第9話 カッシーニ伯爵家の事情
「いなくなっただと……っ!」
現カッシーニ伯爵であるリナルド・デ・カッシーニ様が、手にしていたナイフとフォークを床に落とした。
ガシャーンという音が、部屋の中に響く。
カッシーニ伯爵夫人、ロロナ様は、そのまま気絶した。
使用人が慌てて、夫人を支える。
夫人の様子に気が付く余裕もないのか、カッシーニ伯爵は絶望の面持ちで、震えている。
仕方がない。わたしが「夫人をお部屋へ」と、使用人に短く指示を出した。
ふう……と、ため息を吐いて、わたしはカッシーニ伯爵に向きなおる。
「はい、昨夜……。ジュリオ様がわたしの寝室に現れまして。そのときわたしに向かって言ったのです。『キアラ・ディ・コズウェイ! 俺がお前を愛することはないっ! この俺の心はステファニアだけのものだっ‼』と……」
まあ、嘘は言っていない。そう言われたのは事実。
「ステファニア……⁉ あのメイドは、解雇したはずだが……」
あら? そうだったの?
ちなみにラグにゃんとロッシーは、早めの夕ご飯を食べた後、わたしの部屋で、もう寝ている。
わたしはなにも言わないまま、じっとカッシーニ伯爵を見る。
「……申し訳ない、キアラ嬢……。我が家の借金や、それをコズウェイ子爵が肩代わりしてくれたこと……。それらをすべてきちんとジュリオには説明して、キアラ嬢を妻として大切にせよと言いきかせたつもりだったのだが……」
「ジュリオ様は、聞き入れなかったということですね」
「すまない……」
カッシーニ伯爵は、項垂れた。
そもそもの、カッシーニ伯爵家の莫大な借金。
それは、このカッシーニ伯爵のせいではない。
ま、わたしも、お父様によってこのカッシーニ伯爵家に売られる……もとい、嫁がされるときに、ざっくりと説明されたことしか知らないんだけど。
まず、先代のカッシーニ伯爵の名前はテレンス様。
わたしの目の前で、今、項垂れているこの現カッシーニ伯爵であるリナルド様のお兄さんね。
このテレンス様は、すごい発明をして、それを作るための工場を、このカッシーニ伯爵家の敷地内に作って、工場で働く人たちの宿舎も作って、その工員もたくさん雇って、その発明品を作りまくって……で、運悪く、事故死した。
その発明品なんだけど、まずテレンス様は、見本の品をいくつも作って、それをたくさんの人に見せてみた。
で、その見本品が大人気!
ウチに欲しい、こっちにも売ってくれと、言われて。
代金先払いをしてもらっての販売契約を結んだんだって。
お金支払ってもらった順に、でき次第お渡しいたします。
で、買いたい人、続出で、工場はフル稼働。
どんどん作れ、売れ売れ、ゴーゴーって。
実際、早期に買った人とかの評判も良かったみたい。
こんな製品、今までなかった。
これは産業革命だっ!
みたいに。
でも、そんなときに、テレンス様はお亡くなりになってしまった。
だけど、製品は作れるから、工員の皆様は、当初の予定通り、ガンガン作っていたのよね。
でも……。
テレンス様がお亡くなりになってから、しばらく経つと。
見本品や、最初に売った製品は、次第に動かなくなっていった。
同じように作っているはずなのに、テレンス様の死後に作った製品は、最初から全く動かない。
どういうことだと思っているうちに、最初に買った人たちからクレームが入った。
動かないから、動くものと交換しろって。
だけど、そのことにはもう、動くものはなかったのよね。
で、返品するから金返せっ! という流れになって……。
もう、このあたりからは、現カッシーニ伯爵であるリナルド様の受難の物語開幕って感じ。
毎日クレームに対応して。
返金して。
その製品を作った本人は死んでいるからどうしようもないけど、爵位を継いだリナルド様が、クレーム対応窓口にならざるを得なくて。
わけがわからなまま、あたふたと、あっちに謝り、こっちに謝りで。
はっと気がつけば、工員たちは、当初の指示通り、動きもしない製品をどんどん作っているし。製品を作れば材料費とかもかかってくるし。作っている工員の給料だって発生している。
慌てて工場をストップして、工員たちも解雇したけど。
そうしたら、解雇された工員たちからも大クレーム。
給料を払え、退職金と解約金も支払えって。
次から次へと起こる悪夢。
兄が死んだ悲しみに浸っている暇もない。
家の中のモノを、売れるだけ売っても、使用人たちも最低限だけ残して、他の者は解雇しても、焼け石に水。
死んだ兄を呪いながら、一家全員で首をくくるしかあるまいか……って、ところまで追い詰められていたらしい。
