2.黒い魔獣
海から少し離れた街道に、市場が開かれている。船の出入りも多いこの町は輸出入の拠点でもあって、海産物以外にもさまざまな異国の品が並び、屋台も出ていて賑やかだ。ちらちらと道ゆく人の口元を確認しながら歩く。灯里のほくろを持つ人は見当たらない。
シラーに来たのは1年ぶりだ。きっと新しい住人も増えていることだろう。
「おや? カイじゃないか」
「パン屋のおばさん!」
この町では知る人ぞ知る人気パン屋の店主だ。やや恰幅の良い彼女は客の顔をよく覚えていて、年に数回来る程度のカイにも毎度挨拶してくれる。
「久しぶりだねぇ。公演、明後日からだって? 観に行くよ」
「ありがと! あのさ、訊きたいんだけど……」
「新しい住人のことだろ? あんたも変わらないねぇ。その、口元にほくろがあるっていう生き別れの身内とやらはまだ見つかってないんだ?」
「えへへ……」
そういうことになっている。
正確には死に別れた嫁さんを探しているのだが、あながち間違ってはないから騙してるわけじゃない。ないったら。
「あんた、チビだけどもう13だっけ? ちゃんと事情を説明しないと怪しまれるだろうから、訪ねるときは気をつけるんだよ。ただでさえあんたは目つきが悪いんだから」
ひと言余計だが、新しい住人の情報を教えてくれるパン屋さんは優しい。前世の感覚だと個人情報ガバガバでちょっと不安になるけれど。
「ありがとう! それじゃ、あとでパン買いに行くね!一座のみんなのぶんも買うから、いーっぱい準備しといて!」
「あいよー!待ってるよ」
おばさんと別れて、とりあえず今日はここから一番近い家に行ってみようと足を踏み出す。まだしばらくこの町にいるのだから、ちょっとずつ当たってみる予定だ。
少し歩いたところで、ふいに周囲の空気がざわざわして、妙な緊張感が漂っているのに気づいた。
変化は、一瞬で訪れる。
「逃げろーーー!!」
なんだ?
悲鳴や怒号とともに、市場の前方から人が押し寄せてくる。わけがわからないまま、カイはとりあえずその人波に乗った。乗らざるを得なかった。突っ立ったままだと押し倒され、踏み潰されてしまう。
「な、な、なにが」
「魔獣だよ! 魔獣が出たんだ!」
近くにいたお兄さんが教えてくれた。
魔獣だって?
変だな、と思った。魔獣は理性を無くした凶悪な獣だ。魔術も使うから普通の人間には手に負えない。でも生息数自体が少ないし、そもそもこんな人の多い場所にはいないはずだ。カイだって、一座の移動中に深い山の中で1回遭遇したきりなのに。
「うわぁっ!」
「跳んだぞ!」
大きな影がカイの頭上を通り過ぎていく。悲鳴が上がった。
人の流れが逆流する。
「う、わ、わっ……!?」
突き飛ばされて、慌てて人がいない方へとまろび出た。ちょうど開けた、噴水のある広場。……魔獣がいる方向に。
グルル……と低く唸る声。冷や汗をかきながら、カイはそちらに顔を向けた。
「……え?」
これが魔獣?
それは、おそらく狼の形をしていた。おそらく、というのはその姿を黒い靄のようなものが包んでいたからである。カイは混乱した。
以前遭遇した魔獣には、こんな靄なんかなかった。
でもとにかく、その靄がよくないものであることはわかる。嫌な気配がビンビンする。
逃げなくちゃ。そう思った瞬間に、黒い魔獣と目が合った。
「っ……!」
動けない。逃げようとした瞬間殺される。それが肌でわかる。でも、このままでも遅かれ早かれ殺される。
詰んだ? いや、ダメだ。灯里を見つけられないまま、こんなところで死ぬわけにはいかない。考えろ。考えろ考えろ考えろ。
相手は狼の魔獣だ。魔獣だから必ずしも成功するとは限らない。これは賭けだ。
カイはゆっくりと、目をそらさないまま、魔獣に降伏した。仰向けに倒れて首を差し出したのである。
魔獣が一瞬、戸惑ったのがわかった。カイは動かない。首を差し出したままだ。
狼の魔獣はそんなカイのまわりをぐるりと一周し、オオォォォン!と吠えた。小さく誰かの悲鳴が聞こえる。噴水広場は、魔獣以外の時間が止まったように空気が張り詰めていた。
本来ならこれは、若い狼が群れに入るための儀式……らしい。この習性を利用して、狼の仲間になった人間の話を読んだことがあった。
……賭けには勝った。でも、ここからどうしよう? 魔獣はまたカイの周りをうろうろしている。この膠着状態もそこまで長く続くとは思えない。
「エ・ラリ・ニア・ソイ・ウヌ」
ふいに耳慣れない言葉が聞こえた。と、同時に突風が吹き荒れる。
「うわあぁぁ!?」
空中に吹き飛ばされて一瞬でパニックになった。え、このままだと地面か壁に叩きつけられるんじゃない?
