第38話 再会と誓いの夜
がちゃり、と鉄製の扉が開く音が響いた。
ジュリアは咄嗟に顔を上げた。
現れたのは、白い仮面をつけた黒装束の男。
無言のまま、じっと見下ろしていた。
その足が一歩、石床を踏む。
――背後の月光が、仮面の縁で淡く閃いた。
ジュリアは目を逸らさなかった。
恐怖を無理やり封じ込め、まっすぐにその男を睨み返す。
震える指先は握りしめることで堪え、唇を真一文字に結び――少女は毅然と立ち向かっていた。
次の瞬間。
仮面の男の身体が、ぐらりと揺れた。
白い面が傾き、静かに倒れ込み、鈍い音を響かせて床に崩れた。
その背には、斜めに走る深い斬撃が刻まれていた。
奥の暗がりから、ひとりの男が歩み出てくる。
「……遅くなったな」
低く、穏やかな声。
ジュリアの瞳が大きく見開かれる。
期待してはいけないと幾度も戒めながら、それでも心の奥で待ち望んでいた男が――そこにいた。
「シモン……!」
一歩、駆け寄りかけた足が止まる。
ジュリアは息を詰め、枷をはめられた両手で胸元を押さえ、わずかに肩を震わせた。
毅然と保っていたはずの表情が、みるみる崩れていくのを、シモンははっきりと見て取る。
唇を噛み、俯いたまま――それでも、彼女は言葉を絞り出した。
「……なんで……助けに来たの。……私、シモンの手……裏切っちゃったのに」
沈黙が落ちる。
ジュリアの胸中には喜びか、安堵か、後悔か、もしくは後ろめたさか。
恐らく、それらすべてがごちゃ混ぜになって胸をかき乱し、言葉にならない想いが溢れていたのだろう。
シモンは、そんなふうに受け止めた。
しばしののち、シモンはぽつりと呟いた。
「……どうしてだろうな。自分でも、よくわからないさ」
その声音には、迷いと確信がないまぜになっていた。
「……でも――助けたいって思った。そうしたら、もう……走ってた」
「……バカ……そんなの全然わからない」
ジュリアは顔を伏せたまま、声を震わせる。
「お前に聞かれるまで、理由なんて考えもしなかった。……それじゃダメか?」
シモンは穏やかに微笑み、静かに答えた。
少しの沈黙。
ぐっと息を詰め、ジュリアは顔を上げる。
涙を溜めた瞳を揺らしながら、それでも絞り出すように言葉を続ける。
「……バカ……バカ……」
その言葉は誰に向けられたのだろう。
行き先の付かないジュリアの呟きは、頼りなく震えていた。
「……ごめん……」
小さく震えた声は掠れていた。
だが、はっきりと素直にシモンへと向けられていた。
「…………ありがとう」
その一言に、心の底の本音がすべて込められていた気がした。
気高さも、誇りも、怒りも、恐れも――その一瞬だけは手放してよかった。
一人の少女として、ありのままの声を紡ぐことを、自分に許したのだろう。
はらりと、涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
次の瞬間、ジュリアは駆け寄っていた。
ためらいなど、もうなかった。
血に汚れた彼の胸元へ、手枷をつけたままの小さな身体を、強く――ぶつけるように預ける。
「……シモン……」
かすれた声は震え、胸元に押しつけた頬から熱い涙が染みていく。
シモンは少し驚いたように目を丸くし、それからゆっくりと両腕を回した。
血の匂いを纏った身体でありながら、その抱擁はただやさしく、静かだった。
「……よかった。無事で……」
その言葉に、ジュリアは声を返せず、ただ涙をあふれさせながら、小さく何度もうなずいた。
石壁に閉ざされた小部屋は、外の騒めきも、風の囁きも届かない。
ただ窓から差し込む銀光だけが、二人を包み込み――刹那の安らぎを与えていた。
名残惜しさと共に身体を離すと、ジュリアは涙を拭い、表情を引き締めた。
その瞬間、シモンは彼女の両手を縛る手枷型の魔導拘束具にそっと触れた。
次の刹那――淡い光が走り、重い枷がかちゃりと音を立てて外れる。
「……え?」
ジュリアは思わず目を見開いた。
その表情に走った戸惑いを見て、シモンは一瞬、視線を自分の手元へ落とす。
魔導具が魔素、あるいは魔力によって制御するのはこの世界の常識だ。
枷は、ただ触れただけで外れるような代物ではない。
ましてシモンは魔法士でもない――そう理解しているからこそ、彼女の反応は当然だった。
ジュリアは何かを考え込むように眉をひそめたが、すぐに小さく首を振る。
――何も聞いてこないジュリアに、シモンは静かに、短く告げる。
「ここから出よう。動けるか?」
シモンの問いかけに、ジュリアは力強くうなずいた。
「うん、大丈夫。……あ、でも――もうひとり」
「もうひとり?」
