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アラサー冒険者のaimless odyssey  作者: 久遠堂 鍵介
第五章 「回り始めた毒」
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第23話 毒蛾の輪舞

 襲撃のあった夜。

 ジュリアは寝台に身を縮め、シーツの端を強く握り締めていた。

 まぶたを閉じても、先ほどの出来事が幾度となく脳裏をよぎる。仮面の襲撃者、飛び散る血――そして、あの手を取れなかったこと。


「……ごめん」


 誰にも届かぬその呟きは、夜の静けさに溶けて消えた。

 だが、その静寂こそが、惨劇の記憶をくっきりと浮かび上がらせる。あのときの恐怖、血の匂い、震える足。

 すべてが現実として胸を締め付け、息を浅くさせた。


 先ほどまでジュリアの側に控えていたミーナは、退室したあとも、扉から遠ざかる気配が感じられない。

 せめて今だけは、健やかな眠りを。

 そのひそやかな願いは、灯りの落ちた廊下にそっと溶けていった。




 目を覚ましても、ジュリアの胸には昨夜の動揺が、澱のように残っていた。

 涙も嗚咽も、眠りによって癒やされることはなく、ただ沈殿し、息苦しさだけを置き去りにしている。


 屋敷の中は、どこかぎこちない芝居の舞台のように感じられた。


「今日の放課後、街に行ってくるわ。……よろしくね、ミーナ」


 登校前、玄関ホールでジュリアは明るい声を作り、そう告げた。

 笑みも、きちんと浮かべている。


 けれど、その口調はどこか浮いていた。いつもの張りのある声音ではなく、空回りしたような元気さが滲んでいる。

 まるで自分自身に向けて、「いつものジュリア」を演じているかのようだった。


 その不自然さを、ミーナが感じ取っているだろうことも、ジュリアには分かっていた。

 ミーナだけではない。他のメイドや、使用人のキャビンたちもまた、自分の不自然さに薄々気づいているのではないか――そんな考えが、ふと胸をよぎる。


 それでも、誰もが気づかぬふりをしているように見えた。

 それが自分の気丈さに対する、ささやかな敬意なのか。

 あるいは、彼らなりの優しさなのだろうと、ジュリアは受け取っていた。


 執事ヴァレリオの視線も、どこか重く感じられた。

 厳しくも温かい彼のことだ。昨日の襲撃を思えば、休養を勧めたいはずだ。

 ――そんなことは、聞かなくても分かる。


 だが同時に、貴族の娘が人前で弱みを見せることが、貴族としての矜持に関わる現実もまた、彼が誰より理解しているはずだった。


 だからこそ、彼は何も言わずにいる。

 その沈黙の意味を、ジュリアは痛いほど承知していた。

 忠誠と貴族の常識、その狭間で選ばれた「普段通り」なのだと。


 この芝居の結末に、果たして自分は笑顔で迎えられるのだろうか。

 今のジュリアには、どうしても自信が持てなかった。




 放課後、ジュリアは学院の門を出ると、馬車には乗らず、私兵を伴ってそのまま徒歩で街へと向かった。

 馬車の揺れが、あの夜の記憶を呼び起こしそうで――朝は我慢できたが、今はどうしても、乗る気にはなれなかったのだ。


 それもあって彼女は、歩くという選択を迷わなかった。石畳を踏みしめるその姿こそが、“健在であるジュリア・アーデルシア”を示す、何よりの証になると分かっていたからだ。

 行き先も定めず、ただ真っすぐに足を運ぶ。

 それは、たとえ末席であろうとも貴族であるという誇りと、ジュリア自身の意地、そして“いつも通りの自分”を装うための――静かで、しかし確かな演技だった。


 夕暮れの街には、いつもと変わらぬざわめきが満ち、石畳に反響していた。

 供を連れながら、あてもなく歩いていたジュリアだったが、不意に背筋を凍らせるような怖気を覚える。

 周囲に意識を向けた瞬間、そのざわめきの中に、小さな違和感が紛れ込んでいることに気づいた。

 どこか、視線を誘うような――不自然な空気の揺らぎ。


 雑踏の向こう、視界の隙間に仮面をかぶった男の姿が映る。

 男は隠れるようにしながら、路地裏へと滑り込み、その腕には――小さな子供の姿があった。


「……っ!」


 ジュリアは反射的に駆け出していた。貴族としての責任、その思いが、身体を先に動かしていた。

 怖い。怖くて仕方ない。


 しかしその瞬間、胸に去来したのは、シモンとの訓練の日々。

 汗を流し、砂を噛み、不安に苛まれ、膝をついても――それでも立ち上がり続けた記憶。

(私は貴族なんだ。私はジュリア・アーデルシアなんだ)

