第10話 祈りと現実
《黄昏燕》を出る頃には、春の陽気が街をすっかり包んでいた。
通りには活気が溢れ、あちこちから子供の笑い声や、露店の呼び声が聞こえてくる。
ジュリアは歩きながら、そっと唇に指先を添えた。思いのほか食事と上品なタルトに満足したのか、表情は心なしか和らいでいる。先ほどの冷たい追及もひとまず収まったようで、シモンは胸を撫で下ろした。
「さて、腹も膨れたことだし、午後の訓練に向かおうか」
そう言って歩き出すシモンに、ジュリアも間を置いて、静かにその後を歩き出す。
「……訓練って、どんなことするの?」
「今日は街の様子を見て回るだけさ。言葉で知ってるのと、目で見るのとじゃ違うからな」
ジュリアはわずかに肩をすくめたが、それ以上は何も言わず頷いた。その背筋には、食前とは違う張りがあった。
──衛兵詰所
堅牢な石造りの建物の中では、軽鎧姿の衛兵たちが入れ替わり立ち代わり出入りしていた。緊張感のある空気が流れ、粗雑な口調と汗の匂いが混じる。
「……やけに慌ただしいな。何かあったのか?」
詰所を覗き込んだシモンが、帳簿をめくっていた年配の衛兵に声をかける。衛兵は顔を上げ、渋い顔つきのまま口を開いた。
「……昨日も子供がひとり、行方不明になったって話でね。これで先月から数えて、三件目だ」
机の上には未整理の報告書がいくつも積まれている。文面に目を走らせながら、衛兵は続けた。
「最近、こういうのが続いてる。消えるのは子どもばかりだ。十歳くらいのもいれば、十五、十六の娘もいる。決まって目撃者がいない。不思議だろ?」
年配の衛兵は辺りを見まわし、口を寄せて小声で続けた。
「……しかも、まだ正式な報告は上がってないが、貴族の子女が攫われたって噂まである。さすがに信じがたいが、ここまで重なってくると……な?」
ジュリアは黙って耳を傾けていた。
「攫われた」という言葉の重みは、本の中で読む“事件”とは明らかに違う――シモンはそう理解している。
それを肌で知ってもらうことが、今日の訓練の一つだ。
冒険者として生きていく以上、こうした現実と向き合うことは避けられない。たとえそれが、彼女の心に影を落とす結果になったとしても。
シモンはジュリアに、現実を言葉で教える代わりに、それを見せる事を選んだ。
衛兵はシモンに視線を戻し、口調をわずかに低めた。
「お前さん、街を見て回るつもりなんだろ? ──もし怪しい奴や気になることがあったら、詰所に知らせてくれ。手がかりが一つでも欲しいんだ」
シモンは小さく頷いた。
「分かった。目を光らせておくよ」
衛兵は無言で頷き、再び書類に目を落とした。
ジュリアは黙って街の方を見つめていた。
春の陽気に覆われたこの場所で、得体の知れない悪意を、彼女はどう受け止めたのか。
シモンには、推し量ることしかできなかった。
──教会
静かな礼拝堂では、膝を折った信徒たちが頭を垂れていた。誰もが何かを願っている。その祈りは声に出されることなく、沈黙だけが重く満ちている。
「祈ることで、救われるのかしら……」
ジュリアの呟きに、シモンは答えなかった。ただ、虚空に視線を向ける。
祈るという行為は、どこか無力にも思えた。
誰かにすがること。自分の力ではどうにもならないと認めること。それは敗北に似ている──かつての自分は、そう考えていた。
本当の救いは、祈りのその先にある。
そう思いながらも、シモンはそれを口にはしなかった。
だが、この礼拝堂に満ちる静けさには、不思議と濁りがない。言葉にされない願いが、積もるようにそこにある。誰に届くとも分からず、それでも祈る。その姿勢には、強さとは別の、確かな誠実さが宿っているようにも見えた。
──自分も、かつて祈っていた。
無力だった自分への失望。後悔と憤り。救われないと知りながら、救われたいと願ってしまった過去。その一つ一つが、今の自分を形作っていることを、シモンは理解している。
