第30話 虚無の暗闇と希望の曙光
春香が、あの地獄から生き延びて、まず向かったのは主家である宗方家だった。
忍びの里を庇護してきた宗家であれば、仇を討つための助力を得られる──その一縷の望みにすがるようにして、彼女は門を叩いた。
だが、出迎えた家令の表情は、路傍の汚物を見るかのように冷え切っていた。
「すでに“忍びの里”は存在せぬ。我らが保護すべき義理もない。……それが、主の御意志だ」
言い放たれた言葉は、春香の期待したものではなかった。
それどころか、言葉としては耳に届いても、意味として理解することができなかった。
理解を拒む春香を待たず、家令は無慈悲に言葉を重ねる。
「今後、宗方家の名を口にすることを禁ずる。それが最後の奉公だと思え」
「お待ちください……どうして……!」
声を荒げる春香に、家令はもはや語る言葉を持たぬかのように、ただ小さく頭を振った。
……その目は、最初から彼女を人としてすら見ていなかった。
役目を終えた道具に、情けを掛ける理由などない──そう告げる眼差しだった。
そこへ、何事かと姿を現したのは、宗方家の若──次期当主と目される青年だった。
「どうした、些事で騒ぐな。門前の女ひとりに構うほど、我が家も暇ではない」
家令が控えめに頭を下げ、簡潔に事情を説明する。
若は面白げに春香を一瞥すると、そのまま平然と歩み寄ってきた。
「ははっ……忍びの里? そのような些事、どうでもよい。駒など他にいくらでもある。だが──」
若の口元が、いやらしく歪む。
「女としては──まだ値打ちがあるな」
その眼差しは、最初から下卑た色を隠そうともしなかった。
ねぶるような視線が全身を這い回り、とりわけ胸や腰に執拗に絡みつく。
舐めるように唇を歪め、喉の奥で、いやらしく笑った。
「復讐だと? 無意味でくだらんな。お前の人生など、影として朽ちるか、男に抱かれるか──最初からその程度のものだ」
露骨に舌なめずりしながら、若はさも愉快そうに言葉を重ねる。
「どうせなら俺の妾にしてやろう。忍びとして死ぬより、女として抱かれていたほうが、よほど“幸せ”だろうが」
──無意味。
──幸せ。
その言葉は、ゆっくりと心の奥を侵食してきた。
小さな黒い染みが、じわじわと広がり、春香が大切にしてきたものを、すべて塗り潰していく。
立っていたはずの地平は無惨に砕け散り、残されたのは、空虚だけだった。
忠義も、忍びの矜持も──あまりにも脆く、儚い幻だったのだと、突きつけられる。
(私は……何のために生きてきたのだろう……)
答えを探そうとした思考は、そこでふっと途切れた。
積み上げてきた修練の日々も、守るべきだと信じてきた掟も、胸を張って誓った忠義も──それらがすべて、意味を持たないものとして切り捨てられた光景が、何度も脳裏に蘇る。
(里のみんなは、何のために死んだのだろう……)
答えは、どこにもなかった。
立ち上がるべき時に立てなかった自分だけが、生き残っている。
あの日、声を上げられなかった無力。
刃を抜けなかった恐怖。
踏み出せなかった一歩。
そのすべてが、死者たちの無念を背負う資格すら自分にはなく、顔向けすらできない。
祖父の厳しさも、父の背中も、姉の温もりも──生きていた証は、誰の救いにもならなかった。
奪われたのは命だけではない。
意味も、誇りも、未来も。
春香は、全身の震えを抑えきれなかった。
家令の冷徹な言葉も、若の下卑た視線も、そして自分という存在そのものが否定される恐怖も──すべてが一度に、彼女を押し潰していた。
人生を否定され、信じてきたものすべてを無意味だと断じられ、何もかもが幻想だったと打ち砕かれた。
……否。
最後に残されたのは、ただ一つ。
燃えるような、終わりなき憎悪だけ──それが、彼女を人として繋ぎとめる、唯一の熱だった。
涙は、もう流れなかった。
燃え盛る憎悪の熱が、流れるはずだった雫さえ焼き尽くし、乾かし、霧散させていた。
春香は何も口にせず宗方家を後にした。
