第31話 刃の孤独
静かな夜だった。
月は厚い雲に隠れたまま、人気の途絶えた裏通りの一角――小さな一室で、ハルカは机に向かっていた。
黄昏燕のマスターの厚意で間借りしている狭い部屋だが、外の喧騒から切り離されたかのような、奇妙な静けさがある。
部屋の中は、すでにほとんどの荷物がまとめられていた。机の引き出しは空に近く、棚の上にも日用品らしいものはほとんど見当たらない。
もし明日、自分が戻れなくなったとしても、誰かが後始末に困ることはないように――そんな配慮すら感じさせる、整然とした空気が漂っていた。
油紙を広げ、墨の匂いを纏わせながら、淡々と筆を走らせる。
かつて儀式が行われた際には間に合わなかったが、別の機会に内部を調べておいた知識が、今になって活きていた。
簡素な見取り図と人員配置、周囲の巡回経路。
すべて、明日の決戦に向けて、彼女が独自に組み上げた作戦案だ。
机の上には、今しがた干したばかりの忍装束が掛けられている。
洗い晒した布の皺を指で撫でながら、ハルカはふと筆を止めた。
思考が遠く、過去へと引きずられていく。
――二年前の春、あの里には、まだ花が咲いていた。
山間に潜む忍びの里。
修練と任務に明け暮れる日々は、決して穏やかではなかったが、それでも彼女にとっては、かけがえのない“日常”だった。
厳格な祖父のもと、朝から晩まで身体を鍛え、技を磨く。
叱られて泣いた日も、優しく傷を手当てしてくれたのは、姉の美月だった。
兄弟子――冬夜は無口でぶっきらぼうだったが、刃の握り方や敵の動きの読み方を、何度も根気強く教えてくれた。
あの頃、彼女の世界は、あの里にすべてがあった。
――だが、その世界は唐突に終わりを迎える。
伝令任務を終えた帰路、山の向こうに立ち上る黒煙を見た瞬間、心臓が凍りついた。
「……間に合わなかった」
声にならぬ呟きが、唇から零れる。
焼け焦げた木々、崩れた塀、血に染まった小道。そこにいたのは、黒装束と白仮面の異形の集団。中心に立つ男――ヴァイアン・ヴェルゴ。
その姿と、歪んだ笑みを、ハルカは決して忘れない。
恐怖に凍りつき、一歩も踏み出せなかった自分。
目の前で奪われていくものを、ただ見ていることしかできなかった自分。
――里で最強だった冬夜ですら、あの惨劇を止めることはできなかったのか。
彼もまた、彼と分からぬ遺体になってしまったのだろうか。
そうであってほしくはないと願いながら、それ以上、思考を進めることはできなかった。
嗚咽が喉までせり上がる。
ハルカは深く息を吐き、喉の奥を押さえた。
涙が一滴、広げた紙の上に落ちる。墨が、静かに滲んだ。
「まだ……泣いちゃダメ」
自らを戒めるように、か細く呟く。今は、まだ泣くときではない。
胸に沈殿する痛みを押し殺し、心に炎を灯すときだ。
己を一枚の刃として研ぎ澄まし、その刃を明日――奴の血をもって、復讐を成就させるために振るう。
「……あの人は、否定しなかった」
復讐を語ったとき、彼――シモンは、それを咎めなかった。
肯定してくれたわけではない。
だが、否定することも、拒絶することもなかった。
ただ黙って、受け止めてくれた。
それがどれほど救いだったか。
二年間、誰にも言えなかった思いを口にしたことで、かえって胸の痛みは、より鮮明になってしまった。
それでも、その痛みを共有できる誰かがいるという事実は、彼女の孤独を、ほんの少し和らげていた。
思い返すのは、今日の茶番じみたやり取りだ。
真面目な顔で、ふざけた態度を取るくせに、慣れていないせいか、慌てて照れる。
その様子を、不覚にも可愛いと感じてしまい、平静を装うのに苦労した。
そして昨日、実際に垣間見た実力――幼少より鍛錬を怠らず、さらに二年を費やして磨き上げた自分を、易々と退けた。
彼女は、実力差を確かに痛感した……いや、比べるべくもないことを痛感した。
不思議と、その二つが重なり合う。
軽口を叩きながらも、いざというときには頼れる人間。
自分の情けなさを曝け出しても、離れずにいてくれる存在。
今の彼女にとって、それがどれほど心強いことか。
ハルカは手のひらで目を覆い、震える肩を、そっと抱きしめるように身を丸めた。
「明日は好機なんだ。一人じゃ……ないんだ」
その言葉は、彼女自身への言い聞かせでもあった。
復讐は、決して正義ではない。失ったものは、戻らない。
だが、それでも歩みを止めない理由が、今は確かに存在している。
胸に残るのは、消えぬ痛み。
けれど、その痛みを抱えたままでも、共に戦う誰かが傍にいるのなら――前へ進めるはずだ。
決戦は、すぐそこにある。
その先に何が待つのかは分からない。生か、死か。復讐の果てに待つものが救いか、絶望か。
あるいは、終焉か。
――それすらも、分からない。
だが彼女は、心の中で静かに呟いた。
「……もう、迷わない」
たとえ明日、自分の命が尽きるとしても構わない。
死が恐ろしくないわけではない。
だが、怯えて後ろを向くことの方が、何倍も耐え難かった。
あの日から抱え続けてきた痛みを、ようやく刃へと変えられるのなら――この身が炎に焼かれようとも、悔いはない。
小さな声が、闇に溶けていく。
孤独な部屋に、再び静寂が戻った。
その静けさの奥底で、彼女の心だけは――烈火のごとき決意に、燃え上がっていた。




