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   一章 女の子は花をプレゼントしたら喜んでくれると思ってた



「話があるんだ」

 ある休日の朝、塗ってあるのはバターのみというシンプルなトーストを二枚ほど食べ終え、ちょっと自室にこもろうとしていた獅子島龍太を、彼の父、獅子島努が呼び止めた。

「あ、あぁ」

 何となく、父が自分に話があるんだろうな、ということは分かっていた。

 昨晩から父は妙にそわそわしていたし、何といっても以前から小出しに情報は与えられていたのだ。


 曰く、お付き合いしている女性がいる、と。

 先方も、お子さんと暮らしているシングルマザーである、と。


 最初は彼女とランチに行くというので、土日の昼に父が一人出掛けることが時々あった。

 その頻度が段々と多くなり、三ヶ月を過ぎた頃からディナーに行くというので、平日に留守番代として父から夕食費を渡される日も挟まるようになった。

 そして更に日が経つと、今度は父は何も言わず、ダイニングテーブルの上に少し多めのお金が置かれ、夜遅く、そっと帰ってくるようになった。

 龍太は特にその事についてはなるべく想像を巡らせないようにして、カップラーメンで夕食を済ませて、いかに多くの釣り銭を懐に入れるかだけを考えるようにした。

 龍太はこつこつ貯めたお金で、ついにはゲーミングPCを買うことが出来た。

 感謝しかない。

 そしてついに昨晩、満を持して父親がそわそわのピークを迎えたのだ。


 片付けたばかりのダイニングテーブルに、父と子は向かい合って座っていた。

「結婚しようと思う」

「おめでとう」

 一言だけ言い放ち、龍太は席を立とうした。

 龍太お気に入りのFPSのランクマッチが新シーズンを迎えたのだ。おっさんと話している暇は無い。

 しかし龍太が自室に向かおうとした時、父親に呼び止められた。

「待て待て待て」

 椅子から立ち掛けていた龍太が振り返って父の顔を見ると、果たしてそこには中年男のとろけるような笑顔があった。

「うぜぇ~~~~~」

「興味が無いとは言わせない」

 父が、スマホをダイニングテーブルの上に出した。

「……」

 龍太は無言でそのスマホを覗き込む。

 そこには三人の女性が、満面の笑顔で写っていた。

「……この人達が……」

 龍太は実感が湧かないまま、ぽつりと呟いた。


 この人達が、新しく家族になるのか。

 この人達と、一緒に住むことになるのか。


「可愛いだろ?」

「あ、え?」

 父親の言葉に我に返り、改めてまじまじと母親になる女性を見た。

 メガネの似合う小柄な女性が、にこやかに笑っていた。

「そうだね」

 幼い頃に病気で亡くなった龍太の母親に、どこか面影が似ている、ように思う。

 姿形はまるで違うのだが、その身にまとっている雰囲気が似ているというか。

 不思議な感覚があった。

 父・努がおもむろに言った。

「四十代の女性はいいぞぉ」

「やめてくれないかな、キモい発言をするのは」

 龍太はもう一度、父のスマホの画面を見た。

(……ふ~ん)

 父親の相手は、年齢よりもずっと若く見えた。子供っぽさを感じさせる素朴な笑顔が、そう見せていたのだろう。

 優しそうなその笑顔に、龍太の不安が少しだけ薄れた。

 元々龍太は、人と話すのが苦手だった。新しい家族が出来ると言われても、家の中で無言の時間が延々と流れてしまうのではないかと危惧していたのだ。

 新しく「母親」となるその女性は、そういう不安を少し和らげてくれるような、そんな印象だった。

 そう、「母親」は。

(だけど……)

 画面の中には、「三人」の女性がいるのだ。

「彼女のお子さんは、双子なんだ」

「へぇ、余り似てないけど……」

 新しい母親には、二人の娘がいた。

 新しい母親の後ろからスマホのレンズを覗き込み、満面の笑顔を浮かべている。

 ついさっき消えたばかりの不安が、龍太の心に再びむくむくと湧き上がってきた。

 というのも、その双子は、めちゃくちゃ可愛かったのだ。

(……)

 右の女の子はお姉さんだろうか。薄い桜色のニットに包まれた形の良い胸の膨らみまで伸びた、青みを帯びた艶やかな黒髪がとても似合っていた。ちょっと大人びた笑顔で、変な話だが母親よりもお姉さんに見えた。

 もう一人の子は、母親の左側から身を乗り出し、元気いっぱいの笑顔を見せていた。短く切った茶色がかった髪の毛が跳ね、幼さの残るスレンダーな体を乗り出して、スマホのカメラに向かって思い切りピースしている。

「娘さんの名前は、右のお姉さんが和花さん、左の妹さんが柚葉さんだ」

「ふぅん……」

「双子の姉妹なんだ。龍太と同い年だぞ」

「へぇ……」

「ちゃんと名前を覚えておくんだぞ?」

「大丈夫だって」

 そうは言ったが、龍太は既にふわふわと上の空の状態になっていた。

(……好き、かも……)

 こんな可愛い女の子達が、来月から妹になるのだ。

 学校でも女子とはほとんど会話を交わしたことの無い龍太が、同じ家に暮らすことになる新しい「妹」とちゃんとコミュニケーションを取ることが出来るのか、不安はある。

 会う前から、二人の女の子相手に龍太は照れてしまっていた。

 だけど、こんな笑顔を見せてくれる女の子となら、仲良くやっていけるかも知れない。なぜか龍太は、そんな風に思った。

 スマホの写真を一枚見ただけ。他には何の根拠も無い。

 だけど、獅子島龍太はそう思えてしまったのだ。

「二人とも、優しい性格なんだろうね」

「うん、そうだな。三回ほど会ったけど、とても礼儀正しい女の子だったぞ?」

「へぇ……、やっぱり……」

 そして龍太は父親に振り返り、気になっていたことを質問した。

「で、二人の名前はなんていうの?」


   ***


 そしていよいよ、その日は来た。

 獅子島家での両家顔合わせの日。

 獅子島龍太の父、努は完全に舞い上がっていた。この日のためにわざわざ買ったモカブラウンのジャケットを羽織り、手にはバラをメインにした花束を持っていたのだ。

「気合い、入れ過ぎじゃない?」

 そう言う龍太も、人のことは言えなかった。

 両手に父親と同じ花束を持っていたのだ。

 父親から、新しく妹になる二人に手渡すよう言われた時、この時の龍太は何の疑問も感じなかった。

 後から考えると、全くもって愚かとしか言いようがない。

 相当浮かれていたと言える。

 この後すぐに、後悔に苛まれるとも知らないで。


 そして、約束の時間の三分前。

 二人の男がそわそわしている玄関で、チャイムの音が鳴り響いた。

「ど、どうぞ……!」

 獅子島努が少し上ずった声で返事をすると、果たして二人の男の目の前で玄関のドアが開かれた。

「おじゃまします、努さん」

 ドアを開けて先ず入って来たのは、今日から新しい母親になる真子だった。

 真子は、獅子島努の隣に突っ立っていた龍太に気付くと、子供っぽい笑顔で龍太に笑い掛けてきた。

「龍太さんと会うのは二度目ですよね」

 急に話し掛けられ、努以上に上ずった声で龍太が返事をした。

「は、はいっ!」

 ふふふ、と人懐っこい笑顔で笑うと、真子が言った。

「娘とは初めて顔を合わせますよね。今日は二人とも龍太さんに会えるのを楽しみにしていたんですよ」

 そう言って、真子は背後を振り返った。

 龍太もつられて新しい母親の後ろに視線を向けると、そこにいたのはこわばった表情でぎゅっと身を固くしている和花の姿だった。

「…………」

 黒地に白い縦ストライプが入ったスリムなワンピースに身を包んだ和花が、警戒するように黙ってじっと龍太を見詰めていた。

(え……)

 それは、スマホに写っていた笑顔とはまるで違っていた。

 表情が余りに違っていたので、別人ではないかと龍太が思ってしまったほどだった。

 想定外の反応に龍太が戸惑っていると、野良猫のように警戒している和花の背後から、今度は柚葉がほんの少しだけ顔を覗かせた。

「――ひんっ」

 柚葉が小さく息を吞む。

「……本当にこの男の子と一緒に住まなきゃなの……?」

 不安そうな表情の柚葉は、ぽつりと言った。

「……やだぁ」

 柚葉は、和花の背後に再び隠れてしまった。そんな態度の柚葉を、真子が注意する。

「まだ会ったばかりで、そんな事言わない。心配はこれから解消していけばいいし、最初から関係を壊す言葉は使わないって約束したでしょ?」

「だって、だって……」

 柚葉は泣きそうな声で訴えた。

「だって、こわいんだもん! それに、男のにおいがすごく臭うし……」


 時間が止まったような、気がした。


(え……)

 柚葉の言葉に、龍太は呆然としてしまった。こ、こわいって言いました? くさいって言いました? と。

 確か、ネットか何かで家族の臭いは不快に感じるように出来ているとか読んだことがある。

 人間は、遺伝子のタイプが近い人は臭く感じるように出来ていて、そうやって近親での交配がされないように出来ているって。

(だ、だ、だけどこんな部分でばかり、家族っぽくならなくても……)

 そう、龍太は思った。

 それからおもむろに、龍太は自分の姿を見下ろす。

 高校一年生の分際で、着慣れないジャケットを身にまとって、大きな花束を二つも持っている。

 なるほど、と龍太は思った。

(なるほど、これは怖がられても仕方無い……と言うか、ほんの数分前までのあの根拠の無い自信が自分でも怖い……)

 でも、と龍太は自分で自分に言い訳をした。

(だってネットかなんかで、女の子は花をプレゼントされたら絶対喜ぶって書いてあったんだもん……)

 龍太は俯いてしまい、腕の中の花束に目を落とした。

(嘘じゃん……)

 心なしか、腕の中の花束が、急にしおれたような気がした。


 ――それから後のことは、龍太は良く覚えていない。

 申し訳なさそうに困った笑顔の真子が、娘の代わりに龍太の花束を受け取ってくれたような気がする。

 それから努に促され、「取り敢えずお前は部屋に入ってろ」という、心ない言葉にただただうなずき、龍太は自室にこもったのだった。

 ゲームをやる気も起きなかった。


 外の廊下では、努と龍太の男二人できれいに掃除した部屋に、新しい家族の荷物が続々と運び入れられるどたどたとした騒がしい音が、ずっと響いていた。


   ***


 いつしか引っ越し業者のたてる騒がしい音が収まり、ぼそぼそと新しい夫婦が何事かを相談する声が廊下の奥の階段の下の方から微かに聞こえていた。

(…………)

 何をどうしたらあんなに怖がられてしまうのか。

 龍太は一人、自分の部屋にこもった後も玄関で呆然と固まったそのままの姿、表情で突っ立っていた。

 このまま引きこもってしまいたい、とさえ思った。

 しかし生理現象には逆らえない。

 ふと意識が揺れた瞬間、溢れるような尿意を下半身に覚え、龍太はぶるっと身震いすると、そっとドアを開けて、しんと静まり返った廊下に出た。

 自分の家なのに、まるで他人の家に忍び込んだように足音を忍ばせてトイレを目指す。


 廊下をそっと歩いていると、突然右手のドアが音も無く開いた。

「――っ!」

 ドアの隙間から顔を覗かせていたのは、和花だった。

 黙ったまま自分を見詰める和花から視線を外し、龍太がトイレを目指して再び歩き出そうとした時、和花が口を開いた。

「こっちへ、来て下さい」

「え? でも、俺、これから……」

「いいから、こっちへ!」

 初めて聞く和花の声には、凜と響いて有無を言わさない力が合った。

 尿意も引っ込むレベルだ。

「……はい……」

 龍太は一瞬迷ったが、彼女の言うことに大人しく従うことにした。トイレに行く気は、霧消してしまっていた。


 生まれて初めて入る女の子の部屋は、新しい二人の妹の部屋だった。

 ベッドや机、真っ白なチェストなど、ちょっとかさばる家具だけが定位置に並べられた子供部屋の中に、和花と柚葉の二人はいた。

 龍太は部屋に招かれたものの、妹達とは距離を取って、ドアの近くに立っていた。

(もう一度、におうとか言われたら、泣いちゃうかも知れないし……)

 部屋の奥のベッドの前に、和花と柚葉の二人が立っている。

 和花は、ついさっきも見た黒地に白いストライプの入ったワンピース姿だ。彼女の細身の体にすごく似合っている。

 年の割には大きめの胸のところで、細いストライプが大きくゆがんでいるのがすごくエッチに感じられる。

 柚葉は袖がふわふわとして透け感のある白いブラウスの上に、パステルブルーのキャミソールベストを重ね着していた。下はこれも青系のチェック柄のフレアスカートを履いている。

 スカート丈は短めで、活発な印象を与えるものだったが、今は柚葉は和花に腕を絡めてぴったりとくっつき、半分彼女の背後に隠れているような感じになっていた。

 わざわざ龍太を部屋に招き入れられたのだから、何か話があるはずなのだが、和花はじっと黙って龍太を見詰めているだけだった。

「な、何か用? わ、和花、さん……」

 仕方無く、龍太は口を開いた。

 が、緊張で喉が乾いてしまっていたこともあり、龍太は、自分でもびっくりするくらいぶっきらぼうな言い方になってしまった。

 しかし、和花は余り気にしていないようだった。

「はい、用はあります。伝えておきたい事があって……」

 和花は、続けて言った。

「それと、わたし達の呼び方なんですけど、和花、って呼び捨てでいいです。柚葉のことも」

 和花の隣で、柚葉が小さく頷いた。

「わたしは、龍太お兄ちゃん、って呼びます。誕生日、わたし達より先ですよね」

「はっきりとは知らないけど、そうなんじゃないかな……」

 ついさっきあんなに拒絶されたのに、一体何の話があるのか。龍太が自分が部屋に招き入れられた理由が分からずにいると、おもむろに和花が口を開いた。

「――龍太お兄ちゃんって――、」

 急なお兄ちゃん呼びがこそばゆい。

 龍太はこくりと頷いて、和花の言葉の先を促した。

「お兄ちゃんって、――……わたし達のこと……」

「……?」

「――好きですよね?」

「は、はぁっ?」

 龍太は驚いて思わず声を上げた。

 図星だった。

 龍太の顔、がみるみる赤くなる。

「す、好きなんて、そんな……!」

 和花が言った。

「好きっていう言い方が違うって言うのなら……」

 和花の口から、衝撃的な言葉が吐き出された。

「わたし達と、セックスしたいって思ってるよね?」

「え、えぇっ?」

 龍太は再び声を上げてしまった。

「きゅ、急に何を言い出すの? セッ……なんて、そんなっ」

 しかしあたふたしている龍太とは対照的に、和花は終始冷静だった。

「恥ずかしがらなくていいから。会う人みんなからそんな風に思われるのって、わたし達にとってはいつものことだから」

 和花の言葉に、龍太は驚いた。

(いつもの事……?)

