第29話 ハルカの告白と春香の追憶
アグス川の川辺には、春の風が優しく吹いていた。
川面を渡る風は草花の匂いを運び、傾きかけた午後の陽は水面で砕け、きらめきながら流れのひとすじひとすじを白金に染め上げている。
鳥の影がときおり弧を描き、遠くで子どもの笑い声が混じる。
それでも、この一角に漂う空気は、どこか浮世離れした静けさを宿していた。
胸に刻み込まれた血の焼ける匂いも、怒号も、怨嗟の叫びもない。
あまりにも平穏で、あまりにも静かなこの場所は、血と憎悪に塗れた記憶を、皮肉に嘲るかのようだった。
「……ここは、話をするには良い場所ですね」
ハルカが口を開いたのは、流れる水音に耳を傾けていたシモンが、こちらを振り返った直後だった。
その声音には、諦めにも似た落ち着きが滲んでいる。
長く抵抗しても逃れられないと悟った者の観念──だが、それは敗北ではない。覚悟を固めた者にだけ備わる、静かな強さだった。
「逃げたり、隠れたりはしません。聞きます。あなたが、何を知っていて、何を望んでいるのかを」
言葉は淡々としていたが、背筋はまっすぐに伸び、眼差しは正面からシモンを射抜いている。警戒の影を宿しながらも、瞳の奥には揺らぎのない意志があり、同時に鋭さが閃いていた。
観念の果てに、ようやく仮面を外し、本当の顔をさらした──ハルカ自身には、そんな自覚があった。
シモンは数秒の沈黙を置き、それから静かに口を開く。
「まずは、昨日の話をしよう。北の森の外れで、拠点らしき場所を見つけた。……そこに、君と似た気配の者がいた。狐の面をつけた、殺気を隠した少女だ」
ハルカは一瞬だけ目を細め、口元を固く結んだ。
「──そんな人がいるんですか」
無感情で、硬質な声音。わずかな隙すら見せまいと、意識して抑え込んだ声だった。
「全部は見えてない。ただ、一つだけ確信している。君は、敵じゃない。……違うか?」
返答はなかった。
ハルカは無表情を保ったまま、頭の中でいくつもの可能性を巡らせる。
逃げるか、口を閉ざすか、それとも──。
だが、昨日の戦闘で痛感していた。目の前の男との実力差、戦いの経験、そして観察眼。どの選択を取っても見抜かれる。虚勢も、沈黙も、欺瞞も。
ならば、最後に残る選択肢は、ただ一つだった。
ハルカは軽く唇を結び、わずかに俯く。
しばしの沈黙……小さく溜め息をつくと、決意を刻むように顔を上げた。
せめてもの抵抗か、それとも昨日の意趣返しか。両手を挙げ、敵意がないことを示す。
「観念しました。……放ってはおいてくれないんですね」
淡々と告げながらも、声音にはわずかに拗ねた響きが混じっていた。
「……あなたって、ちょっとズルい人なんですね……」
目を逸らしながらの抗議に、唇を尖らせてしまったのは、おそらく無意識だった。
「君の正体を暴くことが目的じゃない。俺はシモン、冒険者だ。教え子を攫った連中を追っている。……君の協力が欲しい」
優しい春風がふたりを包む。
昨日の時点で、彼が敵ではないことは察していた。
だが今、その確信は揺るぎないものへと変わる。
そして、あの場所に彼がいた理由も、ようやく腑に落ちた。
「それで、“君が欲しい”……ですか」
わざとらしく繰り返した一言に、カフェでのやり取りが結びつく。
微かに肩をすくめながら、ハルカはシモンの立ち位置を、正体不明の第三勢力から、協力者候補へと修正した。
「まず、条件があります。──私の目的だけは、何があっても妨げないでください」
声音には揺るぎない覚悟が滲んでいた。
前に進むために、すべてを捨ててきた。
いまさら引き返すつもりなど、微塵もない。
シモンは一瞬だけ彼女の言葉を吟味する。
儀式は二日後──すなわち明日。
時間が残されていないことは、ハルカも分かっている。
一拍の沈思ののち、彼は迷いなく結論を下し、まっすぐにその瞳を受け止めて頷く。
「了解した。……で、君の目的ってのは?」
その声音は、彼女の覚悟を正面から受け止めるように、真摯で真っすぐだった。
問いを受け、ハルカはしばし黙する。
春の風に揺れる川面を見つめ、唇を固く結んだ。
「それにはまず、理由と合わせてお話しします……本当は、話すつもりはありませんでしたけど……」
落ち着いた声音。
それは拒絶というより、ためらいに近い響きだった。
「こちらからもあなたに協力を求める以上……理由を隠すのは、不誠実ですよね」
淡々と告げながらも、視線はふとシモンを探るように向く。
必要だから答える──そう装いながら、どこか“聞いてほしい”と訴える光が、瞳の奥に宿っていた。
言葉とは裏腹に、わずかに握られた拳が震えている。
それが怒りか、痛みか、それとも悔恨なのか──ハルカ自身にも、まだ判別がつかない。
「私の目的は──復讐です」
静かにそう口にしたとき、声音には確かな覚悟が、瞳には暗い炎が宿っていた。
ほんの一瞬、言葉の続きを飲み込み、川風に髪を揺らす。