口を開けば、ありとあらゆる罵詈雑言が溢れ出てしまう気がした。
それだけはだめだ。
いくら否定されても、自分だけは忍びの矜持を捨ててはいけない。
なけなしの矜持が、春香の理性を繋ぎ止めていた。
呆然自失のまま彷徨っていた春香は、ふと足を止めた。
気づけば陽はすっかり落ちており、彼女は意図せぬまま、かつて故郷“だった”里へと辿り着いていた。
そして、すべてを断ち切るように仮面を被った。
心を閉ざし、名を捨て、憎悪の刃として再び歩き始める。
仮面の裏に残ったのは、尽きることのない、黒い炎だけだった。
──あれが、春香の終わりだった。
だが同時に、ハルカの始まりでもあった。
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ハルカは目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
風がそっと頬を撫でる。
季節は巡り、命は流れ、世界は何事もなかったかのように、今日を生きている。
だが、川面を染める夕映えは赤く沈み、子どもたちの声も遠ざかり、残されているのは、彼女とシモンだけだった。
川辺の静けさが、取り戻せぬものの虚しさを、胸の奥へと沁み込ませていく。
ハルカは俯いたまま、ぎゅっと胸元を握りしめ、苦しげに言葉を紡いだ。
「……これが、私に話せるすべてです……」
「…………そうか」
川の流れが、言葉の余韻をさらうように響いた。
風がひと筋、ふたりの間を抜けていく。
どこまでも続く時の流れは、誰の痛みも、どんな悲劇さえも置き去りにする。
シモンの声は低く、穏やかだった。責めるでも、慰めるでもなく、ただ事実を受け止めるように。
「……私、無意味なんですか?」
誰にも問えぬ問い。
けれど、問わずにはいられなかった。
シモンは茜色に揺らめく水面へ視線を落とし、しばしの沈黙ののち、静かに答えた。
「俺も……かつて、君と同じ目をしていた」
はっと、ハルカは息をのむ。
「何かを得られたわけじゃない。意味があったのかさえ、分からない」
それでも──と、今度は真っ直ぐ彼女を見据える。
「必要だと思った。それは今でも変わらない」
その声音には、確かな痛みがあった。
だが、この人は立ち上がり、成し遂げ、そして今も生きている。
答えの代わりに語られた過去が、ハルカの胸の奥に、静かな決意を灯した。
シモンは立ち上がり、そっと手を差し出す。
それは誰かを救い上げるための手ではない。
同じ地面に立ち、並び進むための手だった。
「俺は、教え子を攫った連中を追っている。……協力してほしい」
ハルカは、その手を見つめた。
「……まず、条件があります」
声に宿るのは、すべてを賭ける覚悟だった。
「私の目的は、ヴァイアン・ヴェルゴ。何があっても妨げないでください」
大望は抱かない。
ただ一太刀の成就だけを、願っている。
「あなたの教え子は、これまでの儀式から見て、生贄だと思います。その身は安全でしょう。──当日までは」
シモンを見つめ返しながら、ハルカは自らの手を差し出した。
「儀式が行われる礼拝堂には、当たりがついています。当日、案内します」
教え子の安否を思えば、一刻の猶予も惜しいはずだった。
それでもシモンは、ハルカの言葉を疑わず、静かに頷く。
「了解した。よろしく頼む」
一歩だけ近づき、彼はその手を取った。
短く、けれど確かな力で、互いの存在を確かめるように。
「……ありがとうございます」
ハルカはわずかに目を伏せ、かすかに震える声で呟いた。
あの日、失われたはずの温もりが、握られた手を通して、胸の奥へと滲み込んでくる。
黒く染まったと思っていた心に、曙光が差したような気がした。
風は止み、川面に映る赤は、ゆっくりと闇へ沈んでいく。
ふたりの影だけが、寄り添うように長く伸びていた。
燃えるような決意は、すでに退路さえも焼き尽くしている。
──そして、彼らは歩き出す。
寄り添う影が、運命を裂く戦いの始まりを、静かに告げていた。




