第14話 私の知らない私
ワイアース魔法学院の教室に、窓越しのやわらかな春の陽光が差し込んでいた。
白い机の列をなぞるように、穏やかな光がゆっくりと移ろい、教室の空気はどこまでも平和だった。
教師の穏やかな声が、教室内に静かに響いている――はずなのに、ジュリアの意識は、その輪の中にはなかった。
黒板の文字も、周囲のざわめきも、どこか遠い。聞いているつもりで、何ひとつ、頭に残っていない。
(……今日の放課後。模擬戦)
ふと浮かんだその言葉が、胸の奥に小さな重みを落とした。
三週間の訓練を経て、ついに再戦の機会が巡ってきたのだ。
本来なら、胸を高鳴らせ、気持ちを奮い立たせる場面のはずだった。
勝ちたい。
前とは違う自分を見せたい。
いつものジュリアなら、そう思えていたはずなのに。
今は――胸の奥が、どうにも落ち着かない。
期待よりも先に、不安が顔を出し、静かに居座っている。
(……私、この三週間、魔法の訓練なんて、ほとんどしてない)
頭の中で、そう言葉にした瞬間、喉の奥がひりついた。
やってきたことは、はっきりしている。
走って、走って、息を整え、心を無にする。
それだけだった。
新しい魔法を覚えたわけではない。
魔力が高まったという実感はない。
術式が洗練された感覚もない。
魔法士として“強くなった”と胸を張れるような手応えは――どこにも、なかった。
教室に満ちる穏やかな時間とは裏腹に、胸の内だけが、取り残されているような感覚。
自分を取り巻くすべてが、止まることなく進み続けているのに、自分だけが、同じ場所に立ち尽くしている。
(このままじゃ……)
言葉にする前に、その先が分かってしまう。
脳裏に浮かんだのは、あの日の光景だった。
(……きっと、また前と同じ)
あの敗北。
一つとして届かなかった魔法。
何も出来ずに終わった、自分自身。
思い出すたび、胸の奥が、きゅっと縮こまる。
逃げることも、忘れることも出来ないまま、その記憶は、今も静かに――確かに、ここにあった。
――放課後
学院から戻ったジュリアは、自室で訓練着へと着替えていた。
着慣れたはずの訓練着なのに、今日に限って着替えるのに手間取っている。
鏡の前でシャツの裾を整えるが、その指先は、わずかに震えていた。
「……どうすればいいのよ。魔法の練習なんて、ほとんどしてないし……」
思わずこぼれた声は、いつになく弱々しかった。
鏡越しに映る自分の姿を見つめながら、ジュリアはそっと目を伏せる。
「……大丈夫です。お嬢様は、ちゃんと強くなっておられますよ」
背後から、やわらかな声が降りてきた。
振り返ると、後ろに控えていたメイドのミーナが、そっと微笑んでいた。
「……私、あまり変われてないと思うの。……きっと、あの時と、何も変わってない……」
ぽつりと落ちたその声は、ジュリアらしからぬ、か細く頼りない響きを帯びていた。
「そんなこと、ありません」
ミーナはひざをつき、ジュリアのスカートの裾をそっと整えながら、優しく言葉を重ねる。
「最初は五周で息を切らしていたのに、今では十周走っても姿勢が崩れません。瞑想も、初めの頃は十分でふらついていたのに、今では一時間座っていても、ほとんど動かれない」
ジュリアは驚いたように、ミーナを見つめた。
「私は見ていました。お嬢様が、どれほど真摯に努力を積み重ねてこられたか」
その瞳は、まるで母親のように、あたたかく誇らしげだった。
――気づけば、ずっと見守られていたのだ。結果が出なくても、迷っても、それでも歩みを止めなかった自分を。
胸の奥に、じんわりと熱が灯る。それは安堵でも甘えでもなく、見ていてくれたことへの感謝と、応えたいという想いだった。
ジュリアは小さく息をつき、ミーナの目をまっすぐに見て、静かに頷く。
「ありがとう、ミーナ。私……やってみる。今の私が出せる、全部を出してくる」
ミーナはふっと微笑み、静かに背を押すように言った。
「いってらっしゃいませ、お嬢様。どうか胸を張って――ご自身の歩みを信じ、戦ってください」
その声は決して大きくはない。
けれど確かに、ジュリアの背をあたたかく支える、力強さを帯びていた。
ジュリアはひとつ深呼吸をし、扉に向き直る。
覚悟は、すでにできている。
ゆっくりと、一歩を踏み出した。




