第33話 月下の風と暗夜の影
月が、森を銀色に染めていた。
静寂のなか、風が木々を渡り、草葉をそよがせる。
ワイアース北西の森――そのさらに奥地を見渡せる小高い丘の上に、シモンはひとり立っていた。
背後に漂う気配を感じ取り、わずかに振り返る。
姿を現したのは、黒髪の少女――ハルカ。
先行して斥候に出ていた彼女が、合流のため戻ってきたのだ。
「予測どおりの大所帯です。ただ、礼拝堂にさらに集まってくる集団を確認しましたので……最終的には、想定より二割から四割増しと見てよいかと」
シモンは小さく頷いた。
もともと予測には幅を持たせていた。
今回は、その中でも悪い側に寄った――それだけのことだ。想定の範囲内に、収まっている。
「……ハルカ。準備はいいか」
ハルカは静かにうなずいた。
今夜は仮面を外し、素顔のまま月明かりを浴びている。
その眼差しは真っ直ぐで、揺るぎない光を宿していた。
「はい。いつでも動けます」
「……よし」
視線を交わし、一拍。
シモンは丘の麓を指し示した。
「テラノス邸の私兵は、例の拠点――君と最初に出会った場所に待機している。明かりは落とし、ラドン車も用意済みだ。ジュリアを救い出したら、俺がそこまで連れていく。私兵と合流させ、そのまま街へ戻してもらう」
「三人、ですね」
「ああ。腕の立つ連中だ。心配はいらない」
ハルカは懐から折り畳んだ地図を取り出し、地面に広げた。
ふたりは身を寄せてしゃがみ込み、礼拝堂の輪郭や周囲の地形を、指先でなぞる。
侵入に適した経路、敵の巡回の流れ、そしてジュリアが囚われていると推測される地下区画――。
夜気を孕んだ紙片の上で、危うい作戦の全容が、静かに形を成していく。
言葉は多くを要しなかった。呼吸の合間に、互いの意図が伝わっていた。
やがて確認を終えたシモンが立ち上がり、剣の柄に手を添える。
「敵の目は、俺が引きつける。ハルカ、君は――影で動け」
「……わかりました。シモンさんも、どうかご無事で」
月明かりに照らされたハルカの声は、澄んだ鈴のように凛として響いた。
ふたりはしばし見つめ合う。緊張を隠しきれないハルカ。
その様子に、場違いなほど落ち着いた笑みを浮かべ、シモンはふと柔らかく微笑んだ。
一瞬、ハルカは驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく照れくさそうに視線を逸らし、そして、そっと微笑み返す。
互いに静かにうなずき合い、それぞれの役目を胸に刻む。
次の瞬間、ふたりは月夜の静寂へと、身を投じていった。
満月が天頂に差しかかるまで、あとわずか。
夜の帳に銀を流すような月光が森を抜け、礼拝堂の前庭を白々と照らし出していた。
その月を背に、ひとりの男が堂々と歩を進めてくる。
シモン・マックイーン。
グレーのロングジャケットの裾をわずかに揺らしながら、彼はあえて静かに、あえて正面から、敵の拠点へと向かっていた。
遮蔽物ひとつない無防備な道――狙う側にとっては、これ以上ない好条件。
それでも、臆した様子は微塵もない。
かちゃり、と剣を抜く音が夜気を裂く。
外装こそ大陸製だが、刀身は八咫の剣――すなわち刀。
彼のために拵えられた、オーダーメイドの逸品だ。その輝きは、今宵ひときわ冴え渡っていた。
月光を弾いた剣身が、銀の閃光となって煌めく。
歩調は変わらない。急がず、緩まず、一定の律動を刻みながら、シモンは進み続ける。
やがて、庭先にいた見張りが異変に気づき、声を荒らげた。
「……何者だ、貴様ッ!」
その怒号を合図に、ざっ、と影が広がる。
潜んでいた黒装束の信者たちが次々と姿を現し、礼拝堂の周囲から中央へと集まり始めた。
仮面の奥に宿る光は、疑いようのない敵意。
それでもシモンは動じない。
剣を下ろしたまま、構えすら取らず、満月を浴びて無防備に立ち尽くす。
次の瞬間、遠距離から放たれたフレイム・バーストが唸りを上げて迫った。
