閑話 鏡の中の私・再び ―Julia in the mirror again―
湯けむりが、白く、ゆるやかに立ちのぼっていた。
天井の高い大理石張りの浴場は、すでに夜の帳に包まれている。壁際に据えられた魔工灯が、水面に金の光を落とし、揺れる波紋がきらきらと踊るように天井を照らしていた。
静寂に満ちた空間で、耳に届くのは――ときおり湯面をかすめてゆく、湯気の囁きだけ。
模擬戦のあと、魔力も体力も使い果たした彼女は、しばらく立つことすらままならなかった。食事を終え、ようやく湯に入れるほどには回復した頃には、夜もすっかり更けていた。
ジュリアは湯船の中に身を沈めていた。鼻先まで湯に浸かり、肩までのプラチナブロンドが湯のなかでふわりと広がる。瞼の奥に残る熱を、湯の温もりで溶かすように。目元には、まだ少しぼんやりとした影があった。
今なら、分かる。
訓練の正しさも、体力の重要性も。
シモンが語ってくれたことの意味を、身体で理解することになった。
だが……。
ぽつり、と呟く。
「……また、負けた」
思わず、口をついて出た瞬間、胸の奥がちくっと痛んだ。
全力は尽くした。嘘じゃない。今日の模擬戦に、できることは全部やった。ランニングも、瞑想も――毎日の訓練はどれひとつ、無駄じゃなかった。
ちゃんと最後まで動けたし、焦らずに戦術を考えることも出来た。
前よりずっと、まともに戦えてた――あたしの目から見ても、そう思う。
……だから、やり切った。そう言えるだけのことはした。
けど、悔いはない……とは、言えなかった。
悔しくて、悔しくて、どうしようもない。
この気持ち、忘れちゃだめだ。……あたしは、絶対に――忘れない。
正直に言うと、勝てるなんて、最初から思ってなかった。
だけど、もっとやれた気がして。もっと、食らいつけた気がして。
たぶんそれは、欲張りなのかもしれない。
そう思っちゃうくらい、あたし、シモンに教えたかった。あたしは、こんなもんじゃないって。
……でも、ううん、本当は――わかってほしかったんだ。
ゆっくりと湯舟から上がったジュリアは、洗面台の前へと歩み出た。
鏡の中には、しっとりと湯気をまとった自分が映る。傷一つない、年相応の少女の身体。けれど――よく見れば、お腹周りがほんのわずかに細くなっているような気がした。
「……あれ?」
気づいて、眉をひそめた。
「……変わってるんだ。少しずつだけど……ちゃんと」
ジュリアは鏡の前で身体の向きを変えたり、ぺたぺたと自分の手で確かめたり、自分の身体の変化を確認していた。
その時、ジュリアの中で恐ろしい想像がよぎった。
(……まさか?)
気づいた瞬間、慌てて両手で胸を確かめる。
「胸は……変わってない……っ、変わっていない」
少しだけ安堵したかと思えば、落胆しながら、再び鏡の中の自分を見つめ直す。
(だけど――少しずつだけど、ちゃんと変わってる)
日々の鍛錬の積み重ね。自分自身を動かしてきた結果。
けれど、その裏には――どうしても頭から離れない存在がいた。
ふと脳裏に浮かんだのは、あの男の顔。
いつも余裕たっぷりの笑みを浮かべ、微笑ましそうに私を見つめる、あの鷹揚な態度。
(……アイツのせい。Dランクのくせに、なんであんな強いのよ)
思わず口をとがらせる。
そもそも、あの手合わせのやり方、ずるいし。卑怯だし。
年の差ってものを考えなさいよって話だし!
それにあの妙な余裕、何なのよあれ!
ほんのちょっとだけ顔がいいからって、調子に乗ってる!
もうちょっとこう……焦ったりとかしなさいよ!
頭の中で次々と不満が溢れ出す。
けれどそれは怒りというよりも、どこか子供じみた拗ねた悪態だった。
(……ばか)
「なのに、偉ぶらないし。全部お見通しみたいな顔して、勝手に“先生”ぶってるし。そのくせ、木剣は首元ギリギリで止めてくるし……意味わかんない!」
胸の奥に溜まっていた想いは、いつの間にか声になっていた。清々しく響いた声が、一人きりの浴場に、静かに広がっていく。
鏡に映る私は顔をしかめているが、その表情はどこか拗ねていて、どこか満更でもなさそうだった。鏡越しに視線を返す自分に、小さなため息とともに、ぽつりと呟く。
「はぁ……シモンって、大人だよね。強くて、余裕があって……多分、優しい」
湯の音が、再び静寂の中へと溶けていく。その静けさが、ジュリアの思考を少しだけ冷静にさせた。
(私、あの人に――導かれてる)
胸の内に、悔しさと、ほんの少しの敬意が同居する。
再び、鏡の中の自分と目を合わせる。
ジュリアは、ゆっくりと自分自身を見つめ直した。
(でも……負けっぱなしなんて、私らしくない)
静かに、けれど確かな意志を込めて息を吐く。
「……だいたい、あの人、年齢だって私よりずっと上でしょ? 大人げないったらないわ」
言いがかりめいた不満が、またぞろ胸の奥でふつふつと湧き上がる。
その時、不意に天啓とも思える閃きが、ジュリアの中を駆け巡る。
「あ……だったら、今度はこっちのフィールドで勝負よ」
ちょうど、知り合いの貴族が催すホームパーティーへの招待状が届いていた。
添えられていたプログラムには、楽団の演奏順と、曲目が細かく書かれている。
つまり、ダンスの時間が設けられているということだ。
「シモンは知らないはずだわ。私が、魔法だけじゃなく、ダンスの才にも恵まれてるってことを。これは奇襲よ。油断してもらうには、うってつけ」
ジュリアは得意げに鼻を鳴らした。
「この私のダンスで、きりきり舞いさせてあげるんだから! ふふっ、今度は私の掌で踊ってもらうわよっ!」
想像しただけで、自然と口元が綻ぶ。
我ながら、とても良い思いつきだ――そんな満足げな顔を浮かべた。
ジュリアは改めて、静まり返った浴場を見渡す。
誰もいない広々とした大理石張りの空間に、湯けむりと裸足の足音だけが漂っていた。
ニヤリと笑った瞬間、彼女は軽く跳ねるようにして、湯の中へと飛び込む。
水飛沫が派手に弾けた。
そこにいたのは、魔法士でも、貴族令嬢でもない。
悔しさと希望を胸に抱きながら、未来に挑もうとする――ひとりの少女だった。
その瞳はもう、次の勝負を見据えていた。静かに輝き始めていた。
――今はまだ、微かな光でも。




