第20話 月下のラストダンス
フィオナとのダンスを終え、シモンは静かに一礼し、舞踏フロアを離れた。
重ねられる拍手と、抑えた歓声が背に注がれる。彼はそれに誇示することなく、わずかに頭を下げて応えるに留めた。
視線を巡らせ、人垣の向こうにジュリアの姿を捉える。
その表情に、胸の奥がかすかにざわめいた。
沈んでいる――。
理由はわからないが、明らかにいつもの彼女とは違う。
足早になりかける衝動を抑え、礼節を外さぬぎりぎりの速度で、人々の合間を縫って近づいた。
「……大丈夫か?」
声をかけると、ジュリアが顔を上げる。
一瞬、視線が絡んだ。
だが次の瞬間、彼女はふっと目を逸らし、俯いてしまう。
胸に小さな違和感を覚え、もう一度声をかけようとした、その時だった。
ジュリアが、ゆっくりと顔を上げる。
曇っていた瞳に、少しずつ光が戻り、やがて芯の通った意志が宿っていく。
――知っている。
シモンは、その眼差しに覚えがあった。
初めて手合わせをした日。
魔法が一切通じず、折れたと思われた瞬間。
それでも歯を食いしばり、無謀とも言えるほど真っ直ぐに食らいついてきた。
――あの時と、同じ瞳だ。
ジュリアはひとつ息を整え、静かに、だが揺るぎない声音で告げた。
「行くわよ。着いてきて」
何に沈み、何を乗り越えたのかは分からない。
それでも、シモンは何も問わず、彼女の背に従った。
向かった先は、どうやらエルゲール侯爵の元らしい。
手前で立ち止まり、振り返る。
「ここで待ってて」
短く言い残し、ジュリアは一人、侯爵の前へ進み出た。
言葉は届かないが、侯爵は穏やかな笑みを浮かべて頷き、ジュリアもまた丁寧に頭を下げて戻ってくる。
その瞳には、もはや迷いはなく、力強さの中に一途な光が宿っていた。
「来て」
それだけ告げると、返事を待つことなく踵を返す。
明確な目的を持った足取りで、一直線に歩き出すその背を、シモンは無言で追った。
ラストダンスを前に、ジュリアは会場を抜け出し、迷いのない足取りでシモンを庭園へと導いた。
――エルゲール侯爵に、事前に話していた用件。
どうやら、それはこの場所のことだったらしい。
夜の庭園は、ひっそりと静まり返っている。
月光と魔工灯が織りなす淡い光が石畳に影と文様を落とし、開け放たれた窓の向こうからは、舞踏会の余韻を宿した旋律が、風に乗って微かに届いていた。
「……ここなら、いいわよね」
ジュリアがくるりと振り返り、迷いのない手を差し出す。
「さあ、私と踊りなさい。今夜のラストを飾るのは――この私よ」
唐突な言葉だった。
だが、その声音にも、差し出された手にも、気まぐれや迷いは感じられない。
まっすぐにこちらを射抜く瞳が、何より雄弁だった。
(……ああ、そういうことか)
彼女が突然、エルゲール侯のもとへ向かった理由が、ようやく腑に落ちる。
大人になりすぎたシモンには、思いもつかなかった発想だ。
ジュリアは最初から、この舞台に立つ覚悟でいたのだ――自分自身の誇りを賭けて。
ラストダンスの意味を、シモンは理解している。
社交界において、それがどれほど象徴的な行為であり、どれほど多くの視線と憶測を集めるか。
そして、自分のような立場の者が、その位置に立つべきではないことも――痛いほど、わかっていた。
それでも、ジュリアは迷いなく手を差し出している。
これは、貴族の儀礼としての「ラストダンス」ではない。
挑むような瞳が、それを否定していた。
この舞台は、彼女自身が選び取った挑戦だ。
ならば――その手を取らない理由など、どこにもない。
微かに届く音楽が、夜の帳に溶けていく。
月明かりと魔工灯に照らされた石畳の上、花々だけが見守る、静謐な舞台。
「光栄です、レディ」
シモンは小さく笑みを浮かべ、静かにその手を取った。
そして二人は音楽に身を委ね、静かに――しかし確かな意志をもって、ステップを刻み始めた。
ジュリアのステップは、気品と情熱を併せ持つ、実に堂々たるものだった。
だが――それに応じるシモン自身も、驚くほど滑らかで、しなやかな動きを見せている。
意識せずとも身体が反応し、その足取りは、彼女の想像を軽やかに越えていた。
「……うそ、あなた……上手すぎない?」
「君ほどじゃないさ」
「なによそれ、負けてられないじゃない……っ」
挑むように踏み込むジュリア。その攻めは鋭く、技術も確かだ。
額にじんわりと汗が滲み、勝気な笑顔には高揚の色が、いよいよ濃くなっていた。
だがシモンは、一歩も引かない。
むしろ余裕を保ったまま、自然と彼女を導いていく。
ステップが速まる。
揺れるドレス、きらめく髪飾り、交差する視線。
月明かりの下、ふたりの影は幾度も重なり、また離れていった。
気づけば、リードしていたはずのシモン自身が、ジュリアの勢いに巻き込まれている。
その表情には、いつしか彼女と同じ――挑むような、そして心から楽しむ笑みが浮かび、熱を帯びた眼差しが宿っていた。
やがて音楽は、静かに――最後の一拍を刻む。
ジュリアはくるりと一回転し、その流れのまま、自然にシモンの腕の中へと収まった。
その瞳には自信と誇りが宿り、唇には、勝ち誇るような微笑が浮かんでいる。
「私の勝ちね」
挑戦的な一言に、シモンは小さく笑い、そして素直に頷いた。
「……参りました」
今回は、認めざるを得ない。
貴族社会という閉じられた、不自由な世界。
若さゆえのまっすぐな願いを、誰よりも情熱的に、自らの意志で貫き――この舞台を現実に引き寄せた。
言い訳の余地など、どこにもない。
心からの、完敗だった。
大広間の喧騒は、もう遠い。
ここにあるのは、穏やかな月の光と、ひんやりとした夜の風だけ。
敗北を認めたはずなのに、胸の内には不思議なほどの清々しさが満ちている。
高鳴る鼓動の余韻が、いつまでも身体の奥に残り続けていた。