 確かに、和花と柚葉の二人はとても魅力的だ。

 顔もめちゃめちゃ可愛いし、スタイルもいい。

 だけど、「みんな」が二人のことを好きになる、というのはちょっと違うのではないか。

 いくらなんでも自意識過剰過ぎると思う。

「……それって、自分がモテるってことを言いたいの? 地球上の人みんなから好かれちゃうって?」

 龍太の言葉に、和花はくすっと笑った。

「確かに、お兄ちゃんの言うとおり、みんなっていうのは言い過ぎかも。実際、一人だけわたしのこと振った人がいたし」

 どうやら和花は、自分なんかより人生経験が豊富らしい。

 会ったばかりにも関わらず、自分が知らない和花の過去の話を聞いて、龍太はほんの少し寂しい気持ちを覚えた。

 和花が言った。

「だけどわたしが言いたいのは、そういう恋愛話とか、そんな話じゃないんです」

 和花は、真剣なまなざしで龍太を見詰めた。

「そのことを説明するのに、お兄ちゃんには見てほしいものがあるの……」

 和花がそう言うと、和花の腕に抱き付いていた柚葉は猫のようにぐりぐりと自分の頭を和花の肩にこすり付けて、和花に聞いた。

「和花ぁ、どうしても見せないとだめ?」

 和花は、お姉ちゃんっぽい口調で言った。

「だめ。これから一緒に住むんだし、いつか見られちゃうんだったら、最初から見せておいた方がお互いショックは少ないでしょ?」

 龍太は一体これから何を見せられるのか、不安を感じつつ和花の言葉を聞いていた。

「じゃあ、いい?」

「……うん」

 双子の姉妹はお互い視線を合わせると、頷き合い、くるりと龍太に背を向けた。

 それから二人の女の子は、身を軽く屈めておもむろにスカートを脱ぎ始めた。

 和花は、ワンピースの背中のファスナーをゆっくりと下ろしていった。和花の白い肌が、黒地のワンピースの隙間から細い線となって現れた。

「え…え……っ、え……?」

 突然のことに顔を真っ赤にした龍太が声を上げているのにも意に介さず、ファスナーを下ろした和花は袖から腕を抜き、ブラだけの白い背中を全て露わにした。そのままワンピースを全て脱ぎ終えると、和花は身に付けていた白いシンプルなパンツに親指を掛け、それもゆっくりと下ろしていく。

 ゆで卵のように真っ白ですべすべな、ぷっくりと女の子らしいきれいなラインを描くお尻が龍太の目の前にさらされた。

「…………」

 その様子を隣でうかがっていた柚葉も覚悟を決めたのか、フレアスカートのホックを外し、そろそろとスカートを下ろしていった。

 柚葉はパステルピンクの、少し子供っぽいデザインのパンツをはいていた。

 スカートを脱ぎ終えた柚葉も、その可愛らしいパンツをゆっくりと脱いでいった。柚葉がパンツを脱ごうと身を屈めた時、パンツに隠れていた柚葉の真っ白な細身のお尻が、つん、と龍太の方へ突き出された。

(………え……)

 龍太は息を吞み、固まってしまった。

 目の前に、二人の女の子の生まれたままのお尻があるからではない。

 そのお尻のすぐ上から、「生えている」ものに目を奪われたのだ。

「え……これって……」

 驚きの声を漏らした龍太に、和花が言った。


「わたし達、サキュバスなんだ」


 二人の真っ白なお尻のすぐ上から、禍々しいくらいの違和感をまとった「しっぽ」がそれぞれ生えていた。

 黒くぬめぬめとした、大きめのヘビくらいの太さのそれは、まるで違う生き物のように彼女たちのお尻の上で蠢いていた。

「『これ』のせいで、わたし達が出会うほとんど全ての男性から、好意と性欲を突き付けられちゃうの」

 龍太も、動画やSNSで見たり聞いたりしたことはあった。

 だが、実際にサキュバスの女の子に会うのは生まれて初めてだった。

「ほ、本物……?」

 龍太はそう言ったが、しかし目の前の「それ」はものすごい現実感をもってうねうねと動いている。

「自分でも良く分からないけど、このしっぽからはフェロモンみたいなものが出てるって言われてて――」

 和花は、白い肌の細い背中と丸く突き出たお尻、そして黒いしっぽを龍太に向けたまま振り向いて言った。

「だから、このしっぽを見た男の人は、みんなおかしくなっちゃう」

 和花は、龍太の目をじっと見詰めて言った。

「ね? お兄ちゃん」

 次の瞬間龍太は、突然和花の細い背中に抱き付いた。

「サ、サキュバスとか、そんなの関係ないだろ!」

 龍太はそう言うと、その勢いのまま、和花をベッドの上に押し倒す。

 二人分の体重に急に押しつぶされ、ベッドのコイルが、ぎしっ! と大きく鳴った。

「サキュバスかなんか知らないけど、こんな、こんな姿を見せ付けられたら、誰だってエッチな気持ちになるに決まってるし!」

 自分でも抑え切れない訳の分からない突然の衝動が溢れ出し、龍太は大きな声で言った。

 じっとしてなんかいられない。

 目の前のこの女の子の全てを、自分のものにしたい。

 この女の子の細い体に自分の体をこすり付けたい、中に入っていきたいという衝動が、龍太の体の奥からじんじんと疼いていた。

 そして龍太は和花を仰向けにさせると、両腕を押さえ付けた。

 和花が、小さく息を吞む。

「そんなに俺のことを驚かせて、どうするつもりなんだよ!」

 龍太は、そう叫んだが、和花はじっと黙っているだけだった。

 乱れる呼吸を落ち着かせようとしながら、それでも和花は静かに龍太の目を見詰めている。

 和花の細く白いお腹が、荒い呼吸に波打っていた。

 和花の小さい唇が、ぽつりと言った。

「龍太お兄ちゃん……?」

 龍太が、はっとして身を引いたその時、龍太の背後から柚葉が彼に抱き付いてきた。

「だめ――――――っ!」

「わぁっ?」

 柚葉にタックルされ、龍太はバランスを崩す。

 そして龍太と柚葉は、和花の上に倒れ込んでしまった。

 三人分の体重に襲われたベッドが、ぎししっ! と大きく軋んだ。

「きゃぁっ!」

 二人の下敷きになった和花が、小さく悲鳴を上げる。

「だっ、大丈夫?」

 和花の細い体を、壊してしまったかも知れない。

 真っ青になった龍太が、慌てて和花の上から自らの体をどかした。

「け、怪我無い?」

 龍太は、改めて和花の姿を見詰める。

 ワンピースを脱ぎ、パンツも脱いで、今の和花は白いブラと靴下だけの、ほとんど裸みたいな状態だった。白く細い体は本当に華奢で、骨なんてすぐに折れてしまうんじゃないかって思えるくらいだった。

 龍太の視線を感じた和花は、急いでブランケットを引き寄せ、何も着けていない下半身を隠した。

 シンプルなデザインの白いブラに包まれた白い肌が、うっすらと桜色に染まっていく。

「え? お、俺……っ?」

 我に返った龍太が、自分がついさっきやってしまったことを思い返し、更に青くなった。

「ごっ、ごめん! 和花、本当にごめん! 俺、ひどいこと言って、ひどいことして、謝って済むことじゃ全然無いけど、本当にごめん!」

 懸命に謝る龍太を見て、和花がくすっと笑って言った。

「今度同じことをしたら、絶対に許さないから」

「うん、もう、……殺してくれて構わない」

 和花はいたずらっぽい笑みを浮かべる。白く細い肩をすくめて、くすくすと笑って言った。

「分かった。安心して。苦しまないように殺すから」

「あ、ありがとう……」

 和花が気を遣って楽に殺してくれることに、龍太はほっとした。

 和花が、話を続ける。

「このしっぽは、男の人をおかしくさせちゃうんだ。もう、どうしようもないくらい」

「う、うん」

 龍太は頷いた。ついさっきの自分を思い出し、ぶるっと震える。

 そして龍太は和花から目をそらした。ブラしか身に付けていない和花を見てしまったら、しっぽなんかなくったって自分がおかしくなってしまうような気がしたから。

 和花は言った。

「小さい頃からそうだったんだ」

 足元に向けた龍太の視線の先で、ブランケットの膨らみがもぞもぞと動いている。さっき見た和花のしっぽが、その下で蛇のように身をくねらせているのが分かった。

「歩いているだけなのに、知らない大人の男の人に急に抱き付かれたり、クラスの男子につきまとわれたり」

 和花は言葉を続けた。

「しっぽはすごいデリケートで、雑に触れられると痛いくらいなのに、柚葉なんてクラスの男子に急にぎゅって握り締められて、びっくりして痛くて泣いちゃったりしてた。それからずっと男の子が怖くて、学校ではずっとわたしの隣から離れられないの」

 和花はそう言うと、俯く龍太の顔を覗き込んだ。

「だから龍太お兄ちゃんがわたし達に好意を抱いたとしても、それはこの真っ黒なしっぽのせい。それ以上でもそれ以下でもない」

 そうか、と龍太は思った。そうなんだ、と。

「わたしだって、男の人から急に好意をぶつけられたり、逆に急に汚いものを見るような視線を浴びせられたりした。男の人なんて、信じられない」

 和花が、言葉を続ける。

「だけどわたし達だって、本当は普通に恋愛がしたい。誰かを好きになって、信頼出来るその人と一緒に生きていきたい……」

 和花の声は、微かに震えていた。ひょっとしたら、さっきの龍太に対してまだ恐怖心が残っていたのかも知れない。

「――約束するよ」

 龍太が言った。

「もう二度とさっきのようなことはしない。絶対に。和花と柚葉とはちゃんとした距離を取るし、だけど怖い目に遭った時には必ず助ける。そしてこの家の中では、ちゃんと二人が安心して過ごせるようにする」

 和花は、言った。

「ありがとう。龍太お兄ちゃん」

 未だ心配そうな顔をしている柚葉に、和花は頷いて見せた。

 そして、龍太に向き直って、和花は言った。

「――わたし達のこと、絶対好きにならないでね」









   二章 今度エスカルゴを食べに行こう



 翌朝、獅子島龍太は考えていた。

(一・二メートル。一・二メートルにしよう)

 女の子との距離感(物理)が良く分からなかった龍太は、なかなか寝付けなかった昨晩、スマホでちょっと調べてみたのだ。


 〇~四十五センチ:恋人・家族

 四十五センチ~百二十センチ:友達

 百二十センチ~三百六十センチ:仕事関係


 どうやら、パーソナルスペースというのがあって、お互いの関係性に応じた人との距離は、大体こんな感じらしい。

(取り敢えず、余裕を持って百二十センチ離れていれば、柚葉も安心してくれるかな……)

 龍太は自分の部屋で一人、うん、と頷いた。

(それともう一つ、絶対、絶対二人を好きにならない! ましてや、エロい目で絶対見ない! これは絶対!)

 龍太はそう決心を新たにすると、ふんすと鼻を鳴らし、朝食の場へと降りていった。


(ん? なんだ?)

 真っ白な朝の光が斜めに射し込むダイニングキッチンでは、獅子島龍太の父、努が朝から暗い顔をしていた。

「そんな……そんなのってない……」

 努は朝食の場で、落ち込んでぶつぶつと呟き続けていた。

(こいつとは、五メートルくらい離れていたいな……)

 おかしな様子の父を見て、龍太はそう思った。

 努と真子の会話をそれとなく聞いてみると、どうやら努は今朝から長期の出張に入り、しかもそのまま転勤するよう言い渡されたようなのだ。

 二度目の新婚にも関わらず結婚早々転勤を言い渡され、単身赴任の身となって泣く泣く遠い地方で一人暮らしの憂き目に遭うということだった。

「落ち込まないで。毎日LINEするから!」

 そう言って真子が努を慰めていたが、努は一向に立ち直ることが出来ないでいた。

 龍太は、ふぅ、とため息を一つついた。

(はぁ……、どうでもいいよ……)

 昨日の和花と柚葉の悩みに比べたら、努の落ち込みはちょっと軽いものにしか感じられず、龍太は落ち込む父親と新しい優しい母親に余り同情出来ないのだった。


「じゃあ、朝ご飯は用意しておいたから、ちゃんと残さないで食べて、学校に行ってね? 学校に行く時は、ちゃんと玄関の鍵は締めておいてね?」

 そう言うと真子は、努を連れて玄関を出て行った。

 電車通勤の努を近くの駅まで車で送っていき、その後真子はそのまま車で自分の職場へ向かうらしい。

 玄関まで、子供達三人は両親を見送った。

 和花と柚葉は普通に玄関で見送ったが、龍太だけは二人の背後、廊下を三メートル奥に行ったところに立ち、薄暗い中から小さく手を振っていて、真子を困惑させた。

 ドアがばたん、と閉められると、和花は隣にいた柚葉の手をぎゅっと握り、言った。

「さ、ご飯食べよ?」

「ん」

 和花がくるりと振り返る。きれいな長い黒髪がふわりと空気をはらんで広がった。

(あ)

 龍太と和花の目が合った。

 龍太の視線に気付いた和花は、少し大人びた笑顔でにこっと笑って言った。

「おはよう、龍太お兄ちゃん」

「お、おはよ……」

(か、可愛い……けど、こうやって可愛いって思っちゃうのも、和花がサキュバスだからってことなのかな……)

 和花の笑顔にどぎまぎしながら廊下の端に突っ立ったままの龍太の横を、二人の新しい妹が通り抜けていく。

 すれ違いざま、和花に手を引かれ、龍太を伺うように見ていた柚葉も一言ぼそっと呟いた。

「……おはよ」

「ん、うん」

 ふわりと女の子のいい匂いが漂って、龍太の鼻の奥を微かにくすぐった。

(ゆ、柚葉も可愛いのだが! 可愛いのだが!)

 龍太は、どうにか自分の心臓を落ち着かせようとしながら二人の可愛い女の子が廊下を奥に歩いて行くのを見送った。

 そして真新しい制服に身を包んだ二人の後ろ姿を見詰めていたら、昨日のブラしか身に着けていない白くて細い体が龍太の脳裏にまざまざと浮かんでしまった。

 昨日彼女たちの部屋で見せられた、子供と大人の狭間にある真っ白なお尻が、龍太の目の前にちらつく。

 龍太の頬が、みるみる赤くなっていく。

(だめだ! だめだめだめだめ!)

 龍太は一人取り残された暗い廊下で、ぶんぶんと頭を左右に振った。

(二人を、妹をそんな目で見ちゃだめだ!)

 そして龍太はぱんぱん! と自分の頬を強く叩くと、よし! と気合いを入れてダイニングキッチンの方へ歩き出した。


「いただきます!」

「いただきます」

 柚葉と和花がそう言って、トーストを頬張った。

 おかずはチーズ入りのスクランブルエッグ。

 オレンジジュースも用意されていて、まるでちょっとしたホテルの朝食のようだった。

 ふんわりサクサクのちょっと厚めのトーストに、龍太はバターをかしかしと塗っていく。

 和花と柚葉はちょうどテーブルの対角線上に座っていて、龍太は柚葉との距離を一・五メートルほど取ることが出来ていた。

 龍太は手の中のトーストをしっかりと凝視し、二人の妹の方へは視線を向けないように気を付けた。

(――うん、これだけ離れていれば、きっと問題は起こらない! これから毎朝、こうやっていこう!)

