閑話 誇りの代償と、その痛み
門前に立ち尽くしたまま、ヴァレリオ・グランツは駆けだしていく男の背を見送っていた。
夕陽に照らされた石畳を蹴り、振り返ることなく遠ざかるその姿は、冒険者として、ひとりの男として――あまりにも真っ直ぐだった。
やがてその背が人波に紛れ、完全に見えなくなっても、老執事はすぐには動かなかった。
胸の奥に残った余韻が、言葉にならぬ重さを伴って沈み込み、静かに思考を引き戻していく。
――すべては、あの夜から始まっている。
夜明け前。
ヴァレリオはすでに、事の一端を把握していた。
シモンが負傷した御者を背負い、屋敷へ戻ってきたからだ。
血に濡れた衣と、簡潔すぎる報告。
それだけで、状況は察するに余りあった。
彼は即座に当主テラノスへと事態を伝え、判断を仰ぐ。
同時に、冒険者ギルド宛の通達を準備した。
根回しに追われることは分かっていた。
だからこそ、屋敷付きの男性使用人――キャビンを呼びつけ、急ぎ文書を作成させた。
事情は伏せたまま。
急かした結果、文面は粗雑なものとなった。
だが、それでもよかった。
誤解を招こうと、泥をかぶろうと構わない。
それでジュリアが守られるのならば――執事として、他に選ぶ道はない。
この判断に、迷いはなかった。
それが職責であり、己が長年積み重ねてきた矜持に反しないと、確信していたからだ。
翌朝。
彼はさらに一つ、命を下す。
ジュリアとシモンの接触を、一時的に禁ずる。
理由は告げない。告げられない。
使用人たちは戸惑いながらも従った。
その視線に混じる疑念や不安も、老執事には痛いほど分かっていた。
それでも――言わなかった。
登校のため玄関ホールを抜けていくジュリアの背に、声をかけることもなく。
彼女が浮かべる、どこか張りつめた笑みを、見なかったことにして。
あれは、芝居だった。
そして、自分もまた、その舞台の一員だった。
貴族の娘が、人前で弱さを晒さぬための芝居。
それを壊さぬために、執事は沈黙を選ぶ。
――それが、正しいと信じてきた。
信じてはいる。
今もなお、その判断が「執事として誤りであった」とは思っていない。
だが――それが正解であったかと問われれば、答えることはできなかった。
一つ一つの選択には、確かな苦しみと痛みが伴っていた。
それを承知の上で、切り捨て、押し殺し、目を背けてきたのだ。
それでも選ぶ。
それでも全うする。
それが、執事という生き方なのだと、己に言い聞かせながら。
現実へと意識が戻る。
門前に残るのは、夕暮れと、重たい沈黙だけだ。
先ほどまで、ここに立っていた男はもういない。
止めなかった。
追わなかった。
呼び止めもしなかった。
それが正しかったのかどうかは、分からない。
だが、確かなことが一つだけある。
彼は、選んだのだ。
己の意思で、己の足で。
ヴァレリオは静かに背筋を伸ばす。
そして――駆けだしていった男の背中が消えた方角へ、深く、深く頭を垂れた。
それは、冒険者に向けた礼だった。
そして同時に、己が選び続けてきた生き方への、黙した肯定でもあった。
守るとは何か。
黙るとは何か。
答えは、まだ出ない。
それでも老執事は、今日も立つ。
理と情の狭間で、痛みを引き受けながら――己の職責を、全うするために。




