第11話 迷いと決意の告白
陽が傾きかけ、街の喧騒も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
穏やかな空気の中で、ジュリアはふと足を止め、浅く息を吐いた。その仕草には、今日、自分の目で見た現実を、迷い、逡巡しながらも、真摯に受け止めようとしているように見える。
シモンはその変化を察し、足を止めて向き直った。彼女が何かを言い出す気配を感じ取り、ただ静かに待つ。
現実を目の当たりにしたことで、ジュリアが少なからず打ちのめされていることは、シモンにも分かっていた。張りつめた背筋と、どこか定まらない視線が、それを物語っている。
それでも、彼女は立ち止まったままではいなかった。言葉を探すように小さく息を整え、何かを伝えようと決めたらしい。ジュリアの出そうとしている答えを、シモンは黙って見守っていた。
「……知っていたのよ。頭では、わかっていたつもりだった。誘拐とか、貧困とか、そういうこと」
静かな笑みを浮かべて、ジュリアが口を開いた。その表情は落ち着いていたが、どこか張りつめたものを含んでいるように、シモンには見えた。
「でも、今日みたいに、自分の足で歩いて、目で見て……わたし、全然わかってなかったんだって、思い知らされた気がする」
小さくかぶりを振る。その仕草は、悔しさというより、何かを整理し直しているように見えた。少なくとも、俯いたまま立ち尽くすような暗さはなかった。
「強くなりたいって、ずっとそう思ってたけど……本当は、誰かに認めてほしかったのかもしれない」
口にした言葉を確かめるように、ジュリアは視線を空へ向け、遠くを見据えた。
「おかしいよね。自分の周りの現実も見えていないのに、認めてほしいなんて」
目を逸らすことなく言葉を続けるその様子から、彼女が過去の自分と、今の未熟さの両方に向き合おうとしていることが、シモンにも伝わってきた。
不意に向けられたジュリアの視線に、シモンは息をわずかに呑んだ。
そこには、幼さとも純粋さとも違う、ひたむきで曇りのない光が宿っている。
それは、これまで彼が見たことのない表情だった。
「ちょっとだけ、寄り道してもいい?」
そう言って、ジュリアは城壁の外へ向かって歩き出した。
シモンは小さく頷き、その背に無言で続く。
ワイアースの城壁東門に差しかかると、シモンは小門を守る顔なじみの兵士に声をかけ、通行の手続きを取った。
「よぉ、シモン。こんな時間からお出かけかい?」
「ちょっとそこまでな」
兵士は苦笑を浮かべながら、シモンが差し出した革紐のブレスレット――冒険者ギルドのアミュレットを、水晶柱にかざす様子を見届けた。ふとその視線が、シモンの隣に立つジュリアへと向けられた。
「……お前、とうとうそっち方面に走ったのか?」
「は?」
「いや、偏見はないさ。趣味は人それぞれだからな。ただ……相手が可愛いからって、この年齢差は――さすがに犯罪じゃないか?」
にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべる兵士。年若い少女を連れた姿を見て、年齢差をからかっているのだった。
「あのな……こちらはアーデルシア伯爵家のご令嬢だ。あんまり冗談が過ぎるようなら……分かるよな?」
シモンはみなまで言わず、にやりと笑ってみせた。
次の瞬間、兵士の表情が凍りついた。
「っし、失礼いたしましたッ!」
慌てて背筋を伸ばし、かしこまった敬礼をジュリアへと送る。
ジュリアは無言のまま、丁寧にお辞儀を返すと、帳面にすらすらと自分の名を記入した。
シモンは自然な所作で軽く手を添え、彼女を導くようにして、ふたり並んで城門を後にした。
兵士は──その背が見えなくなると、空を仰ぎ、大きく一つ息をついた。
シモンとジュリアは東門を抜け、街から程近い丘へと向かった。
街を見下ろすその丘は、沈みかけの陽の光に包まれている。ジュリアは足を止め、丘を渡る風に身を晒しながら、草擦れの音に耳を澄ませるように、しばらく口を閉ざしていた。
そして――
「……あのとき、どうして聞いたの?」
街を見下ろしたまま、ジュリアが静かに問いかけた。
「“なぜ強くなりたいか”って。……あれ、あなたなりに、何か意味があったんでしょう」
ジュリアはあえてシモンを見ようとせず、ワイアースの街を眺めたまま、今朝の問いの意図を確かめるように言葉を重ねた。
「誰にでもあるからな。そういう理由。口に出せるかは別として」
ジュリアはしばらく黙ったまま、視線を落とし、それからぽつりぽつりと語り始めた。
「……わたし、母のことが好きだったの。今でも、ずっと好き」
シモンの位置からジュリアの顔は見えなかったが、その声は不思議と澄んでおり、言葉の端々に柔らかな響きが混じっているように聞こえた。
「母は庶民の出で、第三婦人。貴族社会では、いつも嘲笑や冷笑の視線を向けられていた。アーデルシア家の中で露骨に軽んじられていたわけじゃないけど……それでも、“見られている”とは言えなかった」