 今日、初めて行く学校についてあれこれ話している二人の妹の会話を何とはなしに聞きながら、龍太は穏やかな気持ちでいた。

 もう、昨日のような失敗はしない。

 学校でも、二人をちゃんとフォローしよう。

 そんな風に思いながらトーストを食べていると、不意に和花が柚葉に言った。

「柚葉、口の周りべたべたしてる」

「んん? そう?」

 二人のバターの塗り方もそれぞれ特徴があって、和花はトーストのさくさく感を大事にしているのか、バターは撫でるように薄く塗っているだけだし、柚葉はトーストの表面を溶けたバターでじゅわじゅわに濡らすように塗っていた。

 思わず龍太がちらっと柚葉を見ると、彼女はふわりとした茶色いショートカットの髪を揺らして小首を傾げ、小さく柔らかそうな唇をつんととがらせていた。

 バターで濡れた柚葉の可愛い唇周りは、べたべたてかてかに光っていた。

「ほら、こっち向いて! 拭いてあげるから!」

 和花がお姉ちゃんっぽい口調で柚葉に言った。

 龍太は、自分の手元にあったボックスティッシュを取って、二人の方へ押しやった。

「ん」

 柚葉が目をつぶり、口を小さく閉じて和花の方を向く。

 すると和花はティッシュには目もくれず、おもむろに柚葉に顔を近付け、半開きにした己の唇を柚葉の唇にそっと重ねた。

「――え?」

 思わず龍太が驚きの声を漏らす。

「ん、んんっ」

 唇を塞がれた柚葉が、甘い吐息を漏らした。

「んちゅ……ほらぁ、柚葉、逃げないの。バター舐めとれないでしょ?」

 和花が柚葉をたしなめる。

「ごめん、和花……」

「ん……」

 そして再び二人の妹達は唇を重ね合った。

 ん、んちゅ。

 ちゅう、ちゅっ、ちゅぱ。

「…………」

 何が行われているのか半分も理解出来ずに、龍太は呆然と二人のキスを見守ることしか出来なかった。

「――っんぅ……」

「ぷはぁ……はい、きれいになった」

 和花は最後にもう一度柚葉の唇の周りに舌を這わせると、そう言って唇を離した。

 二人の唇の間に、唾液がすぅ、と糸を引いて光った。

 和花が、ちらっと龍太を見てきた。

 龍太は、真っ赤になってぽかんとしている間の抜けた顔を、いたずらっぽい笑みを浮かべた和花に見られてしまった。

「ねぇ、和花ぁ、口の中がまだバターべたべたかも……」

 柚葉が子供っぽい甘えた声を上げた。和花は、やれやれとお姉ちゃんっぽく答える。

「もう、仕方無いなぁ……」

 和花は少し困ったようにそう言うと、口を半分開いて姉のキスを待つ柚葉に顔をそっと近付け、妹と舌を絡め合った。

 唾液に濡れたピンク色の二人の舌が、お互いの体をこすり付け合い絡み合う。

 ちゅぷ……ちゅぷ……と微かな水音を立てて、和花は柚葉の舌を舐めていく。

 最後に唇でちゅぅ……と柚葉の差し出した舌をこそいで、和花は柚葉の舌に残ったバターを全て舐めとった。

 和花が笑って言った。

「何だか、エスカルゴを食べているみたい」

「なにそれ」

 柚葉が不満げな声を上げた。

「人の舌をなめくじみたいなんて!」

「エスカルゴはなめくじじゃないよ。かたつむり!」

「なめくじもかたつむりも一緒じゃん」

「違うよー」

 そう言って、和花は笑った。

 その間、顔を真っ赤に染めた龍太は頭の中が真っ白になって、ずっと固まっていた。

 そしてようやく龍太が思ったことは、

(今度……今度、エスカルゴを食べに行こう……!)

 ――ということだけだった。

「あ」

 和花が龍太の手元を見て声を上げた。

(え? なに……?)

 龍太が戸惑っていると、和花はダイニングテーブルに手を付き、龍太の方に身を乗り出してきた。

「龍太お兄ちゃんの手も、バターで汚れてる、かも」

「え? あー……なに?」

 和花の言葉の持つ意味が、龍太にはまるで分かってなかった。

「龍太お兄ちゃんもきれいにしてあげるね? 柚葉だけ不公平だもんね?」

 そう言うが早いか、突然和花は龍太の手を取ると、その指を口に深くくわえた。

「えっ? えっ、えっ、ええぇ……っ!」

 突然和花に右手の人差し指をくわえられ、龍太は思わず驚きの声を上げた。

(あ……っつい! 熱い! 女の子の口の中って、こんなに熱いの?)

 指に絡み付く和花の柔らかい舌の感触に、龍太の頭にかっと血が上ってきた。


(えっrrrrrrrrrrrrろ! 女の子の舌、えっっっっっろ!)


 決して妹を性的な目では見ないという今朝の決心はどこかへ吹っ飛び、龍太は朝から今まで経験したことがないくらいエッチな気分になってしまった。

(はわわわわわわわわわ……っ)

 しかしそれは、童貞である龍太にとって仕方無いことではあった。

 指をくわえられた龍太が何も出来ず、されるがままになっていると、ちゅぷ、と水音を立てて和花は自分の口内から龍太の指を解放した。

「はい、きれいになった」

 そう言って笑う和花に、龍太はなるべく平静を装って答えた。

「いや、きれいになった、って……。きれいにはなったかもだけど……」

 が、龍太その声は意思に反してかすれたものになってしまっていた。

「こんな……こんなことしなくていいから……手ぐらい、自分で拭けるから……!」

 サキュバスだからなのかなんなのか、二人のやることや仕草や表情は、時々ものすごくエッチになるのだ。

 龍太の気のせいかも知れないが、少なくとも龍太はそう感じてしまっていた。

「え、だって……」

 和花は少し戸惑って言った。

「口の周りのご飯粒とか、家族なら口で取ってあげたりしない? 龍太お兄ちゃんも、お父さんに口を舐めてもらったことくらいあるでしょ?」

「ないないないないないっ!」

 危うく自分と父親のディープキスシーンを脳裏に想像してしまいそうになって、龍太は慌てて大声を出してその光景をかき消した。

「絶対、死んでも、どうやったって、そんなこと、無いっ!」

 龍太がそう言うと、和花と柚葉は目を合わせて、そうなの? と二人揃って首を傾げた。

「だから、和花はもう俺のことは構わないで? 口の周りを拭くとか手を拭くとか、それくらい自分で出来るから!」

 龍太がそう言うと、和花は自分が思ってもいないところで注意されてしまったのが気に障ったのが、少しすねたような表情で言った。

「じゃあ、今わたしが龍太お兄ちゃんの指をきれいにしてあげたことも、好きじゃなかった? 嫌な気持ちになった?」

 ここは、毅然として言わなければならない、と龍太は思った。

 昨日の夜や今朝だって、強く決心したではないか。

 新しい妹達を、好きになったりしないと。

 決して、エッチな気持ちで見ないと。

 本心とは違ったとしても、これ以上同じことを繰り返されないように、和花には釘を刺しておかなければならないのだ。

 龍太は言った。

「好きか嫌いかで言ったら、さっき和花が俺の指を舐めてきたことは……」

「うん?」

 和花が小首をかしげ、大きな目をぱちっと開いて龍太を見詰めた。

 和花の大きな黒い瞳が、朝の光に輝いて龍太を真っ直ぐ見詰めていた。

「……す、好きかも……です」

 龍太は、思わず本心を漏らしてしまった。


   ***


 和花と柚葉の二人は、今日から通い始める龍太の学校の制服に身を包んでいた。

 白とモスグリーンを基調とした、オーソドックスなセーラー服だ。

「どうっ?」

 朝の光がいっぱいに射し込んでいるリビングで、和花と柚葉の二人はくるっと回って龍太に背中を見せてきた。

 真新しい制服のプリーツスカートが光を浴びてふわりと揺れる。

 二人の可愛らしい仕草に、龍太は思わず目をそらして言った。

「に、似合ってると、思う」

 しかし和花は、そんな龍太の言葉に不満げに言った。

「そうじゃなくて! 龍太お兄ちゃん、ちゃんとお尻見て!」

「え、えー……?」

 戸惑う龍太に向かって、和花は自分の形のいいお尻をつんと突き出した。

 昨日の、ゆで卵のようなすべすべの白い和花のお尻が再び目の前にちらついて、龍太は真っ赤になる。

(もう……なんでこんな……)

 和花に注意され、龍太は赤面しながらも二人のお尻をちらっと見た。

 ――何の変哲もないスカートだ。

「……うん、大丈夫。何も変なところはないよ?」

「良かった」

「ん」

 龍太の言葉に、和花と柚葉の二人が安堵する。

 スカートの下には当然彼女たちのしっぽが隠されていた。

 二人はお尻の上から生えているそのしっぽを器用に巻いてスカートの下に隠しているのだ。

 それが外から見た時にばれそうかどうかのチェックだった。

 二人がサキュバスだとばれてしまった時には、何かと男女のトラブルに巻き込まれるリスクが増してしまう。そうならないために、学校では二人がサキュバスだという事は隠しておくことにしたのだ。

 龍太はスカートに包まれた二人の妹のお尻を見たが、その下にしっぽがあるとはとても思えなかった。

「……じゃあ、そろそろ行こうか。教室に入る前に先生に挨拶をしないといけないし……」

 気を取り直した龍太がそう言うと、柚葉が慌てたように言った。

「待って待って! ゆず、前髪がちょっと変かも」

 柚葉はあわあわとスカートのポケットから取り出した手鏡を覗き込み、前髪を指でつまんで一生懸命形を整え出した。

「どうせ外に出たら風で乱れるんだから!」

 和花がそう言って、柚葉の背中を押した。

 二人が玄関から出た後に続いて、龍太も外に出る。

 玄関に鍵を掛けて、龍太は言った。

「忘れ物はない? ……じゃあ、行こうか」

 家族と一緒の騒がしい朝、というものを龍太は久しく味わっていなかった。父とは家を出る時間はずれていたし、男同士ではそんなにおしゃべりをするわけでもなかったから。

 それが今日からは、この二人の新しい妹達と一緒に登校するのだ。

 双子の妹の柚葉は、男性恐怖症のサキュバス。

 双子の姉の和花は、男性不信のサキュバスだ。

 学校で、サキュバスである二人に何が起こるのか想像もつかなかったけれども、とにかく二人が悲しむ目に遭わないように、そのことだけは守り抜こうと龍太は思った。


   ***


 学校までは歩いて歩いて二十分そこそこだった。

 住宅街の中を、三人は歩いて行く。

 柚葉は相変わらず和花に腕を絡ませて、ぴったりくっ付いて歩いていた。

 龍太は二人の五メートル前を粛々と歩いていく。

 さっきの指舐めが衝撃的すぎて、二人の近くにいると体の一部が反応しそうになってしまうのだ。

 血は繋がっていないとは言え、兄妹相手にそんな体の状態はいくらなんでもまずいと龍太は思うのだ。

(それに、柚葉にはまだ怖がられているみたいだし……)

 龍太が振り返って見ると、視線に気付いた柚葉はささっと和花の背後に隠れてしまった。

「柚葉、歩きにくいー」

「だって……」

 和花に文句を言われても、柚葉は和花の背後に隠れたまま出て来ようとはしなかった。


   ***


 学校が近くなってくると、当然ながら道には三人と同じ制服姿の子達が増えてきた。

「……?」

 ただ、いつもとちょっと違った。

 いつも龍太が登校時に見ている景色とは何かが違っていたのだ。

 もちろん、時間帯の違いはあった。

 今日はいつもより早めに家を出たこともあって、生徒の数はそれ程多くはない。

 しかし、違和感の原因はそれではなかった。

 同じ道を歩いている生徒達だけではない。道行くサラリーマンや近所の住人や、とにかく龍太達三人とすれ違う人達が、ことごとく和花と柚葉の二人を振り返るのだ。

 真新しい制服に身を包んだ和花と柚葉は、控えめに言ってものすごく目立っていた。

 とにかく二人は可愛いのだ。

 和花の黝い長く伸びた髪も、柚葉のふわっと茶色掛かったショートヘアも、朝の光を浴びてきらきらと輝いていた。

 正直言って、その辺のテレビに出ているアイドルなんかでは太刀打ち出来ないくらいの可愛さだし、可憐さだ。

 ちょっと子供っぽくてふわふわした感じの柚葉と、凜とした美しさを持つ和花は、対照的だけど双子なだけあってお似合いの組み合わせで、その所為もあって周りの注目を自然に浴びていた。

 二人はそんな状況には慣れっこになっているのか、特に気にしている風でもなかったが、容姿も背丈も平均点かそれよりちょっと劣るくらいの龍太は、五メートル背後の視線の集中にも軽く緊張してしまっていた。

(サキュバスの人っていつもこうなのかな……)

 馴れない視線に緊張してしまった龍太は二人を振り返り、全然大丈夫っぽくはない強ばった表情で言った。

「だ、大丈夫?」

「? 大丈夫だけど……?」

 頭上に「?」を浮かべながら和花はそう答えたが、それから笑顔で言った。

「お兄ちゃん、ありがとう」

 龍太はくるりと前を向いて、再び歩き始めた。

 和花の笑顔の可愛さに、どきどきが止まらなかった。

(か、かかか、可愛い過ぎる……。やっぱり好きかも……)

 しかし龍太はすぐに首をぶんぶんと振って、自分の気持ちを否定した。

(和花はサキュバスだから、サキュバスだからなんだ……。俺が和歌や柚葉を可愛いとか好きとか思っちゃうのはあのしっぽのせいなんだ……!)

