第28話 冗談と本気の午後
森の中での邂逅から一夜明けた翌日。
昼下がりの《黄昏燕》は、柔らかな陽光に包まれ、まるでシモンの知る店とは別の場所のように静まり返っていた。
夜には笑い声と酒瓶の触れ合う音が絶えないが、今はカフェとしての顔を見せている。
窓から差し込む光は木の床にやわらかな影を落とし、香ばしい茶葉の香りと焼き菓子の甘い匂いが、心を解きほぐすように空気へと溶け込んでいた。
その扉を押し開けて入ってきた男の姿に、いち早く反応したのはカウンターのマスターである。手を止め、客の顔を見て薄く笑った。
「ほう、昼にシモン一人とは珍しいな。……何かあったか?」
「いや、ちょっと人に会いに来ただけだ。客としてな」
店内は昼のピークタイムを過ぎ、落ち着いた空気が緩やかに流れていた。
今日は団体客の姿もなく、仲睦まじい老夫婦と、ご近所と思しきご婦人三人組がティーセットを囲んで談笑している。その明るい声は、夜の熱気とは異なる軽やかな彩りを添えている。
昨日の違和感を確かめに来てみたものの──この雰囲気に一人で足を踏み入れるのは、やはりいささか気後れした。
シモンは肩をすくめ、照れ隠しのように言葉を返す。
マスターはからかうように片眉を上げたが、それ以上の追及はしなかった。代わりに「奥の席、空いてるぞ」と顎をしゃくり、常連にだけ向ける親しみを含んだ視線を送る。
シモンは礼をひとつ返し、慣れた足取りで店の奥へと進んだ。
通りすがりに視線をさりげなく巡らせれば、陽光を受けたティーカップや皿が白く輝き、砂糖菓子の欠片がきらきらと光っている。老夫婦は静かに会話を交わし、ご婦人たちは楽しげに笑い声を上げていた。
そんな、どこにでもある穏やかな午後のひと時にあって──ただひとり、探している少女の姿だけがまだ見当たらない。
(……厨房か?)
黒髪に眼鏡の少女。かつて夜の部に助っ人として立っていた、気配の薄い店員。その正体に思い至ったのは、つい昨日のことであった。
ほどなくして、香草水の入ったグラスを手に現れたのは、まさしくその少女である。
客席に置く仕草は丁寧で、相変わらず主張の強い胸元には、小さなネームプレートが揺れていた。そこには「ハルカ」と記されている。やはり──。
「ご注文をどうぞ」
落ち着いた声音。涼やかな垂れ目に光を宿し、努めて平静を装っている。
だが黒縁眼鏡の奥、視線の揺らぎは抑えきれていない。
シモンの目には、その隠し切れない緊張がはっきりと映っていた。
「コーヒーをブラックで。……それと、君が欲しい」
一拍、間が落ちる。
「──は?」
思わぬ無遠慮さに、ハルカはきょとんと目を見開いた。
すぐに表情を整えたものの、頬にわずかな赤みが差す。
言葉を返す声も、かすかに掠れていた。
シモンは口にしてから、自分でも馬鹿げた冗談だと気づく。
余裕を装ったつもりが、痛々しく、どこか寒々しい響きとなっていた。
燻る焦りが、らしくもない振る舞いを取らせたのだろう。
だが、それも結局は空回りにすぎない。
……この茶番を、彼女がどう受け取ったのか。
年甲斐もなく、その真実を知るのが怖い──そう思ってしまった。
そのやり取りを、斜め向かいの席に陣取るご婦人三人組が見逃すはずもない。
互いに目を見交わし、扇子で口元を隠しながら「まあ……!」「昼間から大胆ねえ」と囁き合う。くすくすと笑いが弾け、穏やかな午後の空気に小さな波紋が広がっていく。
「当店では、人間の売買は扱っておりません」
ハルカはきっぱりと告げ、冷ややかに視線を外した。
「すまん……昼はカフェだったな。冗談が過ぎた」
取り繕うように笑ったシモンの声は乾いていた。先ほどの一言で自分が場違いな存在として浮き上がったことを、誰よりも彼自身が感じ取っている。
「お引き取りを」
ぴしゃりと突き放す声音。
少女──ハルカは背を向けた。
だが、踵を返す所作の奥に、かすかな揺らぎがにじんでいるのを、シモンは見逃さなかった。
──そして、その日は、彼女はいつもより早く仕事を上がった。
街の通りに出たとき、石畳の向こうに立つ影に気づいた瞬間、ハルカはわずかに眉をひそめた。
「……待ち伏せですか? ……ナンパはやめてください」
ハルカは一瞬息を詰め、視線を泳がせた。
その小さな仕草が、彼女の動揺を隠し切れていないことを示している。
通りには露店の呼び声や人々の談笑、子どもの笑い声までがあふれている。
それでも彼女は周囲にほとんど注意を払っていないようで、その反応の鈍さが、シモンにははっきりと伝わってきた。
行き交う人々は二人の間に漂う緊張など意に介さず、街は変わらず明るい。
だがシモンには、自分と彼女のあいだだけが、張り詰めた気配に囲まれているように感じられた。
「俺が、昼間に色気づくような男に見えたかい?」
わざとらしく肩をすくめ、心外そうな顔を見せる。軽口めいた調子。
だが、取り繕った仮面は次の言葉であっさりと捨てられた。
「ついてこい」
低く、重く、拒否の余地を与えぬ声音。
先ほどまでの軽さを一掃する、芯の通った声だった。
ハルカはしばし沈黙し、溜め息をひとつ漏らすと、小さく頷いた。
「……場所くらいは、選ばせてください」
「すまない。だが、もう決めてある」
シモンはそう告げ、踵を返して歩き出した。その背はまっすぐにアグス川の方角を指している。
街のざわめきは依然として賑やかだった。だがシモンの意識には、前を行く自分の背に向けられた彼女の視線だけが、鋭く突き刺さっていた。
数秒の間を置いて──やがて足音がひとつ、静かに重なる。
彼女が後を追ってきたことを、シモンは背中で悟った。




