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第一章

紺色のブレザーに、同じく紺色の生地に緑の線が格子状にデザインされたチェック柄のスカート。


白いシャツの襟元には、赤いリボンがアクセントになっている。



鏡の前で、流れるストレートのロングヘアに軽く手ぐしを通す彼女の名前は、小森千咲こもりちさき


近くの高等学校に通う、高校3年生。



どこにでもいる普通の高校生。


ただ、赤みがかった特徴的な瞳と、自分が触れた花が元気になるような気がするという漠然とした感覚があること以外は。



「おはよー」



そう言って、千咲は1階のリビングにやってきた。



「おはよう、千咲。お味噌汁よそってくれる?」


「うん、わかった」



千咲とともに朝食の支度をするのは、千咲の祖母の小森郁枝(いくえ)


テーブルに朝食の準備が整うと、ふたりは向かい合わせに座った。



「いただきます」



おいしそうにだし巻き卵を頬張る千咲を郁枝はやさしいまなざしで見つめていた。


千咲の後ろにある小さな仏壇の前に置かれた、千咲によく似た女性が写る写真と見比べながら。



仏壇にはふたつの写真立てがあり、ひとつは郁枝の夫、千咲の祖父の姿が写った写真。


もうひとつの写真立てには、千咲の母の咲子(さきこ)が写っている。



若くして千咲を生み、26歳のとき7歳の千咲を残して病気で亡くなった。



郁枝の夫も早くに亡くなっていたため、もともと郁枝、咲子のふたり暮らしだった。


そこへ千咲が加わり家族3人で暮らしていたが、咲子が亡くなってからは郁枝がひとりで千咲を育てた。



郁枝は看護師として長年勤めていたため、夫に先立たれても千咲を育てるのに金銭的な苦労はなかった。



幸い、千咲も幼いながらに母親の死を受け止め、素直でまっすぐにここまで大きくなった。


郁枝を母のように慕い、郁枝もそんな千咲が目に入れても痛くないほどにかわいかった。



――今から19年前。


些細なことで口喧嘩をして夜に家を飛び出した咲子が行方不明になり、ある日突然帰ってきたと思ったらすでに千咲を身ごもっていたときには、郁枝は戸惑いを隠せなかった。



だが、今となってはこんなにも愛らしい孫を生んでくれた亡き咲子に感謝さえしている。


だからこそ、大切な娘が生んだ大切な孫を立派に育てねばという使命感を郁枝は年々感じていた。



「千咲、新しいクラスはどう?」


「どうって言われても、今のクラスになってまだ2週間くらいしかたってないし。まあ、普通かな」



そう言いながら千咲が箸でご飯を口へと運ぼうとしたとき、テーブルの隅に置いていた千咲のスマホが鳴る。


画面には、友達からのメッセージの通知が表示されていた。



「千咲、食事のときはスマホは触らない」


「は〜い」



スマホに手を伸ばそうとした千咲を見て、郁枝が声をかける。



「あっ。そうだ、おばあちゃん。今日の学校帰り、友達とカラオケに行ってくるね」


「カラオケ?先週も2回くらい行ってなかった?」


「先週は前のクラスの友達で、今日は新しいクラスの友達と」



ニカッと笑う千咲に、郁枝は呆れたようにため息をつく。



「カラオケに行くのはいいけど、帰りは――」


「わかってるって。6時までには帰ってこい、でしょ」



千咲は郁枝の話を遮り、白ご飯を口の中へかき込む。


そして、ごくんと飲み込むなりまた口を開いた。



「でもさー。高3にもなったんだから、もう少し門限緩くしてくれてもよくない?」


「だめです。神隠しにあったらどうするの」


「神隠しって」



千咲は思わずプッと笑う。



門限が6時なのは、これでも高校に入って1時間延びたほうだった。


それまでは5時が門限で、少しでも遅れた日にはひどく心配された。



郁枝はいつも口をすっぱくして、『神隠しにあうから』と千咲が幼いころから言い続けてきた。


初めこそ信じてこわがっていた千咲も、今となっては迷信に笑ってしまうほど。



「神隠しなんて、昔話でしか聞いたことないし。それに周りにいないよ、門限6時なんて」


「ウチはウチ。よそはよそ」



郁枝の言葉に、千咲はつまらなさそうに口を尖らせる。