 呪文のように唱えながら、龍太は学校へと向かった。


   ***


 先に教室に一人入った獅子島龍太は、かなり緊張していた。


 高校に着いた三人はまず最初に職員室に入り、クラス担任の平野莉子先生のところへ挨拶に行った。

 和花と柚葉の二人は、朝のHRの際に平野先生と一緒に教室に入ることになっていたのだ。

 黒髪ショートに眼鏡を掛けた平野先生は龍太に向かって、「じゃあ、取り敢えず二人のことは私が一旦預かるからね。心配しないで先に教室行ってて」と言って、あははは、と明るく笑った。

 カバンを背負ったまま莉子先生の隣に立っていた和花も、龍太に向かって言った。

「わたし達なら大丈夫だから、お兄ちゃん、心配しないで」

 本当は龍太の方が、転校してきて不安な和歌や柚葉を気遣わなければならないのに、逆に和歌に気を遣われてしまった。

 そして和歌どころか、平野先生にまで言われてしまった。

「獅子島の方が転校してきたばかりのように見えるなぁ。あはははは!」

「はい……それはどうも……いつも新鮮な気持ちで勉学に励むようにしているので……」

 コミュ障気味の人は、他人の冗談に上手い返しが出来ない。

 何と言って返せばいいのかまるで分からず、龍太は曖昧に答えた。

 ずっと和花の背中に隠れていた柚葉は、和花の背後から上半身を斜めに覗かせて、そんな龍太の方を上目遣いにじっと見詰めていた。

 じ――――…。

「じゃ、じゃあ……」

 柚葉の視線に耐えられなくなった龍太は、二人を平野先生に任せ、教室に一足先に向かったのだった。


 龍太の席は教室廊下側の一番後ろの席だった。

 龍太の前の席には、数少ない友人である青木晴はるが座っていた。

 五十嵐とは席が前後になったことがきっかけでちょくちょく話すようになり、同じ帰宅部ということと推しのVTuberが同じだったということもあって仲良くなったのだ。

 龍太がバックパックを下ろして席に着くと、前の席の青木が振り返り、龍太の顔を見た途端にぎょっとして声を掛けてきた。

「おっ、おい獅子島、大丈夫か? 体調悪い? 顔、真っ青だぞ?」

「え? 体調? 何のこと?」

 龍太がそう言うと、青木が無言で折りたたみ式の手鏡を龍太の眼前に突き出してきた。

「え、わっ? な、なんだこれ?」

 そこに映っていたのは、緊張で真っ青になっている自分の顔だった。

 元々龍太は、たくさんの人の前に立つとか、学年最初の自己紹介とか、そういうものが大の苦手だった。

 これから和花と柚葉の二人がまさしく転校からの自己紹介をやるというにあたって、龍太は自分の事のように緊張しまくっていたのだ。

 だから平野先生や和花と柚葉の三人は、龍太にあんなに気を遣っていたのだ。

(か、かっこ悪……)

 今更ながらに龍太が落ち込んでいると、教室前のドアが、がらがらっと開け放たれた。

「はい、静かに静かに―――っ」

 平野莉子先生が大声を上げながら教室に入って来ると、青木他クラスメイト達はみんな正面に向き直り、平野先生に注目した。

「おっ、今日はみんな大人しく言う事を聞いてくれるなぁ」

 はははっと平野先生は笑って言った。

「勘のいいみんなは、薄々気付いているよね」

 そう平野先生が言うと、何人かの女子はくすくすと笑った。

「昨日の放課後、男子に手伝ってもらって新しい机を二つも運び込んだし、いつもより早めに私が来たし、もうすでに噂は広まっているんじゃないかな?」

 平野先生が勿体ぶってそう言うと、クラスでも陽キャの男子が手を上げて言った。

「先生ー、何のことか分かりませーん!」

 数人の女子が、きゃははっと笑った。

(このノリ……、に、苦手だ……)

 和花と柚葉の二人は、まだ廊下で待っていた。

 これから自己紹介をしなければならないというのに、その教室を変に浮かれた空気にしないで欲しい、と龍太は思った。自分だったら逃げ出したくなると思ったのだ。

 そんな浮かれた空気を、平野先生が両手をぱんぱん! と叩いて落ち着かせた。

「はい、聞いてー! 今日からこのクラスに転校生が来ます。引っ越して来たばかりで馴れないことも多いだろうから、みんなフォローしてあげてね?」

 男子が来るのか、それとも女子が来るのか、どんな人が来るのか龍太以外は誰も知らない状況で、教室内のあちこちにそわそわとした空気が流れていた。

「さ、入って来て!」

 平野先生の言葉の後、教室の前のドアがからからから、と開けられた。

「わー!」

「うっわ!」

「へー」

 教室の入り口に現れた可愛い一人の少女の姿に、教室内の男子も女子も思わず声を上げていた。

 和花は、教壇中央、平野先生のすぐ隣に颯爽と歩いて来る。

 青みがかった黒髪をなびかせ、形のいい胸をそらすようにして姿勢良く歩きながら、和花はその大きな瞳で教室の中を見渡した。

 教室内のあちこちで、息を吞む音が聞こえた。

 クラスの男子のほとんどは、人形の様に美しい和花と目が合ったと勘違いして、一瞬で恋に落ちてしまったことだろう。

 改めて和花のことを見詰めながら、龍太は自分は間違っていたかも知れない、と思った。

 確かに和花はサキュバスだしすごく可愛い女の子だけど、そもそも彼女は同年代の女の子よりもずっと大人びていて、普段の仕草とか姿勢とかがすごくしっかりしているのだ。

 サキュバスだからとか、そんな単純な話ではない。

 人としてすごく魅力的なのだ。

 そんな和花が、同年代の男子からモテるのは自然なことに思えた。

 その時、和花の瞳が龍太を見付けた。

 和花の瞳が「あ」と軽く見開かれ、柔らかい笑みを浮かべる。

「――見た見た見た? 今あの子、俺のこと見て笑ったぞ? 絶対俺に惚れちゃったよな!」

 龍太を振り返り、青木が興奮した様子で囁いてきた。

「……それ違うから。あの子は、俺のことを見て微笑んだの」

 龍太は正直にそう言ったが、青木に鼻で笑われてしまった。

「自意識過剰なんだよ、お前は」

 そっくりそのまま同じ言葉を返してやるよ! と龍太は心の中で叫んだものの、口に出すことはなかった。

 和花に続いて、柚葉が教室に入って来た。

「えっ!」

「わぁ!」

「二人ともめっちゃ可愛い!」

 和花に続いて現れた可憐な女の子の姿に、教室内がどよめいた。

 柚葉は緊張した面持ちで、少し頬を赤らめながら早足で和花の隣まで歩いて来た。

 柚葉が立ち止まったことを確認し、平野先生が声を掛けた。

「はい、じゃあ獅子島和花さんから自己紹介をお願いね」

「はい」

 きれいな声で返事をすると、和花は黒板に「獅子島和花」と書いた。

「初めまして。獅子島和花といいます。最近この街に引っ越して来ました。ここは前に住んでいたところよりもずっと大きな街で、わたしの好きな本屋さんもたくさんあってびっくりしました。前の学校では放送部に入っていたので、またそういう活動が出来たらなって思います。よろしくお願いします」

 和花は自己紹介を終えると、ぺこりと頭を下げた。

 ぱちぱちぱち、と誰からともなく拍手が起こる。

 和花は如才なく自己紹介を終えたように見えたのだが、それでも緊張はしていたのか、ほっとしたように小さく息をついた。

 その様子を見て頷いていた平野先生は、次に柚葉に声を掛けた。

「じゃあ、次。獅子島柚葉さん、自己紹介してください」

「は、はい!」

 柚葉が、黒板の和花の名前の隣に「柚葉」とだけ書き加える。

 和花が、緊張している柚葉の手をぎゅっと握った。

「し、獅子島柚葉っていいます。初めまして。みんなと仲良くしていきたいと思います。よろしくお願いします」

 柚葉の方は分かりやすく緊張していたので、自己紹介をしている最中にも二、三人の女子が教室内のあちこちで「頑張れー」と小さな声で応援していた。

 柚葉もぺこりと頭を下げる。

「じゃあ、教室の後ろの方に二人の席を用意してありますので、二人はそこに座って下さい。HRはこれで終わるので、みんなは一限目の準備をして待っているように!」

 和花と柚葉の二人は、手をつないだまま机の間を歩いて行き、隣り合った空席に座った。

 平野先生が、教室を出て行く。

 その瞬間、クラスの半分の生徒が、わっ! と二人を取り囲んだ。

「引っ越して来たって、今どの辺に住んでいるの?」

「二人ってもしかしなくても姉妹?」

「めっちゃ可愛いよね! 前の学校で彼氏とかいた?」

 男子よりも寧ろ女子が大勢で二人を囲んで、質問の雨を降らせていた。

「まだ引っ越して来たばかりだから、どの辺って説明は難しいんだけど、学校からちょっと歩くかな」

「そう、姉妹なんだ。わたしがお姉ちゃんで、柚葉が妹」

「いないよ~。そういうの、まだ興味ないから分からないんだよね」

 龍太は心配の余り二人の方をずっとちらちらと見ていたのだが、和花はしっかりと相手の目を見て質問に答えていた。

 正直、自分なんかよりもよっぽど爆速でクラスメイトに馴染んでいっている姿に、龍太はちょっとだけ羨ましく思ってしまった。

「なぁなぁ!」

 龍太が物思いに耽っていると突然、青木が龍太に声を掛けてきた。

「お前と初めて会った時、獅子島なんていう名字珍しいなって思ったけど、二人とも名字が獅子島じゃん!」

「ま、まぁな……」

 当然の話だが、同じクラスにこんな珍しい名前が揃ってしまったら、龍太が和花や柚葉と兄妹だということはすぐにばれてしまうのだ。もっとありふれた名字なら、こんな事は無かったかも知れない。

(やれやれ……どこまで説明すればいいのか……親父が再婚ででれでれしていたことは、不要な情報かな……)

 しかし、青木の言った言葉は龍太の想像とは違っていた。

「いや~~~、こんな偶然ってあるんだな!」

「……ん? ん? は?」

「こんな珍しい名字の人が、同じクラスになっちゃうなんて、ひょっとしたら天文学的な確率の超レアなことなんじゃね?」

「……あ、青木?」

「もしかしたらさ、同じ名字ってことは、獅子島とあの二人って遠い親戚か何かかも知れなくね? 家系図とかあったら、調べた方が絶対いいって!」

「……」

 龍太はしばし沈黙した後、何故かテンションが上がっている青木に向かって、小声で衝撃の事実を告白した。

「――兄妹だよ!」

「え? 何が?」

「だから、俺と和花と柚葉は、兄妹なの!」

「またまたぁ!」

「何で本人の言う事を信じないんだよ! 詳しくはまだ話せないけど、和歌と柚葉はちょっと事情があってこの学校に転校してきたんだ」

「……マジ?」

「マジマジマジ」

 青木の問いに、龍太はいたって真面目な表情で答えた。

「ま、まじで? マジかぁ……俺、今初めてお前と友達でいて良かったって心底思ってるよ! 今日から獅子島のことお義兄さんって呼んでいいか?」

 青木の言葉に引きながら、龍太は答えた。

「却下だ」

 教室の片隅で五十嵐と不毛なやり取りをしながら、龍太はちらっと二人の妹の方を見た。

 和花は相変わらず新しいクラスメイト達と笑顔で話していたが、柚葉は女の子相手でも少し緊張してしまっているのか、ずっともじもじとしていた。

 両手を太ももの間に挟んで、おしっこを我慢しているようにお尻や太ももをずっと小刻みに揺らしている。

(あ!)

 その時龍太は気付いた。

 柚葉のお尻の少し上の方、ちょうどしっぽを巻き付けているあたりのスカートが、もぞもぞと波打っているのだ。

 どうやら、柚葉は緊張の余りしっぽまでもじもじしてしまっているようだった。

(ま、まずい! 初日からばれるのはまずいって!)

 龍太は柚葉のことを凝視して、口をぱくぱくさせた。

 どうやってこの危機を伝えればいいのか分からない。

 いきなりあんなにたくさんの人の輪の中に入っていくのも逆に目立つし、却って柚葉の秘密がばれてしまうかも知れない。

 龍太が一人であわあわしてると、和花と柚葉に話し掛けていた女子の一人がそんな様子に気が付いた。

「え、なにあれ。ちょっとキモいんですけど!」

 陽キャの女子の言葉に、他の女子も龍太を振り返る。

「なんかあわあわしてる……」

「和花ちゃん、あんなのと目を合わせたらだめだよ?」

「やだー! 和花ちゃんと柚葉ちゃん見て、めっちゃ興奮しちゃってるんじゃない?」

「やっば。絶対無理」

「てか、うちのクラスにあんなのいたっけ?」

 口をきいたこともないクラスの女子からの散々な言われように、龍太は心をぽっきり折られてしまった。

 が、龍太が柚葉の何かに気付いたという事は伝わったようだった。

 柚葉は「はっ」とした表情で、お尻を押さえ、スカートの乱れを直していた。

 顔を赤くしながら柚葉がちらっと龍太を見てきたので、龍太は軽く頷いて見せた。

(……大丈夫か……)

 どうやら危機は去ったようだった。

 和花と柚葉の二人を囲んでいる女子達もすぐに龍太に対する興味を失って、また和花と柚葉と話し始めた。

「けど、獅子島って名前めっちゃ珍しくない? わたし、初めて聞いた!」

 周りの女子も、うんうんと頷いていた。

「え?」

 和花が、驚いて龍太の方を見てきた。

「――っ!」

 龍太は思わず目をそらしてしまった。

(もうだめだ……死にたい……)

 獅子島龍太は、クラスメイトの女子に名前を覚えられていなかったことを改めて思い知らされ、あまつさえ妹の前でそれがばれてしまい、心に深いダメージを負ってしまったのだった。


   ***


 その後、授業が始まり、そして一日が終わった。

 二人の転校初日は特に大きなトラブルも無く、無事に過ごすことが出来た。


 とは言え何となく気まずさを感じていた龍太は、学校が終わって二人と一緒に帰ることはしなかった。

 帰り道が心配ではあったが、道は和花が覚えているというので、龍太は一人カードショップに寄ってぼんやりと時間を潰したのだった。


   ***


「あ……」

 龍太が家に帰り玄関のノブに手を掛けた時、家の中から人の気配がした。

 もちろんそれは当たり前の話で、和花と柚葉は先に帰っているはずだし、真子も定時には帰って来ると言っていたので人がいるに決まっていた。

 が、龍太の父はいつも帰宅は遅かったし、人のいない、冷えた空気に満ちた家に帰ってくるのがいつものことだった龍太にとって、それは数年ぶりに感じる懐かしい気配だった。


「た、ただいまー」

 何故か少しだけ龍太は緊張し、家の中に声を掛けて、玄関を上がった。

 廊下の奥、ダイニングキッチンの方から、包丁で野菜を刻む音に混じって柚葉の楽しげな声が聞こえてきた。

 龍太が聞いていた柚葉の声と余りに違っていたので、最初、誰か知らない女の子が遊びに来ているのかと思ったほどだった。

「――で、学校はどうだった?」

「うん、みんな親切にしてくれたし、友達もたくさん出来ると思う!」

 真子の質問に、柚葉が元気に答えていた。

(やっぱり柚葉だ)

 龍太は、ダイニングキッチンへのドアを開ける。

 こちらに背を向けて、夕飯の準備をしている真子と柚葉の後ろ姿が目に入った。

「朝なんて、柚葉ちゃんすっごく不安そうな顔してなかった? 大丈夫だったの?」

「うん」

 柚葉が頷いて言った。

「龍太お兄ちゃんがずっと心配して見ててくれたから、平気だった」

「へー、良かったね」

「た、ただいま……」

 龍太が声を掛けると、柚葉がはっとして振り返った。

 柚葉はラフなパステルイエローのTシャツに、短めの白いスカートをはいていた。

 家の中では気にしなくていいと思ったのか、柚葉はしっぽを出してゆらゆらと揺らしていたのだが、しっぽはお尻の少し上から生えているものだから、スカートは完全にめくれてしまって、白地にピンクのドット柄のショーツが見えてしまっていた。

(エ、エッチじゃない! エッチなんて思わない! あれはただの布! ただのパンツ!)