あ、ちなみに、その死んだテレンス様には妻も子もいたんだけど。
妻は勝手に死後離縁して、実家に逃げた。
一人息子であるアスラン様は、わたしよりも年下らしい。何歳なのかは知らないけど。
えっと、わたしが十七歳で……、それよりも下で……、爵位を継げなかったことを考えると、十五歳にもなっていないはず。
と、すると、日本人の感覚としては、父親が亡くなったと思ったら、小学生か中学生の子どもを置いて、死後離婚した母親が、一人で実家に帰っちゃった……っていう感じか。うわあ……。
で、そのアスラン様。
なにもわからないまま、放置されて……。
で、一応、このカッシーニ伯爵家で保護は、しているらしい。
一応、保護は。
でも、工場のほうか、雇っていた工員たちの宿舎で適当に暮らせって、放置状態。
一日二回の食事とか、部屋の掃除とか、使用人が面倒は見ているらしいけど……。
うーん、小中学生の子どもを、そんなふうに放置は……駄目だろう。
そうわたしが思っても、リナルド現カッシーニ伯爵の心情からすれば……、かわいい甥っ子とか、親を亡くしたかわいそうな子……なんて、思えないよねえ。
顔も見たくなかったんだろうなあ……。
で、そんなところを、わたしのお父様に嗅ぎつけられた……って、言葉が悪いか。
わたしを、カッシーニ家に嫁がさせて、わたしが産んだ赤ん坊をカッシーニ家の跡継ぎとすれば、借金も、工員たちの退職金もみんな払ってあげようとかなんとか、悪魔の囁きをしたのよねー。
飛びつかざるを得ないじゃない。
他に選択肢なんてないんだし。
どんな悪魔からの囁きだって、イエスと言わなければ、借金まみれで未来はないのだ。
でも、わたしのお父様という悪魔によって、なんとか、借金は返済。平穏を取り戻せそうだと安心した矢先、これだ。
カッシーニ伯爵夫人、ロロナ様が気絶するのも分かる。
現カッシーニ伯爵、リナルド様も、絶望するわよねえ。
いっそ、狂ってしまったほうが楽だったのかもしれない……なんて。
うーん、だからといって、ジュリオ様を人間に戻してもねえ。
お前を愛することはないだから、無意味だよね~。
ちなみに、猫から人間への戻し方は……わからない。
わたしが魔法の研究を進めれば、可能かもしれないけど、現状は無理。
「もう駄目だ……、死ぬしかないんだ……」
項垂れて、そう呟いた、現カッシーニ伯爵。
いや、ちょっと待ってよ。
それはさすがに、わたしも寝覚めが悪い……って、あ、思いついた。
「大丈夫ですよ、カッシーニ伯爵」
わたしは言った。
わたしの声に、カッシーニ伯爵がのろのろと、顔を上げる。
「ジュリオ様がいなくても、この家にはもう一人、未婚の男子がいるじゃありませんか」
「未婚の、男子……。アスランかっ!」
カッシーニ伯爵が、カッと目を見開いた。
そう、アスラン様。
会ったことはないけど、この本宅というか、屋敷にもいないけど。
カッシーニ伯爵家の敷地内に、いることはいる。
子どもを、放置は良くない。
だけど、カッシーニ伯爵の心情は、わかる。
そこを何とかする、一石二鳥の策。
わたしと、アスラン様が婚姻すれば、いいんじゃない?
「わたしとジュリオ様の婚姻届は……書きましたけど、まだ貴族院などに提出は……」
「してはいないっ! 明日、提出に行くつもりだったのだっ!」
あら、ラッキー。
カッシーニ伯爵の声にも力が満ちてきた。
「それに、昨夜、わたしとジュリオ様は結ばれておりません。愛することはないとわたしに告げられた後、ステファニア様と……」
猫にしたんですけどね、このわたしが。
「そうかっ! どこかに行ったかあのバカ息子はっ! ならばもういいっ! あいつなど、我がカッシーニ伯爵家から除籍してやるっ! アスランとキアラ嬢が婚姻っ! それしか方法はないっ!」
そういうことにしておきましょう。
ジュリオ様とステファニアさんは、真実の愛のためにどこかに出奔。
行き先は、不明。
婚姻は、成されていない。
わたしの夫となる人は、ジュリオ様でなくてもいい。
はーい、まーるく収まりそうですよ~。ヨカッタヨカッタ。
アスラン様というかたが、どんな人なのかは、わからないけど。きっとジュリオ様よりはマシでしょう。
わたしのお父様だって、重要なのはジュリオ様ではなく、カッシーニ伯爵家を、合法的に乗っ取れる口実なのだもの。
わたしの夫が、アスラン様だろうと、ジュリオ様だろうと、気にしない……はず。
まあ、その他もろもろは、置いておいて。
とにかく、ラグにゃんとロッシーのしあわせな暮らしのために、アレコレ環境を整えて行かないとね~。