人の頭よりもなお大きな火球が、直撃を狙って突き進む。
シモンは一歩も退かない。
ただ無造作に、剣を横薙ぎに振るった。
火球は真っ二つに裂け、その残滓が背後で炸裂する。
爆風が周囲を震わせ、炎煙が渦を巻いて夜空を赤黒く焦がした。
だが、その中から――
何事もなかったかのように、シモンの影が歩み出る。
ロングジャケットの裾だけが揺れ、彼の身には傷ひとつない。
静まり返った一瞬。
信者たちが、驚愕とともに足を止めた。
だが次の刹那、シモンが左手を掲げ、くい、と挑発する仕草を見せると、その動揺は怒りへと変わる。
激情が叫び声となり、剣や槍を手にした者たちが一斉に殺到した。
後方では弓兵や魔法士が矢と呪文を構える。
「……さて、始めるか」
常人なら恐怖に飲み込まれる状況であっても、シモンの精神は微塵も揺らがなかった。
これは彼に託された仕事――ただ、それだけのことだ。
敵のひとりが剣を振りかざし、叫び声とともに駆けてくる。
次の瞬間、甲高い金属音が夜を裂き、その男の体は地面へと叩き伏せられていた。
閃いた刃は、ただ一度。
闇を切り裂いた剣閃は、鮮烈で、無駄がない。
見張りの者たちがざわめき、怒声が飛ぶ。
「正面から来たぞ! 応援を呼べ!」
「こいつ、何者だ!?」
警笛が鳴り響き、礼拝堂の扉が乱暴に開かれる。
現れたのは、武装した男女の群れ。
黒装束に仮面――そこから迸るのは、純粋な殺気のみ。
彼らは雪崩れ込むように庭先へ散開し、やがて獲物を囲む輪を完成させた。
シモンは静かに剣先を払う。
刃から滴る血は、彼にとって見慣れた現実の一部にすぎない。
(それでいい……騒ぎが大きくなれば、やつらの目はすべて俺に向く)
口元には、余裕すら感じさせる薄い笑み。
だが、その眼差しは冷たく研ぎ澄まされ、ただ標的だけを射抜いていた。
(ジュリア……待っていろ。必ず迎えに行く)
一念を胸に、シモンは再び前へと踏み出した。
次々と敵がシモンへ殺到し、戦場は圧倒的な一対多の様相を呈していた。
だが、この場において、数の暴力は通用しない。
シモンは背後を取らせぬよう巧みに立ち回り、遠距離からの攻撃に対しては、あえて敵を射線に挟み込む位置取りを選ぶ。
その動きは、相手にとってこれ以上なく厄介なものだっただろう。
それでも、シモンは敢えて決着を急がない。時間をかけ、敵の視線と意識を自らへと引き寄せる――すべては、注意を一身に集めるための戦い方だった。
(そうだ……もっと来い。俺に集中するほど、ハルカが動きやすくなる)
一歩踏み誤れば死が訪れる局面であっても、シモンは冷静さを失わない。
己に課された役目を正確に把握し、淡々と遂行する。
その姿は、戦場に身を置く者としての、揺るぎないプロフェッショナルそのものだった。
そして――待ち望んだ瞬間が訪れる。
戦場の渦中にあるシモンは、剣戟を交わす最中、ふと異質な気配を捉えた。
視線を走らせた先、庭の木に突き立てられていたのは一本の苦無。
敵の刃を受け流し、弾き返しながら、わずかな隙を突いて跳躍する。
そのまま手を伸ばし、苦無を引き抜いた。
柄に括りつけられていた羊皮紙を開いた瞬間、シモンは目を細める。
(……やるな、ハルカ。ジュリアの記号と……もう一つか)
そこには、ジュリアを示す印と、シモンにとって見覚えのない、もう一つの記号が記されていた。
囚われているのは礼拝堂の地下区画――そう予想していた。
だが、印の位置は違う。ジュリアは、前庭から見て礼拝堂の後方にそびえる塔に囚われていた。
そして、もう一つの見慣れぬ記号は、その塔の下層、小さな小部屋を指しているようだった。
(……もし地下だと決めつけて動いていたら、大幅に時間をロスしていたな。ハルカの潜入がなければ、致命的な遅れになっていたかもしれん)
シモンは即座に情報を記憶へ刻み込むと、羊皮紙を懐に収めた。
剣先を向けたまま、礼拝堂の奥――塔の方角へと、鋭い視線を送る。
その刹那、周囲にざわめきが広がった。