 龍太は頭の中で呪文を唱える。

 柚葉は咄嗟にスカートの裾を押さえ、顔は見る見る赤くなっていった。

「わ、わたし、宿題してくる! 忘れてた!」

 そう言うと柚葉は龍太のわきをすり抜け、ダイニングを出て、たたたた、と階段を登っていってしまった。

 龍太はしばらく呆然と突っ立っていたが、同じく何事が起きたのかと固まっていた真子に気付くと、近付いて行って声を掛けた。

「あの……、手伝います」

 まな板の上には、柚葉が千切り掛けのレタスの葉が何枚か散乱していた。

 龍太はシンクで手を洗った。

「そう? 助かっちゃうなぁ」

 真子はそう言ってから、改めて龍太に言った。

「今日は和花と柚葉のことずっと気に掛けてくれてたんだよね。柚葉の代わりにお礼を言わせて。――ありがとう」

「いえ、そんな……、ととと、当然のことをしたまでですよ……。ははははは……」

 新しい母親と隣り合う緊張に、少しだけどもってしまった龍太は、しかしサラダ用のレタスを千切りながら、思っていた。

 別にクラスの女子に何と思われてたっていいじゃないか、と。

 柚葉や和花に気持ちが伝わっていれば、それでいい、と龍太は思った。


   ***


 夕食を終え、龍太はリビングでスマホをいじりながらくつろいでいた。

 五十嵐からの「お義兄さん今後ともよろしく」LINEを適当にあしらい、イヤホンで推しVTuberのゲーム配信をぼんやりと見ていた。

 龍太は、L字の形に並べられたソファの一番端に座っていた。そして逆側の一番離れた端には、夕ご飯を食べてお腹いっぱいになった柚葉が、うとうとと船を漕いでいた。

「もうお風呂出来てるよ」

 真子がそう言うと、後片付けを手伝っていた和花が洗い物を終え、言った。

「じゃあ、先にお風呂入っちゃうね」

 和花はダイニングキッチンの隣のリビングルームへ来ると、ソファに座って居眠りしている柚葉の隣に座った。柚葉の柔らかい髪の毛を撫でながら、和花は言った。

「ほら、柚葉、お風呂入ろ」

「んあ? なにぃ?」

「お風呂だよ。それとも後で一人で入る?」

「やぁ……二人がいい……」

「じゃあ、ほら、服脱いで」

「やぁ……めんどい……」

「どっちなの?」

 いつまでもむにゃむにゃしている柚葉に、いつものことなのだからか和花も段々扱いが雑になってくる。

「脱がすから、ほら、ばんざいして」

 和花は柚葉の腰に手を回し、服の裾をまくり上げようとしたが、眠気が勝る柚葉は和花から逃げるようにソファにうつ伏せに突っ伏してしまった。

「ねむいー」

「お風呂入ってから寝ればいいじゃん」

 和花は逃げる柚葉を逃すまいと、柚葉の腰にまたがって押さえ付けた。

「やだー。おにー」

「誰が鬼だ」

 和花は無理矢理柚葉のTシャツを脱がしていく。二人ともスカートがめくれ上がって、パンツもしっぽも露わになってしまっていた。

「――惜しい! 第二形態まであと少しだったのに……っ」

 スマホでゲーム配信を見ていた龍太が、小さな声で叫んだ。イヤホンをしている龍太は、すぐ近くで繰り広げられていた和花と柚葉の戦いにまるで気付いていなかった。

 和花は柚葉のTシャツを頭の上までまくり上げ、両腕の動きを封じると、スカートまで脱がしてしまった。

 万歳状態で両腕を封じられた柚葉が、自分に馬乗りになっている和歌のことを不満げな目付きで振り返る。

「やだー、やだよー」

「諦めてさっさと脱ぐ!」

 その時柚葉の白いお尻の上から生えている黒いしっぽが、獲物を狙う蛇のようにゆらりと鎌首をもたげると、鞭のようにしなって和花の腰に体当たりした。

「どいて! どいて!」

 ぺしぺしぺし、と柚葉のしっぽがのしかかっている和花のお尻を叩いた。

「ゆずはぁ……! いい加減にしなさいよぉ?」

 和花のしっぽがゆらりと揺れて、柚葉のしっぽにするすると絡み付いていった。

「ひゃんっ」

 柚葉のしっぽがぶるんと震え、身をよじって逃げようとする。しかし和花のしっぽは柚葉のしっぽに巻き付いて、決して逃がそうとはしなかった。

「ほらぁ、あんたがしっぽなんて使うから、わたしだって応戦しないといけなくなっちゃったじゃない」

 くねくねと身をよじっている柚葉のしっぽを、絡み付いた和花のしっぽが根元から先までこすり上げる。

「やぁだぁ……くすぐったいよぉ」

 柚葉が甘えたような声を上げる。

「しっぽはめっちゃ敏感だから、こすり付け合ったら感じちゃうもんね?」

 和花も頬も赤らんで、少しだけ息も上がってきていた。

「エッチだぁ……和花のエッチぃ……」

 柚葉が、とろんと眠そうな目で馬乗りになっている和花を見上げる。

「エッチなのは柚葉じゃん。柚葉が先にしっぽ出してきたんだから……」

「えー」

「ほら、お風呂入るよ」

 そう言って和花が柚葉のブラを脱がそうとした時、二人の横から悲鳴のような声が突然上がった。

「えっ? なっ、ななな、何やってるの!」

 和花が振り返ると、顔を真っ赤にして固まっている龍太の姿があった。

「あれ? 龍太お兄ちゃん、いたんだ」

「いたよ! ずっといた!」

 気付いたら下着姿で馬乗りになって・なられている二人の様子に、龍太は慌ててしまった。

 二人の黒いしっぽはてらてらと艶めかしい光を反射して、交尾している蛇のようにゆらゆらと絡み合っていた。

「やぁだ!」

 柚葉も頬を赤くして、Tシャツを巻き付かせた両腕で顔を隠してしまった。

 少しだけずれたブラの下からは、柚葉の真っ白い慎ましい膨らみが半分露わになっていた。

 微かにあばらの浮いた胸と細くて白い腰が、恥ずかしさに身をよじっている。

 しかし和花は、あくまでも落ち着いた様子で、言った。

「これから二人でお風呂に入るから。だから服を脱いでるんだ。それだけだから、気にしないで?」

「き、気にするに決まってるだろ!」

 下着姿の和花と、下着を半分脱がされている柚葉をおいて、龍太は急いでリビングを出て行った。

 昨日に続いて今日も、二人の黒いしっぽと真っ白なお尻を見てしまった。

「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ!」

 顔を真っ赤にしながら、龍太はずたたたた、と階段を駆け上る。

 龍太が二人と適切な距離を取ろうとしているのに、いつの間にか和花と柚葉は、龍太の近くで変なことをしている。

 ただでさえサキュバスのフェロモンのようなものに我を見失ってしまうかも知れないのに、今の状況は絶対にまずいと龍太は思うのだ。

 ばたん! と勢いよく自室の部屋のドアを閉め、龍太はベッドに突っ伏した。

 可愛い妹二人の半裸の姿が脳裏にまざまざと浮かび、龍太はマットレスに顔を押し付けて叫んだ。

「うわぁああぁ~~~~~~~~~っ!」

 酸欠で頭がくらくらする。

 頭を上げ、龍太は言った。

「決めた」

 隔離をしなければならない。

 あの二人を、ではない。龍太が、龍太自身を隔離しなければならない。

 明日からは、家の中でも二人を避けようと、龍太は思った。

 ニートの様に自室に引きこもって、推しVTuberのゲーム配信を追う日々を送ろうと思うのだ。

「それはそれで、楽しいかも……」

 明日からは、ひっそりと自宅の隅っこで暮らしていこう、と龍太は決心したのだった。













  三章 第三十関門ってなにするの



 翌朝、龍太は朝ご飯を二人と時間をずらして食べた。

 龍太は、二人がまだ起きてこない内に、そっとダイニングキッチンへと降りていった。

「あ、おはようございます……」

「おはよう。今日は早いんだね。――ごめんね、ばたばたしちゃって、まだご飯用意できてないんだ」

「あ、いいです、いいです」

 ちょっとだけ慌てた様子の真子に、龍太はそう言うとテーブルの上にラップを二枚広げた。

 龍太は、炊飯器に残っていたご飯をラップの上に軽くよそった。

「おにぎり?」

「あ、はい」

「具はどうしようか?」

「コンビーフの残りがあったので、それ使おうかなって」

「へぇ、美味しそうだね」

 龍太は、小鉢に残っていたコンビーフを冷蔵庫から取り出し、ご飯の上に乗せた。ほぐしたコンビーフに醤油をちょちょっと掛け、それから黒こしょうも軽く振った。

「シーチキンも少し残っていたから、わたし、用意しようか」

「あ、ありがとうございます」

 真子は、手早くシーチキンと粒マスタードを和え、塩こしょうもして味を調えると、もう一つのご飯の上に乗せた。

 龍太は具の上にご飯を盛り、ラップでくるんでおにぎりを握る。軽く握って形を整えた後、塩を振り、海苔を巻いてもう一度握った。

「手抜きのお味噌汁でいいかな?」

 真子が龍太に聞いた。

「あ、はい、ありがとうございます」

 真子はお椀を出すと顆粒だしと味噌を入れ、油揚げも刻んでお椀に入れた。ポッドのお湯を注いで、龍太に声を掛けた。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 そうして龍太は朝食を済ませた。真子は、和花と柚葉と自分、三人分の朝食の準備をしていた。

「おはよう、お母さん……、あれ? お兄ちゃん?」

 先に食器洗いまで済ませてしまった龍太を見て、和花は少しびっくりしていた。

「あ……う……」

 昨日の夜、和花に服を脱がされているところを見られた柚葉は、龍太の顔を見て赤くなってしまった。

 柚葉は、ずっと龍太と視線を合わせてはくれなかった。


 そして登校は、龍太は昨日よりも距離を取って、二人から十メートル以上離れて学校へ向かった。


   ***


「あ! 来た来た! おはよー! 和花ちゃん、柚葉ちゃん!」

「おはよう!」

「お、おはよう……」

 教室で和花と柚葉は、今日も人気だった。

 休み時間の度に二人の周りには人垣が出来て、和花と柚葉は、男女問わず常に話し掛けられていた。

 やはり和花はクラスメイトの質問攻撃をそつなくこなしていたし、相変わらず柚葉はそんな和花にべったりくっ付いてどこに行くにも二人は一緒だった。


 離れた席から二人を見ながら、龍太は思った。

(俺が二人を守る! とか息巻いてたけど、そんな必要無かったかな……)

 龍太は、よそよそしい様子の柚葉を思い出した。

(逆に俺が傷付けるようなことをしてしまう可能性だってあるし……)

 和花と柚葉をちらちらと見守る龍太に、青木が声を掛けてきた。

「なぁなぁ、獅子島って……、ほんとにあの二人の兄妹、ってことでいいんだよなぁ……?」

 訳の分からない事を言ってくる青木に、龍太は少しだけいらっとして言った。

「そうだよ。――何でそんな事言うんだよ?」

 龍太がそう言うと、青木にしては珍しく少し口をもごもごさせて言いづらそうに言った。

「だってさぁ、獅子島とあの二人って全然似てないっていうか……。単純に顔だけじゃない、身にまとっている空気っていうかオーラっていうか……獅子島はあの二人の足元にも及んでないって気がするんだよなぁ……」

 余りの青木の言いように、龍太は怒って当然ではあったのだが、残念なことに青木の言う事はいちいちもっともで、龍太は何も言い返すことが出来なかった。

 というか、龍太自身も薄々感じていたことではあったのだ。

「まぁ……そうだよなぁ……はぁ……」

 龍太はため息を一つつくと、次の授業の準備をごそごそと始めるのだった。


   ***


「獅子島ー」

 昼休みが始まるタイミングで、教室の入り口から学年主任の男の先生が名前を呼んだ。

「「「はい」」」

 和花と柚葉、そして龍太の三人が同時に返事をする。

 龍太の隣の席の女子が、(なんでこいつが返事しているんだ?)とばかりにいぶかしげな目で龍太を見ていた。

 和花と柚葉の二人を取り囲んでいた人垣の中にいた男子が一人、先生に向かって言った。

「せんせー、和花と柚葉、どっちの獅子島ですかー?」

 何が可笑しいのか、輪の中の男子が二、三人ぎゃははと笑った。男子の頭の中には、当然のように龍太の存在はまるで無いようだった。

「和花の方だ。転入の書類で確認したいことがあってな」

 先生の言葉を聞いた女子が、「和花ちゃんだって」と、和花に行くよう促す。

「あ、うん」

 和花が立ち上がると、柚葉も一緒に立った。

「わ、わたしも」

 柚葉も和花に付いて行こうとしたが、男子に腕を掴まれてしまった。

「違うよ?」

「え? あ……いた……」

 そして柚葉は、輪の中に戻されてしまった。

「ね、いつもは和花ちゃんが色々話してくれるけど、考えてみたら柚葉ちゃんって余りうちらと話してくれてなかったよね?」

 女子の一人が、柚葉に言った。

「別に和花がいなくたってさ、俺たちと話せば楽しいよな?」

 男子が二人、柚葉を挟むように立って話していた。

「え? あ、うん……」

 和花は先生に急かされ、自分の背後で行われていた柚葉とクラスメイトのそんなやり取りに気付けなかった。

 だが教室を出て行く時、和花はちらっと龍太を見た。

(…………)