「でも、これから千咲も塾に通うようになったらそんなことも言ってられないわね。塾帰りは遅くなるって聞くしね」


「え、塾?なにそれ?」



ぽかんとした表情の千咲がいったん箸を置く。



「千咲、今年は受験生でしょ?受験勉強のために、夏までにはどこかの塾に通ったほうがいいだろうし」


「待って、待って。なんでわたしが塾に行く必要あるの?」


「なんでって、大学に行くためにも受験勉強を――」


「わたし、受験しないよ?就職する」


「…就職!?」



驚きのあまり、目を見開けて千咲を凝視する郁枝。



「就職って…、なにかやりたい仕事でもあるの?」


「べつにないけど。でも、大学でやりたいこともないし」



郁枝は、やれやれというふうに頭を抱える。



「それを見つけるところが大学なの。やりたい仕事もないなら、その歳で無理して就職する必要ないから」


「そんなの就職だって同じじゃん。働いてみたら、もしかしたらめちゃくちゃ楽しい仕事に出会えるかもしれないし」


「…あのねぇ。働くって、そんなに簡単なことじゃないの。高卒と大卒とじゃ就職先候補の数も全然違うんだから、とりあえず大学は行きなさい」


「やだよ!わたし、勉強嫌いだしっ。ごちそうさま!」


「あっ!こら、千咲!」



千咲は急いで朝食を済ませると、食べ終わった食器をシンクに置き、逃げるようにリビングから出ていった。



普段の千咲と郁枝は仲がいい。


しかし、孫の将来を思うがゆえ、いい大学に行ってほしいと考える郁枝と、自分のこれからをまだ真剣に考えたことのない千咲の間に、最近少しずつ溝が生じはじめていた。



ふたりの仲は、日を追うごとに悪化していく。



「千咲。今日は学校帰り、なにも予定ない?」


「ないけど、なんで?」


「駅前の塾の見学の予約を入れておいたから、学校から帰ってきたらいっしょに――」


「見学って…!わたし、塾行くなんてひと言も言ってないじゃん!」



キッチンで弁当を作る郁枝に千咲が詰め寄る。


反抗期ということもあってか、自分でもここ最近妙にイライラしやすいことは千咲自身にも自覚はあった。



「まあまあ。行ってみたら気持ちが変わるかもしれないし」


「わたしは行かないよ!?それに、勝手に決めないで!なんで大学?お母さんも行ってないのに…!」


「咲子は千咲を妊娠してたからね。大学に行くことよりも、あなたを生み育てることを選んだから」


「じゃあ、わたしがお母さんの将来を奪ったってことね。わたしさえいなかったら、今ごろお母さんは――」



次の瞬間、キッチンにパァンと弾けるような音が鳴り響く。


千咲の左頬には、徐々に熱と痛みが伴う。



千咲は一瞬、なにが起こったのかわからなかった。


なぜなら、祖母の郁枝に打たれたのはこれが初めてだったからだ。



「…いった」



千咲は左頬に手を添えて郁枝を見上げる。


思わず孫を引っ叩いてしまったことに動揺しているのかと思いきや、郁枝は込み上げる怒りを抑えているのか唇をきゅっと噛み締めていた。



「咲子はねぇ、千咲を生みたくて生んだの!“大切な人との子どもだから”って。自分の将来よりも、千咲と歩む未来を選んだの!」



涙を浮かべる郁枝の目を見て、千咲はとっさに出そうになった反抗的な言葉を飲み込んだ。



「それなら…わたしだって自分の将来、自分で選ばせてよ。おばあちゃんが勝手に決めないで!ウザイ!」


「ウザイ…」



郁枝は一瞬眉尻を下げた。


その悲しそうな表情に千咲の中に罪悪感が生まれたが、カッとなっていた千咲は郁枝に背を向けた。



「わたし、もう行くからっ」


「行くって、お弁当は!?」


「いらない!」



千咲はリビングのソファに置いていたスクールバッグを奪い取るようにしてつかむと、荒々しく玄関のドアを開けて出ていった。



重たいため息をついた郁枝は菜箸を置くと、仏壇の前に立った。


そして、目を細めて咲子の笑う写真に視線を移す。



「…千咲に『ウザイ』って言われちゃった。千咲のためと思って言ってるけど、やっぱりウザイのかな」



郁枝はひとり言をつぶやくように、写真の咲子に問いかけるのだった。



家を出た千咲はバス停へと向かう。


