小説になろうの採点システムはほぼ変えないまま、”売れる作品”がランキング上位に入る方法 ~小説家になろうの最大の被害者は、或いはなろう作家なのかもしれません
中国では情報が規制されていて、中国共産党にとって都合の悪い情報はあまり広まる事がないそうです。中国国民は国外のサイトは自由には閲覧できませんし、何か反体制的な書き込みがあると削除され、酷い場合では書き込みを行った人が逮捕されてしまうなんて事もあるのだとか。
もちろん、中国国内メディアも中国共産党にとって不都合なニュースは報道しません。例えば、2021年に中国で原子力発電所が大きな事故を起こしたそうですが、あまり大きなニュースにはなっていません。
もっとも、中国ほど酷くはありませんが、日本だって情報規制としか考えられない事例はたくさんあるので、中国の悪口ばかりを言ってもいられないのですがね。
「上層部はどの国も似たような事を考えるなー」
と、こういう話を聞く度に僕は思っていたのですが、ある日、こんな話を知って考えを少し改めました。
「小説や漫画やアニメなどに低い評価のレビューをすると、著作権侵害で権利者削除されてしまう事がある」
動画サイトなどに上げられた低評価のレビューなどが、出版社などの権利者の要請で削除されてしまうというのですね。高評価のレビューが削除されるという話は聞いた事がないので、ほぼ確実に「自分の作品を馬鹿にされた」と判断した出版社や作者などが削除要請を出したのでしょう(もちろん、事実に基づかない批判など、正当な理由で削除された動画もあるでしょうが)。
これって、早い話が情報規制ですよね。
個人でもエッセイなどで、「批判を書くのは禁止にしよう」みたいな事を訴えている人を見かけました。
うーん…… どうも、国の上層部云々の前に、人間というのは自分にとって都合の悪い情報を握り潰したがる生き物のようです。しかもそれにまったく罪悪感を覚えていない人もいるような感じですかね。
――まぁ、当たり前と言ってしまえば、当たり前ですか。
ところで、動画サイトなどで行われる権利者削除の多くがどうして“著作権侵害”を理由にしているのか分かりますか?
日本では憲法によって“言論の自由”が認められていますから、「気に入らないから削除する」なんて事を行ってしまうと憲法違反になってしまうのです(だから、「批判を書くのは禁止にしよう」と主張している方が、力で強引にそれを実行してしまったなら、憲法違反になってしまうので注意してください。主張する事自体は憲法違反ではありませんが)。
その為、権利者達は“著作権侵害”という建前を使って「気に入らない主張」の削除を行っているのですね。
ただ、実はこれだって“グレー”なのですが。レビューにおける引用は認められているので、著作権侵害には当たらないのかもしれないのです。裁判の結果、レビューにおける引用でも著作権侵害が認められたケースもあるので、完全に白だとは言い切れないのですが、はっきりさせる為には裁判を行うしかありません。プラットフォームの運営側としてはリスクを考慮して削除してしまうのではないかと思われます。
因みに、個人宛てのメールの内容を許可を取らずに勝手に自身の動画に使って公開してしまうような場合にも著作権侵害は適応されます(メールを転送してしまった場合でも同様です)。しかも、著作権侵害は刑事罰でもあるので、この場合は警察に通報するだけで成立し、それ相応の罰を受けます。
なろう作家ではないのですが、なろう関係のある動画主さんが、当にこれをやってしまっていました(しかも、メールの送信主を馬鹿にする内容)。なので、著作権侵害である旨を伝え、本人からも「分かった」というような返答があったのですが、何故かその動画を削除しようとはしません。
遵法精神が欠如していると思われる行動ですし、警察に通報された場合のリスクを考慮していない点は浅慮だと言わざるを得ません。警察に罰金を支払う事になるでしょうし、プラットフォームの運営はそういう法律関係には敏感ですから、もし警察から連絡を受けたなら即アカウント削除だってあり得ます。
……なろう作家は、世間から嫌われていたりするのですが、多分、こーいうような行動を執ってしまう点も大きいのじゃないかと思います。充分に注意するべきでしょう。
もしかしたら、ここまでを読んで「自分は言論なんて主張していない。娯楽作品を書いているだけだ」と思った小説投稿者の方もいるかもしれません。だから、「言論の自由うんたらは当て嵌らない」と。
ですが、それは法律上は認められませんし、そもそもどう足掻いても、文章を創作し、それを発表すれば、何かしらの主張はしてしまっているものです。
典型例はアンチ努力主義でしょう。
最近は少し減ってきているみたいですが、小説家になろうには、主人公が何の努力もせずに凄まじい力を手に入れ、それを利用して金や権力や異性を手に入れるといった内容の小説が多くあります。
