第23話 毒蛾の輪舞
襲撃のあった夜。
ジュリアは寝台に身を縮め、シーツの端を強く握り締めていた。
まぶたを閉じても、先ほどの出来事が幾度となく脳裏をよぎる。仮面の襲撃者、飛び散る血――そして、あの手を取れなかったこと。
「……ごめん」
誰にも届かぬその呟きは、夜の静けさに溶けて消えた。
だが、その静寂こそが、惨劇の記憶をくっきりと浮かび上がらせる。あのときの恐怖、血の匂い、震える足。
すべてが現実として胸を締め付け、息を浅くさせた。
先ほどまでジュリアの側に控えていたミーナは、退室したあとも、扉から遠ざかる気配が感じられない。
せめて今だけは、健やかな眠りを。
そのひそやかな願いは、灯りの落ちた廊下にそっと溶けていった。
目を覚ましても、ジュリアの胸には昨夜の動揺が、澱のように残っていた。
涙も嗚咽も、眠りによって癒やされることはなく、ただ沈殿し、息苦しさだけを置き去りにしている。
屋敷の中は、どこかぎこちない芝居の舞台のように感じられた。
「今日の放課後、街に行ってくるわ。……よろしくね、ミーナ」
登校前、玄関ホールでジュリアは明るい声を作り、そう告げた。
笑みも、きちんと浮かべている。
けれど、その口調はどこか浮いていた。いつもの張りのある声音ではなく、空回りしたような元気さが滲んでいる。
まるで自分自身に向けて、「いつものジュリア」を演じているかのようだった。
その不自然さを、ミーナが感じ取っているだろうことも、ジュリアには分かっていた。
ミーナだけではない。他のメイドや、使用人のキャビンたちもまた、自分の不自然さに薄々気づいているのではないか――そんな考えが、ふと胸をよぎる。
それでも、誰もが気づかぬふりをしているように見えた。
それが自分の気丈さに対する、ささやかな敬意なのか。
あるいは、彼らなりの優しさなのだろうと、ジュリアは受け取っていた。
執事ヴァレリオの視線も、どこか重く感じられた。
厳しくも温かい彼のことだ。昨日の襲撃を思えば、休養を勧めたいはずだ。
――そんなことは、聞かなくても分かる。
だが同時に、貴族の娘が人前で弱みを見せることが、貴族としての矜持に関わる現実もまた、彼が誰より理解しているはずだった。
だからこそ、彼は何も言わずにいる。
その沈黙の意味を、ジュリアは痛いほど承知していた。
忠誠と貴族の常識、その狭間で選ばれた「普段通り」なのだと。
この芝居の結末に、果たして自分は笑顔で迎えられるのだろうか。
今のジュリアには、どうしても自信が持てなかった。
放課後、ジュリアは学院の門を出ると、馬車には乗らず、私兵を伴ってそのまま徒歩で街へと向かった。
馬車の揺れが、あの夜の記憶を呼び起こしそうで――朝は我慢できたが、今はどうしても、乗る気にはなれなかったのだ。
それもあって彼女は、歩くという選択を迷わなかった。石畳を踏みしめるその姿こそが、“健在であるジュリア・アーデルシア”を示す、何よりの証になると分かっていたからだ。
行き先も定めず、ただ真っすぐに足を運ぶ。
それは、たとえ末席であろうとも貴族であるという誇りと、ジュリア自身の意地、そして“いつも通りの自分”を装うための――静かで、しかし確かな演技だった。
夕暮れの街には、いつもと変わらぬざわめきが満ち、石畳に反響していた。
供を連れながら、あてもなく歩いていたジュリアだったが、不意に背筋を凍らせるような怖気を覚える。
周囲に意識を向けた瞬間、そのざわめきの中に、小さな違和感が紛れ込んでいることに気づいた。
どこか、視線を誘うような――不自然な空気の揺らぎ。
雑踏の向こう、視界の隙間に仮面をかぶった男の姿が映る。
男は隠れるようにしながら、路地裏へと滑り込み、その腕には――小さな子供の姿があった。
「……っ!」
ジュリアは反射的に駆け出していた。貴族としての責任、その思いが、身体を先に動かしていた。
怖い。怖くて仕方ない。
しかしその瞬間、胸に去来したのは、シモンとの訓練の日々。
汗を流し、砂を噛み、不安に苛まれ、膝をついても――それでも立ち上がり続けた記憶。
(私は貴族なんだ。私はジュリア・アーデルシアなんだ)
ジュリアは奥歯を噛みしめ、逃げる仮面の男を視界に捉えたまま、ひたすら追い続けた。
お供の私兵が異変に気づいたときには、すでにジュリアの背は遠ざかっていた。
影から警護していた私兵二人も、事態を把握するより早く駆け出す。
先頭に立つ赤髪の男――ガレスは的確な指示を飛ばし、自身もジュリアを追いかけていた。
細い路地を抜け、仮面の男に追いついたジュリアは――その瞬間、思いきり体当たりを仕掛け、地面に投げ出された子供を抱き上げた。
……そのはずだった。
腕の中の感触は、影が崩れるように消え、淡く漂う魔素の残滓だけが残る。
「え……?」
背後から、足音が迫る。
「お嬢様っ!」
