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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第八章 「月下の檻」
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第31話 刃の孤独

 静かな夜だった。

 月は厚い雲に隠れたまま、人気の途絶えた裏通りの一角――小さな一室で、ハルカは机に向かっていた。


 黄昏燕のマスターの厚意で間借りしている狭い部屋だが、外の喧騒から切り離されたかのような、奇妙な静けさがある。

 部屋の中は、すでにほとんどの荷物がまとめられていた。机の引き出しは空に近く、棚の上にも日用品らしいものはほとんど見当たらない。

 もし明日、自分が戻れなくなったとしても、誰かが後始末に困ることはないように――そんな配慮すら感じさせる、整然とした空気が漂っていた。


 油紙を広げ、墨の匂いを纏わせながら、淡々と筆を走らせる。

 かつて儀式が行われた際には間に合わなかったが、別の機会に内部を調べておいた知識が、今になって活きていた。

 簡素な見取り図と人員配置、周囲の巡回経路。

 すべて、明日の決戦に向けて、彼女が独自に組み上げた作戦案だ。


 机の上には、今しがた干したばかりの忍装束が掛けられている。

 洗い晒した布の皺を指で撫でながら、ハルカはふと筆を止めた。

 思考が遠く、過去へと引きずられていく。


 ――二年前の春、あの里には、まだ花が咲いていた。

 山間に潜む忍びの里。

 修練と任務に明け暮れる日々は、決して穏やかではなかったが、それでも彼女にとっては、かけがえのない“日常”だった。


 厳格な祖父のもと、朝から晩まで身体を鍛え、技を磨く。

 叱られて泣いた日も、優しく傷を手当てしてくれたのは、姉の美月だった。

 兄弟子――冬夜は無口でぶっきらぼうだったが、刃の握り方や敵の動きの読み方を、何度も根気強く教えてくれた。

 あの頃、彼女の世界は、あの里にすべてがあった。


 ――だが、その世界は唐突に終わりを迎える。

 伝令任務を終えた帰路、山の向こうに立ち上る黒煙を見た瞬間、心臓が凍りついた。


「……間に合わなかった」


 声にならぬ呟きが、唇から零れる。


 焼け焦げた木々、崩れた塀、血に染まった小道。そこにいたのは、黒装束と白仮面の異形の集団。中心に立つ男――ヴァイアン・ヴェルゴ。

 その姿と、歪んだ笑みを、ハルカは決して忘れない。

 恐怖に凍りつき、一歩も踏み出せなかった自分。

 目の前で奪われていくものを、ただ見ていることしかできなかった自分。


 ――里で最強だった冬夜ですら、あの惨劇を止めることはできなかったのか。

 彼もまた、彼と分からぬ遺体になってしまったのだろうか。

 そうであってほしくはないと願いながら、それ以上、思考を進めることはできなかった。


 嗚咽が喉までせり上がる。

 ハルカは深く息を吐き、喉の奥を押さえた。

 涙が一滴、広げた紙の上に落ちる。墨が、静かに滲んだ。


「まだ……泣いちゃダメ」


 自らを戒めるように、か細く呟く。今は、まだ泣くときではない。

 胸に沈殿する痛みを押し殺し、心に炎を灯すときだ。

 己を一枚の刃として研ぎ澄まし、その刃を明日――奴の血をもって、復讐を成就させるために振るう。


「……あの人は、否定しなかった」


 復讐を語ったとき、彼――シモンは、それを咎めなかった。

 肯定してくれたわけではない。

 だが、否定することも、拒絶することもなかった。

 ただ黙って、受け止めてくれた。

 それがどれほど救いだったか。


 二年間、誰にも言えなかった思いを口にしたことで、かえって胸の痛みは、より鮮明になってしまった。

 それでも、その痛みを共有できる誰かがいるという事実は、彼女の孤独を、ほんの少し和らげていた。


 思い返すのは、今日の茶番じみたやり取りだ。

 真面目な顔で、ふざけた態度を取るくせに、慣れていないせいか、慌てて照れる。

 その様子を、不覚にも可愛いと感じてしまい、平静を装うのに苦労した。


 そして昨日、実際に垣間見た実力――幼少より鍛錬を怠らず、さらに二年を費やして磨き上げた自分を、易々と退けた。

 彼女は、実力差を確かに痛感した……いや、比べるべくもないことを痛感した。


 不思議と、その二つが重なり合う。

 軽口を叩きながらも、いざというときには頼れる人間。

 自分の情けなさを曝け出しても、離れずにいてくれる存在。

 今の彼女にとって、それがどれほど心強いことか。


 ハルカは手のひらで目を覆い、震える肩を、そっと抱きしめるように身を丸めた。


「明日は好機なんだ。一人じゃ……ないんだ」


 その言葉は、彼女自身への言い聞かせでもあった。

 復讐は、決して正義ではない。失ったものは、戻らない。

 だが、それでも歩みを止めない理由が、今は確かに存在している。

 胸に残るのは、消えぬ痛み。

 けれど、その痛みを抱えたままでも、共に戦う誰かが傍にいるのなら――前へ進めるはずだ。


 決戦は、すぐそこにある。

 その先に何が待つのかは分からない。生か、死か。復讐の果てに待つものが救いか、絶望か。

 あるいは、終焉か。

 ――それすらも、分からない。

 だが彼女は、心の中で静かに呟いた。


「……もう、迷わない」


 たとえ明日、自分の命が尽きるとしても構わない。

 死が恐ろしくないわけではない。

 だが、怯えて後ろを向くことの方が、何倍も耐え難かった。

 あの日から抱え続けてきた痛みを、ようやく刃へと変えられるのなら――この身が炎に焼かれようとも、悔いはない。


 小さな声が、闇に溶けていく。

 孤独な部屋に、再び静寂が戻った。

 その静けさの奥底で、彼女の心だけは――烈火のごとき決意に、燃え上がっていた。

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