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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第八章 「月下の檻」
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第33話 月下の風と暗夜の影

 月が、森を銀色に染めていた。

 静寂のなか、風が木々を渡り、草葉をそよがせる。

 ワイアース北西の森――そのさらに奥地を見渡せる小高い丘の上に、シモンはひとり立っていた。

 背後に漂う気配を感じ取り、わずかに振り返る。


 姿を現したのは、黒髪の少女――ハルカ。

 先行して斥候に出ていた彼女が、合流のため戻ってきたのだ。


「予測どおりの大所帯です。ただ、礼拝堂にさらに集まってくる集団を確認しましたので……最終的には、想定より二割から四割増しと見てよいかと」


 シモンは小さく頷いた。

 もともと予測には幅を持たせていた。

 今回は、その中でも悪い側に寄った――それだけのことだ。想定の範囲内に、収まっている。


「……ハルカ。準備はいいか」


 ハルカは静かにうなずいた。

 今夜は仮面を外し、素顔のまま月明かりを浴びている。

 その眼差しは真っ直ぐで、揺るぎない光を宿していた。


「はい。いつでも動けます」

「……よし」


 視線を交わし、一拍。

 シモンは丘の麓を指し示した。


「テラノス邸の私兵は、例の拠点――君と最初に出会った場所に待機している。明かりは落とし、ラドン車も用意済みだ。ジュリアを救い出したら、俺がそこまで連れていく。私兵と合流させ、そのまま街へ戻してもらう」

「三人、ですね」

「ああ。腕の立つ連中だ。心配はいらない」


 ハルカは懐から折り畳んだ地図を取り出し、地面に広げた。

 ふたりは身を寄せてしゃがみ込み、礼拝堂の輪郭や周囲の地形を、指先でなぞる。

 侵入に適した経路、敵の巡回の流れ、そしてジュリアが囚われていると推測される地下区画――。


 夜気を孕んだ紙片の上で、危うい作戦の全容が、静かに形を成していく。

 言葉は多くを要しなかった。呼吸の合間に、互いの意図が伝わっていた。

 やがて確認を終えたシモンが立ち上がり、剣の柄に手を添える。


「敵の目は、俺が引きつける。ハルカ、君は――影で動け」

「……わかりました。シモンさんも、どうかご無事で」


 月明かりに照らされたハルカの声は、澄んだ鈴のように凛として響いた。

 ふたりはしばし見つめ合う。緊張を隠しきれないハルカ。

 その様子に、場違いなほど落ち着いた笑みを浮かべ、シモンはふと柔らかく微笑んだ。

 一瞬、ハルカは驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく照れくさそうに視線を逸らし、そして、そっと微笑み返す。