最寄りのバス停は、長岡天満宮のそばにある。



朝にしてはいつもより人が多い気がすると思ったら、ちょうどキリシマツツジが見頃だった。


朝の早い時間のため観光客はいなかったが、ウォーキングで訪れた人々がスマホを花に向けている姿が遠くから見えた。



中堤が赤一色に染まるこの時期は、地元の者でも思わず足を止めるほどに圧倒される美しさを放つ。



「もうそんな時期か」



千咲はそうつぶやくと、まだ時間に余裕があることを確認し、長岡天満宮の階段を上って大鳥居をくぐった。


すぐに目の前に広がるのは、炎のように紅く咲き乱れるキリシマツツジ。



千咲も思わず、周りにいる人たちと同じようにスマホのカメラで撮った。



千咲は、中堤を眺めながらふと息を呑む。


キリシマツツジによって、いつもと装いが違うからだろうか。



――いや、違う。


物心ついたときから、ここへくるとなぜか胸がざわついた。



その理由はわからない。



それに、この胸のざわつきも不快なものでもない。


どこか懐かしく、なにかに呼ばれているような――。



そんな不思議な感覚が今でも感じるのだった。




「え〜。では、教科書54ページに移ります」



その日の4限の歴史の授業。


眠気で重たくなるまぶたをなんとか見開き、千咲は授業に食らいついていた。



「ここ、長岡京ですが、桓武天皇によって奈良の平城京より遷都され――」



歴史担当の先生の声は今の千咲にとってはまるで子守唄のように感じるが、地元の長岡京市の話で少しだけ目が覚めた。



長岡京は平城京から遷都されたが、わずが10年後には都は平安京へと移され廃都となる。


その理由が、大雨による水害で都の機能に影響を及ぼしたからだ。



そうして長岡京は『幻の都』とも呼ばれ、歴史の教科書でも数行ほどの説明に収められている。



その水害さえなければ、国の中心はずっと長岡京市だったのだろうか。


なんてことを千咲はふと考えていた。



「千咲〜!ごはん食べよ〜」



昼休み、千咲はいつものメンバー3人と机を合わせて昼食を食べようとしていた。



しかし、ここで気がつく。


いつも郁枝が作ってくれる弁当がないことに。



「わたし、ちょっと購買でパン買ってくるね」


「あれ?今日はお弁当じゃないの」


「うん、ちょっとね…」



千咲は財布を手にすると、教室を出て購買へと向かった。


だがくるのが遅く、人気のパンは売り切れていた。



仕方なく、ドライフルーツが練り込まれたハードパンを購入する。



教室に戻ると、千咲の机の周りは今日の放課後のことで盛り上がっていた。


明日の英語の小テストのために、学校帰りにファミレスに寄ってみんなで勉強しようという話だった。



「千咲もくるでしょ?」



友達からそう誘われたとき、一瞬郁枝の顔が頭に浮かんだ。



『駅前の塾の見学の予約を入れておいたから、学校から帰ってきたらいっしょに――』



郁枝はああ言っていた。


だが、『行く』なんてひと言も言っていない。



だから――。



「うん、行く行く」



千咲はこくんこくんとうなずいた。



「あたしたちは夜まで勉強するつもりで、晩ごはんもファミレスで食べる予定だけど、千咲は門限あるよね?」



普段なら、6時までに帰って郁枝と夕食の支度をする。


だが今日は、到底そんな気分にはなれなかった。



朝の口喧嘩もあって、なるべく郁枝とは顔を合わせたくない。


それに門限通りに帰宅したら、塾の見学に行かされるかもしれない。



そう考えた千咲は――。



「今日は大丈夫。わたしもごはん食べて帰る!」



郁枝に対する反発心から、初めて門限を破ることに決めた。



「えっ、門限は?」


「そんなのいいの。わたしだって、みんなとごはんとか行きたいなって思ってたから」


「じゃあ、今日は千咲もいっしょね〜!」



千咲は3人と顔を見合わせて笑った。



ずっと守ってきた郁枝との門限の約束を破ることに抵抗がないわけではなかった。



だけど、今日くらいは。


千咲はそう自分に言い聞かせた。



それがあんなことになるとは、このときの千咲が知るはずもない。




放課後、千咲たち4人はファミレスにやってきた。


