第21話 戸惑う少女と彷徨う飛燕
帰路の馬車の中、ジュリアはどこか満ち足りた様子で、窓の外を眺めていた。
淡い月光がその頬を照らし、舞踏会の余韻を静かに瞳へと宿している。
目を閉じてラストダンスを思い返しているのだろうか。
高揚の残滓が、頬の紅潮に現れている気がした。
視線を重ね、想いを胸に、ぴたりと足並みを揃えて踊った――シモンにとっても、かけがえのない時間だった。
そんな思いの一方、シモンは長期の依頼を終えたとき以上に、肩にじわじわと疲労が滲んでいるのを自覚していた。
“ラストダンス”はともかく、一日じゅう正装で過ごし、慣れぬ礼儀作法に身を置くのは、さすがに骨が折れる。
心中でぼやきつつも――その表情は、どこか穏やかだった。
「ありがとう」
ふいに、ジュリアがぽつりと呟く。
シモンはわずかに首を傾げた。
「……何に対してだ?」
ジュリアは一瞬だけ言葉を探すように視線を揺らし、それからそっと首を振る。
「……やっぱり、なんでもない」
それでもシモンは、胸の奥に小さなくすぐったさを覚えたまま、静かに頷いた。
「そうか」
(……まあ、こういうのも、たまには悪くない)
しばらくのあいだ、二人の間には言葉のない静寂が流れる。
馬車の車輪が石畳を刻む音だけが、かすかに耳へと届いていた。
――!?
そのとき、不意にシモンの背筋がこわばる。
(――来る)
街路の一角に差しかかった、その瞬間だった。
仕立て屋で外から向けられたときと同じ――いや、それ以上に濃密な悪意が、肌を刺すように押し寄せてくる。
ただの視線ではない。
これは紛れもない敵意――殺気と呼ぶべき、純粋な“害意”だった。
刹那。
シモンはジュリアの肩を強く引き寄せると、走行中の馬車の扉を、躊躇なく蹴り抜いた。
「ちょ、待って、シモン!――ッ!?」
ジュリアの悲鳴が夜気を裂く。
次の瞬間、シモンは彼女の頭を胸に抱え込んだまま、馬車の外へと跳び出した。
ふわりと着地し、間を置かず視線を巡らせる。
状況確認は一瞬で済ませた。
ジュリア――異常なし。
敵影――未確認。ただし、確実に迫っている。
御者は――すまん、間に合わない……死んでくれるなよ。
その直後だった。
馬車を牽く馬へ向けて、前方から炎の魔法が撃ち込まれる。
御者は反射的に魔防障壁の魔導具を作動させたが、火球は容赦なくそれを貫通し、馬を呑み込んだ。
轟音。
馬ごと車体が横転し、闇の中へ爆煙が巻き上がる。
そして――
煙の帳の向こうから、白い仮面の男たちが音もなく姿を現した。
地を滑るように距離を詰め、月明かりの下、抜き放たれた刃が一瞬だけ鋭くきらめく。
(……一、二……いや、五人。連携の取り方が異常だ。物盗りの動きじゃない――手練れ)
シモンの目が細まり、思考と身体が即座に戦闘態勢へと切り替わる。
個々の動きに無駄はなく、集団での挟撃に最適化された布陣。
これは、ただの奇襲ではない。
そう判断するに足るだけの、手際と精度だった。
警戒をさらに一段階引き上げ、剣に手をかける。
だが――ジュリアの存在が、抜かせることを躊躇わせた。
(血を見せることになるかもしれん……だが……)
構える間もなく、左右から一気に挟み込まれる。
瞬く間に動きが制限され、二手先、三手先の選択肢を塞がれていく。
連携の速さも、動きの無駄のなさも――まるで訓練された小隊のようだった。
シモンはジュリアを背に庇うように立ち、正面を睨み据えながら、片手を静かに後ろへ伸ばす。
「ジュリア。動くな。俺から離れるな」
短く、低い声音。
だが、揺るぎのない指示だった。
その声に、ジュリアはびくりと肩を震わせる。
月明かりに浮かぶ横顔は、はっきりと青ざめていた。
状況を呑み込めないまま、咄嗟に魔力を掌へ集めようとするが、指先は小刻みに震えている。
「な、なんで……どうして、襲われて……っ?」
「大丈夫だ」
シモンは前から視線を外さず、短く言い切った。
そして、そっと彼女の手に触れる。
指先から伝わる震えと、微かな熱。
そのすべてを受け止めながら、溢れかけた魔力を鎮めるように、静かに押し返した。
“ラストダンス”の余韻が、まだ胸の奥に微かに残っているというのに。
その高揚は過去へと押し流され――世界は牙を剥き、冷たい現実が容赦なく迫ってくる。
白仮面のひとりが、低く踏み込みながら鋭い突きを放った。
シモンはそれを紙一重で受け流し、即座に位置をずらしてジュリアを庇う。
二人目が死角を狙い、背後へ回り込む。
気づいた瞬間、シモンは足払いを放ち、体勢を崩させると同時に、ジュリアの腕を引き寄せた。
背中から、決して離さない。
