回ってきた。ローゼンベルク伯爵領で加護が薄れているらしい」
「そんなことが……」
「本来なら、そうそう起こることではない」
ユリウスは嫌な予感しかしなかった。
いや、予感などではなく、ほとんど確信だった。
あの完璧な聖女の加護が薄れるなどということが起こりうるはずがない。もしそれが起きたというのであれば……
朝食を済ますと、ユリウスはまっすぐ大聖堂へ向かった。
通されたのは、聖女専用とされる中庭だった。白い花が咲き乱れ、中央にはよく整備された池がある。自分のような者が足を踏み入れていい場所には思えなかった。
その中心で、物憂げに花を眺めていたエリシアは、ユリウスの姿を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「ユリウス様。来てくださったのですね」
ユリウスはその場で一礼してから、すぐに本題に入った。
「ローゼンベルク伯爵領の異変、まさかとは思いますが……」
「はい、私です」
即答だった。
ユリウスは思わず頭を抱え込んだ。
「彼らに与えていた祝福を止めました」
エリシアは悪びれる様子もなく言う。
「まあ、命に関わるほどではありませんわ。今のところは」
「今のところって」
「だって、ユリウス様」
彼女は不思議そうに目を瞬かせた。
「あなたを侮辱したのですよ?」
何を当然のことを、と言わんばかりの口調だった。
「だからって伯爵領ひとつの祝福を止めるのはおかしいでしょう!」
「おかしいのは、私の『大切な方』を公衆の面前で笑いものにしたあちらです」
その言葉に、ユリウスは一瞬、何も返せなくなる。
エリシアは怒りに任せてやっているのではなく、本当にそうすることが当然だと思っている。
「それに」
エリシアは少しだけ視線を伏せた。
「ユリウス様は、きっと何もなさらないでしょう?」
「それはそうですよ」
「ご自分さえ我慢すればいいと、そう思われる」
まるで責めるような、それでいて悲しそうな声音だった。
「ですから、私が代わりに教えて差し上げるのです」
「何を?」
「ここから先は許さない、と」
白い花々が風に揺れる。
その聖女の中庭はあまりに穏やかで、彼女の言っていることだけが、ひどく恐ろしかった。
「エリシア様、あの人たちがしたことは確かに褒められたことではないかもしれません。でも、そこまでしなくても……」
「そこまで?」
エリシアは首をかしげる。
「まだ何もしておりませんよ」
ユリウスは背筋に冷たいものを感じた。
今のが「何もしていない」なら、この聖女が「する」と何が起こるのか。
「反省し、正式な謝罪があれば、対応を考えますわ」
「考える、というのは?」
「誠意によっては、一部は加護を戻して差し上げてもよいかと」
まるで近所の野良犬に餌を与えるかどうか程度の軽さで、王国有数の伯爵家の命運を口にする。
ユリウスは胃痛を覚えた。
「お願いですから、それ以上は……」
「ユリウス様」
エリシアが静かに彼の名を呼ぶ。
その微笑みは、相変わらず慈愛のこもった柔らかいものだった。けれど、瞳の奥には、ひどく残忍な光が宿っていた。
「私は正しいことをしていると思っています」
「……」
「あなたを傷つけた者が、何も失わずに済むほうが、おかしいのです」
その言葉には、恐ろしいほど迷いがなかった。
※
その翌日、ローゼンベルク伯爵家から、ベルナール男爵家に正式な使者がやってきた。
「謝罪」ではなかった。
呼び出しである。
「……断ってもいいですかね」
「だめだ、ユリウス」
父の即答に、ユリウスは深くため息をついた。
伯爵家からの書状は丁寧な文面だったが、高圧的な気配は隠しきれていない。来い、と命じているのだ。男爵家ごときに拒否権はない、と。
断れば男爵家に迷惑がかかる。行かないという選択肢はない。
ユリウスは観念して、ひとりで伯爵家の屋敷を訪れた。
応接間に通されると、ローゼンベルク伯爵は座ったままユリウスを睨みつけてきた。青ざめた顔の娘のベアトリーチェも隣に座っている。本人には領地の異変が自分のせいだという自覚があるのだろう。
「よく来たな、ベルナール卿」
その言葉に歓迎の響きは皆無だ。
「あの……どのようなご用件でしょうか」
「わかっておるだろう」
伯爵はドン、と机を叩いた。
「おまえは聖女様に何を吹き込んだんだ?」
やはりそのことか、とユリウスは思った。
「……いえ、僕は何も」
「しらばっくれるな!」
伯爵の怒声が響く。
「夜会の場で娘に恥をかかせただけでなく、我が伯爵領への祝福まで止めさせるとは。なんという卑劣なことをするのだ」
「僕はそんなことは……」
「黙れ」
有無を言わせまいという高圧的な言葉だった。
「聖女様は国の宝だ。おまえのような下級貴族が聖女様にものを申すなど思い上がりも甚だしい」
ユリウスは拳を握りしめた。
自分の言うことなど聞き入れてくれるどころか、むしろ振り回されているのだ。そう言いたかったが、伯爵が聞く耳を持つとは思えなかった。
