第15話 愚直と焦燥の果てに
沈みゆく陽が、訓練場の壁を朱に染めていた。
ジュリアは高鳴る鼓動を感じながら、敢えてゆっくりと歩みを進める。
先に立っていたシモンは、訓練着姿のジュリアに目を留め、小さく感心したように口元を緩めた。
張りつめた緊張と、それを押しのける覚悟が交じりあった眼差し――今のジュリアは、確かに戦いに臨む者の目をしていた。
「準備はいいか?」
「いつでも」
二人は距離を取る。
張り詰めた空気を、最初に破ったのはジュリアだった。
「ファイア・ボルト!」
詠唱とともに、炎矢が高速で放たれる。
だが、シモンは軽やかに身をひねり、それをいとも容易くかわした。
二発目。三発目。
炎矢は正確に飛ぶが、シモンは無駄のない動きで、すべてを回避してみせる。
(……やっぱり、届かない。前と――同じ?)
悔しさが胸をかすめる。
しかし、不思議と焦りはなかった。
自分が、かつての自分とは違うことに、ジュリア自身が気づいていたからだ。
(……違う。落ち着いてる、私。それに……)
呼吸は安定し、視界は澄んでいる。
思考も、驚くほど明瞭だった。
撃ち、呼吸し、また撃つ――
その流れが、頭の中で静かに整っていく。
(タイミングは……今!)
ジュリアは、あえて速度を落とした炎矢を一発、放った。
囮――その直後、すかさず身を翻し、角度を変えて、もう一発を高速で撃ち出す。
二つの炎矢は、わずかな時差をもって、シモンに迫った。
シモンの瞳が、わずかに見開かれる。
速いほうを木剣で弾く――火花が弾けた。
その直後、遅れて飛んだ炎矢が、無傷のままシモンの背後で爆ぜる。
決定打にはならなかった。
けれど、ジュリアの胸には、確かな実感が芽生えていた。
(――届いた)
その様子を、訓練場の陰から静かに見守る二つの影があった。
メイドのミーナと、執事ヴァレリオである。
「……お嬢様の、あの姿」
ミーナが、ぽつりと呟いた。
「ええ。――お嬢様の真っ直ぐさには、胸を打たれますな」
ヴァレリオは細めた目で戦況を見つめ、かすかに頷く。
(……前回と違う。全部、避けられてはいない!)
ジュリアの瞳に、熱が灯る。
そこに宿っていたのは闘志――ただ、勝ちたいという真剣な意志だった。
動きながら撃ち、撃ちながら狙いをずらす。
詠唱の隙を削り、わずかな呼吸の合間にも、一歩でも前に出るための術を探る。
(体が、ついてくる。魔法が、思い描いた通りに撃てる……!)
ここにきて、自分が“変わった”ことに、ジュリア自身がはっきりと気づく。
(ありがとう、シモン。でも……全部が掌の上だったなんて――なんか、むかつく)
唇を引き結び、魔力を込めて叫んだ。
「――覚悟しなさい!」
ジュリアの言葉に、シモンの口元がわずかに緩む。
その反応に、ジュリアも思わず微笑みそうになるが、慌てて顔を引き締め、代わりに戦意を漲らせた。
シモンは場に留まることなく、右へ左へと細かくステップを刻みながら、次々に飛んでくる炎矢を躱し、あるいは木剣で打ち払い続ける。
ジュリアがシモンを見つめるたび、視線がぶつかり合う。
(楽しんでいる? いや、喜んでいるの? ――どっちでもいい。今の私は、全力で戦うだけよ)
時間にすれば、わずか数十分。
だが、その数十分は――二人にとって、果てしなく長く、そして濃密だった。
ジュリアは止まることなく走り続け、魔法を撃ち続ける。
炎矢がシモンを捉えられなくとも、止まる理由にはならなかった。むしろ“次”を試したく、集中はさらに高まっていく。
ここまで戦えるようになった自分の身体と、戦えるようにしてくれたシモンに、ふと想いを馳せる。
感謝の気持ちは魔法に乗せる。――だから……。
(ありがたく、当たりなさい!)