これは“努力した人が報われる”という努力主義の否定、つまり、アンチ努力主義だと見做せます。
「考え過ぎだ」って思った人もいるかもしれませんが、実際に「努力は無意味というこの小説の内容は正しい」という感想を書いている人がいました。つまり、アンチ努力主義小説の影響を受けてしまっている人がいるのですね。
現実には努力と才能は不可分で、どんな才能も努力なしには決して開花しないのですが(努力を楽しめる人が、それを努力だと思っていないケースなんかはあるかもしれませんが)。
もし、このアンチ努力主義小説が、世間でもっと広まって認められてしまったら、その悪影響を懸念するべきかもしれません。努力すれば花開くだろう才能の芽が、アンチ努力主義の所為で摘まれてしまうかもしれない。ただ、アンチ努力主義小説は認められるどころかむしろ馬鹿にされているようなので、その心配はいらなそうですが。
そして、多くのレビュアーは、こういう作品を批判しています。すなわち「努力主義者がアンチ努力主義を批判している」と捉えられるのですね(本人は無自覚かもしれませんが)。
どうです? こう考えると“言論の自由”を適応するべきという点にも納得できるのじゃないでしょうか?
批判を受けたくなかったのなら、そもそもこういったアンチ努力主義小説のような、世間に悪影響を与えかねない小説を発表するのは控えるよう作家さん達は努めるべきだと思います。
――が、この主張に、納得しないだろうなろう作家さんもいるでしょう。
きっと、
「自分はアンチ努力主義者じゃない。ただ単に読者が望む作品を書いているだけだ。だから悪いのは読者だ!」
なんて反論をしてくると思います。
世間一般的な常識を持った人は、驚かれるかもしれませんが、本当にこういう主張をしている人がいるんです。
「自分の創作物の責任を、自分が取らなくて誰が取るんだ?」
って思うかもしれません。ちょっと外罰傾向が強すぎますよね。が、確かにこの“読者の望むものを書いているから、そういう作品が世に出る”という主張には一理あるんです(法律上はもちろん認められませんよ? 著作物の責任は著作者自身にあります)。何故なら、小説投稿サイトには膨大な数の作家がいるので、その誰かが世間への悪影響を考慮して、そういう世間に悪影響を与えるような作品を書かなくったとしても、他の誰が書き始めて、読者が望み続ける限りにおいて、結局はそういう作品が世に出てしまうからです。
“小説を発表できる人”が少なかったネット普及前の社会では起こり得なかった問題が現社会では起こっているとも言えますね。そして人間社会はその対応策を見いだせてはいない(このエッセイで提案している方法は、或いはその対応策の一つになるかもしれません)。
そして、これは、どんな作品に人気が出て、広まっていくかは評価者達が担っているという事でもあり、だからこそ評価者達が重要なのだという事でもあります。
小説では特にこれが顕著ではないかと思われます。漫画、イラストや音楽は楽しむのにそれほど時間がかかりませんが、小説は時間がかかるのが普通です(短い作品もありますが、高ポイントはあまり得られません)。その為、他人の評価を手掛かりにして自分が読む作品を選ぶ確率が高いと考えられます。良作であったとしても、高ポイントを得られなければそもそも読んではもらえないのですね。
そして、この小説投稿サイトの現実を受けて、僕らには疑問にするべき点があります。
「小説家になろう作品は、多くの読者に選ばれる事で出版される。じゃ、どうして小説になろう作品はそれほど売れていないのだろう?」
なろう作品のコミカライズはそれなりに売れているみたいですが、小説の方はあまり売れていないのですね。
次は、その評価内容に関連した話を述べていきたいと思います。
――ずっと前の事ですが、9千万以上という莫大なアクセス数を売り文句にして、ある出版社が特設サイトまで設けて、あるなろう作品を売り出そうとしていました。
が、結果は大爆死。まったくヒットしませんでした。僕の記憶では、メディア展開も計画されていたはずですが、アニメ化はされませんでしたし、漫画も出たかどうか分かりません(出ていたとしても、数巻で打ち切りだったのじゃないかと思います)。
因みに、アマゾンでのその小説のレビューは酷評がかなり目立っていました。
この件に関して、出版社の判断ミスを責めるのは酷かもしれません。宣伝効果について聞いた話では、わずか1万のアクセスでも十分な効果がある場合もあるそうです。その九千倍ですからね。もしかしたら、出版社の人達もその作品を「面白くない」と思っていたのかもしれませんが、これだけ宣伝されているのなら売れるだろうと普通は思います。
ですが、売れなかった。果たしてこれは何故なのでしょう?