「身の程を知れ、ベルナール卿。おまえはただの男爵家の次男なのだぞ」
ベアトリーチェが小さく笑う。
その笑みには、夜会のときと同じ嘲りがあった。先ほどまでは青い顔をしていたのに、解決策を見つけたと確信したのか、顔色も見る間に良くなっていた。
「今ここで、聖女様には今後一切お近づきにならないと誓いなさいませ。そうすれば、こちらも対応を考えて差し上げますわ」
「対応というのは……?」
「さあ? 少なくとも、男爵家がこれ以上社交界で恥をかかずには済むのではないかしら」
その言葉に、ユリウスの中で何かがプツリと切れた。
自分を侮辱するのはいい。
だが、家族まで巻き込んで脅すというのは違うのではないか。
「……お断りします」
伯爵の顔がより一層険しくなる。
「ほう」
「聖女様と僕の関係について、あなた方に命じられる筋合いはありません」
口にしてから、しまったと思った。
男爵家の次男が伯爵に向かって言って良い言葉ではない。
「愚か者が」
伯爵は再び強く机を叩いた。
「おまえのような者は、聖女様の優しさに触れるとすぐ勘違いしてつけあがるのだ。聖女様の慈悲につけ込んでいるだけの寄生虫が、よくもそのような口を……」
そのときだった。
ユリウスは悪寒を感じた。
室内の温度が一瞬のうちに、ふっと明らかに下がった。
次いで、何かが崩れるような音が響く。使用人たちの悲鳴と、駆け回る足音が聞こえた。
「な、何だ? 何事だ?」
伯爵が顔色を変える。
扉が乱暴に開かれ、顔面を蒼白にした執事が飛び込んできた。
「た、大変でございます、閣下! 祝福の光が消えてしまいました!」
伯爵の顔から血の気が引く。
ユリウスもまた、嫌な予感に胃を押さえた。
たぶん、というか間違いなく、あの聖女様だ。
「バ、バカな……っ」
伯爵がふらつき、ベアトリーチェの顔が再び蒼白になる。
「聖教会より急使が! ローゼンベルク伯爵家、およびその領地の加護を完全に解除すると……」
ベアトリーチェが悲鳴を上げた。
伯爵はユリウスを見た。
その目には怒りよりも先に、恐怖が浮かんでいた。
ユリウスは思った。
ああ、これはもうだめだ、と。
※
ローゼンベルク伯爵家を出たあと、ユリウスは半ば呆然としたまま王都の大通りを歩いていた。
悪寒がまだ体にまとわりついていた。
当然だろう。
伯爵家で脅された直後に祝福の光が消え、「加護」の完全解除の知らせが届いたのだ。
偶然であるはずがない。
王国を守る結界、各地の豊穣、疫病除け。
聖女エリシア・ブランシェの祝福は、もはや王国の重要な基盤のひとつだ。そんなものを個人の感情で止めたりしていいわけがない。
理屈では、そう思う。
けれど一方で、伯爵とベアトリーチェの言葉を思い出すと、納得のいかないこともある。
—— おまえのような下級貴族が聖女様にものを申すなど思い上がりも甚だしい。
聖女様も自分も同じ人間だ。なぜ話すことすら許されないのだ。
—— 男爵家がこれ以上社交界で恥をかかずには済むのではないかしら。
自分のことだけなら、まだ耐えられる。
だが家族を脅しに使われるのは違うのではないか。まして、あんなふうに見下されたまま黙って引き下がるのも、どうしようもなく惨めだった。
……いや、違う。
男爵家への脅しよりも、エリシアの気持ちを誤解されたことが悔しかったのだ。
彼女の優しさを「慈悲」や「施し」と言い、自分がそれに付け込んでいるかのように言われた。
そこまで考えて、ユリウスは頭を振った。
問題はそこではない。
今すぐ大聖堂へ行って、あの聖女を止めなければ大変なことになってしまう。
大聖堂に着いたときには、もう日が落ちかけていた。
だが聖女専用の一画は、外の時間と切り離されたように静かだった。白い柱や石壁に囲われた厳かな祈りの空間は、普段なら心を落ち着かせるはずなのに、今のユリウスには逆に居心地が悪い。
神官がユリウスの顔を見るなりそこへ通すのは、もはや常連のような扱いになっているからだろう。
エリシアは一人、ティーカップを前に座っていた。
扉が開く音に振り向き、エリシアは微笑む。
「ユリウス様」
その笑顔があまりにもいつも通りで、ユリウスは言うべきことを忘れそうになった。
「……来ると思っていたんですか」
「はい」
即答だった。
「伯爵家へ向かわれたと聞きましたから。あちらが愚かな態度を取れば、きっとすぐこちらへいらっしゃるだろうと」
わかっていたのか……。
「やっぱり、今日のあれもエリシア様ですよね」
「加護の停止の件でしたら、はい」
「はい、じゃないんです」
思わず声が少し強くなる。
「伯爵家の加護を止めたのですよ? 貴族家ひとつの面子の問題じゃない。使用人も、領民も、皆不安になるんです」
「そうですね」
「わかってるなら——」
「ですが、ユリウス様」
エリシアは穏やかな様子を崩さずに言葉を紡いだ。
「彼らはあなたのご家族まで侮辱しました」
