第26話 情報屋と冒険者の矜持
濃い雲の切れ間から、わずかに陽が差していた。
一筋の光は細くも揺るぎなく、暗雲を裂いて進み、確かな道を示している。
それは、不屈の意志を映しているかのようだった。
……そうだ。今は、前を向くときだ。
シモンは街の東、露店街を抜けた先の一角へと歩を進めた。雑多な香りと人声が渦巻く通りを離れると、そこにひときわ賑わう商店が姿を現す。
日用品から食料品、武器防具や衣料品、薬草や薬瓶まで取り揃えた便利屋のような店――庶民にとっては生活の頼みの綱。
しかし、裏を知る者にとっては、情報屋マーシャルの拠点として知られていた。
扉を押し開けると、鼻をつく香辛料と乾物の匂いが流れ込む。ぎっしりと並ぶ棚の向こうから、独特の野太い声が響いてきた。
「おう、シモンの旦那! 久しぶりだなあ。さてはエッチな店でも探してんのか? 女将系か? 八咫美人か? それとも……可愛い系? いっそ全部か、へへっ」
目ざとく彼を見つけたマーシャルは、太鼓腹を揺らしていやらしい笑みを浮かべる。
下世話な冗談を飛ばすその様子は、昔からの悪友を思わせた。
シモンは片眉を上げ、苦笑を返す。
「そいつは、また今度頼む。……今日は“真面目”な用件だ」
軽口に軽く付き合いながらも、次の瞬間には真摯で飄々とした口ぶりへと切り替える。
必要とあらば即座に顔を変える――それが、プロの冒険者の矜持だった。
つい先ほどまで心を乱されていた男が、今は冷静に“仕事の顔”を取り戻している。その証でもある。
シモンの返事に、マーシャルの目が変わった。
スケベ親父の仮面を取り外し、胡散臭い笑みが、なお胡散臭さを増す。そこに宿ったのは、鋭い光を帯びた情報屋の視線だった。
「……ほう、“真面目”な用件かい。……よし、聞かせてもらおうじゃねえか」
冗談を切り捨てると、マーシャルは店の奥へと促した。何の変哲もない木扉――だが、その扉こそが、表と裏の境界だった。
扉を抜けると、質素ながらも整然とした応接室が広がる。実務用の机、整理された書類棚、革張りの椅子。外の喧騒は完全に遮断され、張り詰めた空気だけが、そこに漂っていた。
シモンは主観を交えず、簡潔に事情を語り、必要な情報の概要だけを伝えた。
マーシャルは腕を組み、言葉を挟まずにじっと耳を傾ける。
数十秒の沈黙。
思考を巡らせている間も、その目はただの商人のものではない。
裏稼業に生きる者特有の、鋭さを宿していた。
「……よし、わかった。一日くれ。明日のこの時間、またここで会おうじゃねぇか。いっちょ俺も、本気を出すとするかね」
「……助かる」
シモンはマーシャルの目を見て、確信した。
(この男はプロだ。できない依頼は断るはず……ならば、任せられる)
別れ際、マーシャルは無言で手を挙げた。
普段は軽薄な冗談を飛ばす男が、こういうときだけは余計な言葉を使わない。
その無言の仕草に、裏稼業の覚悟が滲んでいる。
シモンも軽く手を挙げ、背を向けた。
足取りに迷いはなく、そのまま店を後にする。
情報はマーシャルに託した。
ならば、次に自分がすべきことは――。
(今やれることを、一つひとつやっていくんだ)
胸中に改めて決意を刻み込む。焦りや怒りに身を委ねても、事態は好転しない。
今は明日に備え、体と心を整えるときだ。
足元で小石が転がる音がした。
胸の奥では、今すぐにでも駆け出したい衝動が息づいている。
だが、衝動のままに動いても、彼女には届かない。
「……焦るな。今は、待て」
自分に言い聞かせるように、低く呟いた。拳が小さく震えているのに気づき、シモンは意識的に深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
不器用にでも感情を押さえ込んでいなければ、心が軋んでしまいそうだった。
それでも――呼吸を整えたのちに上げた眼差しには、確かな静けさが宿っていた。
揺れる心の底を押し隠し、決意を形にした男の眼差しだ。
――今は迷うな。目的を見失うな。
そのために、今すべきことは敵の居所を掴むこと。
そのために、今できることはマーシャルに託し、明日を待つこと。
ままならない現実。
……だからこそ、今できることくらいは、精一杯やろう。
街路の先に、湯煙を立てる浴場の看板が揺れているのが見えた。疲れた身体と心を整えるには、うってつけの場所だ。
今日のうちに体を休め、心を澄ませておく。
明日が勝負だ。
――ジュリアを取り戻す。そのために、明日また走り出す。
今は、助走の時だった。