ジュリアが一際大きな炎矢を放つと、シモンは打ち払うのを諦め、身を翻して躱した。
魔法障壁にぶつかった炎矢は大爆発を起こし、二人の姿を紅く照らす。
互いに視線をそらさぬまま見つめ合い、ふと、同じタイミングで微笑んでいた。
やがて――。
(くっ……体が重い)
ジュリアの呼吸が荒くなる。全身が、鉛のように重く感じられた。
(シモンに、付け焼刃が通じるわけない。……だったら、フレイム・バーストで勝負するしかない)
これが、最後の一撃になる。
そう悟ったからこそ、ジュリアは賭けに出た。
まず、遅いファイア・ボルトを一発、上空へと撃ち放つ。
続けて、その軌道をわずかにずらしたもう一発を、さらにゆっくりと追わせる。
そして――最後に、最速の炎矢を、シモンの足元手前に撃ち込んだ。
狙いはただ一つ。詠唱のための時間稼ぎ。
(……ファイア・ボルトの成否は関係ない。全部、囮)
その間に、ジュリアは即座に詠唱へと入る。
「──我が魂に宿るは赤き灼熱、呼応せよ、地の脈動、重ねる鼓動──」
拳を握りしめる。
膝の震えは力ずくで抑え込み、視線は逸らさない。
まっすぐに、ただ一人――シモンを見据えていた。
「熱よ集え、怒りの炎よ、爆ぜろ……フレイム・バー……」
その瞬間、ジュリアの声が空に満ちるより早く、シモンの足が動いた。
上空から迫る二発の炎矢。足元へと疾駆する炎矢。
シモンは一つ一つの着弾を待たず、自ら前へと踏み込み――炎矢を紙一重でかわしながら、一直線にジュリアへと迫った。
ジュリアの中で、時間が止まったようだった。
二人の距離が急激に、いや、瞬間的に詰まる。
「っ!!」
気づけば、シモンの木剣が、音もなくジュリアの喉元に突きつけられていた。
──沈黙。
ジュリアの体が、ぴくりと震える。
その刹那、二人の視線が交差した。
唇を噛みしめ、視線を落とす。
悔しさが、胸を満たす。
けれど――
「……参りました」
絞り出すような声。それでも、はっきりとした響きを持っていた。
ジュリアは、苦い悔しさを正面から受け入れた。
今よりも、強くなるために。
それは――ジュリアの、敗者としての矜持だったのかもしれない。
「強くなったな、ジュリア。……これからお前は、もっと強くなる」
そう告げて、シモンは木剣を収め、一礼して背を向ける。
ジュリアは、その言葉を胸に刻んだ。
(……もっと、もっと強くなりたい……)
ミーナが小走りで駆け寄り、無言でジュリアの肩を支える。
その優しさに、ジュリアは小さく頷いた。
一方で、シモンは荷物置き場へと足を向ける。
その傍らに、音もなく立つ影があった。
影の主――それは、やはり執事ヴァレリオであった。
「お嬢様を……どうか、お願いいたします、シモン殿」
丁寧な言葉に込められた信頼に、シモンは自然な笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ、任せてください」
ヴァレリオの礼は、見惚れるほどに美しい。
シモンはそれに、小さく頷くことで応える。
模擬戦の結末に、シモンは笑みを浮かべていた。
ジュリアにはそれが満足そうに見えて、何故か複雑な気持ちになった。
疲弊した身体を支えられたまま、ジュリアはふと空を見上げる。
いつの間にか、星がまたたいていた。
今はまだ小さな光でも――これから、もっと輝いていける。
視線を戻せば、慌てながら唇を震わせる、心配そうなミーナの瞳。
この瞳が、自分を見守ってくれていたのだ。
自分を導く人、自分を支える人。
そのすべてに、応えたい。
(……私は、もっと強くなる)
ジュリアはそっと、夜空の星に誓った。