最近では出版社もこのような過ちは犯さなくなり、どれだけアクセス数があってもただそれだけではここまで強くプッシュする事はなくなったようですが、それでも相変わらずに「信じられない程の低レベル作品」が出版されてしまう事はあるようです。
ストーリーはいわゆるなろう系テンプレでオリジナル要素はなし。文体がまるで箇条書きのようで、キャラクターの描写がほぼなく(重要なモンスターの大きさや姿すら皆無)、戦闘はただ単に技名を叫んでいるだけ…… そして、女の子達にはモテまくり。
と、いったような。
あまりに酷かったので、どうなるかしばらく僕はこの作品の売れ行きを見守っていたのですが、予想通りにまるで売れなかったみたいです。出版する前から分かりますよね……
内容のあまりの酷さが話題になって、作品が売れるケースもありますが、もう少なくともなろう系テンプレ作品では難しい気がします(それでも批判には宣伝効果がありますが)。
ご存知の方も多いでしょうが、なろう系作品の世間での評価は低いです。もちろん、なろう系作品に好意的なレビュアーも多く、なろう系作品が褒められる場合もあるのですが、大抵はレベルの低い原作を高い技術力と努力によって高品質の作品に変えた漫画家の実力が称賛され、原作については触れられないか、酷い場合には「原作のなろう作家は、実力のある漫画家に担当してもらって運が良かった」などと言われていたりします。因みに、これは“介護”と表現されています。素人並みのなろう原作をプロの漫画家が作品レベルにまで昇華させたって意味です(一応断っておくと、極まれになろう原作が褒められている場合もあります)。
僕個人の体験なら、こんなケースがあります。
あるサイトで高い評価を受けていたなろう作品がありまして、いわゆるテンプレ作品ではなかったので、興味を惹かれて読もうとした事があったのです。が、二話目で挫折してしまいました。ストーリーはもしかしたら面白かったのかもしれません。ですが僕には読み進める事が苦痛でどうしてもできなかったのです。
理由はシンプルです。文体のリズム感が破滅的に悪くて、読んでいて気分が悪くなるほどだったからです。空行や改行のタイミングが何にも考えられていなくて、テキトーにやっているようにしか思えませんでした。
壊れたスピーカーから聞こえて来る、メロディが途切れ途切れに分断された音楽を無理矢理に聴かされているような気分とでも表現すれば分かってもらえるでしょうか。僕は文章はリズム感を重視するタイプなので、よりきつかったのかもしれません。
ですが、その作品は多くの人から高い評価を受けていたのです(恐らくですが、不正行為もしていなったのではないかと思われます。コメントは好意的なものが大半でした)。
これを素直に解釈すると、なろうには、リズム感を文章に求めない人がそれだけ多くいるって事になってしまいそうです。
(因みに、時々ですが、僕の文のリズム感重視を分かってくれる人もいます。こーいうのってかなり嬉しいです)
かつて多くの文豪が“文章読本”を書いている点からも分かりますが、文章はそれ自体が娯楽になり得ます。ストーリーを楽しむのではなく、文章それ自体を楽しむのですね。
僕には随分と昔から文章を楽しむ習慣があったのでとても意外だったのですが、どうもこの習慣がない人も世間にはいるみたいです。実際、僕の小説やエッセイにコメントしてくれた人の中には“文章を楽しむ”って発想がないとしか思えない人がいました。
そういう人にとって文章は読み易さが全てになるのかもしれません。だから箇条書きのような文でも、リズム感無視でも関係なく高い評価をしてしまう……
もちろん「小説の面白さに客観性なんかないのだから、その人がそれで楽しめるのなら何の問題もない」って主張もあるだろうし正しくもあるのですが、それでも小説を買ってまで楽しむ人の中には文章自体の良さを味わっている人が多いのではないかと予想できます。
“小説の価値”を考えるのなら、考慮しなくてはならないのではないでしょうかね?