 そして龍太は、柚葉を振り返る。

 いつものように男女のクラスメイトに囲まれて、話の輪の中に入っている。

 いつもと違うのは、そこに和花がいないことだけ。

 ぱっと見はそれだけのことなのだが、しかし柚葉の仕草をよくよく見ると、彼女の不安がわずかに感じられた。

 具体的にどこが、と言われると答えに窮してしまう。

 だけど、表情がいつもより微かに曇っているところとか、腕や脚をほんの少し縮こめているところとか、何となくいつもの柚葉と違って見えた。

 龍太には、そう見えたのだ。

「――ん」

 龍太は、席を立った。

 今、柚葉が取り囲まれているような、陽キャの輪は龍太だって得意ではない。

 あんな輪の中に入ろうとしたって、龍太のようなクラスでも目立たない生徒は体よく無視されてはじき返されるのが落ちだ。

 だが今は、自分の事なんて気にしている場合ではない。

 柚葉は、男子が苦手な柚葉は、きっと困っていると思う。

 勘違いなら勘違いで別に構わない。龍太が恥をかけば、それで済む話なのだ。

「――――」

 龍太は、陽キャの輪へと近付いて行った。

 その輪の誰も、龍太の事なんて見もしていなかった。

 思い切って、声を掛ける。

「柚葉」

 大声で話し続ける陽キャの輪には、龍太の声はまるで届かなかった。龍太のことなんて完全に無視をしていた。

「な、なに?」

 ただ、柚葉だけが龍太に気付き、龍太の声に返事をした。

 龍太は更に近付いて行って、言った。

「行こう。校舎の中を案内してあげる」

 そう言って龍太が柚葉の腕を取ると、輪の中にいた男子が、ばしっ、と龍太の手を払いのけた。

「何やってんの、お前?」

「嫌がってるじゃん。怯えてるよ? 柚葉ちゃん」

 女子も男子に加勢する。

 しかし、今度は龍太がそいつらを無視する番だった。

 再び柚葉の腕を取り、柚葉に言った。

「学校、案内してあげるよ。行く?」

 柚葉は答えた。

「ゆず、行く! 龍太お兄ちゃんと一緒に行く」

「え? お兄ちゃん? こいつが?」

「聞いてないんだけど?」

 呆気にとられる陽キャ達の輪の中から、龍太は柚葉を引き抜いた。

「じゃ」

 龍太は一言それだけ言うと、柚葉の手を引いてお昼休みの教室を抜け出した。

 しらけた空気の教室を出て、龍太と柚葉は、手をつないで廊下を歩いて行った。


   ***


「はぁ……ふ――……」

 教室棟を出て、龍太と柚葉の二人は中庭を突っ切る渡り廊下を歩いていた。

「ここまで来れば……。柚葉、ごめん、余計なお世話だった?」

 柚葉は首をふるふると振って、言った。

「ううん、そんな事ない! ちょっと怖かったから、お兄ちゃんが来てくれて嬉しかった」

「そう」

 それは良かった。柚葉だけではなく、何故か龍太もほっとした。

「あっ、ご、ごめん!」

「?」

「男子が苦手なのに、俺、ずっと手を握ってて。ごめん、いやだったよな?」

 柚葉は、ふるふると首を振った。

「大丈夫。……あのね、なんかね、どうしてかはゆずにも分からないんだけど、お兄ちゃんは手をつないでても大丈夫みたい」

 龍太は、胸を撫で下ろした。柚葉を助けるつもりが、逆に彼女を怖がらせてしまっていたらそれこそ本末転倒だ。

 龍太は柚葉に向かって言った。

「折角だから、本当に校舎の中を案内してあげるよ。取り敢えず、最低でも昼休みが終わるまでは一緒に――」

 その時、龍太の背後から近付いてきた人影が、突然龍太の肩をぐっとつかんだ。

「おい! 人に迷惑掛けてんじゃねぇよ!」

 人影はそう言うと、ぐいっ! と龍太を後ろに引き倒した。

 龍太はそのままバランスを崩し、どたっ、と尻餅をついてしまった。

「いったぁ!」

 それは、龍太の教室から二人を追い掛けてきた、陽キャの男子達だった。

(まずい!)

 自分が転ばされたことよりも、龍太は柚葉の様子が気になって、彼女のことを見た。

 柚葉は、突然のことに驚き、男子の剣幕にすっかり怯えていた。

「お前、普段は小さくなってるくせに、女の前でだけいい気になってんじゃねぇよ!」

 こいつら、一体何にそんなにきれてるんだ? 龍太にはまるで分からなかった。

 柚葉は別にこいつらのものではないし、そもそも彼女が龍太と一緒に来たのは、彼女がそれを選んだからなのだ。

 それともこいつらは、一日二日で龍太よりも柚葉と仲良くなり、彼女のことを理解出来たとでも言うのだろうか。

「あっ! おい、やめろって!」

 男子が柚葉の腕をつかみ、無理矢理教室に連れ戻そうとしているのを見て、思わず龍太は叫んだ。

「嫌がってるだろ! 分からないのかよ!」

 龍太は立ち上がり、柚葉と男子の間に割って入ろうとした。

 ゴッ!

 その時、突然龍太は顔面を殴られた。

「あ……っ、ぐっ!」

 龍太は一瞬意識が遠のいて、下半身から力が抜けて倒れかかった。

「きゃあっ!」

 柚葉の悲鳴が中庭に響いた。

「い……っつ!」

 が、どうにか倒れるのだけは堪えることが出来た。

 柚葉が男子に掴まれている腕を振りほどこうと、ぶんぶんと振り回した。

「お兄ちゃん! 助けて! ――やめてよ! 離してよっ!」

「――あそこです!」

 柚葉の叫び声とほとんど同時に、和花の声も聞こえてきた。

 先生を二、三人連れ、こっちに走ってくる和花の姿を視界の端に見付けながら、龍太はふらつく足に力を入れて、どうにか柚葉を背後にかばったところで、意識が途絶えた。


   ***


 龍太が目を開くと、そこは白い部屋だった。

 天井も壁も、白が基調となっている。

「……ここは?」

 龍太は白いカーテンに囲まれたベッドで、白いシーツの掛け布団をかぶり、白い枕に頭を乗せて、横になっていた。

 まだ左頬が痛い。

 口の中を切ってしまったのか、微かに鉄の味がする。

「ほんと、あいつら……」

 龍太にしては珍しく、本当に腹が立った。

「あいつら、性欲が絡むとすぐに暴力振るって……ほんと、猿と一緒だよな……」

 カーテンの隙間から、隣のベッドが垣間見えた。

 すー、すー、という小さな寝息を立てて、柚葉が眠りに就いている。

 その瞬間、龍太は血の気が引くのを感じた。

 柚葉まで自分みたいに、誰かに殴られてしまったのかと思ったのだ。

 ただ、必死に記憶を探っても、そんな事は無いようだった。

 単に龍太について保健室まで来て、いつまでも目を覚まさない龍太を見ていたら眠くなったので隣のベッドに横になった――といったところだろう。

「ふぅ……」

 ほっとし過ぎて、力が抜けた。

 眠っている柚葉を、龍太は見詰めた。

 幼さがわずかに残るあどけない柚葉の寝顔に、思わず見入ってしまう。

 起きている時の柚葉は明るくて少し落ち着きがなくて、子供っぽい印象を与えるけれども、こうして寝入っている時の寝顔は、とにかく目鼻もすっと通って純粋に美しかった。

 思っていることが不意に龍太の口からこぼれ出た。

「普通、だよな……」

 眠っている柚葉を見詰めていると、彼女がサキュバスだからなのか、確かにこの子にキスをしたいとか体に触れたいとかいう思いも体の奥の奥にじわりと染み出してはくるけれども、それ以上に柚葉は普通の女の子だった。

 サキュバスとかそうじゃないとか、そういう事以前に、普通に一人の女の子だった。

「うん、普通の女の子だ。普通に可愛い女の子」

 柚葉の寝ているベッドの横に置いてあった丸椅子に座り、龍太は彼女の寝顔をずっと見詰めていた。

 午後の授業のチャイムが、二人の時間とは無関係に、大きくゆっくりと流れていた。


   ***


 この日の夜から、夕ご飯の時間に龍太は自室にこもることにした。

「龍太さん、大丈夫? 気分悪いの? 怪我がまだ痛む……?」

 真子はそう言って心配し、龍太の部屋の前まで来たのだが、龍太はあくまでご飯を別々に食べると言い張った。

「宿題とかたくさん溜まってて……ご飯はちゃんと食べるから、心配しないで?」

「そ、そう……?」

 ぱたぱたぱた……と真子の足音が遠ざかっていくのをドア越しに聞き、龍太はほっと息を吐いた。

 実はついさっきも危なかったのだ。

 学校から帰ると、和花はすぐに制服を脱ぎ始めたのだ。

 よりによって龍太の目の前で。

 本人はまるで気にしていないようだったが、またもや龍太は、和花の下着姿をめちゃくちゃエロい目で見てしまった。

 同じ屋根の下、いつどこで同じような危機が訪れないとも限らない。

 ここは、距離を取る一択だ、と龍太は思ったのだ。


 和花だけではない。

 柚葉の方が、もっと問題だ。

 あれだけ男性恐怖症の柚葉からは距離を取ろうと決めていたのに、今日の午後はずっと柚葉のベッドの隣にいてしまった。

 目を覚ました時、ものすごく怖かったんじゃないかと思う。

 寝ている間に、無防備な時に、龍太に何かされたかもと考えて怖がらせてしまったかも知れない。

 もちろん、龍太はそんな事はしないが、柚葉がどう思うのかが問題なのだ。


 家に帰って反省した龍太は、ご飯の時間もその後も、なるべく自室にいようと決めたのだった。


 その時、とんとんとん、と部屋のドアがノックされた。

「はーい」

 食事を持って来てくれたのであろう、真子に返事をする。

 とんとんとん、と再びドアがノックされた。

「はいはいはい」

 龍太は急いでドアのところまで行くと、がちゃっとドアを開けた。

 そこに立っていたのは、真子ではなく柚葉だった。

(え?)

 龍太は驚いて固まってしまった。

 すぐ目の前に、食事を乗せたトレーを手にした柚葉が立っていた。

 一メートルも離れていない。

 四十五センチ、かも知れない。

 淡いクリーム色のロング丈のTシャツに、ライトブラウンのチェック柄のプリーツスカートという、ラフだけどシックな色合いの可愛らしい服に身を包んで、柚葉が立っていた。

「な、何でここにいるの?」

「ご飯持って来たよ?」

 そう言うと柚葉は、自然に龍太の部屋に入ってきた。

「今日はビーフシチューだよ? ご馳走だよね!」

 そう言ってから、柚葉は、はっとなって龍太に聞いた。

「龍太お兄ちゃんは、シチューでご飯食べれる派? 食べれない派?」

「食べれる派。ラーメンでだってご飯食べれる派」

 そう答えてから、龍太はさっきと同じことを聞いた。

「何でここにいるの?」

「ご飯を持って来たから」

 明るい声でそう言うと、柚葉はトレーを机の上に置いた。

「え? ちょ、ちょっと」

 龍太は慌てた。

 今日だって柚葉は男子に怖い目に遭わされたのだ。

 龍太だってそんな男の一人なのだから、柚葉が安心出来るくらいの十分な距離を取っておかないと、決定的に嫌われてしまう気がする。

(やっぱ、そんな風になったらいやだし……)

 机の上に食事をおいた柚葉に、龍太は言った。

「ご飯持って来てくれてありがとう。じゃ、もう部屋を出ようか?」

「やだ」

「や、やだ? な、なんで?」

 予想外の答えに、龍太は慌てる。

 じい、と自分を見詰めている柚葉に、龍太はきっぱりと言った。

「最初に会った時、あんなに俺のこと怖がっていたじゃん! 家族になったからって、無理なんてしなくていいんだからね?」

 しかし柚葉は、龍太の言葉に耳を貸そうとはしなかった。

「いいから、早くご飯食べて! 折角お母さんが作ったのに、冷めちゃうじゃん!」

「あ、あぁ、まぁ……」

 一体いつになったら柚葉が出て行ってくれるのか分からなかったが、確かにそう言われればそうなので龍太はご飯を食べることにした。

 新しい母親が、手間暇かけて折角作ってくれたご飯だ。ちゃんと味わいたい。

「…………」

 椅子に座り、いざ食べようと思ったのだが、柚葉は何故かずっと龍太の横に立っていた。

 女の子に見られながら何かを食べるなんて、とにかくやりづらくて仕方無い。

 龍太は言った。

「ごめん、そこ……気になって食事に集中出来ないんだけど……」

 柚葉は、はっと気付いて言った。

「ごめん、お兄ちゃん。気が付かなかった!」

 そして柚葉は部屋の隅にあった、普段は踏み台代わりに使っている座面の丸い木製のスツールを持って来て、龍太の隣に座った。

「上から見下ろされてたら食べづらいもんね。横から見てるから、気にしないで」

 そうではない。そうではないのだが、これ以上あれこれ言ってもなかなか進まない気がしたので、取り敢えず柚葉の存在は頭の中から消して食事に集中することにした。

「い、いただきます」

「うん、第一関門クリア」

「え、何?」

 急に柚葉が変なことを言い出したので、龍太は思わず聞き返してしまった。

「――今日、思ったんだ。男子を怖がってるだけじゃなくて、ちゃんと言わなきゃいけないことは自分で言えるようになろうって」

 柚葉の言葉に、龍太は頷いた。

「……それは偉いと思うけど、だけど無理しないで。男子の事で何か怖い目に遭ったら、必ず俺が助けるから」

「うん、だけど決めたの」

 柚葉は、龍太の目を見詰めて言った。

「男子に少しずつでも馴れようって。先ずはお兄ちゃんに馴れたいなって。だからこうして近付いてみた。それが第一関門。大丈夫だった!」

 柚葉は嬉しそうにそう言うと、ぱちぱちぱちと小さく手をたたいた。思わず龍太も笑みをこぼしてしまう。

「お兄ちゃん、ご飯冷めちゃう。早く食べて! 美味しいから!」

「あ、うん」

 柚葉に促され、龍太はシチューをスプーンでひとすくいして、口に頬張る。

 ごろっと大きめの牛すね肉が、口の中でほろほろと崩れた。

「おひしひ」

 口いっぱいに肉を頬張って、龍太が言った。

「ふふっ」

 柚葉が微笑んで、更に体を近付けてきた。

 と言うか、ぴったり体をくっ付けてきた。

「え?」

 左腕に、何か慎ましくも柔らかい、何とも言えない感触が押し付けられる。

 女の子のいい匂いが、龍太の鼻の奥をくすぐった。

「……あ、あの……?」

 龍太は緊張の余り体を硬くした。特に体の一部がかなり固くなってしまう。

「なぁに?」

 柚葉の声が、耳元で小さく囁いた。

 柚葉の吐く息が、龍太の耳をくすぐる。

 龍太は思わずぶるっと震えて、真っ赤になって柚葉に言った。

「あの……ち、近過ぎない?」

「――第二関門」

 柚葉がくすくすと笑いながら、龍太の耳に囁く。

「え? こ、この、体をくっ付けるのが?」

「ん」

 柚葉がおかしそうに笑った。

「これが第二関門。――第二関門も、クリアしちゃった!」

「あ、う、うん……」

 龍太は、自分の顔がますます赤くなっていくのが分かった。

「次は、第三関門」

「第三関門って……何するの?」

 もうそれが気になって、龍太は半分以上食事どころではなくなっていた。

「えー? ……内緒」

 柚葉がふふっと笑う。

「……そんな事より、ご飯早く食べて。冷めちゃう」

「わ、分かったけど……」

 龍太は手元をぎくしゃくさせながら、もう一度、シチューをすくった。

 隣から女の子に見詰められている緊張感から、当然のように龍太は口元がおぼつかなくなってしまう。

「んっ」

 シチューが口の端から少し垂れ落ちてしまった。

「あっ」

 柚葉が小さく声を上げる。

「え?」

 その時不意に、龍太の脳裏に昨日の朝の様子が浮かんできた。

 和花と柚葉が、口元を舐め合う風景が。

「え? だ、第三関門って、まさか?」

「ばれた」

 柚葉がうなずいた。

「お姉ちゃんといつもしているように、ご飯の時、お兄ちゃんのお口の周りが汚れちゃったらゆずがお口でお掃除をしてあげるのが第三関門!」

 何故か柚葉が嬉しそうに言った。龍太は慌てて自分で口元を拭った。

「きゅ、急にハードル高くない?」

 龍太の当然過ぎる問いに、柚葉が可愛く頭を傾けて答える。

「そうかなぁ? だって私たち、兄妹だよ? お口でお掃除するの、普通じゃない?」

「ち、違うと思う……」

 柚葉は何故か食い下がった。

「でも! ゆずとお姉ちゃんはずっとそうしてきたし、お兄ちゃんもお姉ちゃんも全然一緒で変わらないと思う! 出来ると思う!」

 そんな柚葉の主張に龍太は一瞬考え込んだが、しかしきっぱりと断言した。

「いや、でも、全然違うと思う」

「え~~~?」

 柚葉は不満を述べたが、龍太は断固として言った。

「だめ」

 そして龍太は、(彼は正しくそうなのだが)女の子に馴れていない童貞っぽい早口で、柚葉に更に言った。

「あの、男の人に馴れるって言っても、そんな無理することはないよ! だってそんな、急に男の人に近付いたりしたら怖いでしょ? そんな事、急いでしなくていいと思う! 柚葉に好きな人が出来て、その人を心の底から信頼できて、自分のこと絶対に傷付けないって、守ってくれるって、本当の本当に覚えたら、その人とだけ、距離を縮めていけばいいと思うよ? ゆっくり距離を縮めていって、最後にそういう事をすればいいと思うよ! 他の人は関係無い。その、柚葉が好きになった人だけ、その人とだけ距離を縮められればいいんだから、だから、その前に俺なんかで練習しなくたっていいんじゃないかな、って、俺は思うんだけど……柚葉は、その、どう思う……?」