適当にドリンクを注文し、さっそく小テストの勉強のためにテーブルに教科書とノートを広げた。



初めこそ真面目に勉強していた4人だが、気づけばおしゃべりに夢中になってしまっていた。


新しいクラスの雰囲気がどうとか、だれがかっこいいとか。



そのうち、お互いの好きな人や彼氏の話になっていた。



「千咲は?彼氏いるんだっけ?」


「い、いなよ…!」



千咲はブンブンと首を横に振る。


彼氏はおろか、今まで好きな人もできたことがなかった。



「そうなの?てっきり、だれかいるもんだと思ってた」


「わたし、一度もそんな話したことないのになんでそうなるの」


「だってそのネックレス、いつもしてるからさ。大事な人からもらった大切なものなのかなって」



友達は千咲の首元を指さした。



「ああ、これ?」



千咲は徐ろに指をさされた首元へ手を伸ばすと、ネックレスを取り出して見せた。



現れたのネックレスは、細いゴールドのチェーンに、赤色に透けた石のようなものを削って作られたペンダントトップがついている。


トップは、5枚の花びらが開くような花の形をしている。



「かわいい!なにかの宝石?」


「ん〜、わたしもよく知らないんだよね」


「でもなんだか、千咲の目の色と似てるよね」



友達がネックレスと自分の瞳に交互に目を向け、千咲は思わずはにかむ。


今まで思ったことはなかったが、言われてみるとたしかにペンダントトップは千咲の赤みがかった瞳と同じような色をしていた。



「花の形もなんだろうね?ハイビスカス?」



ペンダントトップを覗き込む友達の言葉に、千咲は思わずクスッと笑ってしまった。



「違うよ。キリシマツツジだよ」


「キリシマツツジ?あの天神さんの?」


「そうそう。これはお母さんの形見で、わたしにくれるときにそう言ってたから」



千咲は、このネックレスを母親の咲子から託されていた。


聞くと、咲子は好きな相手からもらったのだと。



その相手こそが、千咲の父親だった。


“とてもかっこよく、強い人”だと、咲子は千咲に話していた。



何度か『会ってみたい』と幼い千咲はせがんだが、咲子は決まって『それはできない』と言って、申し訳なさそうに眉尻を下げて千咲の頭をなでるのだった。



ただ、父親の顔はわからないが、『千寿(せんじゅ)』という名前だけは聞かされていた。


だから『千咲』という名前も、ふたりの名前からそれぞれ取ってつけたのだと。



「そっか。お母さんからもらったものだったんだ」


「うん。だから、彼氏とかじゃなくてなんかごめんね」



千咲は、おどけたように舌をペロッと出して笑った。




「お腹空いたね。そろそろなにか食べる?」



外が暗いと思ったら、気づけば6時をまわっていた。



千咲ははっとしてスマホを見る。


すると、画面には郁枝からのメッセージ通知や着信履歴が並んでいた。



見なかったらよかったものの、一度見てしまった以上無視し続けるのはさすがに心苦しい。



【友達とごはん食べて帰る】



千咲は素早く入力すると、メッセージを郁枝に送った。


そして、鳴り続けるスマホの電源を切った。



郁枝のことは気がかりではあったが、暗くなるまでファミレスで友達も話すという初めてのことに、千咲は楽しくてたまらなかった。



「せっかく千咲もいることだしさ、このあとカラオケ行こうよ!」



ファミレスから出て、カラオケも行って。


途中コンビニで花火を見つけて、カラオケが終わったあとに近くの川でやってみた。



楽しい時間はあっという間で、線香花火の途中に時間を友達に訪ねて千咲は驚いた。


なんと、もうすぐ日付をまたごうとしていたのだ。



他の3人は、連絡さえしていればそれほど怒られることはないらしい。


門限6時の千咲には考えられないことだ。



こんな遅い時間、普段なら寝ているはずなのに、今日は楽しさのあまり自然と目がさえてしまっていた。



「ねぇ、知ってる?天神さんにこんな噂があるの」



ふと、落ちそうな線香花火を見つめながら友達のひとりがつぶやいた。



「なになに?」


「怖い話?」



興味津々の他のふたりとは違って、ホラーが苦手な千咲は固まってしまっていた。