それでも視線は逸らさず、シモンへと向けられている。
無言のままそれを受け止めた彼が、小さく頷いたのを見て、ハルカは続きを語る覚悟を固めた。
*********
──それは、二年前。季節は、今と同じ春だった。
忍びの里での日々は、ただ訓練に明け暮れるばかりだった。
長である祖父に厳しく鍛えられ、兄弟子に黙って見守られながら。
それでも挫けそうになるたび、姉の美月が春香を励ましてくれた。
幼いころに母を亡くした春香にとって、美月は姉であり、母でもあった。
その美月が、来年には兄弟子との祝言を迎えることになり──春香はその日までに一人前の忍びとなり、胸を張って姉を送り出そうと、密かに誓っていた。
ある日、祖父の命により、春香は街へ伝令の任務に赴いた。
特筆すべきこともない、平凡で穏やかな任務だった。
何事もなく果たし、心を軽くして、彼女は里への帰路を辿っていた──はずだった。
だが、帰る途中。
空に、異変を見た。里の方角から、黒煙が──立ち上っていた。
胸騒ぎが全身を駆け巡り、春香は息を切らして駆けた。
だが、辿り着いたときには、すでにすべてが遅かった。
忍びの里は──跡形もなく、壊滅していた。
黒尽くめの装束に、口元だけが露わになった白い仮面をつけた集団が、瓦礫の中を徘徊していた。
その中心に立つ、一人の異様な男。
黒いスーツを身にまとい、周囲と一線を画す存在感を放っている。
──後に知ることになる名。ヴァイアン・ヴェルゴ。
仮面の男たちが交わす断片的な言葉を、春香は震える瞳で追い、必死に唇の動きを読み取っていた。
奴らは“教団”と呼ばれる組織に属していた。里を壊滅させにきたのか、誰かを暗殺しにきたのか、それとも何かを探しに来たのか──目的は、判然としない。
春香は怒りに駆られ、飛び出そうとした。
仇を討たねばならない──そう思った。
だが──できなかった。
あの男の前に、立つことすらできなかった。
怒りよりも先に、圧倒的な恐怖が心を縛った。
胸を叩く鼓動は暴れ馬のように荒れ狂っているのに、手足の血の気は引き、体は石に変わったかのように動かない。
「行け」と命じても、膝は砕けるように力を失い、喉は凍りついたように声ひとつ発せなかった。
戦わず、叫ばず、ただ怯えきって立ち尽くした己。
誰よりも許せなかったのは──そんな自分自身だった。
やがて時間だけが過ぎ、奴らは何事もなかったかのように、悠然と里を去っていった。
春香は、ただ呆然とその背を見送ることしかできなかった。
残されたのは、地獄の残骸だった。
毒を打たれ、苦悶の表情を浮かべたまま絶命した祖父。
体に何本もの刃を突き立てられた父。
炎に焼かれ、声すら上げられず崩れ落ちた者。
互いに首を絞め合わされ、憎しみの形相のまま息絶えた者。
春香は何度も吐きながら、夜を徹して美月の姿を探した。
瓦礫をかき分け、血に濡れた布をめくり、声が枯れるまで姉の名を呼び続けた。
しかし、どこにもいなかった。
もしかすると、すでに美月と判別できない姿を、見落としてしまったのかもしれない──そんな考えが浮かぶたび、胸が張り裂けるように痛んだ。
せめて、苦しまなかったのなら。
そんな希望ですら、春香にはもはや罪に思えた。
春香は、遺された者たちのために丘へと向かった。
遺体の中には、人の形を留めていないもの、苦悶の表情を浮かべたまま逝ったもの、そして小柄な自分よりも、さらに小さな手もあった。
その無惨な姿のすべてが胸に焼き付き、春香の心をひときわ深く締めつける。
見晴らしのいい丘の上、一本松の根元に大きな穴を掘った。
土をかぶせながら、春香は一人ひとりに別れを告げ、声もなく手を合わせた。
涙は、止まることを知らなかった。
*********
ハルカは胸元にそっと手を添え、俯いたまま、しばらく沈黙していた。
過去の記憶が、心の奥へと押し込めてきた痛みを、容赦なく引きずり出す。
目を閉じても、耳を塞いでも、あの光景は色褪せることなく、何度でも迫ってくる。
「……地獄だと思ったんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
しばしの沈黙ののち、ハルカはゆっくりと顔を上げる。
川面のきらめきと春の陽光は、今の彼女には、どこか遠いものに感じられた。
視界の先に、ようやく一人の男の姿がはっきりと映る。──シモン。
その眼差しに、何を見たのか。自分でも、うまく言葉にはできない。
ただ、これだけは確かだった。
──この人になら、語ってもいい。
「でも……あれは、まだ“終わり”ではなかったのです。……地獄は──そのあとにも、続いていました」
ハルカの声は、記憶の奥を手探りで辿るように、恐る恐る響いた。
それは、長く封じてきた記憶の蓋を、静かに押し開ける音でもあった。
そして、その先に待つものこそが──
彼女が仮面を被り、今日まで生き続けてきた理由、そのものだった。




