第32話 魔血の秘密
アグス川の川辺でハルカと別れたシモンは、その足でテラノス邸を訪れていた。
門前に立つと、沈みかけの夕陽を受けた蔦の影が揺れている。屋敷の佇まいは変わらぬはずなのに、どこか冷えた空気を感じさせた。
鉄門の内側にいた門番がこちらに気づき、頭を下げて言った。
「申し訳ありません。執事ヴァレリオ様は現在不在でして……本日は応接も――」
その言葉を遮るように、傍らから元気な老人の声が響いてきた。
「……ちょっと、そこを通してやってくれんか。儂が案内する」
声の主は、庭師の老爺だった。
穏やかな足取りで門まで歩いてくると、門番は戸惑いながらも、老爺の意を汲んで門を開いた。
「よく来たな、坊主。今日は儂の世間話に付き合ってもらおうかの」
そう言って、老庭師はシモンを庭の奥へと誘う。
並んで歩く道すがら、季節の花々が風に揺れていた。木立の間を抜け、花咲き誇る小径に入ったところで、老爺はふと足を止める。
「ところでじゃな、坊主。……いや、シモン。実はのう――儂がアーデルシア家先代当主の、テラノス・アーデルシアじゃ」
肩越しにそう言い、いたずらっぽく笑ってみせる。
だが、シモンの表情に動揺はなかった。
「そうでしたか。……失礼な言動の数々、心よりお詫び申し上げます」
頭を下げるシモンに、老爺はむっとした顔を見せる。
「……なんじゃ、驚かんのか。もっとこう、目ぇ剥いて『ええっ!?』とか言わんかい。つまらんのう」
「初対面のときから、只者ではないと感じてはいました。ただ、まさか先代ご本人だったとは」
「……ちぇっ」
ふてくされたように鼻を鳴らしたテラノスだったが、すぐに顔を和らげた。
「まあ、ええわい。そう堅苦しくならんでもええ。今まで通りの調子で、付き合ってくれい」
それを聞いたシモンは、あっさりと頷いた。
「では、お言葉に甘えて。爺さん、今日は頼みがあってきたんだが」
「……ふむ? おぬしがそう改まるとは、さては面倒な話じゃな」
テラノスは小径の先にある石のベンチを指差し、二人は並んで腰を下ろした。
「頼みというのは、何じゃ?」
老爺は静かに問いかける。
シモンは小さく息を吐くと、正面を見据えたまま口を開いた。
「……明日、ジュリアを救い出す。奪われたままにはしておけない」
シモンは自身の調査と、ハルカから得た証言を照合し、儀式の概要と“教団”と呼ばれる組織の動向を掻い摘んで語った。
その言葉に、テラノスの目が細められる。
「……ほう。お主がそう言うということは、勝算があるのじゃな?」
「……ああ。確実ではない。だが、策はある。問題は――救出後だ」
テラノスは目を細め頷き、無言で続きを促した。
「……救い出した後、ここの私兵で、彼女を保護してもらいたい。できれば、そのまま屋敷まで、無事に返してやってほしい」
「なるほど……。で、お主はどうすんじゃ?」
「見届けなきゃならないことがある。……俺自身の問題でもある」
シモンは短く応え、そして、虚空にだけ届くほどの声で呟いた。
「……深くは聞くまい。――私兵の件、わかった。だが、今の屋敷には戦える者が少ない。ヴァレリオも奔走しており、負傷者も多くてな。すまんが、三人ほどしか出せん。……申し訳ないが、それでどうにかしてくれ」
「十分だ。協力に感謝する」
シモンの表情には、どこかほっとしたような柔らかな笑みが浮かんでいた。その笑みがいたたまれなかったのか、テラノスは目をつむり、小さく顔を振る。
「……儂の方でも捜索は続けていたんじゃが、敵の正体が分からん以上、大々的に動けんくてのう。敵が貴族という可能性も、最後まで捨てきれんかった」
テラノスは自嘲気味に苦笑した。
「貴族である以上、多少なりとも権力はある。じゃが、その“貴族であること”自体が、時にその権力を振るう足枷にもなる。……ままならんものじゃ」
「俺にしたって、今回は伝手に助けられた。敵が巧妙だったってことさ……業腹だがな」
シモンもまた、小さく苦笑して応えた。
「あとで、時間と場所を伝えます。明日、その三人はラドン車で待機していてほしい」
「承知した。……任せるぞ、シモン」
シモンの頼みを快諾したテラノスは、しばらく言葉を選ぶように沈黙した。やがて、重々しい声音で再び語り出す。
「さて――」
テラノスが一拍置いて姿勢を整える。さきほどまでの軽やかな空気が、わずかに引き締まった。
「指導依頼の一方的な中止、それからジュリアへの面会制限……あれはすべて、ヴァレリオが提案したことじゃが、最終的に許可したのは儂じゃ。儂の責任であり、改めて、詫びねばなるまい」
テラノスは低く告げると、視線を落とし、ゆっくりと深く頭を垂れた。活力を帯びた背中さえ、今はどこか小さく見える。
だが、シモンは気負った様子もなく、肩をすくめる仕草で軽く笑みを浮かべた。まるで何もなかったかのように、さらりと受け流す。
「ジュリアが、優しい家族や家臣に囲まれてるってだけだろ。俺は何も気にしていないさ」
その言葉に、テラノスは顔を上げた。老いた眼差しにかすかな安堵が差し込み、深く刻まれた皺が緩む。
「すまぬ……そう言ってもらえると、救われるわい」
テラノスは少しだけ破顔すると、再び小さく頭を下げた。
