第12話 理解と納得の境界線
朝の光が差し込むテラノス邸の訓練場は、澄んだ空気と小鳥のさえずりに包まれていた。
広く整えられた地面には、うっすらと朝霧が残り、歩を進めるたびに、湿り気を帯びた土がしっとりとした感触を返してくる。奥には魔力感知型の標的が設置され、木製の訓練用人形が整然と並んでいた。
訓練場を囲むように張られた防護障壁は、魔力の逸散を防ぐために常設されている。使用者の魔力量に応じて強化されたそれは、空間の輪郭を淡く揺らめかせる光の膜となり、場内を包み込んでいた。まるで、これから力を試す者を静かに見守るかのように。
訓練場の中央には、すでにジュリアの姿があり、しなやかに四肢を伸ばしながら備えていた。
淡いピンクを基調に、ネイビーの差し色が入った半袖のボタンシャツ、真っ白なショートスカート。そして、その裾からは濃紺のブルマがちらちらと覗く。学院の訓練着をベースにした、ジュリア考案の訓練衣装である。
それを目にしたシモンは、思わず目を見開いた。
「……最近の訓練着って、こんな感じなのか……」
つぶやいた声には、困惑と戸惑いが滲んでいた。
(昔はブルマだけだったはずだが……露出は減ったというのに、なぜか妙に……)
ひらりと揺れるスカートとブルマに視線を向けながら、ジュリアと同世代のエリスやリリーの訓練着姿を想像してしまい、シモンは思わず眉間をひそめた。
(この世代にとっては、当たり前なのか……?)
今どきのファッションセンスなど、まるで分かっていない自分が口を挟むのもどうかと思ったが――それでもやはり、気になってしまうものは気になってしまう。
小さく咳払いし、シモンは意を決して口を開いた。
「……恥ずかしくないのか、それ」
「何よ、それって?」
ジュリアは小首を傾げ、きょとんとした目で問い返してくる。そして、おもむろに自分のスカートの裾をつまみ、ブルマを覗き込んだ。
「ちょ、ちょっと待て! そういうことじゃない!」
シモンは慌てて制し、溜め息をついて額を押さえた。
(……これが、ジェネレーションギャップってやつなのか)
理外の感覚に戸惑いを覚えつつも、小さく咳払いし、それを振り払うようにして、シモンは訓練の開始を告げた。
「コホン……さて、訓練を始めよう。ただし、俺は魔法そのものは指導できない」
「わかってるわ。その代わり……でしょ?」
ジュリアの表情は、これから始まる訓練に、昂ぶりを抑えきれないといった様子だった。
「そうだ。魔法を“どう使って戦うか”は教えられる。今日はその第一歩として――まずはランニングから始める。屋敷の外周を走ってみようか」
「……は? ランニング?」
ジュリアの眉が、ぴくりと跳ねた。意表を突かれた提案に、思わず不満が顔に出てしまう。
「私は魔法士よ? ランニングなんて、必要あるの?」
非難めいたジュリアの反論に、シモンは真剣な眼差しで頷いた。
「必要だ。むしろ、お前みたいな魔法士こそ、な」
短く息を吸い、シモンは静かに語り始めた。
「昔、一緒に組んでいた仲間がいた。魔法士としての才能は、申し分なかったと思う。剣士としての視点だが、魔法の速度も、その精度も見事だった」
そこまで語ると、空の彼方を見つめていたシモンの表情に、ふっと陰が差した。
「だが、ある依頼の途中で、大量のモンスターに襲われた。退路を断たれ、長期戦を強いられた時だった。体力の消耗は精神を蝕み、集中力を削る。そして、とうとう呪文すら唱えられなくなった」
そこまで語ったところで、シモンはふと口をつぐんだ。
苦い記憶が、言葉の端々に滲んでいる。それでもなお語ることを選んだのは、同じ過ちを繰り返してほしくないという思いがあったからだ。
