第18話 光と華の社交界
夜の帳が静かに下り、煌びやかな魔工灯が石畳を照らしていた。
ワイアース郊外西方の高台にそびえる、エルゲール侯爵邸。
重厚な鉄の門が音もなく開かれ、並木道の先に、白亜の大邸宅が柔らかな光をまとって浮かび上がる。
門をくぐった馬車が中庭の円形広場で停止した。
御者が扉を開き、まず降り立ったのは、光沢のある黒の礼装に身を包んだシモン・マックイーンである。
飾り気のない装いながら、上質な仕立てと堂々とした佇まいは、一目で只者ではないと知れるものだった。
背筋を伸ばし、視線を迷わせることなく邸宅を見据えるその姿に、近くで談笑していた貴族たちの注意が、ふと向けられる。
続いて、シモンの差し出した手を取るようにして、ジュリア・アーデルシアが静かに馬車を降りた。
緋色のサテンを基調としたドレスには、金糸の刺繍で花の文様が浮かび、胸元と裾を繊細なレースが彩っている。
高めに結い上げられた髪には赤瑪瑙の髪飾りが添えられ、魔工灯の光を受けてきらめいた。
雫型のイヤリングが耳元で揺れ、足元の銀糸のパンプスが、上品な輝きを放っている。
「……どちらの家のご子息かしら」
「随分と品のある立ち居振る舞い……護衛にしては異質ね」
そんな囁きが、風に紛れて届く。
容姿で人目を引くのは、いくつになっても妙に落ち着かない。
……とはいえ、こういう時は笑ってやり過ごすのが、すっかり習慣のようなものだ。
もっとも、今日はアーデルシア家ご令嬢の“同行者”だ。
俺が家名に泥を塗るわけにもいかない。……ぼろが出ないよう、気をつけないとな。
正面玄関の手前で、式典用の剣と短剣を預けるよう促された。
シモンは静かにそれに従い、ジュリアも軽く頷いて、屋内へと足を進める。
エルゲール侯爵邸の大広間には、大理石の床に金銀の柱、そして天井高く掲げられたシャンデリアが連なり、魔工灯の明かりを受けて虹色に煌めいていた。
優雅な室内楽が空間を満たし、壁際には貴族たちが列をなし、中央の舞踏スペースを囲むようにして、華やかな宴が広がっている。
そんな中、ジュリアがシモンの隣で、ちらりと視線を向けてきた。
やや不満げな声音で、小さく呟く。
「ねぇ、シモン。……まだ、私のドレスについて何も言ってくれてないわよ」
その言葉に、シモンは肩をすくめ、小さく息を吐いた。
そして、素直な口調で返す。
「……よく似合ってるよ。華やかだけど、気品もある。髪飾りも、君の髪色によく映えてるな」
「……で? 他にはないのかしら?」
じとりとした視線に、シモンは怯みそうになるのを瞬時に堪え、真面目な声で言葉を続けた。
「いつもより大人っぽくて、魅力的に見える。誰がどう見ても、素敵な淑女だ」
「……シモンから見ても?」
「当然だ」
「そ、そう……なんだ」
ジュリアはぷいと顔を背けたが、頬がほんのり熱を帯びているのは隠しきれていない。
緩みそうになる口元を、きゅっと引き締めているあたり、満更でもないのだろう。
「……行きましょ。まずは、ご挨拶を」
照れ隠しだろうか。
踵を返して歩き出そうとした、そのとき――シモンの胸に、つい悪戯心が芽生えてしまった。
「かしこまりました、マイ・レディー」
いつもとは違う、畏まった声音。
一瞬びくりと肩を震わせたジュリアは、こちらを一切振り向かず、いつもより早い足取りで行ってしまう。
シモンは、悪戯が過ぎたかと思いながらも、ジュリアから離れないよう、その後に続いた。
やがて主催者のもとにたどり着き、シモンは目立たぬよう、表情を整えた。
心を整えていたらしいジュリアは、一歩前に出て静かに頭を下げる。
「ジュリア・アーデルシア、拝謁にあがりました。貴家のご招待、心より感謝申し上げます」
ほんのわずかに声に力がこもってはいたが、それでも堂々とした、はっきりとした挨拶だった。
育ちの良さが伺える、優雅で凛とした声。
ジュリアはスカートの端を丁寧につまみ、軽やかな所作でカーテシーを決める。
動きに無駄はなく、練られた礼法に裏打ちされた、貴族の令嬢としての模範的な振る舞いだった。
その所作と声音に、シモンは思わず目を細める。
ついこの間、訓練場で汗にまみれ、歯を食いしばっていた少女が、いまはこうして華やかな舞台に立っている。
(……大したもんだ。どこに出しても恥ずかしくない、“淑女”だな)
どこか子供っぽさを残す彼女を、俺は見くびっていたのかもしれない。
新たな一面を目の当たりにして、それが賞賛か、感嘆か。自分でも判然としないまま、胸の内でそっと認めた。