 最後の方は何となく、柚葉がどう思っているかも構わず自分の考えだけをばーっと話し過ぎてしまったという反省が急に意識に浮かび上がってきて、龍太は少し柚葉の表情を伺うような物言いになってしまった。

 龍太が柚葉を顔を見ると、彼女は少しだけ不機嫌そうな顔をしてぽつりと言った。

「……だからだよ」

「?」

 龍太は戸惑って柚葉に聞いた。

「どういうこと?」

 しかし柚葉は龍太の質問には答えず、一言言った。

「――分からないならいい……」

 しばらく二人の間に気まずい沈黙が流れた。

 今日、クラスの陽キャ男子に殴られた跡が、ずきずきと痛んできた。

 新しい母親が作ってくれたシチューが段々と冷めていって、シチューの上に薄い膜のようなものが出来ていった。

 しばらくして柚葉が、消え入りそうな声で聞いた。

「龍太お兄ちゃんは、そんなにゆずのこと嫌い?」

「き、嫌いなわけないじゃん!」

「……お姉ちゃんには、指をなめてもらったのに。お姉ちゃんとだったらいいんだ」

「あ、あれは事故みたいなもんだし、それに柚葉とそういうことしないのは、柚葉が嫌いとかそういうんじゃなくて、柚葉の気持ちが一番大事だからだよ!」

 龍太は龍太なりに懸命に訴えたのだが、それでも柚葉は不満げな視線を龍太に向けるだけだった。

「……柚葉が無理することなんて、無いんだから」

 龍太の言葉に、柚葉がぽつりと呟いた。

「龍太お兄ちゃんも無理なの? 私にお口掃除されるの、気持ち悪い?」

「いやいやいや! そんなことあるわけないって!」

「龍太お兄ちゃんと、お口のお掃除の練習、したいな……」

 柚葉はそう言うと、可愛い顔を近付け、じっと龍太の目を見詰めてきた。

(ち、近い、近い……っ)

 柚葉は目もぱっちりと大きくて、そのせいで少し表情が子供っぽく見えてしまうことも多かった。だけどこうして小さな口をきゅっと結んでじっと黙っていると、柚葉はやはりきれいな女の子で、ものすごく魅力的な少女だった。

 龍太は、柚葉の小さく柔らかそうな淡い桜色の唇を見詰める。

 柚葉はこの口で、龍太の口や舌を舐めて掃除をしようというのだ。

 その時、柚葉の唇が小さく動き、声にならない声で言った。

(お兄ちゃん)

 真っ赤になった龍太は慌てて目をそらした。

 柚葉の唇から視線を外して龍太がふと下を見ると、柚葉の細い体の背後から黒い何かがちらちらと視界に入ってきた。

(え?)

 それは、柚葉のしっぽだった。

 男を惑わせるフェロモンを放っていると言われる、サキュバスのしっぽだ。

 柚葉のお尻から生えている漆黒のしっぽが、丈の短めなライトブラウンのプリーツスカートをめくり上げ、蛇使いが操る蛇のように、ゆらゆらとその体を揺らしていた。

 しっぽがめくり上げたスカートの下からは、真っ白な柚葉の太ももも露わになってしまっている。

 柚葉の白い肌に目を奪われながら、からからに乾いてきた喉を震わせて、龍太は言った。

「し、しっぽ、しまってくれないかな?」

 龍太のお願いに、柚葉はきっぱりと言った。

「やだ」

「な、なんで?」

 どうして柚葉はそんな意地悪を言うのか? 戸惑いながら龍太がそう聞くと、柚葉が答えた。

「ゆすのしっぽが出てても、お兄ちゃんなら平気でしょ? だって、お兄ちゃんはしっぽなんかに惑わされないで、わたし達にエッチなことなんて絶対しない、わたし達のこと、ずっと守ってくれるって約束したんだから」

「あ、うん。そ、そうだよな。俺、約束したよな……」

 そんな決意とは裏腹に、女の子のとてもいい匂いがする柚葉に、龍太は軽く酔ったような気持ちになっていた。

 それがサキュバスのフェロモンなのかどうかは分からない。

 龍太は、もう一度柚葉の目を見た。

 可愛い。

 柚葉がめちゃめちゃ可愛い。

 今、龍太の目の前にいるこの女の子が、世界で一番可愛いと龍太は思う。

 そして、こんなに真っ直ぐに男子に馴れようとしている可愛くて健気な彼女の頼みを、無下に断ってしまうのは良くないのではないか、という強い最悪感に、龍太は襲われた。

「……ほ、ほんとにする?」

 龍太が恐る恐る聞いた。

 龍太がいざその気になったら急に柚葉が引いてしまって、逆に断られてしまうのではないかと急に怖くなったが、それでも勇気を出して龍太は聞いた。

 龍太の言葉を聞いた柚葉のぱっちりとした目が、ゆっくりと嬉しそうに細くなって、とびきりの笑顔を見せてきた。

「する。お掃除する」

 柚葉の小さな唇が、そう囁いた。

 少し開いた柚葉の口の奥に、可愛らしい舌がちらっと見えた。

 龍太の視界の端で、柚葉の黒いしっぽがゆっくりと揺れていた。

「……じゃ、じゃあ、しようか……」

 そう言いながらもなかなか一歩が踏み出せない龍太に、柚葉が言った。

「――平気だよ? お口をなめてお掃除し合うなんて、兄妹なら全然何でもないんだから。ゆずはいつもお姉ちゃんとしてるし、全然馴れてるし、龍太お兄ちゃんだって何でもないと思うよ?」

 柚葉がそんなことを言う間、龍太は彼女の小さな口をじっと見詰めていた。

 小さな口の奥で、柚葉が言葉を発するたび、彼女の可愛らしいピンクの舌がちらちらと動いている。

 柚葉の小さな舌は薄いピンク色をして、唾液にきらきらと輝いて、まるで何か別の生き物のようだった。

 和花も柚葉も白い透き通るような肌をしているし、ひょっとしたら二人は色素が薄いのかも知れない。和花の舌もこんなきれいなピンク色をしているのかも知れない、などと龍太は思った。

 柚葉はそっと目をつぶり、小さな口をわずかに開けて、その唇の隙間から唾液に濡れたピンク色の舌をほんの少し、龍太の方に突き出してきた。

 今までの人生で一度も見たことのない、可愛い女の子のそんな仕草に、龍太は頭が真っ白になりながら、ぎゅっと目をつぶり自分も舌を突き出して、柚葉の顔へと自分の顔を近付けていった。

(あ…っ!)

 奇跡的な確率で、目標を誤ることなく、龍太の舌先が柚葉の小さい舌の先にぺとっ、と触れた。

 その瞬間、龍太の頭の中が真っ白に焼けて、心臓がどきどきと激しい鼓動を打ち始める。

 柚葉の舌がどんな味かなんて、まるで感じられない。

 ただ、柚葉の小さな鼻から漏れる熱い息が龍太の鼻先に触れて、それがすごくくすぐったかった。

「――んん……っ」

 舌を少しだけ突き出したままずっと固まっている龍太にしびれを切らしたのか、小さい声を漏らした柚葉が、可愛らしい舌を更に突き出して龍太の舌に絡めてきた。

 唾液に濡れた女の子の小さい舌が、龍太の舌の根元にぬるりと潜り込んで、龍太の舌を左右にくすぐる。

「んぁっ?」

 龍太が驚いて思わず少しだけ口を開けると、柚葉は小さな唇をぐいっと龍太の唇に押し付けてきた。

「へ? ふぁ?」

「んっ、んぅ……」

 柚葉と龍太の二人は、今はもう軽く開いた口をお互いに押し付け合って、お互いの唾液に濡れた舌を先から根元の方までぴったりくっ付けて、ぬるぬると不規則な円を描くように舌を絡め合っていた。

(ちょ、ちょ、ちょっと……)

「んっ、んっ、んんっ」

 ぎこちなく動く龍太の舌を追い掛けるように、柚葉の小さなピンク色の舌が絡み付きなめ回して龍太の舌をくすぐった。

(なに、これ……)

 女の子と舌を絡め合うのがこんなにもくすぐったくてこんなにも気持ちいいっていうことを知らなかった龍太は、自分でもずっと息を止めていたことに気付かなかったくらい、柚葉の舌の動きに夢中になっていた。

 柚葉の舌が、気持ちいい。

「ぷはっ! はぁ、はぁ、はぁ……っ」

 龍太はようやく息をついて、名残惜しそうに柚葉から顔を離した。

「ゆずは……?」

「ん……」

 見ると柚葉も、龍太に負けないくらい顔を真っ赤にしていた。

 龍太の視線を避けるように、柚葉はそっと目を伏せ、唾液にてらてらと濡れた唇をきゅっとつぐんだ。

(――柚葉って、こんなにまつげ長いんだ……)

 柚葉の様子を見ていた龍太は、そんな事をふと思った。

 その時不意に、柚葉が顔を上げて龍太を見詰めて、甘えるような声で言った。

「龍太お兄ちゃん……」

 そして次の瞬間、柚葉は両手で龍太のシャツの胸元をぎゅっとつかみ、自分の方へ激しく引き寄せた。

「わっ?」

 柚葉がまた、龍太の唇に自分の唇を押し付けてきた。

「ん……っ」

 柚葉が龍太を受け入れるように、小さな口を開いた。

(柚葉……可愛い……世界で一番、可愛い……!)

 ちゅぷ……と小さな水音を立てて、龍太は自分の舌を柚葉の温かい口の中に差し込んでいった。

「ん、ん……っ」

 自分の口の中に受け入れた龍太の舌に、柚葉は自分の舌を絡めていく。

 静かな部屋の中に、ちゅ、ちゅぷっ、ちゅうっ、という小さな水音と、その合間に二人の兄妹の少し苦しそうな息づかいの音だけがしていた。

(柚葉……っ)

「んんっ、ん……っ」

 舌を絡め合う二人の口の端から唾液が一筋あふれ出て、柚葉の可愛らしいあごに流れていった。

 二人はそれには全然構わずに、ずっと舌を絡め続けた。

 柚葉の小さな可愛らしい鼻から、ふーふーと熱い息が漏れている。

 柚葉の小さな舌が、龍太の舌を根元から先までぬるぬるとなめ回した。

「んっ、ん、ん……っ」

 ちゅう、ちゅっ、ちゅぷっ、ちゅぱっ。

 柚葉の舌が、一生懸命龍太の舌に絡み付いてくる。

(ゆ、柚葉……)

 龍太の舌も、ぎこちなく柚葉の舌を舐め上げた。

 すると柚葉の小さな舌は龍太の舌を受け入れ、龍太の舌に舐められるままに身を任せ、それから龍太の舌の動きに合わせてその身をこすり付け合った。

 しばらくの間、二人の口元からこぼれる、ちゅぷっ、ちゅう、という水音が部屋の中に小さく鳴っていた。

「……ぷぁ、はっ、はぁ、お、にいちゃん……りゅうたお兄ちゃん……」

 柚葉は唇を龍太の口元に押し付けたまま、熱い息の合間に囁くように言った。

「ぎゅってして……それから、それから……ゆずのしっぽをさわりながら、ちゅーして……」

 そう言うと柚葉は、おもむろにスツールから腰を上げて龍太の膝の上に乗ってきた。

(え? あ? ちょ……)

 戸惑う龍太に構わず、熱い息を押し殺しながら、柚葉は脚を広げて龍太の膝の上に座った。

 龍太は、顔を真っ赤にしながら言った。

「――で、でも、しっぽってすごい敏感なんでしょ? さ、触られたらすごい痛いって言ってたよね……?」

「ん」

 柚葉が小さくうなずく。

「……そんなところ触るの、ちょ、ちょっと怖いよ……」

 怖じ気づいたことを龍太が言うと、柚葉も言った。

「ゆずも……ちょっと怖いかも……」

 柚葉は続けて言った。

「――ゆず、しっぽを触っていいのはお姉ちゃんだけ。お姉ちゃんだったらゆずのしっぽの痛いのとか気持ちいいのとか、全部分かってくれてるから……。だけどお兄ちゃんにはしっぽがないもんね。分からないもんね。……だけどゆず、本当にお兄ちゃんに馴れるためには、しっぽを触ってもらわないとだめだって思う……怖いけど、だけど、お兄ちゃんにしっぽ触ってほしい……しっぽ触りながら、ちゅーしてほしい……」

 熱を帯び、汗に湿った細い体をぎゅっと密着させ、細い腕を龍太の背中に回してきて、柚葉は下腹部も龍太のそれに押し付けたので、龍太は柚葉の柔らかい下腹部を感じて、もうだめになってしまいそうだった。

「お兄ちゃん……さわって? ゆずのしっぽ……さわって……?」

 五センチと離れていないすぐ目の前に、甘えたような目をした柚葉の、めちゃめちゃ可愛らしい顔があった。

 とろけるような顔で、だけど真剣にお願いしてくる柚葉に応えてあげたい、と龍太は思ったけれど、そうは言ってもフェロモンが出ているというしっぽを触ってしまったら、自分がどうなってしまうのか龍太は分からなかったし、おかしくなった自分を想像したくもなかった。

(ど、どど、どうしよう……)

 だけど、男の人に馴れるためにと勇気を振りしぼっている妹の柚葉を、ここで突き放すわけにはいかないとも思う。

(え……あ……でも……でも……っ)

 そう思いつつ、龍太はこわごわと柚葉のプリーツスカートの下に手を滑り込ませ、触れるか触れないかの感じで、柚葉の細い太ももを撫で上げていった。

 柚葉の肌は、ものすごくすべすべとして、赤ちゃんみたいだった。

(――妹にこんなことして、これでもう、嫌われるかも知れない。一生口をきいてくれないかも知れない……)