ジュリアの声は真剣だった。
捕らわれの日々、夜ごとにどこかから微かに聞こえてきた声があったという。
幼い泣き声。すすり泣くような、助けを乞う声。
冷たい石壁を隔てて届くその響きは、幻聴かと疑ったこともあると、彼女は言う。
それでも――あの声は、きっと誰かが必死に生きようとして漏らしたものだと。
自分と同じように、攫われてきた少女がいるかもしれない、と。
ジュリアはその思いを、まっすぐにシモンへ告げた。
シモンはふと、あの羊皮紙を思い出す。ハルカが無言で託した、もう一つの記号。
(……やはり、そういうことか)
この塔に来た時から気づいてはいた。
気にはなっていたが、何よりも優先したのはジュリアだった。
憂慮すべき事柄ではあったが、優先順位を違える余地はなかった。
だからこそ、あえて一つを選び、ここまで最短で駆け抜けてきた。
そして今、ジュリアの口から語られたことで、確信は揺るぎないものとなった。
(……なるほどな)
ほんの僅かに目を伏せ、息を吐く。
その吐息には、重く澱んだ空気を払いのけるような決意が滲んでいた。
ジュリア救出を果たした今、まだ助けられる命があるのであれば――助ける。
シモンにとって、それは特別な決断ではなく、当たり前の選択にすぎなかった。
「シモン、お願い。助けてあげたいの。あの声を……見捨てたくない」
ジュリアの声は決して揺らがなかった。
その瞳には、確かな願いと決意が宿っていた。
シモンは深く頷いた。それだけで全てを受け止めるように。
「……急ごう。時間はないが、見殺しにはしない」
短い言葉に、ジュリアは息を詰め、確かに頷いた。
二人は急ぎ、塔を降りる。
石造りの階段は冷たく湿り、踏みしめるごとに緊張が増していく。
壁の魔導灯は灯っておらず、月光も届かない暗がりは、まるで底の見えぬ井戸のようだった。
ハルカが示した印を目指し、重苦しい沈黙のなかを進む。
やがて辿り着いた先――厚い鉄扉の向こうから、かすかなすすり泣きが漏れ聞こえてきた。
ジュリアは確信した瞳で、シモンを伺う。
シモンはジュリアの視線を受け、扉に目をやると、一瞥しただけで錠前を斬り裂いた。
甲高い音と共に錠が割れ、ぎぃ、と軋むように扉が開く。
その奥。
小さな檻の中に、紫髪の少女が身を縮めて震えていた。痩せ細った腕を胸に抱き、怯えた瞳は涙で潤み、声にならない嗚咽だけが喉から洩れていた。
月光に照らされたその姿は、あまりに幼く、儚げだった。
扉が開いた瞬間、少女は恐る恐る顔を上げた。細い肩をすくめ、揺れる瞳で二人を見つめる。敵か味方か判断がつかず、檻の奥でさらに身を縮めてしまう。
ジュリアは一歩、膝を折るようにしてしゃがみ込み、怯えた瞳と同じ高さで視線を合わせた。
「大丈夫。……もう怖くないわ」
柔らかな声に、少女の瞳がかすかに見開かれる。
ジュリアはさらに微笑み、そっと問いかけた。
「私はジュリア。あなたの名前、教えてくれる?」
掠れた声で、少女は答える。
「……ルミア」
ジュリアは優しく頷き、目を細めた。
「ルミア……素敵な名前ね。ジュリアとルミア、ちょっと似てるでしょ」
そのひと言に、張り詰めていた糸が切れたように、ルミアの瞳から涙があふれた。
しゃくり上げながら小さな身体を震わせ、細い腕で必死にジュリアへ縋りつく。
「さあ……おうちに帰ろう。一緒に」
ジュリアはその小さな背をしっかりと抱きしめ、何度も優しく頭を撫でながら囁いた。
ルミアは嗚咽まじりに頷き、ジュリアの胸の中でようやく少しだけ、安らいだような表情を取り戻していた。
この隙に、シモンがルミアの枷へと手を伸ばし、無造作に解錠した。
かちゃり、と枷が外れる乾いた音が響く。
ジュリアの視線が、ふと、シモンの手に注がれたが、シモンは敢えて気づかないふりをした。
そんなシモンに、ジュリアは何も聞かず、再びルミアと視線を合わせる。
「大丈夫。もう怖くないわ。……さあ、一緒に行きましょ」
ジュリアはルミアの小さな手を取り、優しく抱き寄せた。
まだしゃくり上げていた少女は、その温もりに包まれて、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻していく。
シモンも屈み込み、短く視線を合わせて微笑んだ。その無言の眼差しは、言葉以上の安心を与えていた。
そして立ち上がり、ジュリアに低く告げる。
「……急ごう」
その声音に、ジュリアは力強く頷いた。
全てがうまく回り始めている。
――だが、現実はそんなに優しくはない。
それを誰よりも知っているのは、シモン自身だった。
本当の狂気は、これから始まる。
夜は、まだ終わらない。