短いやり取りのあと、場に再び静寂が落ちた。花壇を渡る風が夜気に溶け、庭の花々をさわさわと揺らす。その音が沈黙を満たすように広がっていく。
やがて、その静けさを破ったのはシモンだった。真っ直ぐにテラノスを見据え、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「俺からも、ひとつだけ。……ジュリアが狙われた理由、何か心当たりは?」
問いかけに、テラノスの息がふと止まる。
宙に漂わせていた視線が重く地面に落ちた。庭を渡る風の音が、彼の沈黙をひときわ際立たせる。
「……お主には、知る権利があろうて」
ようやく吐き出された声には、逡巡が滲んでいた。そして老いた声音は、少しずつ語り始める。
「ジュリアにはな、本人もまだ知らん“秘密”がある。……あの子は、“魔血”の体質じゃ」
「魔血……?」
シモンは初めて聞く言葉に眉をひそめ、短く反芻する。
「うむ。血液そのものに、夥しい魔力を秘める――魔導理論の枠を超えた異質な存在じゃ。文献にも、ほとんど記されておらん。神話か禁忌の類として扱われるほどにな」
「……血液に魔力が?」
怪訝な色を浮かべたまま、シモンは視線を逸らさず問い返した。
「“魔力を圧縮した魔素の結晶が、血液として巡る”……ふつうの理屈では説明のつかん話じゃ。だが、一人前の魔法使いが一生かけて使う魔力を、あの子は、たった数滴の血で湧き起こす。そういう異質さを、内に秘めておる」
シモンは短く息を呑んだ。だが声を荒げることはせず、低く呟く。
「常識では……ありえない」
「ありえんと思うじゃろうがな。儂もすべては信じられん。だが、実際にその兆候を確認してしもうた。感情の揺らぎ、肉体的な刺激――それらで活性化し、魔力が暴走する。ときに制御不能になる」
「……暴走」
静かに相槌を打ちながらも、瞳の奥には一層の警戒が光る。
シモンの脳裏には、身上書に記された騒動がよみがえっていた。
――口論の末に魔法を暴発させ、学内訓練所の三重障壁を貫き、防壁を破壊した事件。
あれは未熟さによる過失ではない。
むしろ、いま語られる「暴走」の兆しにこそ近いのではないか。
王城にも採用される堅牢な三重障壁を、たった一人の生徒が打ち砕くなど、常識では到底ありえぬ話。
だが、その背後に『魔血』という異常な因子が潜むのなら、信じ難い現象も現実味を帯びてくる。
「だから、儂は……」
テラノスはわずかに口を噤み、苦笑めいた顔を浮かべた。
「……儂は、あの子をワイアースに呼び寄せたんじゃ。学院に通わせたのも、真意を隠したまま、魔力の制御を磨かせたかったからよ」
シモンはしばし黙し、結論を先送りにしたまま言葉を紡いだ。
「……”仮に”真実だとすれば、確かに放ってはおけないな」
「仮に、か」
テラノスは当然だと言わんばかりにうなずいた。
「疑うのも無理はない。……だがな、あの血は栄光にもなれば、破滅の因にもなるのじゃ」
テラノスは遠い記憶を辿るように、淡々と語り続けた。その語り口は先程よりも、幾分トーンを落としていた。
「……ジュリア側には、血の繋がった者といえば父親――つまり儂の息子――しかおらんかった」
テラノスは、花陰に視線を落としたまま言葉を紡いだ。
「その父もな、なにかと忙しく、家に長くはおらん。真面目な奴なんじゃが……どうにも言葉が足らん。不器用な男よ。誰に似たのかのう」
口の端に、どこか照れたような、弱々しい笑みを浮かべる。
だがその笑みも、すぐに翳りを帯びた。
「母親は第三婦人で、気立ての良い女性じゃったが、庶民の出じゃった。家の中では肩身の狭い思いをさせぬよう配慮したつもりじゃが、貴族社会では、どうしても軽んじられる空気があってな……。心労も重なったのじゃろう。病に伏せ、今は王都の本邸ではなく、田舎町の別邸で療養しておる」
風が庭を渡り、咲き誇る花々の影を揺らした。テラノスの声音は、その影と同じく淡く沈む。
「ジュリアは本邸では孤立無援と言うわけではなかったが、関心を寄せる者はほとんどおらなんだ。……儂はそれが、あまりにも不憫でのう。隠居の身とはいえ、せめてあの子にとっての“居場所”になれればと、そう思うたのじゃ」
すべてを語り終えたテラノスは、力を抜いたように小さく息を吐いた。
その横顔には、自嘲めいた笑みが浮かんでいた。まるで罪を告白したあとに残る、弱々しい影のように。
しばしの沈黙が、夜の気配を帯びた庭に落ちた。風が葉を揺らし、遠くで虫の声が細やかに響く。
テラノスの苦悩や重責に対する答えを、シモンは持ち合わせていなかった。
だからこそ、自分の知るジュリアの言葉をテラノスに伝えた。
「ジュリアは……爺さんのように、民のために力を振るいたいと言っていたよ」
答えにならない言葉だけ残し、シモンは口の端をわずかに緩め、静かに立ち上がった。
「……そろそろ、行くよ」
それだけを告げ、背を向ける。その歩みは迷いなく、揺るぎない覚悟を秘めていた。
テラノスは、言葉をかけずにその背中を見送った。
門扉が開き、やがて足音が遠ざかっていく。
人影が街の向こうに消えてなお、老いた視線はその場に縫いとめられたままだった。
シモンは見送られた視線を──「託された」と理解した。