ガレスの叫びが響いた直後、暗がりから黒衣の仮面集団が現れ、容赦なく奇襲を仕掛けてきた。
態勢を整える間もなく襲いかかる刃。
だが、アーデルシア家の私兵たちは即座に前へ出て、ジュリアを庇う壁となった。
剣を抜き放ち、襲撃を受け止め続けるが、形勢は防戦一方だった。
ジュリアも震える手で魔力を練り上げ、炎の矢を放とうとする。
だが――胸の奥に巣食う躊躇いが、魔力の流れを乱した。
あの夜の記憶が、鮮やかに脳裏をよぎる。
倒れた御者の呻き、闇に散った鮮血の色。
自分の力も誰かを傷つけ、その先に死があることを自覚してしまった――その思いが、指先から魔力の熱を奪っていた。
「お嬢様、逃げてください!」
振り返ったガレスの声が、鋭く路地に響く。
ジュリアは一瞬ためらい、それでも歯を食いしばって駆け出した。
逃走を阻むかのように、ジュリアの前方に向け、襲撃者が魔法を放つ。
ガレスが身を投げ出し、クロスさせた両腕で炎矢を受け止めた。
衝撃と熱が肉を灼き、焦げた風が路地を荒れ狂う。
「走れっ!」
なりふり構わずガレスが叫ぶ。
だが、次の一撃を受け切れず、ガレスは崩れ落ちた。
振り返れば、きっと足が止まる――そんな予感に、ジュリアはなけなしの魔力を振り絞り、自分の足元へ炎矢を撃ち込む。
爆風と煙が視界を覆い、熱と涙で滲む景色の中、彼女はただ走った。背後で剣戟と怒声が渦を巻いているのが、かすかに聞こえた。
だが――逃げ込んだ先は、行き止まりだった。
壁際で息を切らした瞬間、空気が変わる。背後から、重たい気配が覆いかぶさった。
「お宝みぃ~つけた~……」
振り返ると、黒衣でも仮面でもない、漆黒のスーツに身を包んだ男が立っていた。
歪んだ笑みを浮かべ、ぬるりと距離を詰めてくる。
言葉を発することさえ憚られる、不気味な威圧感。
不意に、ジュリアの喉が、ひくりと鳴った。
――甘い香り。
次いで、焼けた鉱物のような金属臭。
脈が一拍遅れ、胸の奥がじりじりと熱を帯びる。
毒だ、と理解した瞬間、全身の感覚が跳ね上がった。
土魔法による毒性鉱石の粉末――アース・ヴェノム《粉毒散布》。
ジュリアは必死に魔力を高め、体内循環を活性化させる。
だが、粉塵は肺へ絡みつき、四肢は急速に重さを失っていった。
筋肉が徐々に痺れ、感覚が薄れていく。
ジュリアは不自由な身体に歯噛みしながらも、必死に視線を巡らせ、逃げ道を探した。
「残念ですけどぉ……逃がしては……あ・げ・ま・せ・ん……だって――ヴェリタス様が……お望みですからぁぁ……」
ねっとりとした声が耳を打つ。男は両手を大きく広げ、じりじりと距離を詰めてきた。
短く吐かれる息に混じる熱が、肌を撫でる。
苦悶に歪む自分の呼吸が、やけに大きく聞こえた。
「ふふ……ふははは……はぁ……はぁ……はぁぁ……」
男はひとつ大きく息を吸い込み、路地の空気が一瞬、張りつめる。
次の瞬間、喉を裂くような叫びが迸った。
「美しいぃぃ!!!」
その声が石壁に反響し、夜気を震わせる。耳鳴りの奥で、世界が遠のいた。
ジュリアは震える膝に力をこめ、気力を振り絞って立ち続けた。
子供の幻影を使った卑劣な罠に屈することだけは、どうしても許せなかった。
だが同時に、意識を繋ぎ止めていられる時間が、もう残り少ないことも悟っていた。
ジュリアは髪に結んでいた深紅のリボンを解く。かつてシモンに「お前らしい、気の強さが滲んでる。似合ってるよ」と言われた、大切なものだった。
「ふふふ……無駄な足掻きも実に素敵。で~も~……そろそろ時間切れかしら?」
嘲るような声に応えるかのように、周囲の気配が増える。
いつの間にか、仮面の男たちが距離を詰め、逃げ場を塞いでいた。
「さぁぁ……役者は……すべて、そ・ろ・い・ま・し・た・よぉ~……舞台の幕が上がる“満月の夜”――」
男の声が高揚していく。
両手を広げ、天を仰ぐその仕草は、ジュリアの目には歪んだ演目の始まりのように映った。
「主役をお運びして……ぐれぐれも――丁重に。主演女優が欠けては、幕は上がりませんからぁ」
ひらりと翻された合図と同時に、仮面の男たちが左右からジュリアを取り押さえる。
もはや振り払う力は残っていない。ジュリアは、せめてもの抵抗として、正面から男を睨みつけた。
「……さぁ、お運びなさい」
甘さを帯びた声が、背筋を冷やす。
仮面の男たちは無言で小さく礼をし、ジュリアの身体は抗う術もなく持ち上げられた。
指先から力が抜け、握りしめていたリボンが、するりと手を離れる。
(……気づいてくれるかな、シモン)
薄れゆく意識の中で浮かぶのは、強くて優しい、どこまでも余裕のあるDランク冒険者の顔。
都合のいい時だけ頼ってしまう自分を、甘えていると分かっていながら――それでも、彼なら、という思いは、闇に沈むその瞬間まで離れなかった。
世界は静かに遠ざかり、迫りくる破滅の気配だけが、重く残された。