 互いに静かにうなずき合い、それぞれの役目を胸に刻む。

 次の瞬間、ふたりは月夜の静寂へと、身を投じていった。




 満月が天頂に差しかかるまで、あとわずか。

 夜の帳に銀を流すような月光が森を抜け、礼拝堂の前庭を白々と照らし出していた。


 その月を背に、ひとりの男が堂々と歩を進めてくる。

 シモン・マックイーン。

 グレーのロングジャケットの裾をわずかに揺らしながら、彼はあえて静かに、あえて正面から、敵の拠点へと向かっていた。

 遮蔽物ひとつない無防備な道――狙う側にとっては、これ以上ない好条件。

 それでも、臆した様子は微塵もない。


 かちゃり、と剣を抜く音が夜気を裂く。

 外装こそ大陸製だが、刀身は八咫の剣――すなわち刀。

 彼のために拵えられた、オーダーメイドの逸品だ。その輝きは、今宵ひときわ冴え渡っていた。


 月光を弾いた剣身が、銀の閃光となって煌めく。

 歩調は変わらない。急がず、緩まず、一定の律動を刻みながら、シモンは進み続ける。


 やがて、庭先にいた見張りが異変に気づき、声を荒らげた。


「……何者だ、貴様ッ!」


 その怒号を合図に、ざっ、と影が広がる。

 潜んでいた黒装束の信者たちが次々と姿を現し、礼拝堂の周囲から中央へと集まり始めた。

 仮面の奥に宿る光は、疑いようのない敵意。

 それでもシモンは動じない。

 剣を下ろしたまま、構えすら取らず、満月を浴びて無防備に立ち尽くす。


 次の瞬間、遠距離から放たれたフレイム・バーストが唸りを上げて迫った。

 人の頭よりもなお大きな火球が、直撃を狙って突き進む。


 シモンは一歩も退かない。

 ただ無造作に、剣を横薙ぎに振るった。

 火球は真っ二つに裂け、その残滓が背後で炸裂する。

 爆風が周囲を震わせ、炎煙が渦を巻いて夜空を赤黒く焦がした。


 だが、その中から――

 何事もなかったかのように、シモンの影が歩み出る。

 ロングジャケットの裾だけが揺れ、彼の身には傷ひとつない。


 静まり返った一瞬。

 信者たちが、驚愕とともに足を止めた。


 だが次の刹那、シモンが左手を掲げ、くい、と挑発する仕草を見せると、その動揺は怒りへと変わる。

 激情が叫び声となり、剣や槍を手にした者たちが一斉に殺到した。

 後方では弓兵や魔法士が矢と呪文を構える。


「……さて、始めるか」


 常人なら恐怖に飲み込まれる状況であっても、シモンの精神は微塵も揺らがなかった。

 これは彼に託された仕事――ただ、それだけのことだ。

 敵のひとりが剣を振りかざし、叫び声とともに駆けてくる。

 次の瞬間、甲高い金属音が夜を裂き、その男の体は地面へと叩き伏せられていた。


 閃いた刃は、ただ一度。

 闇を切り裂いた剣閃は、鮮烈で、無駄がない。


 見張りの者たちがざわめき、怒声が飛ぶ。


「正面から来たぞ! 応援を呼べ!」

「こいつ、何者だ!?」


 警笛が鳴り響き、礼拝堂の扉が乱暴に開かれる。

 現れたのは、武装した男女の群れ。

 黒装束に仮面――そこから迸るのは、純粋な殺気のみ。

 彼らは雪崩れ込むように庭先へ散開し、やがて獲物を囲む輪を完成させた。


 シモンは静かに剣先を払う。

 刃から滴る血は、彼にとって見慣れた現実の一部にすぎない。


(それでいい……騒ぎが大きくなれば、やつらの目はすべて俺に向く)

 口元には、余裕すら感じさせる薄い笑み。

 だが、その眼差しは冷たく研ぎ澄まされ、ただ標的だけを射抜いていた。


(ジュリア……待っていろ。必ず迎えに行く)

 一念を胸に、シモンは再び前へと踏み出した。


 次々と敵がシモンへ殺到し、戦場は圧倒的な一対多の様相を呈していた。

 だが、この場において、数の暴力は通用しない。


 シモンは背後を取らせぬよう巧みに立ち回り、遠距離からの攻撃に対しては、あえて敵を射線に挟み込む位置取りを選ぶ。

 その動きは、相手にとってこれ以上なく厄介なものだっただろう。

 それでも、シモンは敢えて決着を急がない。時間をかけ、敵の視線と意識を自らへと引き寄せる――すべては、注意を一身に集めるための戦い方だった。


(そうだ……もっと来い。俺に集中するほど、ハルカが動きやすくなる)


 一歩踏み誤れば死が訪れる局面であっても、シモンは冷静さを失わない。

 己に課された役目を正確に把握し、淡々と遂行する。

 その姿は、戦場に身を置く者としての、揺るぎないプロフェッショナルそのものだった。




 そして――待ち望んだ瞬間が訪れる。


 戦場の渦中にあるシモンは、剣戟を交わす最中、ふと異質な気配を捉えた。

 視線を走らせた先、庭の木に突き立てられていたのは一本の苦無。

 敵の刃を受け流し、弾き返しながら、わずかな隙を突いて跳躍する。

 そのまま手を伸ばし、苦無を引き抜いた。

 柄に括りつけられていた羊皮紙を開いた瞬間、シモンは目を細める。


(……やるな、ハルカ。ジュリアの記号と……もう一つか)

 そこには、ジュリアを示す印と、シモンにとって見覚えのない、もう一つの記号が記されていた。


 囚われているのは礼拝堂の地下区画――そう予想していた。

 だが、印の位置は違う。ジュリアは、前庭から見て礼拝堂の後方にそびえる塔に囚われていた。

 そして、もう一つの見慣れぬ記号は、その塔の下層、小さな小部屋を指しているようだった。


(……もし地下だと決めつけて動いていたら、大幅に時間をロスしていたな。ハルカの潜入がなければ、致命的な遅れになっていたかもしれん)