エルゲール侯爵は温かな笑みを浮かべ、ジュリアの頭に軽く手を添えて撫でると、今度はシモンへと視線を向け、僅かに目を細めると、静かに頷いた。
「今宵は、ゆるりと楽しんでいただきたい。お二人とも、どうぞご随意に」
その言葉に、ジュリアは軽やかに頭を下げ、すぐさま貴族たちの方へと歩を進める。
場慣れした様子で人々に目礼を送り、流れるような口調で短い挨拶を重ねていった。
一方のシモンは、その背にぴたりと寄り添いながら、必要最低限の言葉だけを口にし、伴としての役目に徹している。
目立ちすぎず、下がりすぎず、決して前へは出ない。
(今夜だけは――その役を、ちゃんと果たすさ)
しばらくすると、歓談のざわめきが次第に薄れ、代わるように旋律が場を満たしていった。
空気は静かに舞踏の気配を帯び始め、やがて手と手が重なり、光と音の中で――舞踏の幕が上がる。
楽団が新たな旋律を奏で始めると、中央の舞踏スペースは次第に人で賑わい始めた。
ジュリアはすぐに複数の貴族子弟に誘われ、その都度丁寧に応じながら、優雅にステップを踏んでいく。
シモンは壁際に控えていたが、ふと気配を感じて振り向いた。
淡い翡翠色のリボンを髪に結んだ少女が、控えめに一礼する。
「ごきげんよう。アーデルシア家の、シモン・マックイーン様でよろしいでしょうか? 失礼ですが、ジュリア様は?」
フィオナ・ヴァン・エルゲール――主催者の孫娘であり、ジュリアと同じワイアース魔法学院に通う、二つ年上の貴族令嬢だった。
先ほどエルゲール侯爵への挨拶の際、傍らに控えていたため顔と名前は覚えており、簡単なプロフィールもジュリアから聞いている。
「ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません。フィオナ様。ジュリア様は……今、こちらへ戻られるところでございます」
ちょうど演奏が終わり、ジュリアがこちらへ向かってくるところだった。
「ごきげんよう、フィオナ様」
「ごきげんよう、ジュリア様。今宵は当家のパーティーにご参加いただき、感謝いたします。お楽しみいただけておりますでしょうか」
貴族の子女同士の、形式に則った挨拶。
だが、フィオナに比べると、ジュリアの表情はわずかに堅い。
やはり爵位の差だろうか。
――それとも、別の理由があるのか。
「こちらこそ、お招きにあずかり、心より感謝しております。パーティーも華やかで、楽しませていただいております」
その返答に、フィオナはにこりと微笑んだ。
おそらく挨拶だけで終わらないことを、ジュリアも察しているのだろう。続く言葉を待つように、表情の硬さは崩れていない。
「ところで、ジュリア様。祖父の申しつけにより、今宵の余興として、シモン様に一曲お相手をお願いしたく存じます。ご許可を頂けますでしょうか」
思いもよらぬ言葉だった。
シモンは内心で戸惑いながらも、それを表情にも態度にも出さずに済ませた――が、ジュリアはそうはいかなかった。
一瞬の動揺を押さえきれず、思わずシモンの方へ視線を向けてしまう。
だがすぐに目を閉じ、小さく息を吸うと、気を取り直したように社交的な笑みを浮かべた。
「……ええ、構いませんわ。よろしくお願いいたします、フィオナ様」
フィオナは満足げに微笑み、今度はシモンへと手を差し出す。
「シモン様、一曲お付き合いいただけるかしら」
「……光栄です、フィオナ様。どうかお手を」
シモンは一瞬だけ間を置いてから、軽く礼をし、差し出された手を慎重に取る。
そしてフィオナとともに、舞踏スペースへと歩を進めた。
一歩、また一歩。
最初のステップを踏んだ、その瞬間――フィオナの目が、わずかに見開かれる。
「……お上手なのですね」
「以前に、ほんの少しだけ、習ったことがあるだけです」
控えめに答えながらも、その瞳の奥には一瞬、遠い記憶の影が揺れた。
だがすぐに意識を現在へと引き戻す。今はただ、目の前の相手に集中するのみだ。
やがて、そのステップは会場の視線を集め始める。
特に若い令嬢たちの視線が、見知らぬ男と主催者の孫娘が織りなす優雅な舞に引き寄せられていった。
控えめでありながら堂々とした立ち居振る舞い。
そこに、ひそやかなざわめきが、波紋のように広がっていく。
ただ一人、他の令嬢たちとは違う温度で、その光景を見つめている少女がいた。
ダンスの輪の外――ひとり立ち尽くしたまま、ジュリアはシモンとフィオナの舞いを、どこか寂しげに見つめていた。




