第25話 震える蝶と再起の朝
テラノス邸で“あの報せ”を耳にしてから、シモンは何もかもを振り切るように街を駆け抜け、気づけば現場へと辿り着いていた。
攫われたのは、夕方のことだという。今なら、まだ間に合うかもしれない。その一縷の希望と焦燥が、足を止めることを許さなかった。
だが、現場にはすでに衛兵も私兵も姿を消していた。目撃者もおらず、喧騒の名残さえない。ただ細い路地に、夜の気配と冷たい空気だけが残されている。
「……どこだ、ジュリア」
独り言とも祈りともつかぬ声が漏れた。
シモンは路地の入り口から歩を進め、慎重に足元を探りながら、周囲の気配に五感のすべてを研ぎ澄ませていく。
壁際には古びた木箱、割れた陶片、煤けた布切れが散らばり、いずれも埃と油の臭いを纏っていた。
石畳の隙間には、うっすらと黒ずんだ染みが残り、何かがこすれ、引きずられたような線を描いている。
――血の匂い。
微かに、ほんの微かに、鉄と焦げが混ざったような生々しい気配が鼻をかすめた。
「……まだ時間は経っていない」
息を潜め、さらに進む。耳の奥で心臓の鼓動が早まり、冷静を装う思考を焦燥が掻き乱していく。
そのときだった。路地の先、小さな瓦礫の山に、ふと視線が吸い寄せられた。
柔らかな風が吹く。
がらり、と軽く瓦礫が鳴った瞬間、ひとつの色が闇の中に浮かび上がった。
――深紅。
道端の瓦礫に引っかかっていたそれは、春の風を受けてふわりと揺れていた。
まるで羽ばたく蝶のように。
今にも飛び立ちそうで、逃げるように震えながら、石と瓦礫の狭間で、命の残滓を訴えるかのように風に翻弄されている。
シモンは思わず駆け寄り、そっと手を伸ばした。指先に伝わる布の感触。見覚えのある色。見覚えのあるリボン。
「……ジュリア」
リボンの端をなぞると、そこには淡く、粉のようなものが付着していた。
匂いを確かめ、慎重に味を取る――その瞬間、シモンの眉がわずかに動く。
「麻痺毒。……それも、粉末系か」
喉奥がひりついた。怒りと苛立ちが、静かに、しかし確実に胸の奥で膨らんでいく。
(これは……偶然じゃない。ジュリアが、わざと残していったんだ)
そのときの不安を思うと、腹の奥底に熱が宿り、灼けるように沸き上がった。
(俺に――気づけ、って……そう言いたいんだよな)
拳をきつく握る。リボンが、きしむように丸まった。
「ジュリア……」
かすれた声が闇に消える。シモンは物言わぬ闇を睨みつけ、もはや迷う余地のない決意が、胸に深く刻まれていくのを感じていた。
翌日。
鉛のように重い雲が空を押し潰し、街の上をのしかかるように流れていた。厚い雲は陽の光を遮り、まるで誰かの意志が行く手を阻んでいるかのようだ。そんな朝だった。
シモンがギルドに着いたとき、開館してからまだそう時間は経っていなかった。館内は静かで、人の数もまばらである。
珍しくカウンターで事務をしていたダンカンに歩み寄り、シモンは声を落とし、短く問いかけた。
「昨夜から今朝にかけて、何か……情報は入っていないか」
「……残念ながら、何も。怪しい動きがあれば、真っ先に回すさ」
ダンカンは視線だけで周りを確認し、静かに首を振った。
ジュリア失踪の報は、冒険者ギルドとしてではなくとも、ダンカン個人としては把握しているようだ。
だが、失踪したという事実以上の情報は、今のところ得られていなかった。
「……そうか」
もとより期待していなかったからだろう。思いのほか落胆は薄い。しかし、それは今のシモンにとって、何の慰めにもならなかった。
シモンはギルドの談話スペースに腰を下ろす。テーブルに肘をつき、虚空を睨みつけたまま、無自覚に怒りを滲ませていた。
「ちくしょう……」
それは誰に向けたものでもない。
ただ胸の奥から、こぼれ落ちた声だった。うつむいたまま奥歯を噛みしめ、その表情には深い皺が眉間に刻まれている。
「シモンさん……?」
やわらかな声はエリスだった。
カウンターからそっと近づいてきた彼女は、シモンの側に立ち、静かに続ける。
「らしくないですね。そんなふうに怒るシモンさん、あんまり見たことないです」
その言葉に、シモンははっと顔を上げた。今さらながら、自分が怒っていたこと、そしてその怒りを周囲に撒き散らしていたことを自覚する。
シモンはそんな自分を恥じつつ、こういうとき、どうすべきかを考え、長い冒険者経験の引き出しを探った。
まずは冷静に、客観的に自分の状態を測ること。
次に私情を除き、現在の状況を俯瞰する。
そして最後に、自分がどうしたいのか、それにはどうすればいいのか、道筋を立てること。
一度、瞼を閉じて深く息を吸い込む。胸に溜まった黒い澱を吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。
――俺は今、怒っている。それは間違いない。
だが、その怒りをぶつけるべき相手は誰だ?
ジュリアを攫った敵。……連中だけで、十分だ。
怒りで自分を見失うな。……もう、不条理に大切なものを奪われるわけにはいかない。
怒りを撒き散らしてどうする。俺が望むのは、ただひとつ――
(ジュリアを助ける。今は、それだけだ)
そのために、今すべきことは何か。
(ジュリアの居場所を見つける。そのためには敵の情報が要る。……情報なら――)
シモンの脳裏に、ひとりの男の姿が浮かんだ。
でっぷりとした腹、胡散臭そうな笑顔、抜け目ない商人の目……。
「マーシャル、だな」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
そして、もう一度息を整えた。
冷静さを取り戻したシモンは、隣にいたエリスに向き直る。
「……悪かったな、エリス。いい年して、情けないところを見せた」
「いえ。でも、今のシモンさんの方が……す、素敵です」
照れたように笑うシモンの横顔に、エリスは目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
最後の言葉は掠れていたが、耳まで染まった顔と、泳ぐ視線だけで――十分だった。彼女自身、無意識の言葉だったのかもしれない。
その様子を見て、シモンは静かに微笑を返す。
「ありがとう。行ってくる」
シモンが席を立つと、すぐ近くのカウンターにいたリリーが、エリスに小声で言った。
「すごいね、エリス。大人になったじゃん」
エリスは慌てて首を振る。
「ち、ちがうってば! すごいのはシモンさんだよ!」
シモンがギルドを出るとき、振り返って手を振った。
エリスも胸の前で小さく手を振り、その背中を見送る。
その手はなかなか下ろされず、未練のような余韻だけが、そこに残っていた。