 シモンは即座に情報を記憶へ刻み込むと、羊皮紙を懐に収めた。

 剣先を向けたまま、礼拝堂の奥――塔の方角へと、鋭い視線を送る。


 その刹那、周囲にざわめきが広がった。

 後から追いついた信者たちが再び群れを成し、剣や槍を突き立てながら取り囲んでくる。

 怒声が重なり、足音が地を震わせる。逃すまいとする殺意が、濁流のように押し寄せていた。


 するとシモンは、一つ息を整え、目を細めると、構えを変えた。

 先ほどまで両手で握っていた剣を左手に持ち替え、右手には腰から抜き放ったナイフを、逆手に構える。

 上体を沈めるように前傾し、常識とはかけ離れた、奇妙な姿勢を取った。


 ――それは、取り囲む信者たちの目には、隙だらけにしか映らなかった。

 だが次の瞬間、シモンは低く、淡々と呟く。


「真巽流剣術――風輪華斬ふうりんかざん


 踏み込みと同時に、疾風が生まれた。

 奔流のごとき勢いで、シモンの身体が戦場を駆け抜ける。


 正面の男を袈裟懸けに斬り裂き、身を回転させて逆手の刃で脇腹を抉る。

 返す刀で背後から突き出された槍を断ち切り、反転の勢いのまま、喉を薙ぐ。

 さらに横合いから迫った斧を受け流し、そのまま首筋を、閃光のように断ち落とした。

 血気に逸った敵が無謀に刃を振り下ろす。

 シモンは脇をすり抜けるように身を沈め、その背を掠めた瞬間には、すでに別の敵の眼前に立っていた。

 振り返った者が事態を理解するより早く、先ほどの男は、一拍遅れて崩れ落ちる。


 ――風がすり抜けたのか、それとも死神が通り過ぎたのか。

 真巽流剣術――風輪華斬

 それは己を竜巻と化し、敵陣へ踏み込み、近づく者から順に切り伏せていく――乱戦においてこそ真価を発揮する、真巽流の大技である。


 戸惑いに目を見開く者の前に姿を現すと、無慈悲な刃が振るわれた。

 呻き声さえ刹那に溶け、血飛沫とともに人影が地に沈んでいく。

 烏合の衆となった信者たちは、数だけを頼みに群がるが、統率なき刃が彼に届くはずもない。

 次々と屠られ、前衛は瞬く間に蹴散らされていった。


 その刹那、後列の魔法士たちが一斉に詠唱を開始する。

 雷撃と炎矢が矢継ぎ早に放たれ、轟音と閃光が夜空を引き裂いた。


 だが、シモンは止まらない。

 疾駆しながら身を翻し、斬撃と刃の軌跡で魔法を弾き、あるいは紙一重でかわす。

 動きに淀みはなく、すでに敵陣の懐深くへと踏み込んでいた。


 魔法士の男が声を詰まらせた、その瞬間。

 シモンの姿は霞のように掻き消え、最後に男が目にしたのは――

 己の身体から噴き出す、鮮血だけだった。


 続けざまに、後方の弓兵たちが一斉に弦を鳴らした。

 数十の矢が、夜空から雨のように降り注ぐ。

 シモンは二刀を閃かせ、迫り来る矢を打ち払いながら突進した。

 火花が散り、鋼の響きが幾重にも重なる。


 だが、圧倒的な物量の前では、いかに彼といえど完璧ではいられない。

 一本が肩に突き刺さり、大腿部にも浅い裂傷が走った。

 ――それでも、シモンは止まらない。


 右手のナイフを腰のケースに納めると、無造作に肩の矢を引き抜き、眉ひとつ動かさぬまま、大きく弧を描くように走り出す。

 肉を抉った痛みを、彼は敢えて無視した。

 赤黒く変色した傷口から血が噴き出し、代わりに灼けつくような熱が全身を襲う。


(この灼けるような熱……毒か……)

 走りながら体の状態を把握し、その懐かしい感触に、シモンは不敵に口角を上げた。


 弓兵たちが、再び矢を番える――その一瞬の隙を突き、大技を放つ。


「――飛燕・円舞えんぶ!」


 大きく円を描いた斬撃が解き放たれ、弓兵たちの手元をまとめて薙ぎ払った。

 致命傷こそ免れたものの、手を鋭く裂かれた者、弓を破壊された者――

 いずれも攻撃手段を失い、陣形は瞬く間に混乱へと沈む。


 次の瞬間、彼らの視界に映ったのは、勢いを増し、疾風と化した男だった。

 殺意を宿した刃が、ためらいなく振るわれる。

 痛みをものともせず、彼の背にまとわりつくのは、ただ清廉な風の気配だけ。

 月光に照らされた前庭に、なお立っているのは――ただ一人の男だった。


「今行くぞ……ジュリア」


 むせかえる血の香りと、その小さな呟きを、夜風がさらっていく。

 シモンは傷の痛みも、流れ落ちる血も意に介さず、再び闇の奥へと駆け出した。


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