ユリウスの口が止まる。
確かにそうだ。ユリウスもそれには腹が立った。だが、それとこれとは話が別だ。
「それでも、やりすぎです」
「そうでしょうか」
「そうです」
きっぱり言うと、エリシアは少しだけ不満そうな様子を見せた。
「……ユリウス様は、どうしていつもご自分がされたことを軽く扱われるのですか」
「軽くなんて」
「軽いでしょう」
エリシアはユリウスの言葉を遮った。
「夜会で笑われたときも。伯爵家で脅されたときも。あなたは最初から、ご自分が我慢すれば済むと考えていた」
「それは……」
「違いますか?」
違わない。ユリウスには返す言葉がなかった。
エリシアは立ち上がり、ゆっくりとユリウスのほうへ歩み寄った。
「私は、あの方々が嫌いなのではありません」
穏やかな声だった。
「ユリウス様を傷つけたことが、許せないだけです」
ユリウスにはエリシアのその考えがどうしても理解ができなかった。なぜ一介の男爵令息ごときのことにそこまで思うのか。
「どうしてそこまで……」
思わず口をついて出た問いに、エリシアは困ったように、けれどどこか懐かしむように微笑んだ。
「何も覚えていらっしゃらないのですね」
そう言われて、夜会でも似たやり取りをしたことをユリウスは思い出した。
あのときもエリシアは、「昔からそうだった」と言っていた。
「昔、会ったことがあるんですか、僕たち?」
「あります」
エリシアはユリウスをまっすぐ見つめた。
「十年前です」
「十年前……?」
ユリウスは記憶を探った。
十年前。今よりずっと幼く、まだ世の中のことも、貴族社会や家の事情も何も深く知らなかった頃。男爵家の次男として、気楽に過ごしていた頃のことだ。
おそらくエリシアもまだ幼かったはずだ。
「私が辺境の貧しい村から、王都にやってきて間もない頃のことです」
エリシアは、まだ考え込むユリウスの様子を見て、やはり、とでも言うように微笑んだ。
「私は、何も知らない田舎娘でした。それが突然、村の教会で受けさせられた『祝福適性試験』で、前例のないほどの光属性魔力が検出されたとかで、王都の大聖堂に行くよう言われたのです。私に『行かない』という選択肢は与えられませんでした」
ユリウスは記憶を探るのを諦め、エリシアの話を聞くことにした。
「私は、貧しさから抜け出せる嬉しさと、両親と離れ、未知の王都に行く不安と半々の気持ちでした。
実際に王都に来てみると、嬉しさの方はすぐに吹き飛びました。聖女候補としての修行は厳しく、文字も知らない私にとって魔導書を読めるようになるだけでもとてつもない苦労でした。学がないことで皆にバカにされ、辺境出身であることで激しい差別も受けました。
神官に連れられて王都の町を歩くと、私に聞こえるように『汚い』『品がない』など言われ、卵を投げつけられたことまでありました」
そこでエリシアはため息をついた。
「本当に辛かったのです……。
その生活に耐えられなくなった私は、ある日、大聖堂をこっそり抜け出しました。辺境に帰ろうと思ったのです。愚かな私は、王都に来て初めてわかったのです。この世には貧しさよりも辛いことがあるのだと」
そこでエリシアは目を伏せた。
「ですが、幼い少女の足で、辺境まで歩いていけるはずがありません。それどころか、道もろくにわからない私は、広大な王都から出ることすらできなかったのです。人に道を尋ねようにも、人々は汚いものでもみるように私を見て、避けるようにするのです。
辺境には帰れず、大聖堂に戻る道もわからず、途方に暮れた私は、王都の片隅で、うずくまって泣いていました。
やがて雨が降り始めました。雨宿りをしようとして近くのお店の軒先に入ろうとすると、店主が睨んで追い出します。
私はこの上なく惨めな気持ちでした。子どもながら、この世から消えてしまいたいと思いました。この王国のどこにも私の存在が許される場所はないのだと思いました。
私は再び雨の中にうずくまり、泣きました。泣いても泣いても涙が枯れることがないように思いました」
エリシアが再び顔を上げ、ユリウスの目を見た。
「そのとき、ふっと、何か上着のようなものを頭からかけられました。私は何が起こったのか理解ができず、驚きました。すると『寒いだろう』と声がありました。顔を上げると、私とあまり年端もいかないような男の子が立っていました。恥ずかしながら、私は暴行をされるだろうと思ったのです。ですが、その男の子は私の顔を見ると、にっこりと微笑み、『迷子? おうちはどこ?』と聞いてきました。大聖堂だと答えると、そこまで連れていってくれると言うのです」
エリシアがそこで初めて笑みを浮かべた。
「その男の子に手を引かれて行った、その大聖堂までの道のりは、それまでの私の人生で最も輝いた時間でした。男の子は、気後れしてきちんと喋れもしない私に、一生懸命話しかけてきました。人に親切にされることに慣れていなかった私は、戸惑いながらも、次第に話に夢中になっていました。