「ん……」

 しかし柚葉の小さな鼻から漏れる吐息には、嫌がる声色は感じられなかった。

(ゆ、柚葉……)

 龍太は、そのまま手を彼女のお尻の方に回していった。

 薄い生地のパンツはしっぽのせいで半分くらい下ろされていて、柚葉の小ぶりだけど張りのあるお尻があらわになっていた。

 龍太は両手の指を広げ、柚葉の小さなお尻を包み込むように撫でていった。

「あ……、お、にいちゃん……」

「……へ、平気? こわくない……?」

 龍太は、間近にある柚葉の目を覗き込んだ。

「……んあ?」

 柚葉は、とろんとした瞳を細めて、可愛らしい笑みを浮かべる。

(柚葉……)

 龍太は柚葉のお尻を撫で上げながら、十本の指で彼女のしっぽの付け根をなぞっていった。

「ふぁ……っ」

 龍太の目の前で、柚葉が甘い声をあげる。

「――痛かったらすぐに言って? すぐにやめるから……」

 龍太の言葉に、真っ赤になった柚葉が俯いてこくりとうなずく。

 龍太は両手で優しく、柚葉のしっぽをそっと包むように手に取った。

 艶やかな黒いしっぽは、ヘビのうろこのようにつるりとした手触りで、うっすらと汗がにじんでいるのか、少しひんやりとしていた。

 龍太は、赤ちゃんの腕くらいの太さの柚葉のしっぽを、両手で柔らかく包み込むように握ると、付け根のところからしっぽの頭に向けて、するるるるっと撫で上げていった。

「――ふぁ…っ」

 びくん、と背を軽く反らして、柚葉が小さな声をあげた。

「ご、ごめん、痛かった?」

 柚葉の声に驚いて龍太が聞くと、柚葉はぎゅっ、と龍太に抱き付いたまま、頭を龍太の肩にこすり付けるようにして、首を何度も横に振った。

「な、なに? どうしたの……?」

 龍太は戸惑って、柚葉の顔を覗き込んだ。

 柚葉が顔を上げると、頬を真っ赤に染めて目は少しとろけるように、ぼぉっとしていた。

「……そうじゃなくて……そうじゃなくて……」

 柚葉が、小さな声で呟いている。

「お、男の人の、おっきくてすこしざらっとした手で……こんなにやさしくさわられるの……こんなに……すごく、すごく……」

「……なに?」

 どきどきしながら龍太が柚葉の言葉の先を促すと、柚葉はまた頭をふるふると横に振った。

「……い、いいたくない……はずかしすぎ……いいたくないの……」

「……言いたくないの?」

 龍太は柚葉の耳元でそう囁くと、もう一度柚葉のしっぽを根元から頭の方までやさしく撫で上げた。

「――んっ、ふぁあぁ……っ」

 柚葉が再び甘い声をあげる。

 龍太は構わず、右手の指を広げて柚葉のしっぽの頭を包み込み、ぐるぐると円を描くように撫でまわした。

 そして左手の指で、しっぽの頭の首のところを軽く引っかくように刺激する。

「――やっ、やあ……っ、おにい、ちゃんっ……やだぁ」

「……これされるの、いや? もう、やめる……?」

 龍太が少し意地悪をしてそう聞くと、柚葉は突然顔を上げて龍太の口に自分の可愛い小さい口を押し付けてきた。

(――えっ)

「――んっ、んん……」

 柚葉の小さな舌が、龍太の口の中にぬるりと入ってきた。

(ゆず、は……)

「んっ、んっ、んっ」

 母猫の乳を夢中で吸う仔猫のように、柚葉は龍太の舌を懸命に吸った。

(ゆ、柚葉、柚葉、柚葉……っ)

 龍太も舌先から根元まで、自分の舌の全部を柚葉の可愛らしい小さな舌に押し付けた。

 粘度の高くなった二人の唾液にまみれた舌を前後左右にお互いの口の中から出し入れして、二人の兄妹はお互いの舌をこすり付けあった。

 ちゅっ、ちゅぷっ、ぢゅぷっ……。

 口の中に溜まっていた唾液が、ねばっこい水音を鳴らした。

「おにい……ちゃん」

 柚葉が、その白くて細い腕を龍太の背中に回して、ぎゅっと懸命に抱き付いている。

 お互いの体が密着して、柚葉の柔らかい下腹部が龍太の下腹部に押し付けられた。

(……あ、あ、うあ……)

 女の子の体の柔らかい感触が伝わって、龍太の腰の奥がじんじんとしびれてきた。

(……もう……もう……)

 龍太は夢中になって、柚葉の舌に自分の舌を絡ませながら、彼女の背中に回した両手で優しく、ちょっとだけ力を込めて彼女のしっぽを撫で上げ、その先を両手で包むように撫で回し、そして撫で下ろした。

 それから龍太は壊れやすいものを扱うように、両手でしっぽを優しく包み込むと、柚葉のしっぽを上下に撫で回した。

「ふぁ……っ、あっ、あっ、あっ、あっ」

 柚葉が切なそうな甘い声を上げる。

 龍太の両手の動きに合わせて、柚葉はびくっと軽く背中を反らせ、口から熱い息を規則的に漏らしていた。

「――ゆ、柚葉っ、柚葉……っ」

「りゅうたおにいちゃん……りゅう、たぁ」

 うわごとのように龍太が耳元で漏らした自分の名前に、柚葉がとろけるような瞳でぼんやりと見返した時、突然龍太の部屋のドアがノックされた。


 トントントン。

「「――っ!」」


 そしてノックと同時に、ドアの向こうから和花の声が聞こえてきた。

「龍太お兄ちゃん、柚葉、いる?」

 そして間髪入れず、再び和花の声が聞こえてきた。

「入るね?」

 その言葉と共に、ドアががちゃっ、と開けられる。

「………」

 龍太の部屋の入り口に現れたのは、当然、和花だった。

 部屋の入り口に立ったままの和花は、じっと黙って部屋の中を見回した。

 龍太は、自分の机に向かってじっと座っていた。机の上には食べかけの晩ご飯がトレーに乗って置いてある。

 柚葉は龍太のベッドの上に腰を下ろし、両脚を床に伸ばしている。

 和花から顔を背け、俯いてスマホをいじっていた。

 短めのプリーツスカートの裾からは、くったりと力の抜けたしっぽが、どこか不機嫌そうにぺたぺたとベッドのシーツを叩いていた。

 和花は、何故か何も言わず、じっと部屋の中を眺めている。

「――お、お姉ちゃん、どうしたの?」

 沈黙に耐えられなくなった柚葉が、姉から目をそらしながら聞いた。

 和花は、そんな柚葉を見て、少し怪訝そうな顔をして聞いた。

「柚葉、顔、赤くない?」

「ん、そんなこと、ないよ?」

 柚葉は答えた。それから和花が言った。

「それにちょっと部屋の中、湿っぽくない?」

 龍太の体が、びくっと小さく跳ねた。

 和花が、すんすん、と鼻を鳴らした。

(や、止めて……)

 龍太の願いも虚しく、和花は感じたことをそのまま言った。

「……二人の汗の匂いがする……」

 和花の言葉に、柚葉はふいっと目をそらし、龍太も固まってしまった。

「ふーん……」

 和花はそんな二人の様子をしばらく見ていたが、不意に龍太に声を掛けた。

「柚葉がご飯持ってきたよね? 龍太お兄ちゃん、ご飯食べ終わった?」

 急に話し掛けられ、龍太は少し慌てて答えた。

「ま、まだ途中、かな……」

「ふぅん……龍太お兄ちゃんって、時間を掛けてゆっくり食べる人?」

「あー、うん、そう、……いや、違うけど、今日はちょっと胸が一杯になって食べるのがおろそかになっちゃった、ような……」

「えー? なにそれ?」

 和花は可笑しそうに笑うと、はっと気付いて言った。

「もしかして、柚葉がお兄ちゃん食べるの邪魔しちゃった? 柚葉、自分からご飯をお兄ちゃんの部屋に持っていく、なんて言ってたし、絶対龍太お兄ちゃんにちょっかい出したなって思ってたんだよね」

 そんな和花の言葉に、柚葉が思わず顔を上げた。

「だから、ちょっと偵察に来たんだ」

 和花の言葉に、何かを言おうと柚葉が口を開けるより早く、龍太が言った。

「いや、柚葉はそんなことしてないよ!」

 龍太の少し強めの口調に、和花が驚いた顔をした。

「柚葉は、俺の邪魔なんかしない。柚葉とは、話をしたり、その、なんか色々したけど、それだって邪魔をしたわけじゃなくて、男子に馴れようと思ってしたことで……。柚葉は最初俺と会った時、あんなに男の人が苦手そうにしてたのに、ちゃんと俺と向き合ってくれて、これから一緒に暮らすからって柚葉の方から話し掛けてくれて、そんなところもすごく前向きな女の子で……、俺なんか単純に部屋にこもろうとしてたのに、柚葉は違くて……柚葉のそんな前向きなところ、俺、えらいなって、俺もそうならなきゃって思ってる……」

 一気にまくし立てるようにそう言うと、龍太は気恥ずかしさにうつむいてしまった。

 少しの沈黙の後、最初に口を開いたのは和花だった。

「……そうか、柚葉、ごめんね、変なこと言って。柚葉は龍太お兄ちゃんの邪魔とかしてなかったんだね」

 柚葉は、瞳を大きく開きながら答えた。

「うんっ、邪魔とかしてない! ちょっと……れ、練習とか、してただけ……」

「? 練習……?」

 練習というワードを自分で言っておきながら、何故か恥ずかしそうに赤くなってうつむく妹の顔を、和花は怪訝そうにしばらく見詰めていた。

 そんな和花に、龍太が言った

「わ、和花、じゃあ、夕飯を食べ終わったら食器は自分で持って行くから。洗うのも自分でやるから、気にしないでいいよ」

「あ、うん」

 そして和花は、柚葉に向かって言った。

「さ、お風呂入っちゃおう? お母さんが早く入れって言ってたよ?」

「分かった」

 和花の言葉に、柚葉はこくりとうなずいた。

 和花が部屋を出て行くのに続いて柚葉がドアノブに手を掛ける。

 何故だかほっと息をついた龍太を振り返り、柚葉がにこっと笑って言った。

「龍太お兄ちゃん、明日、練習の成果、見せてね?」

「……え?」

「ゆず、明日の朝、トースト食べる時にバターで口の周りべたべたにするから、絶対お兄ちゃんがお掃除して?」

 柚葉は、可愛らしく首をかしげて見せた。

「いい?」

「え、そんな、わざと汚すことなくない?」

「だって、そこまでやって第三関門クリアだから」

「ハードル高っ! ――っていうか、その第何関門って、一体いくつまであるの? もう大分ゴールも近付いてきているような気がするんだけど」

 すると柚葉は、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「えっとねぇ、――第三十関門」

「何それ! い、一体最終関門では何をやらされるのさ!」

 第三関門だけでも相当なことになってしまっていたと感じていた龍太は、思わず声を上げた。

「それはもちろん、およめさ――…」

 と、柚葉は途中まで言い掛け、なぜか真っ赤になって口をつぐんだ。

「べ、別に何だっていいじゃん! 龍太お兄ちゃんには関係ないんだから!」

「い、いや、関係大ありだと思うんだけど……」

 そう言って立ち尽くす龍太に、ドアのところで振り返って柚葉は言った。

「いいからお兄ちゃんは早くご飯食べて! ゆずと和花お姉ちゃんはお風呂入るけど、龍太お兄ちゃんは入ってきちゃだめだよ?」

「はぁ?」

 龍太は赤くなって言った。

「そ、そんな事するわけないだろ!」

 そんな龍太に、柚葉は言った。

「うん、まだしちゃだめだよ? ――『ゆずと一緒にお風呂に入る』は、まだちょっと先――第十五関門なんだから!」

「え?」

「ゆずと龍太お兄ちゃんは兄妹なんだから、お風呂一緒に入るのなんて、別に普通だもんね!」

 そう言うと、柚葉はいたずらっぽい笑顔で龍太を見詰めた。彼女の柔らかいショートヘアが、ふわりと揺れる。

「いやいやいや、普通じゃないと思う!」

「ゆず、龍太お兄ちゃんのこと信じてるから! 妹と一緒にお風呂入っても、お兄ちゃんはエッチな気分とかにはならないもんね!」

「あ、あ、当たり前だろ! なるわけないって!」

 龍太が顔を真っ赤にしてそう言うのを見て、なぜか柚葉も顔を赤くしてくすぐったそうに笑った。

「じゃあ、一緒にお風呂入っても平気だね!」

「ぐぅ……」

 黙り込んでしまった龍太に、柚葉が言った。

「またね、龍太お兄ちゃん。明日の朝、楽しみだね!」

 そう言うと柚葉はくるりと身を翻した。

 柚葉のお尻からはサキュバスの黒いしっぽが嬉しそうにぴん、と立っていて、彼女のチェックのプリーツスカートをめくり上げていた。

 しっぽのせいで、柚葉のはいているパステルイエローのパンツが少し下の方に下がってしまっていて、彼女の少し細身だけど女の子っぽい丸みを帯びた白いお尻がちょっとだけ見えていた。

 龍太の目の前で、ドアがぱたん、と閉じられる。

(……ふぅ……)

 今日は、学校に行く前からずっと何から何まで刺激的で、一生分のどきどきを体験したような、そんな気に龍太はなっていた。

 その中でも、たった今経験した「柚葉とのお口のお掃除の練習」は特に刺激的だった。

 いや、刺激的というか……。

(だ、だ、だ、だめだろ!)

 あれは普通に、キスだったと思う。

 つまり龍太にとって、人生初めてのキスだった。

 妹のことをそういう目では見ないって、固く誓ったはずなのに。

 龍太は、生まれて初めてのキスに夢中になってしまっていた。しかも、一度柚葉とのキスを始めてしまったら、まるで歯止めが効かなくなって、彼女の小さな口の中に自分の舌を何度も出し入れしてしまった。

「ああぁあぁあああぁ~~~~~~~~っ!」

 龍太は部屋の中で一人、頭を抱えてうずくまってしまった。

「最低! 最低! 最低! 最低!」

 そしてそのまま、ごろごろと床の上を転げ回る。

 ゴッ! と鈍い音を立てて、龍太は机の脚に頭をぶつけた。

「~~~~~~~~~~~っ!」

 しばらく龍太は、激しい痛みに身悶えしていたが、その痛みが段々と引いていく中、己を反省する冷静さを取り戻していった。

「明日から!」

 龍太は改めて決意した。

「明日からは、絶対に柚葉のことも和花のこともいやらしい目で見ない! べたべた触ったりしないし、ましてやキスなんてしない!」

 龍太は、ぎゅっと握りこぶしを握り締め、決意を口にした。

 口に出した言葉は言霊となって、龍太の決意がまるで揺るぎない大きな巌のように感じられた。

「絶対に!」

 龍太は念のため、もう一度そうはっきりと言った。




























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