それに、明確に“作品評価に客観性がある”と言える要素もあると思うのです。例えば作品の“オリジナリティ”です。
似たような作品が以前に幾つも発表されているのなら、その作品の評価は下げるのが普通です。ま、飽きますからね。だから逆に、その作品にそれまでにない独自性があるのなら、それは客観的評価だと表現してしまって良いと思うのです。
が、ご存知の方も多いでしょうが、小説家になろうの上位作品には、これがほとんど観られません。なにしろ、十年前の作品と代り映えしない作品が、未だに出版されていたりしますから。
これはストーリーやキャラクターといった表面的な要素だけに限りません。多くのなろう作品は“願望充足”に面白さの焦点を置いているように思えます。多少飾りを変えたところで、この本質的な部分が同じである為に、既視感を覚え、「もう、いい」って気分になってしまうのではないでしょうか?
例えばグルメ作品でも、日本で食べられている料理を異世界の住人達に称賛させて、読者のプライドを満足させるという手法を執っているように思えます(グルメ作品としての魅力もちゃんとありますけどね)。冒険ファンタジー作品では、主人公の高い能力を他の登場人物に褒めさせていたりしますが、本質的にはこれと同じ事をやっています。
テレビ番組で、外国人に日本文化を褒めさせるような内容のものがありますが、狙いとしてはあれと同じですね。
“願望充足”という題材は臭みが強いのが普通なので、調理には技術が必要です。わざとらしかったりすると人によっては不快に感じてしまうでしょう。が、なろう作品では素材の味をそのままお届けしてしまっているケースもあるみたいで、しかもこの問題点を作者が分かっていないようにも感じられます。
何でも自由になる創作物の世界で、周囲の人間達(特に異性)が、主人公をべた褒めしまくるという展開に、作者自身のエゴを想像してしまう読者も多いでしょうから、巧く工夫してそれを感じ取れないようにしなくてはならないはずです。が、それを一切していない作品が多いのですね。
多分、あまりに見え透いたお世辞に嫌悪感を覚えるようなタイプの人は、だから、なろう作品は苦手なのじゃないかと思います。一応断っておきますが、お世辞に素直に喜べる人は人間関係を円滑にする上で役に立っているのでしょうから、これに優劣がある訳ではありません。
なろう作品が苦手でも、なろうのコメディ作品ならば普通に楽しめている人も多いみたいなのですが、多分、それはコメディ作品の場合は、面白さの焦点が“願望充足”ではなく“笑い”だからじゃないかと思います。
話が少し逸れましたが、似たような作品を何度も鑑賞させられるというのは、非常に苦痛です。
僕は以前、こういったエッセイを書く参考にしようとなろうのアニメ化作品を見るようにしていたのですが、そのお陰で今では“なろう系アニメ”と聞いただけで、うんざりした気分になるようになってしまいました(それでも、縁ある人のアニメ化作品とかは見てみたのですがね)。
僕が飽きやすい性質(色々なタイプの作品を書いているのはだからです)の所為かもとも思ったのですが、なろうアニメが大人気の中国でも“以前の作品と同じだ”っていうような批判が出て来ているようなので、これは普通の反応ではないかと思われます。
欧米の方でも、なろうアニメ作品はそれなりに人気らしいのですが、飽きられるのは時間の問題なのじゃないでしょうか?