「彼女の限界には、気づいていた。だが、あの時の俺には守り切る力がなかった。動けなくなった彼女を、モンスターは容赦なく襲った。命こそ助かったが――その時の傷が、冒険者としての未来を奪った」
声の調子は淡々としていた。
だが、その淀みのない口調が、どれほど鮮明にその記憶が焼きついているかを物語っていた。
風の音に紛れるように、シモンはひとつ息を吐いた。
「逆に、俺は持久力だけは人一倍あった。不利な位置に立たないよう立ち回り、ひたすら手数を出して牽制し続けた。倒せなくても、粘り勝ちで追い払えることもあった。……俺が強かったわけじゃない。ただ、動けたかどうか――それだけが、生き残れるかどうかを分ける場面もあった」
シモンの声は静かだった。
だが、過去の現実に裏打ちされたその言葉は重い。自嘲でも虚勢でもない、ただの“事実”。通り過ぎた“過去”の断片が、言葉となってそこに在った。
ジュリアの胸には、その苦い響きがじわりと染み込み、ゆっくりと広がっていく。
「力や技はもちろん勝負には大切だ。だが、冒険者は『勝ち負け』じゃない。『生き死に』をかけてる。その『生き死に』に必要なのが、持久力なんだ」
言い終えると、シモンはまっすぐにジュリアを見つめた。
その眼差しには、説教じみた響きも、押しつけがましい熱もなかった。
そこにあるのは、ひとりの先人としての、静かな誠意だけだった。
「やるか、やらないかはお前の判断だ」
ジュリアは黙り込んだ。
俺の言葉を必死に咀嚼し、自分の内に納めようとしているのだろう。
ジュリアは頭のいい子だ。言葉の意味も、行動の有用性も理解はしているはずだ。
だが、魔法士としての自身のイメージと乖離した内容に、素直には納得できていないように見える。
シモンは、それを当然だと思った。
一般的な魔法士であれば、確かにランニング――ひいては持久力は、不要とまではいかずとも、他に優先すべきこともある。
しかし、ジュリアが目指しているのは冒険者だ。
冒険者であれば、何をおいても持久力が必要になる。
シモンは過去の経験から、『生き死に』を分ける重要な要素として、これだけは譲れず、ジュリアにも分かってほしかった。
――やがて。
「……分かったわよ」
吐き捨てるようにそう言うと、ジュリアはくるりと背を向け、そのまま勢いに任せて走り出した。
不満を言葉にする代わりに、足を動かしているように見えた。
拗ねたような足音が、屋敷の外へと向かって、次第に遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、シモンは静かに目を細めた。
(少しずつでいい。自分の足で立って、走って、考える。それが――きっと、力になる)
その日は、訓練の大半をランニングに費やし、残りのわずかな時間を瞑想にあてて終えた。
訓練中も、訓練後も、ジュリアの表情は晴れなかった。
まるで「本当にこれで強くなれるのか?」と、その顔に書いてあるかのようだった。
そして翌日も、そのまた翌日も、訓練の内容は変わらなかった。
朝と放課後――ひたすら走り、ひたすら瞑想する。
それだけの繰り返しだ。学院の授業を終えたあとも同じ。走って、想って、心を静めるだけ。
苛立ちが顔を覗かせそうになると、ジュリアは平静を装い、訓練に没頭した。
シモンは、そんなジュリアを見るたびに、自身の指導法を疑った。
他に、もっと良いアプローチがあったのではないか。より効率の良い訓練があるのではないか。
ジュリアは才能のある魔法士だ。それを自分の指導法で、芽を摘み取ってはいないだろうか。
不満を抱えながらも、文句ひとつ言わずに従ってくれるジュリアを見るたび、シモンは己の胸の内で、自問することを止められなかった。
シモンは自分の未熟さを自覚しながらも、それを顔には出さず、ただ胸の内で、鈍い痛みに耐え続けていた。