ジュリアは胸に手を当て、思い出すように言葉を継いだ。声には苦味が滲んでいたが、途中で揺らぐことはなかった。
「だから……わたし、強くなりたいって思ったの。力さえあれば、お爺様みたいに――民のために力を振るえるし、周りのみんなだって、きっとわたしを認めてくれる。そうすれば……母の居場所も、少しは変えられるかもしれないって思った」
そこで、ジュリアは一度言葉を切った。
胸の奥に沈めていた想いを確かめるように、ゆっくりと息を整える。
「でも、弱いままじゃ……結局、ただの政略結婚の駒にされるだけ。そんなの、絶対に嫌……!」
語る声は低く、けれども一言ごとに、胸の奥で燻り続けた反発が、露わになっていった。
シモンは、その願いに、かつての自分を重ねていた。
誰かのために強くなろうと、必死に足掻いていた、あの頃の自分を。
「……子どもの浅はかな願いだって、今なら分かる。それでも、あの時のわたしは――信じたかったの。わたしも、お爺様みたいになれるって……ずっと、信じ続けてきたのよ」
シモンは黙したまま、ジュリアの背を見守っていた。彼女の言葉を遮ることなく、ただ最後まで聞くことを選んだ。
「それに……わたし自身が、名前だけの“ジュリア・アーデルシア”で終わりたくない。本当に意味のある存在になりたいの。――中身のない飾り駒なんて……耐えられないよ」
その声には、願いにも祈りにも似た響きがあった。揺らぎはあっても、逃げる気配はなかった。
「だから強くなりたいの。……誰にも言ったことなかったわ。たぶんこれからも、あまり言わないと思う」
そう言って、ジュリアはちらりと横目でこちらを窺った。
「でも……シモンには、ちょっとだけ知ってもらいたかった。……ほんの、ちょっとだけ」
その視線に気づいたシモンは、何も言わず、ゆっくりと街の方へ目を向けた。
「……なるほど。ずいぶん欲張りな理由だな」
三歩ほど前に出て、ジュリアに背を向けたまま、ぽつりと続ける。
「誰かのためで、自分のためで……そのうえ、ちゃんと背負うものもある。そんな思いを口にするのは、簡単じゃない」
そして振り返り、ジュリアに優しく問いかける。
「それでも言葉にしたってことは、お前はもう、それを抱えて進む覚悟なんだろ」
ジュリアは、まっすぐに頷いた。
その動きは迷いなく見えたが、ほんの一瞬、呼吸が浅くなるのをシモンは見逃さなかった。
ジュリアの視線が、答えを求めるように一瞬だけこちらに向いた。
迷いが消えたわけではないだろう。それでも彼女は視線を逸らさず、言葉を止めることはなかった。
「……強くなれるかしら」
俯いたまま、上目遣いでそっと問いかけてくる。その声から、いつもの強気さが抜け落ちているのを、シモンは感じ取った。
「強くなれるさ。お前なら。それに――お前みたいに優しい奴に、強くなってもらいたいと、俺は思ってる」
迷う様子もなく、シモンは真っ直ぐに答えた。そして向き直り、柔らかな笑みをジュリアに向ける。
「べ、別に……信じてるとか、そういうわけじゃないんだからね」
「ふっ……そうか。それは残念」
頬をわずかに染め、ジュリアはぷいとそっぽを向いた。その仕草があまりに分かりやすく、シモンは思わず口元を緩めそうになる。
「とりあえず、今は少しだけ信じとけ」
「……うん。――少しだけ……信じてる」
穏やかな春の風が、二人の背中を少しだけ押したようだった。
「……そうね。私、頑張らないと」
ジュリアは深呼吸すると、両手で頬を軽く叩いた。瞳にはほんのりと光が戻っていた。迷いが薄れ、未来を見つめる光だと、シモンには見えた。
次の瞬間には、いつもの勝気な表情が戻りつつあった。
「そうと決まったら、帰ってさっそく訓練よ! 絶対、強くなってみせるんだから!」
宣言するや、くるりと踵を返して、勢いよく坂道を駆け下りていった。
願いと迷いを抱えていた少女の足取りに、先ほどまでにない軽やかさがあった。
穏やかな春の風が、もう一度だけ彼女の背を押したようだった。
「あっ、おい!」
思わず声を上げるシモンの目に、一瞬、スカートが翻り、奥がちらりと露わになった。
緋に染まり切らず、甘さと純粋さを残した、淡いミュートピンク。情熱と純粋さが混じったような色合いが、一瞬、視界に残った。
(……ピンクのフリルか。って、こらこら)
ため息まじりに、肩をすくめる。
「シモン、早く来ないと置いてっちゃうわよ」
ジュリアはくるりと振り返り、明るい声を丘に響かせた。
その声は、シモンの胸に残っていた重さを、ほんの少しほどいてくれた。
(……元気になったのはいいが、さすがに急すぎるだろ)
やれやれと頭をかきながら、シモンも軽く地を蹴った。
「転ぶなよ、ジュリア!」
――きっと大丈夫だ。
そう思わせる何かが、確かに彼女の中にある。
明日もきっと、期待に応えてくれる。
そんな予感が、シモンの足取りを自然と軽くしていた。