「んー、怖い話ではないんだけど」



それを聞いて、千咲はほっと胸をなで下ろす。



「あたしも他校の友達から聞いたから詳しくは知らないけど、天神さんには別世界に行ける扉があるんだって」


「別世界?思ってたよりもファンタジーかも」


「まあ、あたし自身も信じてないんだけどね」



と言いつつ、その友達は聞いた話を語りだした。



キリシマツツジが咲く、満月の浮かぶ丑三つ刻。


中堤の中央に、別世界へ通じる扉が現れる――というもの。



非現実的な内容に、千咲を含むあとの3人は顔を見合わせて困った表情を浮かべていた。


話した当の本人も苦笑している。



「なにそれ〜」


「なんだか、小学校のときに流行った七不思議みたい」


「だよね。あたしも聞いたとき、みんなと同じ反応したもん」



他の3人と違って、線香花火の火球が残っていた千咲は身動きしないように会話には入らなかったが、火球を見つめながら3人の話を聞いていた。


そして、ぽとりと火球が地面に落ちる。



「終わっちゃった」



ふと千咲が空を見上げると、まん丸の月が辺りを照らしていた。


いつよりも明るい月明かりに、4人は同時に顔を見合わせる。



「そういえば、今日って満月?」


「あ、うん。そうみたい」



ひとりがスマホで調べたのか、画面を見ながらつぶやく。



「キリシマツツジ、咲いてる時期だよね?」


「わたし、ちょうど朝見てきたよ」



千咲はそう言って、息を呑むほどの赤々とした美しいキリシマツツジを見た朝の光景を思い出す。



「噂の条件と…合ってるよね?」



ひとりの言葉に、千咲たち3人はゆっくりとうなずく。



「ていうかさ、丑三つ刻っていつ?」


「え〜と…。夜中2時から2時半までの間みたいだよ」


「じゃあ、あと2時間か〜」



3人はスマホの画面で時間を確認し、目を見合わせてにっこりと微笑む。


暗闇にスマホの明かりに照らされる3人の笑う顔を見て、千咲は嫌な予感がした。




午前2時ちょうど。


千咲たち4人は、長岡天満宮の正面大鳥居の前にいた。



そこからまっすぐ続く両脇をキリシマツツジに囲まれた中堤に扉が現れるという。


しかし、中堤に変化は見られなかった。



満月は雲に隠れ、静寂な闇が包み込む。



念のため、辺りを確かめに歩いてみるが、静まり返った人気のない中堤が続いているだけだった。



「なにも起きないね」


「な〜んだ、つまんない」


「やっぱりだれかが作ったデマなんだよ」



そんな3人の後ろで、千咲は緊張した面持ちでスマホの電源を入れた。


ファミレスで電源を切ったきりだった。



郁枝に対する反発心から初めて門限を破り、ファミレスでみんなとごはんをし、花火までして、千咲にとっては刺激的な1日だった。


そして、噂を確かめようと3人のノリでここまでついてきてしまったが、さすがに遅くなりすぎたと感じていた。



スマホの電源が復活するなり、おびただしい数の郁枝からのメッセージの通知に千咲は驚いた。


最新のメッセージは、3分前にきていた。



【千咲、今どこ?お願いだから連絡して。おばあちゃんも千咲の話を聞かなくてごめん。一度、ちゃんと話し合いたい】



てっきり門限を破ったことへのお叱りかと思いきや、そこには千咲の身を心配する内容が書かれてあった。


それを見た瞬間、千咲は罪悪感に苛まれた。



【連絡しなくてごめん。今から帰るね】



千咲はメッセージを入力すると、送信ボタンを押した。


直後運悪く電池が切れて、再び千咲のスマホの画面が真っ暗になった。



その間に、3人はだいぶ前を歩いていて遅れを取っていた。



「みんな、待って――」



と言いかけたとき、千咲は妙な気配を感じた。



言葉では言い表わせないが、この場の空気が変わったような。


そんな感覚がしたのだ。



千咲がおそるおそる振り返ると、雲に隠れていた満月が顔を出したのか、朝日のときとはまた違う装いで、月明かりに照らされた中堤が伸びていた。


しかし、とくに変わった様子はない。



変な緊張感に体がこわばっていたため、千咲は思わずほっと胸をなで下ろす。



早く家に帰ろう。


