聖域
「ボクの名は、レヴァ。この正しく、美しく歪んだ世界を護ってきた者だ」
レヴァと名乗った犬が、胸を張るように言った。
レヴァというのは、畏れ多くもこの世界の七聖獣の一角である大地の聖獣の名だ。
そして、この帝国の初代皇帝と共にあり、導き手となった存在でもある。
その名を聞いた瞬間、リナリアは硬直した。
ひれ伏すべき?
それとも――
「あ、いいよいいよ。そういうの。面倒臭いから」
「え、えええ……」
「そんなことより、ちょっと問題があるんだけど」
そう言ったレヴァが、街の外へ繋がる道を見た。
釣られてリナリアも、浅堀の中から視線を送る。
大きな土煙が立っていた。
歪な叫び声と、獣のような咆哮も聞こえる。
「ボクが顔を出した影響で、結界がちょっと乱れたみたいだ。ほら、アソコ」
レヴァが空を見上げる。
そこには、レヴァが現れたときの光によって貫かれた空があった。
わずかに、光の裂け目が見える。
「あ、あ、あれって、どういう……?」
「結界の綻びだよ。君に気付いてボクが顔を上げ、世界を覆っていた古い檻の崩壊が早まったんだ。それを見つけた魔獣が、ほら、この街を襲うってわけ」
「え、え、お、襲うって……!?」
リナリアは浅堀から這い上がる。
眼前に、街へ迫る魔獣の群れ。
その脅威に気付いた街の人々が、慌てふためき、悲鳴をあげ、逃げていた。
「さあて、どうしよう? どうしたい?」
平然とした声で、レヴァが言う。
「ど、どうすれば?」
「どうすれば、だって? その答えは、もう君の中にあると思うけど」
「え、わ、私の中に?」
混乱するリナリアの横で、レヴァは退屈そうに前足で耳を掻いた。
「そうさ。君はさっき、その『石ころ』を読み解いて、リミッターの外し方に気付いた。……完璧を崇敬する帝国の連中が、一生かけても辿り着けない場所へ来たんだ」
街の悲鳴が、リナリアの鼓動を早める。
逃げ惑う人々。歪んだ情を膨らませた店主。嘲笑った令嬢たち。
街を守るために駆け付けてきた騎士たち、魔導士たちは、為すすべなく蹴散らされていく。
見捨てて、逃げてもいいのでは。
一瞬、そんな想いがリナリアの脳裏をよぎった。
けれど、阿鼻叫喚の地獄絵図を前に、リナリアは踏みとどまる。
いつの間にか指先が無意識に動き、空中に「あり得ない線」を描き始めていた。
(……できる、かも。……今の私なら、今の、この想いを、魔法陣に……繋げられる……!)
リナリアは深く息を吐く。
泥だらけの手のひら。
自分を蔑み、除外しようとした街の、その石畳へと叩きつけた。
『選別を棄て、純なる原型へと還れ。 歪みの深淵、秘めたる核。何者にも侵されず、永久に傷付かぬ【聖域】を呼び起こせ』
選び除けられた、苦さ。
その想いが、魔法陣の安全装置へと繋がり、解いていく。
矛盾を孕む歪な魔法陣の線が、光を呼び起こす。
やがて、光が天を衝いた。
帝国の魔法では作り上げられない、限界を超えた「歪な光」だ。
ドォォォォォン! と。
腹にひびくような重低音が、街を震わせる。
リナリアが描いた魔法陣を中心に、青白い光が地を這い、街全体を網目状に包み込んでいく。
それは、帝国が誇る「美しい結界」ではない。
まるで生き物のように揺らめき、不規則に脈動する「聖域」の壁だった。
「へぇ……。魔獣を倒すんじゃなくて、街の定義を書き換えたか。面白い」
レヴァが満足げに目を細める。
迫り来る魔獣たちが、その光の膜に触れた瞬間――。
壁に激突したかのように、魔獣たちの勢いが完全に止まった。
すでに街へ侵入していた魔獣も、聖域の光に押しつぶされ、身動きできないでいる。
魔獣にとって、リナリアが展開した「聖域」の内側は、もはや元の世界と違う「異界」となっていた。
混乱する街の広場で、ただひとり、その光景を冷静に見つめる男がいた。
街への馬車で同乗していた、あの男だった。
「……なんだ、ありゃあ。帝国の魔導士の仕業じゃねえな。もっと、泥臭くて、……とんでもなくデカい力が動いてやがる」
男は、背負っていた大剣を引き抜いた。
聖域によって鈍化した魔獣は、彼にとって「絶好の獲物」だった。
「イグニスさん、やるんです? 馬鹿でかい魔獣もいるっスけど」
「やるに決まってんだろ。こんなに楽な仕事はねえ。野郎ども、仕事だ! 街の騎士団が出張ってくる前に、俺たちだけでやっちまうぞ!」
イグニスと呼ばれた男が、咆える。
周囲にいた男たちが応じ、聖域の内外にいる魔獣へ突進していった。
リナリアは、膝をつき、激しく呼吸を乱しながらその光景を見ていた。
全身の血管。熱い魔力が駆け抜け、魂が削れるような感覚。
しかし、今までにない確かな色彩が、心身に宿っている。
「……できた。私でも、これだけのことが……」
街を守るために刻まれた、石畳の歪な魔法陣。
それが、後に街の魔導士たちの手によって「不浄」として破壊され、悲劇を招く引き金になるとは、今の彼女はまだ知る由もなかった。