やがてその楽しい時間は終わり、大聖堂にたどり着いてしまいました。大聖堂を見上げてあなたは、『聖女様が現れて、王国を守ってくれるといいな』と言いました」
ユリウスはエリシアの話を聞いているうちに、その情景が頭に上ってくるのに気づいた。
雨の石畳。うずくまって泣いている白い服の少女。近づくなと誰かに言われていた気もするのに、放っておけず、自分の上着をかけた。
「……あ」
「思い出しましたか?」
ユリウスは思わず眉を寄せた。
「いや……うっすらですけど。確か、具合の悪そうな子がいて」
「ええ」
「迷子だというので、送っていきました。その子のおうちは大聖堂でした」
「はい」
そう言葉にしていくうち、自分でも驚くほど鮮明に記憶が蘇ってきた。
少女は震えていて、この世の終わりのように青ざめていて、それなのに妙に意地を張っていた。大丈夫だと言い張っているわりに、まったく大丈夫そうに見えないのに、と呆れた記憶がある。
確か、自分はその子の名前も聞かなかった。
「まさか……あれが、エリシア様?」
「はい」
エリシアは、ただ静かにうなずいた。
「あなたは私が何者かも知らず、聖女候補としての価値も知らず、辺境出身のみすぼらしい少女にただ手を差し伸べ、微笑みかけてくれたのです」
淡い金の瞳が、まっすぐユリウスを映す。
「私にとって、ひとりの人間として扱われたのは、あれが初めてでした」
その言葉は重かった。
ユリウスにとっては、ほとんど覚えていないほどの出来事だった。たまたま通りかかりで目にした少女を放っておけなかっただけ。それがエリシアでなくとも、同じことをしたはずだ。
ユリウスにとっては取るに足らないことが、エリシアにとってはその程度のことではなかった。
「それから、私はずっと覚えていました。ユリウス・ベルナールという名前のあの男の子のことを」
エリシアは一歩だけ近づいた。
「誰も近寄らなかったあの日、あなたは私に触れてくださいました」
その距離で見つめられて、ユリウスはどきりとした。
「あのときから、私は決めたのです。あなたに相応しい女性——聖女になると。そして、もしあなたを傷つけるものがあれば、必ずあなたを守ると」
その声は、穏やかで、優しく——そして、どうしようもなく重かった。
ユリウスはようやく理解した。
この人にとって自分は、単なる「気に入った」程度の相手ではない。
過去そのものに結びついた、たったひとつの救いなのだ。
「……でも」
それでも、言わなければならない。
「だからって、伯爵家ひとつ潰しかけるのはだめでしょう」
少し沈黙した後、エリシアはくすりと笑った。
「そこは譲れないのですね」
「当然です」
「安心してください。まだ完全に潰してはおりません」
「まだ?」
「彼らの誠意次第です」
やっぱりだめだこの人、とユリウスは思った。
※
ローゼンベルク伯爵家の一件は、当然のように王都中に広まった。
夜会で聖女に睨まれた伯爵令嬢。その数日後に祝福を失った伯爵領。
さらにその遠因として、男爵令息ユリウス・ベルナールの名が付加して語られた。
そして、多くの王侯貴族が、聖女の寵愛を男爵令息ごときが受けていることを不審に思い、あるいは不快に思っていた。
その筆頭が、王太子レオンハルトだった。
王城からの召喚状が届いたのは、それから三日後のことだった。
「……行かないとだめですかね」
ユリウスが書状を前にそう呟くと、父は呆れたように「王太子殿下の召喚だ」、とだけ言った。
胃が痛い。
王太子といえば、次代の国王となることが約束された存在であり、ユリウスのような男爵家の次男では、本来一生まともに口をきくこともない相手である。
そんな人物がわざわざ呼び出してきた理由など、考えるまでもない。
聖女だ。
絶対にろくでもない話になる。
王城の一室は、豪奢さのわりに妙に冷たく感じられた。
部屋に待ち構えていた王太子レオンハルトは、金髪碧眼の美しい青年だった。いかにも王族らしい威厳と華やかさを備えているが、ユリウスを見る目は明らかに好意的なものではなかった。
王太子はユリウスに席を勧めることもなく言った。
「ユリウス・ベルナールだな?」
「は」
レオンハルトは値踏みするかのようにユリウスを見た。なぜこのような平凡な男爵令息ごときが、とでも思っているのだろう。
「本日はどのようなご用件でしょう」
ユリウスはいたたまれない気持ちになって尋ねた。尋ねたものの、用件の見当はついている。
「単刀直入に言おう」
レオンハルトはユリウスをまっすぐ見た。
「聖女エリシアから離れよ」
やはりか。
ユリウスはため息をつきたかった。
伯爵といい王太子といい、どうして自分からあの聖女様に近づいていると考えるのか。むしろこちらが振り回されている側なのだ。
警告するなら、聖女のほうに、ユリウス・ベルナールから離れろと言うべきなのだ。
「私から聖女様に近づいているつもりはないのですが……」