後から追いついた信者たちが再び群れを成し、剣や槍を突き立てながら取り囲んでくる。
怒声が重なり、足音が地を震わせる。逃すまいとする殺意が、濁流のように押し寄せていた。
するとシモンは、一つ息を整え、目を細めると、構えを変えた。
先ほどまで両手で握っていた剣を左手に持ち替え、右手には腰から抜き放ったナイフを、逆手に構える。
上体を沈めるように前傾し、常識とはかけ離れた、奇妙な姿勢を取った。
――それは、取り囲む信者たちの目には、隙だらけにしか映らなかった。
だが次の瞬間、シモンは低く、淡々と呟く。
「真巽流剣術――風輪華斬」
踏み込みと同時に、疾風が生まれた。
奔流のごとき勢いで、シモンの身体が戦場を駆け抜ける。
正面の男を袈裟懸けに斬り裂き、身を回転させて逆手の刃で脇腹を抉る。
返す刀で背後から突き出された槍を断ち切り、反転の勢いのまま、喉を薙ぐ。
さらに横合いから迫った斧を受け流し、そのまま首筋を、閃光のように断ち落とした。
血気に逸った敵が無謀に刃を振り下ろす。
シモンは脇をすり抜けるように身を沈め、その背を掠めた瞬間には、すでに別の敵の眼前に立っていた。
振り返った者が事態を理解するより早く、先ほどの男は、一拍遅れて崩れ落ちる。
――風がすり抜けたのか、それとも死神が通り過ぎたのか。
真巽流剣術――風輪華斬
それは己を竜巻と化し、敵陣へ踏み込み、近づく者から順に切り伏せていく――乱戦においてこそ真価を発揮する、真巽流の大技である。
戸惑いに目を見開く者の前に姿を現すと、無慈悲な刃が振るわれた。
呻き声さえ刹那に溶け、血飛沫とともに人影が地に沈んでいく。
烏合の衆となった信者たちは、数だけを頼みに群がるが、統率なき刃が彼に届くはずもない。
次々と屠られ、前衛は瞬く間に蹴散らされていった。
その刹那、後列の魔法士たちが一斉に詠唱を開始する。
雷撃と炎矢が矢継ぎ早に放たれ、轟音と閃光が夜空を引き裂いた。
だが、シモンは止まらない。
疾駆しながら身を翻し、斬撃と刃の軌跡で魔法を弾き、あるいは紙一重でかわす。
動きに淀みはなく、すでに敵陣の懐深くへと踏み込んでいた。
魔法士の男が声を詰まらせた、その瞬間。
シモンの姿は霞のように掻き消え、最後に男が目にしたのは――
己の身体から噴き出す、鮮血だけだった。
続けざまに、後方の弓兵たちが一斉に弦を鳴らした。
数十の矢が、夜空から雨のように降り注ぐ。
シモンは二刀を閃かせ、迫り来る矢を打ち払いながら突進した。
火花が散り、鋼の響きが幾重にも重なる。
だが、圧倒的な物量の前では、いかに彼といえど完璧ではいられない。
一本が肩に突き刺さり、大腿部にも浅い裂傷が走った。
――それでも、シモンは止まらない。
右手のナイフを腰のケースに納めると、無造作に肩の矢を引き抜き、眉ひとつ動かさぬまま、大きく弧を描くように走り出す。
肉を抉った痛みを、彼は敢えて無視した。
赤黒く変色した傷口から血が噴き出し、代わりに灼けつくような熱が全身を襲う。
(この灼けるような熱……毒か……)
走りながら体の状態を把握し、その懐かしい感触に、シモンは不敵に口角を上げた。
弓兵たちが、再び矢を番える――その一瞬の隙を突き、大技を放つ。
「――飛燕・円舞!」
大きく円を描いた斬撃が解き放たれ、弓兵たちの手元をまとめて薙ぎ払った。
致命傷こそ免れたものの、手を鋭く裂かれた者、弓を破壊された者――
いずれも攻撃手段を失い、陣形は瞬く間に混乱へと沈む。
次の瞬間、彼らの視界に映ったのは、勢いを増し、疾風と化した男だった。
殺意を宿した刃が、ためらいなく振るわれる。
痛みをものともせず、彼の背にまとわりつくのは、ただ清廉な風の気配だけ。
月光に照らされた前庭に、なお立っているのは――ただ一人の男だった。
「今行くぞ……ジュリア」
むせかえる血の香りと、その小さな呟きを、夜風がさらっていく。
シモンは傷の痛みも、流れ落ちる血も意に介さず、再び闇の奥へと駆け出した。