ジュリアは恐怖に怯えながら、ただ必死にシモンの背へとしがみつくことしかできなかった。
シモンもまた、彼女を離さぬよう、左手を確かに添えている。
――間合いが悪い。
この状況で、ジュリアを庇いながら攻勢に転じるのは不可能に近い。
冷静に戦況を分析するが、立て直す余裕はほとんどない。
(まずいな……このままじゃ、ジリ貧だ)
剣を抜く暇すら、与えてもらえない。
白仮面たちは四人で間隙を突き、絶え間なく挟撃を仕掛けてくる。
今はただ、背後を取らせず、ジュリアを守るので精一杯だった。
(後ろの奴……こいつが指揮官か)
白仮面のひとりが、再び斬りかかってくる。
シモンはあえて前に踏み込み、虚を突くように――強烈な前蹴りを叩き込んだ。
相手がたたらを踏んだ隙に、強引に剣を抜く。
だがその瞬間、指揮官格と思しき男が、氷の礫を足元へと放った。
ジュリアを背後に庇っている以上、後退するしかない。
魔法に呼応するように、左右の白仮面がフェイントを入れて牽制し、前の二人が同時に動く。
右からの刃を剣で弾き、左の刃は身をひねって避ける。
――だが、一撃。肩を浅く切られた。
(狙いは……俺じゃない。殺しなら、馬を狙う必要はない。……目的は――ジュリアか)
確証はない。
だが、その確信めいた予感が、シモンの思考を研ぎ澄ませていく。
(……ちっ。見せたくなかったのに――生き死にの戦いも、本当の俺も)
シモンは、わずかに場違いな笑みをこぼした。
そして静かに、ジュリアの耳元へ囁く。
「……できれば、見なかったことにしてくれ」
次の瞬間。
シモンの表情から、余分な感情が消える。
同時に、その気配が、ふっと薄れた。
ジュリアを庇ったままの、不十分な体勢。
だが、シモンは右手側の襲撃者へ向けて、迷いなく剣を振るった。
漏れ出す月光を刃が拾い、次の瞬間――それは閃きとなって、闇へと放たれる。
刃は届いていない。
にもかかわらず、仮面の胸元から、一文字に血が噴き出した。
「飛燕」
シモンは、小さく呟いた。
致命傷には至らない。
だが、見えぬ斬撃が仲間を襲った事実に、仮面の集団は明らかな動揺を見せる。
シモンは一歩も動かず、ジュリアを背後に庇ったまま、わずかな“気の揺れ”を見逃さなかった。
――刹那。
再び前方へ向けて、剣を振る。
今度は二度、鈍い光が夜を裂いた。
対峙していたふたりの襲撃者が、片や太腿、片や腹部に赤い斬痕を刻まれ、呻き声を漏らす。
一拍遅れて、闇を裂くように、ふた筋の鮮紅が宙に弧を描いた。
「飛燕・番」
その言葉が、夜気に溶けるように低く響く。
後方に控えていた指揮官格の男は、瞬時に戦況を把握し、即断した。
「……退くぞ」
短く告げると同時に、魔法が放たれる。
氷の槍が轟音とともにシモンの足元へ突き立ち、地面を穿った。
それが合図だった。
仮面の集団は一斉に後方へ跳び退き、闇に紛れるように姿を消していく。
シモンはジュリアを庇ったまま、慎重に周囲を見守った。
氷の槍が砕け散り、魔素の光となって霧散するのを確認して――ようやく、息を吐く。
敵は、去った。
だが静けさの中に残されたのは、斬られた傷口の熱と、背後から伝わるジュリアの震えだった。
しばらく気配を探り、敵影が完全に消えたことを確かめる。
シモンは、わずかに息を整えた。
(奴らの狙いがジュリアだとしたら――目的はなんだ? 金目当ての誘拐……その線は薄い。あんな手練れを使う理由がない)
思考を巡らせるうち、雲が流れ、月が姿を現す。
雲間から零れた柔らかな光が、ふたりの肩をそっと撫でた。
剣を収め、張り詰めていた身体をわずかに解きながら、シモンはジュリアへと視線を向ける。
少女は地面に座り込み、肩を小さく震わせていた。
「……大丈夫か」
低く、しかし柔らかな声で問いかけながら、シモンは手を差し出す。
ジュリアは、その手を黙って見つめていた。
月光に照らされた掌は――あのときと、同じだった。
唯一、違っていたのは。
肩口から滲む血が、掌へと滴り落ちていたことだ。
舞踏会のラストダンス。
同じこの手で繋がり、ステップを踏んだ。
熱く、満ち足りた時間だった。
だが今、その手は、紅の飛沫を咲かせている。
月下に咲く一輪の花のように、美しく――そして、残酷に。
命を奪うこともできる、この手。
守るために振るったとしても――この手に触れるものはいない。
ジュリアは、何も言わず、ただその手を見つめていた。
行き場を失った掌は、宙をさまよい――やがて、静かに降ろされる。
(……当然か)
その手に残ったのは、ひとひらの虚しさだけだった。