「たとえ聖女の側からの招待があっても断るのだ。いかなる接触も許さん」
あまりにもはっきりとした命令だった。
「聖女は王国の宝だ。男爵令息ごときが独占してよい存在ではない」
「独占などしておりません」
「しているつもりはなくとも、結果としてそう見えているのだ」
レオンハルトは淡々と言う。
「現に聖女は、おまえに関わることで伯爵家への祝福を止めた。あんなことが今後も続けば、王国に甚大な被害が及ぶ」
それはそうだと思い、ユリウスは反論ができなかった。
「もう一つ大事なことを伝えておこう」
レオンハルトは事務連絡のように言葉を続ける。
「聖女は俺と婚約する。先ほど、王家からの正式な申し出をしたところだ。王国の宝は相応しいところに収まらなければならない。ろくな後ろ盾もなく、教養も家格も足りぬ下級貴族の次男なぞが聖女の隣に立つとは、あまりに見苦しい」
「えっ?」
「聖女は王家にこそ相応しいということだ」
ユリウスも貴族の端くれとして、聖女がそのような身分であることは理解している。
しかし——エリシアはこの王太子レオンハルトに嫁いで幸せになれるのだろうか? エリシアを「王国の宝」としか思っていないレオンハルトは、聖女を道具のようなものとしてしか見ていないのではないか? 独占を許さないと言いながら、王家と王太子で独占するつもりなのではないか。王国の皆のための聖女に、なぜ自分だけが接触できないという理不尽を受けなければならないのか?
考えれば考えるほど、ユリウスの中に不信感が渦巻いた。
「わかったら、おまえは身を引け。それが自分のためでもあり、家のためでもある」
つまり従わなければ、男爵家ごと圧力をかけると言っているのだ。
ユリウスの中で何かがプツンと音を立てて切れた。伯爵といい、王太子といい、なぜ関係のない家族まで巻き込もうとするのか。
「……お断りしたら、どうなさるのですか」
気づけば、そんなことを口にしていた。
レオンハルトがわずかに顔を顰めた。
「賢い返答ではないな」
「質問に答えてください」
「必要なら、ベルナール家の王都での立場を見直すことになるだろう。社交界での扱いも、役職も、領地への配慮もだ。場合によっては爵位そのものの見直しもあるだろう」
やはり脅しだ。
なぜ王侯貴族は脅しと褒賞で何でも自分の思い通りにできると考えるのだろう。それだけでは動かせない人の心もあるということを知らないかのようだ。
ユリウスはゆっくり息を吐いた。
本当ならここで頭を下げ、家のために従うべきなのだろう。男爵家の次男が王太子に逆らって得るものなど何もない。
けれど、それでも。
「……レオンハルト殿下」
「何だ」
「エリシア様は、『物』ではありません」
レオンハルトは、ユリウスが何の話をしているのか理解できないようだった。
ユリウスは自分でも、よくこんなことを言えたものだと思う。けれど一度口に出した以上、もう止まらなかった。
「王国の宝であろうと、あの方が誰を大切に思うかまで、王家が決めていいことではないでしょう」
レオンハルトがユリウスを睨む。
「おまえごときが、私に説教するのか」
「説教のつもりはありません。ただ、僕があの方を独占していると非難されながら、むしろ王太子殿下が独占して、あの方を利用されようとするのはおやめいただきたいのです。あの方に少しでも敬意をお向けください」
言い切った瞬間、終わったかもしれない、とユリウスは思った。
王太子の顔が怒りを通り越して、愉快そうな笑みを浮かべた。
「そこまで意見するとは、ずいぶんと大きく出たものだな、男爵令息」
低く静かな声。怒鳴られるよりずっと怖い。
「おまえは、男爵令息の分際で、自分が特別だとでも思っているのか」
「そんなことは思っていません」
「ならば身の程を知れ」
王太子が言い放った、そのときだった。
部屋の空気がふっと冷えた。
ユリウスはつい先日同じ体験をしたのを思い出した。
——伯爵家と同じだ。
王太子も異変に気づく。
「何が起きた……?」
次の瞬間、部屋の外がにわかに騒がしくなった。複数の足音、遠くから上がる悲鳴、甲高い指示の声。扉が叩かれ、護衛騎士が顔を蒼白にして、部屋に飛び込んでくる。
「殿下! 王城の結界が急激に弱まっております! 神官たちが対応中ですが、王城礼拝堂の聖火も消え……」
「何だと!?」
レオンハルトがそこで初めて動揺を露わにした。
ユリウスは両手で顔を覆いたくなった。
来た。
また、あの聖女だ。
騎士はさらに青ざめた顔で言う。
「それと……大聖堂から急使が。聖女様が、国王陛下との面会を求めておられます」
「何だと?」
「その……非常にお怒りのご様子で」
非常にお怒り——普段は穏やかな聖女に最も似つかわしくない表現だ。正直なところ、王太子などの怒りよりよほど恐ろしい。
レオンハルトはユリウスを見た。
その顔には怒りと困惑と、そしてわずかな焦りが混じっている。
「……ベルナール」
「はい」
「おまえ、何をした」
「何もしていません」