そう心の中でつぶやいた千咲だったが、はっとして再度振り返る。



そこに見えるのは、さっきと変わらない中堤が続くだけ。



――いや、違う。



千咲は違和感を感じておそるおそる歩み寄る。



すると不思議なことに、中堤の途中で向こうに見える景色がわずかに揺らめいていた。


まるでそこに、水の膜が張ってあるかのような。



千咲が指先を近づけると、水面に触れたときのように輪を描いて波打った。



「なにこれ…」



さらに手を伸ばすと、透明な膜の中へと腕が飲み込まれていく。


驚いて、千咲はすぐに腕を引っ込めた。



『天神さんには別世界に行ける扉があるんだって』



さっきの友達の話を思い出す。


“扉”というから、てっきりドアノブのついたドアを想像していたが――。



「もしかして…、これが別世界へ続く扉…?」



中堤は続いているように見えるが、明らかにそこには透明ななにかがあった。



不気味な現象に、千咲は背筋に悪寒が走ったのがわかった。



よくわからないが、ここから離れたほうがいい。


そう思って3人のもとへ向かおうと、振り返ったそのとき――。



中堤の石畳が黒く滲んでいると思ったら、そこから黒いスライムのようなものが這い出てきた。



「…なっ、なに」



謎の物体に、千咲は声を震わせながら後退りする。



黒いスライムは3体現れ、千咲の行く手を阻むようにぽよんぽよんと跳ねている。


しかも、ゆっくりと千咲のほうへ近づいてくる。



気味が悪く、押しのけて突き進もうとは思えない。


だが、後ろには水面のような謎の膜。



中堤が続いているのは透けて見えるが、はたしてここと同じ場所なのだろうか。



どちらに行くべきが迷う千咲だが、黒いスライムはじりじりと距離を詰めてくる。


そして、いったん縮んだかと思ったら、その弾みで千咲のほうへ大きくジャンプした。



「…きゃっ」



驚いた千咲は、逃げるようにスライムに背中を向けると、ためらう余裕もなく怪しげな透明の膜へと飛び込んだのだ。


とっさに目をつむり、息を止める。



水の中に入ったかのような感覚を肌に感じたが、はっとして千咲が目を開けると体に変化はなかった。


制服も濡れていない。



さっきまでと変わりない中堤の途中にへたり込んでいた。



「あ…れ?」



意を決したが、なんともなかったことに拍子抜けする。



「なんだったの…、さっきの。とりあえず、早くみんなと合流しよう」



千咲は膝をはたいて立ち上がる。


だが顔を上げた瞬間、無数の黒いスライムたちが石畳から湧き出てきた。



「ま…、また…!」



一瞬にして表情が引きつった千咲は、慌ててスライムから逃げだした。


一本道の中堤で挟み込まれたら逃げ場がないと考え、スライムと反対側へと無我夢中で走る。



するとそのとき、千咲は固いなにかにぶつかった。


その拍子に思いきり尻もちをつく。



「…いたっ」



打ったお尻をさすりながら見上げると、そこには着物のような白い衣装を着た男が立っていた。


ぽかんとして見上げる千咲を男は視線だけ向けて見下ろす。



「お前、こんなところでなにしてる」


「す、すみません…!」



鋭い瞳に睨まれ、千咲は一瞬にして萎縮してしまった。



黒いスライムの大群に、謎の男。


千咲の頭の中はパニック状態だった。



「死にたいのか?」


「…へ?」



突拍子もない男の言葉に千咲は目が点になる。


反応のない千咲を見て、男ははぁと重いため息をつく。



「だから、そこにいたら焼け死ぬぞ」


「えええ…!?や…やけ死――」


「いいからこっちへこい」



突然ぐいっと腕を引っ張られ、千咲は男に抱き寄せられる。


男の胸板に頬が密着して驚く千咲だったが、それ以上に驚くことがあった。



なんと、男の手のひらから炎が噴き出し、黒いスライムたちを焼き尽くしていたのだった。



目の前で起こる光景に理解が追いつかない千咲は、黒いスライムに集中している男の腕から抜け出すと、逃げるようにしてその場を去ったのだった。

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