表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第六章 「夜を纏う者たち」
29/42

第25話 震える蝶と再起の朝

 テラノス邸で“あの報せ”を耳にしてから、シモンは何もかもを振り切るように街を駆け抜け、気づけば現場へと辿り着いていた。

 攫われたのは、夕方のことだという。今なら、まだ間に合うかもしれない。その一縷の希望と焦燥が、足を止めることを許さなかった。

 だが、現場にはすでに衛兵も私兵も姿を消していた。目撃者もおらず、喧騒の名残さえない。ただ細い路地に、夜の気配と冷たい空気だけが残されている。


「……どこだ、ジュリア」


 独り言とも祈りともつかぬ声が漏れた。

 シモンは路地の入り口から歩を進め、慎重に足元を探りながら、周囲の気配に五感のすべてを研ぎ澄ませていく。

 壁際には古びた木箱、割れた陶片、煤けた布切れが散らばり、いずれも埃と油の臭いを纏っていた。

 石畳の隙間には、うっすらと黒ずんだ染みが残り、何かがこすれ、引きずられたような線を描いている。


 ――血の匂い。

 微かに、ほんの微かに、鉄と焦げが混ざったような生々しい気配が鼻をかすめた。


「……まだ時間は経っていない」


 息を潜め、さらに進む。耳の奥で心臓の鼓動が早まり、冷静を装う思考を焦燥が掻き乱していく。

 そのときだった。路地の先、小さな瓦礫の山に、ふと視線が吸い寄せられた。


 柔らかな風が吹く。

 がらり、と軽く瓦礫が鳴った瞬間、ひとつの色が闇の中に浮かび上がった。

 ――深紅。


 道端の瓦礫に引っかかっていたそれは、春の風を受けてふわりと揺れていた。

 まるで羽ばたく蝶のように。

 今にも飛び立ちそうで、逃げるように震えながら、石と瓦礫の狭間で、命の残滓を訴えるかのように風に翻弄されている。


 シモンは思わず駆け寄り、そっと手を伸ばした。指先に伝わる布の感触。見覚えのある色。見覚えのあるリボン。


「……ジュリア」


 リボンの端をなぞると、そこには淡く、粉のようなものが付着していた。

 匂いを確かめ、慎重に味を取る――その瞬間、シモンの眉がわずかに動く。


「麻痺毒。……それも、粉末系か」


 喉奥がひりついた。怒りと苛立ちが、静かに、しかし確実に胸の奥で膨らんでいく。

(これは……偶然じゃない。ジュリアが、わざと残していったんだ)

 そのときの不安を思うと、腹の奥底に熱が宿り、灼けるように沸き上がった。

(俺に――気づけ、って……そう言いたいんだよな)

 拳をきつく握る。リボンが、きしむように丸まった。


「ジュリア……」


 かすれた声が闇に消える。シモンは物言わぬ闇を睨みつけ、もはや迷う余地のない決意が、胸に深く刻まれていくのを感じていた。




 翌日。

 鉛のように重い雲が空を押し潰し、街の上をのしかかるように流れていた。厚い雲は陽の光を遮り、まるで誰かの意志が行く手を阻んでいるかのようだ。そんな朝だった。

 シモンがギルドに着いたとき、開館してからまだそう時間は経っていなかった。館内は静かで、人の数もまばらである。

 珍しくカウンターで事務をしていたダンカンに歩み寄り、シモンは声を落とし、短く問いかけた。


「昨夜から今朝にかけて、何か……情報は入っていないか」

「……残念ながら、何も。怪しい動きがあれば、真っ先に回すさ」


 ダンカンは視線だけで周りを確認し、静かに首を振った。

 ジュリア失踪の報は、冒険者ギルドとしてではなくとも、ダンカン個人としては把握しているようだ。

 だが、失踪したという事実以上の情報は、今のところ得られていなかった。


「……そうか」


 もとより期待していなかったからだろう。思いのほか落胆は薄い。しかし、それは今のシモンにとって、何の慰めにもならなかった。

 シモンはギルドの談話スペースに腰を下ろす。テーブルに肘をつき、虚空を睨みつけたまま、無自覚に怒りを滲ませていた。


「ちくしょう……」


 それは誰に向けたものでもない。

 ただ胸の奥から、こぼれ落ちた声だった。うつむいたまま奥歯を噛みしめ、その表情には深い皺が眉間に刻まれている。


「シモンさん……?」


 やわらかな声はエリスだった。

 カウンターからそっと近づいてきた彼女は、シモンの側に立ち、静かに続ける。


「らしくないですね。そんなふうに怒るシモンさん、あんまり見たことないです」


 その言葉に、シモンははっと顔を上げた。今さらながら、自分が怒っていたこと、そしてその怒りを周囲に撒き散らしていたことを自覚する。

 シモンはそんな自分を恥じつつ、こういうとき、どうすべきかを考え、長い冒険者経験の引き出しを探った。


 まずは冷静に、客観的に自分の状態を測ること。

 次に私情を除き、現在の状況を俯瞰する。

 そして最後に、自分がどうしたいのか、それにはどうすればいいのか、道筋を立てること。

 一度、瞼を閉じて深く息を吸い込む。胸に溜まった黒い澱を吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。


 ――俺は今、怒っている。それは間違いない。

 だが、その怒りをぶつけるべき相手は誰だ?

 ジュリアを攫った敵。……連中だけで、十分だ。


 怒りで自分を見失うな。……もう、不条理に大切なものを奪われるわけにはいかない。

 怒りを撒き散らしてどうする。俺が望むのは、ただひとつ――

(ジュリアを助ける。今は、それだけだ)


 そのために、今すべきことは何か。

(ジュリアの居場所を見つける。そのためには敵の情報が要る。……情報なら――)

 シモンの脳裏に、ひとりの男の姿が浮かんだ。

 でっぷりとした腹、胡散臭そうな笑顔、抜け目ない商人の目……。


「マーシャル、だな」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

 そして、もう一度息を整えた。

 冷静さを取り戻したシモンは、隣にいたエリスに向き直る。


「……悪かったな、エリス。いい年して、情けないところを見せた」

「いえ。でも、今のシモンさんの方が……す、素敵です」


 照れたように笑うシモンの横顔に、エリスは目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。

 最後の言葉は掠れていたが、耳まで染まった顔と、泳ぐ視線だけで――十分だった。彼女自身、無意識の言葉だったのかもしれない。

 その様子を見て、シモンは静かに微笑を返す。


「ありがとう。行ってくる」


 シモンが席を立つと、すぐ近くのカウンターにいたリリーが、エリスに小声で言った。


「すごいね、エリス。大人になったじゃん」


 エリスは慌てて首を振る。


「ち、ちがうってば! すごいのはシモンさんだよ!」


 シモンがギルドを出るとき、振り返って手を振った。

 エリスも胸の前で小さく手を振り、その背中を見送る。

 その手はなかなか下ろされず、未練のような余韻だけが、そこに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