本当にそのとおりなので、聞かれても困る。
ただ、ひとつだけ確実にわかることがあった。
今この瞬間、聖女エリシア・ブランシェは、王家に対してすら一歩も引く気がない。
ユリウスは心の底から、嫌な予感しかしなかった。
※
国王陛下との面会が求められている——その報告を受けた瞬間、王太子の執務室の空気は張り詰めたものになっていた。
「殿下、御身を安全なところへお移しください」
護衛騎士が焦った声で言う。
だがレオンハルトは、数秒遅れてようやく我に返ったように反応した。
「……よい。俺も聖女に会おう」
苦々しげな声だった。
先ほどまで、ユリウスとだけ対峙していたときの余裕は消えているが、それでもレオンハルトは王太子としての威厳を保とうとしているようだった。
そしてその視線が、ユリウスへ向く。
「ベルナール」
「はい」
「おまえも来い」
嫌な予感しかなかった。
だが断れるわけもない。ユリウスは内心で胃を押さえつつ、黙って一礼した。
聖女との会見の場として用意されたのは、王城奥の謁見の間だった。
豪奢ではあるが、人目はない。王家のごく限られた者と、教会の上層部、それに王太子とユリウスだけが通されていた。
老いた大司教の顔色は、ひどいものだった。
もともと白い顔がさらに青ざめ、今にも倒れそうである。王城の結界異常と、聖女の怒り、その両方を現場で説明させられる立場なのだから無理もない。
国王フリードリヒは高い椅子に腰掛けていた。年齢相応の落ち着きをたたえた威厳ある人物だ。
そして、謁見の間の中央に、エリシア・ブランシェはすでに立っていた。
純白の法衣に、いつもの穏やかな表情。
だがその静けさは、優しさというより、嵐の前の静けさのようだった。
エリシアはユリウスが入ってきたことに気づき、ほんの一瞬だけこちらを見て微笑んだ。
その視線には、安堵と、ひどく深い怒りが同時に混じっていた。
「聖女エリシア・ブランシェ」
国王が先に口を開いた。
「急な願い出とはいえ、事情は聞いておる。まずは王城の結界異常について説明してもらおうか」
「はい、陛下」
エリシアは一礼し、静かに答えた。
「王太子殿下がユリウス・ベルナール様に圧力をかけたため、私が王城への祝福を一部制限しました」
場が凍った。
国王への説明としてはあまりにも率直すぎる。
聖女の後ろにいた大司教が震える声で口を挟む。
「せ、聖女殿……っ、いくら何でもそのような言い方は……」
「事実です」
エリシアは振り向きもせず言い切った。
「私は虚偽を申しません」
大司教は口をぱくぱくさせたあと、項垂れた。反論できないらしい。
王太子が一歩前に出る。
「父上。ご覧のとおりです。この者は一個人への執着ゆえに、国家の安全を脅かそうとしております」
レオンハルトは冷静さを取り戻しているように見えた。
やはりこの人は馬鹿ではない、とユリウスは思う。ここで感情に任せて怒鳴れば、聖女の逆鱗に触れて完全に終わるだろう。だから王太子は、あくまで「国のため」という理屈を出して、一個人の感情で祝福を止めようとするエリシアの愚かさを指摘しようとしているのだ。
「聖女エリシア。おまえの力が王国にとってどれほど重要か、自分でもわかっているはずだ」
国王もまた、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「わかっております、陛下」
「ならば、なぜ」
「ですが」
エリシアが、まっすぐ王を見返す。
「私の力は、民のためにこそ使われるべきです」
「それは当然だ」
「ええ。ですから私は、民のために祈り、病を癒やし、土地を清めてまいりました」
その声はどこまでも穏やかだ。
「ですが、王家は私の力を私欲のために利用しようとしているのではないですか?」
レオンハルトの眉がぴくりと動いた。
「王家は王国のために聖女の力を使うと約束しよう」
「王国のためであって、王国の民のためではないのですよね」
そう言ってエリシアはため息をつく。
「だから聖女のいない時代に、王国は荒むのです。民を見ずに、王家の利益しか見ていないのです。私が祝福を止めただけで、狼狽えているのがその証拠です。聖女の祝福にばかり頼って、王家は民のために何をしているのです?」
「王家は兵を持ち、外敵を守り、治安を維持している」
レオンハルトが答える。
「兵も、結局は王家を守り、王家の法律を守るための道具として使っているだけでしょう? 聖女もただの道具。結局、王家が民の幸せのためにしていることなど、何もないのです」
「誰も聖女を道具などとは……」
「見ています」
エリシアが王太子の言葉を遮った。
「少なくとも殿下は、そうご覧になっている」
王太子の目が細まる。
「……感情論だな」
「そうでしょうか」
エリシアは首をかしげた。
「殿下はユリウス様に、私に近づかないよう、お命じになったのではないですか? そして私に婚約をお申し込みになった」
「国の安定のためだ」