 ジュリアは奥歯を噛みしめ、逃げる仮面の男を視界に捉えたまま、ひたすら追い続けた。


 お供の私兵が異変に気づいたときには、すでにジュリアの背は遠ざかっていた。

 影から警護していた私兵二人も、事態を把握するより早く駆け出す。

 先頭に立つ赤髪の男――ガレスは的確な指示を飛ばし、自身もジュリアを追いかけていた。


 細い路地を抜け、仮面の男に追いついたジュリアは――その瞬間、思いきり体当たりを仕掛け、地面に投げ出された子供を抱き上げた。


 ……そのはずだった。

 腕の中の感触は、影が崩れるように消え、淡く漂う魔素の残滓だけが残る。


「え……?」


 背後から、足音が迫る。


「お嬢様っ!」


 ガレスの叫びが響いた直後、暗がりから黒衣の仮面集団が現れ、容赦なく奇襲を仕掛けてきた。


 態勢を整える間もなく襲いかかる刃。

 だが、アーデルシア家の私兵たちは即座に前へ出て、ジュリアを庇う壁となった。

 剣を抜き放ち、襲撃を受け止め続けるが、形勢は防戦一方だった。


 ジュリアも震える手で魔力を練り上げ、炎の矢を放とうとする。

 だが――胸の奥に巣食う躊躇いが、魔力の流れを乱した。

 あの夜の記憶が、鮮やかに脳裏をよぎる。


 倒れた御者の呻き、闇に散った鮮血の色。

 自分の力も誰かを傷つけ、その先に死があることを自覚してしまった――その思いが、指先から魔力の熱を奪っていた。


「お嬢様、逃げてください!」


 振り返ったガレスの声が、鋭く路地に響く。

 ジュリアは一瞬ためらい、それでも歯を食いしばって駆け出した。


 逃走を阻むかのように、ジュリアの前方に向け、襲撃者が魔法を放つ。

 ガレスが身を投げ出し、クロスさせた両腕で炎矢を受け止めた。

 衝撃と熱が肉を灼き、焦げた風が路地を荒れ狂う。


「走れっ!」


 なりふり構わずガレスが叫ぶ。

 だが、次の一撃を受け切れず、ガレスは崩れ落ちた。


 振り返れば、きっと足が止まる――そんな予感に、ジュリアはなけなしの魔力を振り絞り、自分の足元へ炎矢を撃ち込む。

 爆風と煙が視界を覆い、熱と涙で滲む景色の中、彼女はただ走った。背後で剣戟と怒声が渦を巻いているのが、かすかに聞こえた。


 だが――逃げ込んだ先は、行き止まりだった。

 壁際で息を切らした瞬間、空気が変わる。背後から、重たい気配が覆いかぶさった。


「お宝みぃ~つけた~……」


 振り返ると、黒衣でも仮面でもない、漆黒のスーツに身を包んだ男が立っていた。

 歪んだ笑みを浮かべ、ぬるりと距離を詰めてくる。

 言葉を発することさえ憚られる、不気味な威圧感。

 不意に、ジュリアの喉が、ひくりと鳴った。


 ――甘い香り。

 次いで、焼けた鉱物のような金属臭。

 脈が一拍遅れ、胸の奥がじりじりと熱を帯びる。

 毒だ、と理解した瞬間、全身の感覚が跳ね上がった。

 土魔法による毒性鉱石の粉末――アース・ヴェノム《粉毒散布》。


 ジュリアは必死に魔力を高め、体内循環を活性化させる。

 だが、粉塵は肺へ絡みつき、四肢は急速に重さを失っていった。


 筋肉が徐々に痺れ、感覚が薄れていく。

 ジュリアは不自由な身体に歯噛みしながらも、必死に視線を巡らせ、逃げ道を探した。


「残念ですけどぉ……逃がしては……あ・げ・ま・せ・ん……だって――ヴェリタス様が……お望みですからぁぁ……」


 ねっとりとした声が耳を打つ。男は両手を大きく広げ、じりじりと距離を詰めてきた。

 短く吐かれる息に混じる熱が、肌を撫でる。

 苦悶に歪む自分の呼吸が、やけに大きく聞こえた。


「ふふ……ふははは……はぁ……はぁ……はぁぁ……」


 男はひとつ大きく息を吸い込み、路地の空気が一瞬、張りつめる。

 次の瞬間、喉を裂くような叫びが迸った。


「美しいぃぃ!!!」


 その声が石壁に反響し、夜気を震わせる。耳鳴りの奥で、世界が遠のいた。

 ジュリアは震える膝に力をこめ、気力を振り絞って立ち続けた。

 子供の幻影を使った卑劣な罠に屈することだけは、どうしても許せなかった。


 だが同時に、意識を繋ぎ止めていられる時間が、もう残り少ないことも悟っていた。

 ジュリアは髪に結んでいた深紅のリボンを解く。かつてシモンに「お前らしい、気の強さが滲んでる。似合ってるよ」と言われた、大切なものだった。


「ふふふ……無駄な足掻きも実に素敵。で~も~……そろそろ時間切れかしら?」


 嘲るような声に応えるかのように、周囲の気配が増える。

 いつの間にか、仮面の男たちが距離を詰め、逃げ場を塞いでいた。


「さぁぁ……役者は……すべて、そ・ろ・い・ま・し・た・よぉ~……舞台の幕が上がる“満月の夜”――」


 男の声が高揚していく。

 両手を広げ、天を仰ぐその仕草は、ジュリアの目には歪んだ演目の始まりのように映った。


「主役をお運びして……ぐれぐれも――丁重に。主演女優が欠けては、幕は上がりませんからぁ」


 ひらりと翻された合図と同時に、仮面の男たちが左右からジュリアを取り押さえる。

 もはや振り払う力は残っていない。ジュリアは、せめてもの抵抗として、正面から男を睨みつけた。


「……さぁ、お運びなさい」


 甘さを帯びた声が、背筋を冷やす。

 仮面の男たちは無言で小さく礼をし、ジュリアの身体は抗う術もなく持ち上げられた。

 指先から力が抜け、握りしめていたリボンが、するりと手を離れる。


(……気づいてくれるかな、シモン)

 薄れゆく意識の中で浮かぶのは、強くて優しい、どこまでも余裕のあるDランク冒険者の顔。


 都合のいい時だけ頼ってしまう自分を、甘えていると分かっていながら――それでも、彼なら、という思いは、闇に沈むその瞬間まで離れなかった。

 世界は静かに遠ざかり、迫りくる破滅の気配だけが、重く残された。

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