「……祈ることしかできない時もある」
ふいに零れた言葉に、ジュリアはわずかに目を見開いた。
シモンの声は穏やかだったが、その視線はどこか遠くを見ている。言い終えると、ゆっくりと目を閉じる。それは、誰にも語らぬ記憶を、胸の奥にそっと戻す仕草だった。
ジュリアはシモンの横顔を見つめ、その言葉を静かに反芻する。
──祈ることしかできない時もある。
いつか彼女も、同じ言葉を思う日が来るのだろうか。
そう考えたとき、シモンの胸に、言いようのないやるせなさが残った。
──命光会分所
教会組織が運営する無料治療所――命光会。その分所は、質素ながらも清潔に保たれていた。
受付の職員に声をかけ、通された廊下の先では、若い修道女や薬師たちが薬草を選別し、包帯を巻いていた。さらに奥では、診療を終えた患者たちに、粗末な果物や水が配られている。
「……あれは?」
ジュリアが目を留めたのは、簡素な服を着た若者たちが、患者の手を取り、ひとつひとつ声をかけている光景だった。
「ボランティアだ。命光会が、貧困地区の診療支援を行っている」
「……命光会って、寄付先の名前くらいには聞いたことあったけど……こうして動いてる人たちを見るの、初めて」
「国や貴族の支援で成り立ってはいるが……現実はこの程度だ。物も人手も、十分に足りているとは言えない」
ジュリアはしばらく言葉を失っていた。その後、ふと足を止めた。
「……貴族が、それなりの額を出資しているのに?」
「それなりにはな。ただ、こうした支援活動にまで目を向ける者は多くない。それに、表立ってはいないが――」
そこでシモンは、ジュリアを見つめ、言葉を継いだ。
「冒険者ギルドも支援の一端を担っている」
「ギルドが……?」
ジュリアが驚いたように顔を向ける。
「貴族に比べれば微々たる支援だが、新人冒険者が採取してくる薬草の余剰分は、ギルドを通して無償提供されている。要請があれば、診療記録の運搬や物資の配送も引き受ける。それに――」
シモンはわずかに笑みを浮かべ、視線に意志を込めた。
「災害時などの有事には、冒険者ギルドが独自に人員を派遣している。金にもならん仕事だが、それでも黙って動く者は少なくない」
ジュリアはしばらく無言のまま、その言葉を噛みしめるように下を向いていた。
「……知らなかった……」
「誰もが目立つ形で支えてるわけじゃない。だが、回り回って、冒険者の働きもこうして誰かを助けているってことだ」
ジュリアは、黙ってもう一度施設の人々を見やった。手を動かし、声をかけ続ける若者たちの姿。その傍らには、泥だらけの足で座っている幼い子供や、やせ細った老人の姿もあった。
「……冒険者が頑張ることが、こういう人たちの力になれるってこと……?」
その声はかすれていたが、確かに熱を帯びていた。
「ああ。間接的にはな。だが、現実を変えるのは、そういう地道な力の積み重ねだ」
ジュリアは、ゆっくりと頷いた。そして、自らの足元を見下ろすようにして、両拳をぎゅっと握る。
「……わかった。少しだけ、気が楽になった気がする」
顔を上げたジュリアの瞳には、かすかに光が戻っていた。
ジュリアは静かに呼吸を整え、前を見据えた。
世の中には、夢や希望がある。
だが、それらと同じように、不幸や絶望もまた存在している。
残念ながら、後者のほうがありふれていて、数も多く、触れる機会も多い。
――それが、現実というものだ。
だからこそ、シモンはジュリアに知ってほしかった。
今日、彼女は世の中のほんの一端とはいえ、現実に触れたはずなのだから。
それでも顔を上げ、前を向くその姿に、シモンは逡巡する。
目的は正しかったと思う。だが、やり方もまた正しかったのだろうか。
自問することはできても、自答することはできなかった。
答えは――ジュリア自身が出すのを、待つしかない。
シモンはひとつ息をつくと、彼女を促して歩き出した。