「私の意思を一度でもお尋ねになりましたか?」
「必要ない。おまえは王国の聖女だ」
レオンハルトのその言葉が発せられた瞬間、ユリウスは背筋が冷たくなるのを感じた。
ああ、駄目だ。その言い方はまずい。
案の定、エリシアの瞳から、最後の慈悲の光が消えた。
エリシアがユリウスのほうへ視線を向ける。
「ユリウス様」
「……はい?」
突然、声をかけられ、ユリウスは狼狽える。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいですか?」
この状況で何を聞くのか。
ユリウスが戸惑うが、構わずエリシアは続ける。
「殿下から、どのようなお言葉を受けましたか」
謁見の間にいるすべての者たちの視線がユリウスに注がれる。
正直に言えば火に油を注ぐ。だがここで誤魔化したところで、事態が収集できるとも思えない。
ユリウスはなるべく感情を挟まず、ただ事実を述べようと努めた。
「……エリシア様は王国の宝で、下級貴族の次男の僕が、あなたの隣に立つのは見苦しい、と」
言ってしまってから、しまったと思った。
だがもう遅い。
エリシアは冷たい目をしたまま、何も言わなかった。
ただ、彼女の足元から、淡い光がすっと広がっていく。祈りや祝福の場でよく見るそれとは似て非なるものだった。
大司教が半ば悲鳴のように叫ぶ。
「聖女殿、お鎮まりください! ここは王城で——」
「存じています」
エリシアは静かに答えた。
次の瞬間
窓の外が突如黒くなる。
その異変に誰もが息を飲む。
「な……」
王太子が絶句する。
大司教はその場に膝をつき、額を床に擦りつけた。
エリシアは、静かな、冷たい声で言った。
「私は世界を救えと、ずっと言われてきました」
「……」
「でも、誰も私を救おうとしてくれる方はいませんでした。なぜそんな人々を救わなければならないのですか?」
誰も何も言わず、聖女の言葉と、これから何が起こるのかを注視していた。
「私を救ったのは、この王国でも、教会でも、王家でもありません」
彼女の視線が、ユリウスへ向く。
「雨の中で震えていた、名も知らぬ少女に、ただ上着をかけてくださった方でした」
ユリウスの胸が、どくりと大きく鳴った。
「私はあの日、知ったのです。私が恩を返し、助けるべきはその方なのだと。——私は王国も王国の人々も大嫌いなのです。私が王国に祝福を与えたのは、それがそのお優しい方の願いだったからです」
その場にいた誰もが、その言葉に戦慄した。
空が雷鳴を上げ始め、王城が震動する。
「それなのに、その方を蔑ろにし、踏みにじり、身分で値踏みし、私の意思さえ顧みず引き離そうとするのであれば」
エリシアはそこで一度だけ目を閉じた。
そして再び開く。
「そのような者たちに、祝福を与える理由はないでしょう?」
レオンハルトの顔色が、目に見えて変わる。
一方でユリウスは大変なことが起きてしまうのではないかと焦燥していた。もし自分の存在のために、多くの人々に害が及ぼされるのであれば……
そのとき、国王がゆっくりと立ち上がった。
その顔には、もはや迷いがなかった。
国王はエリシアへ向き直る。
「聖女エリシア・ブランシェ。そなたの意思は理解した」
「……」
「王家は今後、ユリウス・ベルナールとその家に対し、不当な圧力を加えぬ。ローゼンベルク伯爵家の件も含め、改めて処置を検討する」
エリシアの目に慈悲の光がわずかに戻る。
「ありがとうございます、陛下」
エリシアは静かに一礼した。
だが国王は、続けて重く言う。
「ただし、そなたもまた自重せよ。王都の結界まで揺るがすような真似は、余も看過できぬ」
「承知しております」
そう答えた彼女は、ほんの一瞬だけ、疲れたように目を伏せた。
ユリウスはその変化を見逃さなかった。
「王太子殿下の処置もご検討ください。王都の結界を解除させる原因を作ったのは王太子殿下なのですから。
それからもちろん——」
エリシアが冷たい微笑みを浮かべる。
「婚約のお申し出は、お断りします」
※
その後の処理は、驚くほど早かった。
ローゼンベルク伯爵家は聖教会との関係見直しを命じられ、王都社交界からも実質的に切り離された。表向きは「聖女と聖教会への無礼」が理由とされた。
王太子レオンハルトは、しばらく公の場から退くこととなった。処分名目は「王城結界の管理不手際による謹慎」という曖昧なものだったが、これもまた実質的には失脚に近い。
ベルナール男爵家には、王家と聖教会の両方から保護と支援が与えられた。
あまりにも急激な扱いの変化に、父の男爵は状況についていけず、ユリウスにも喜ぶほどの余裕はなかった。
騒動が大きすぎたのである。
王都じゅうがまだざわついているその夜、ユリウスはひとり大聖堂へ向かった。
何を言うべきかは決まっていない。
ただ、あのあとエリシアの顔色が少し悪かったのが、どうしても気になっていた。
通されたのは、聖女専用の庭園だった。