今度こそ死ぬかも。そう思って硬く目を閉じたが、石畳に叩きつけられる瞬間に今度はふわりと下から風が吹いて体が浮いた。そのまま、カイは怪我一つすることなく着地する。
「魔術師と騎士団が来たぞ!」
ワァッと歓声が上がる。吹き飛ばされたカイは魔獣と随分離れた場所にいた。魔術で助けられたのだ。
盾を持った騎士たちが魔獣を囲み、その後ろに魔術師たちが控えている。包囲網を抜け出そうとする魔獣を、魔術でうまく押さえつけていた。
「エ・ラリ・セ・セ・セ・ゲニア・カエルオ・ラマンド・ウヌ」
その呪文が唱えられた一瞬、何か大きな影のようなものが見え、次いで巨大な火柱が立った。
「すっご……」
衝撃で地面が揺れ、かすかだが離れたこの場所でも熱を感じる。渦巻く火柱の中から、魔獣の苦しげな咆哮が聞こえていた。
今まで見た中で一番すごい威力の魔術だ。
見ていた群衆たちもあっけに取られていたが、すぐに歓声が上がった。
炎が消えた後、そこには巨大な狼の骸が黒焦げになって残っていた。周りの人間に魔術による被害はない。鮮やかな討伐だ。
カイは興奮した野次馬たちのうしろをそっと通り、黒いローブを纏った魔術師たちのもとに向かう。フードまで被っているから魔術師団はとても目立つのだ。5人ほどが何やら話し合っていた。会話が途切れるのを待ち、声を掛ける。
「あの、すみません。先ほどは助けていただきありがとうございました」
「ん? ああ、あの時の子供か。よく丸腰で狼を前にした時の対処法を知っていたね。森の民に知り合いでもいるのかい?」
ローブに金のバッジをつけた、リーダーらしき眼鏡の男が対応してくれる。思ったより優しそうな風貌だ。
「いえ、たまたま知ってて……魔獣相手に通用するかは賭けでしたが」
「魔獣、ね……もしかしたらこいつは魔獣ではないかもしれない」
「へ?」
「詳しくはこれから調べるよ。ところでキミ……」
「はい……?」
男がぐっと顔を近づけてきて、驚いてのけぞる。まじまじと見つめられて困惑していると、男は渋い顔をして言った。
「……キミの身内に、やたら露出度が高くて男グセの悪い、とにかく最低最悪の性格をした魔術師の女とかいない?」
「い、いませんけど!?」
まったく心当たりがなくて否定すると、魔術師は「そうか、ならよかった」と笑顔でカイの肩を叩いた。なんなんだ?
「ま、無事でよかった。もしまたこの妙な魔獣を見つけたりしたら、すぐに我々魔術師団か騎士団を呼んでね」
「はい、本当にありがとうございました」
最後にもう一度お礼を言って別れる。
奇妙なことが多くて気になるけれど、とにかく命があって良かった。
冷静になって考えてみると、狼相手の対処は前世の知識だったから、下手をしたらペナルティをくらっていたかもしれない。先ほど話した内容から、この世界にも同じ知識があったからセーフだったのだと気付いたけれど、実際はかなり危うい橋を渡っていた。……でも、もしペナルティが課せられたとしても、あの場面では他にどうしようもなかったと思う。
命優先だ。しかし、身体能力の欠損というペナルティは想像するだけでも重い。今回は大丈夫だったけれど、もう少し慎重にならなくては。
「それにしても、魔術、憧れるなぁ……」
華麗に助けて、凶悪な魔獣もあっという間に退治して。
やっぱりこんなファンタジー世界に転生したからには、いつか魔術を使ってみたいものである。