夜風が吹き、月光が柔らかに降り注いでいる。昼間とは違う、静かで、少しだけ寂しい場所だった。
そこに、エリシアは立っていた。
王城で見せたあの圧倒的な聖女の姿はもうなかった。ただ白い法衣をまとった、ひどく綺麗で、ひどくか弱いひとりの女性がいるだけだ。
「エリシア様」
呼ぶと、彼女はゆっくり振り向いた。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「……やはり来てくださいましたね」
「そりゃ、来ますよ」
ユリウスは近づきながら、心配そうにエリシアの様子を窺った。
「顔色が悪いですよ」
「平気です」
「信用できませんね」
「なぜでしょう」
「昔からそう言ってたからです」
エリシアが目を見開いてユリウスを見つめる。
昔——十年前の雨の日のエリシアと、今のエリシアが重なってユリウスには見えていた。
エリシアは視線を逸らし、ほんの少しだけ笑った。
「……覚えていてくださったのですね」
「少しずつですが、思い出しました」
ユリウスは彼女の隣まで来て、同じ夜風を受けた。
しばらくの間、二人は沈黙した。
やがてユリウスが言った。
「今回は、さすがにやりすぎです」
エリシアは少しだけ目を伏せてうなずく。
「……はい」
あまりに素直に認めるので、ユリウスは逆に拍子抜けした。
「王城の結界までどうにかするつもりは、本当はありませんでした。ただ……」
エリシアはだだをこねる少女のように口を尖らせた。
「あなたが、殿下に何を言われたのか知ったら」
月明かりの下で見るエリシアの横顔は美しく、少しだけ頼りなかった。
「止まりませんでした」
小さな声だった。
ユリウスはそれを聞いて、怒る気が少しだけ薄れてしまうのを感じた。
「……怖かったです」
「そりゃ怖いでしょう。結界の解除どころか、天変地異でも起こすのかと思いましたよ」
「……」
沈黙のあと、エリシアはほんのわずか俯いた。
「……申し訳ありません」
それは意外な言葉だった。
エリシアが謝るとは思わなかったので、ユリウスはむしろそちらに驚いた。
彼女は続ける。
「嫌われたかと思いました。あなたを失うんじゃないかと怖くなりました。あなたはご自分に責任を感じて、自死すら考えていたのではないですか?」
その一言に、ユリウスは何も返せなくなった。
あれほどの奇跡を起こし、王や王太子を正面から黙らせ、国の方針さえ変えてしまった聖女が、たった一人の平凡な男爵令息に嫌われ、失うことを恐れている。
それが、どうしようもなく切なかった。
「あなたが私から離れてしまっていくのではないかと不安なのです。私はただあなたを守りたいだけなのに」
エリシアは、夜の庭を見ながら言う。
「ずっと。あの日から、ずっと」
「……」
「私は、たくさんの人を救えと言われてきました。でも、実際には誰も救えていないのだと思います。救われたかったのは……たぶん、ずっと私のほうでした」
「エリシア様……」
「あなたに」
エリシアは静かに微笑んだ。
ユリウスはしばらく黙っていた。
自分に何が言えるのか、正直わからなかった。
ユリウスは肩から上着を外し、そっとエリシアの肩にかけた。
「ユリウス様……?」
「……僕にできるのはこの程度のことです」
そのとき、中庭にポツポツと雨粒が落ち始めた。
「嫌いにはなれませんよ」
ユリウスが言った。
「放っておけないんです、エリシア様のことが。十年前もたぶん、そうだったんだと思います」
「……」
「だから、その……」
ユリウスは少し迷ってから、視線を逸らしたまま続ける。
「少しは僕にも頼ってください。大したことはできないですが」
長い沈黙があった。
月明かりの下で、エリシアはその美しい瞳で、ただじっとユリウスを見つめている。
やがてエリシアが口を開く。
「それは、とても難しいお願いですね」
「難しいんですか」
「あなたは私に多くのものをくださいました。あなたを頼ってしまうと、あなたに恩を返しきれなくなってしまいます」
「そんな大したことをした覚えはないですが……」
エリシアはユリウスの言葉を無視して続ける。
「……でも、努力はしてみます」
エリシアが小さく微笑む。
聖女様は、たぶんこれからも加減を間違えることがあるだろう。それでも、少しでも自分が支えよう、とユリウスは思った。
夜風と小雨の中、エリシアが小さく呟く。
「ユリウス様」
「はい」
「今日は、来てくださってありがとうございます」
ユリウスは小さく笑って答えた。
「いえ……。でも、次に何かするときは相談してくださいよ」
「善処します」
「信用できないな……」
そう言うと、エリシアはほんの少し声を漏らして笑った。
その笑みは、王国中が崇める聖女のものではなく、十年前、雨の中で震えていた少女が、大聖堂への帰り道で見せた、あの笑顔だった。
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