いえ、これからアニメ化されるなろう作品については、そもそも願望充足系のテンプレ作品かどうかも知らないので、それについては何とも言えないのですがね。
以前は、なろう小説のレビュー動画を出している人がたくさんいたのですが、最近はめっきり減ってしまいました。多分、これも同じ様に“類似作品が多過ぎる”事が原因だろうと思います(コミカライズは、漫画家さんの工夫や個性が出るのでまだバリエーションが豊富です)。こういったレビューは、なろう小説をボケとし、ツッコミを入れるのが面白さの肝なのでしょうが、そのなろう小説がいつまで経っても同じなのです。当然、ツッコミも同じになってしまいます。これでは製作者側も視聴者側も飽きてしまいます。製作者は作品を読む事自体が苦痛になり、長く続けるのは難しいでしょう。
もしかしたら、なろう小説へのツッコミレビューが減って喜んでいる人もいるかもしれませんが、ビジネスで考えればこれはなろう作品にとってマイナスです。
批判の宣伝効果は実は非常に高いのです。アメリカのトランプ大統領は、メディアの批判により20億ドル相当の宣伝効果を得たといいますし、リアル鬼ごっこは、悪い評判で話題になってヒット作になったと言われています。
既に十分に知名度がある作品についてはこの限りではありませんが、なろう小説への批判レビューが減った事は、むしろ「批判をするのも飽きられてしまった」とネガティブに捉えるべきでしょう。
さて。
これまで述べて来た点を踏まえると、なろう作品を評価している人達は、偏った層ではないかと予想できます。
どうも、自分達の好きなジャンルであるのならば、あまり売れないだろう作品にも簡単に高ポイントを入れてしまう人達がいるようです。これは作品の人気ジャンルに最も如実に表れています。
小説家になろうの人気ジャンルは、ファンタジーや恋愛です。が、世間一般の小説の人気ジャンルは、1位がミステリーで、2位が歴史ものなんです(運営が小説家になろうの公式企画に、最近になって推理と歴史を追加したのは、或いはこの為かもしれません)。
なろう作品の売上げを観ても、実はこの点はよく分かります。
現在(2022年10月)も更新が続いているなろう小説で最も売れている作品は実はジャンル推理の「薬屋のひとりごと」です。が、なろうでの順位は18位(2022年10月現在)なのです。
ミステリー小説が人気なのは恐らくは偶然ではありません。ミステリーというジャンルにおいて、小説表現は漫画や映像作品と比べて高いアドバンテージを持っているのではないかと思われるからです。叙述や心理描写、トリックの考察など、小説においては自然に行えるものが漫画や映像作品では難しくなってしまいます。
例えば、京極夏彦さんの妖怪シリーズですが、当初は漫画で描き始めたのだそうですが(京極夏彦さんは漫画も描ける人です)無理だと考え、小説に切り替えた結果、ヒットシリーズとなりました。コミカライズもされたのですが、あまり売れなかったみたいです。
なろう作品とは逆ですね。なろう作品は原作があまり売れず、コミカライズの方が売れています。
では、ここで、なろう作品に高ポイントを入れているのは一体どんな人達なのか、それを少し考えてみましょうか。
1.一番の趣味はゲームか漫画
まるでゲーム設定のような作品世界(或いはゲームの世界そのもの)を舞台にする物語が多い点、そして小説ではなく漫画が売れている点を考慮するのなら、“小説も読むけど一番の趣味はゲームか漫画”という人が多いと考えるのが普通でしょう。
2.同調傾向が強い
なろうでは、ある特定のタイプ、キーワードを持った作品が一気に流行る傾向にあります(ただし、飽くまで装飾的な部分の一致で、内容の本質的な部分はあまり変わらない)。これは他の人達の評価に同調するという特性が強いからでしょう。
3.比較的シンプルな構成の“願望充足系”の作品を好む
既に述べた通り、主人公にとって都合の良い展開ばかり起こる“願望充足系”の作品が多いです。もちろん、例外もありますけどね。
4.保守的
これも既に述べた通りです。なろうでは類似作品が多く、あるなろうウオッチャーによれば、月間ランキング1位~10位までの作品の冒頭の内容がほぼ同じという時期すらもあったそうです。
5.作品の質にはあまり拘らない
好みの条件さえ満たしていれば、文体が箇条書きのようでも、わずか数行で矛盾があっても、基本的な日本語ができていなくても(気を付けての“を”の字をずっと“お”で書いている作家さんとかいるそうです)特に気にせずポイントを入れてくれるみたいです。
不正でポイントを得ているケースもあるでしょうから、これら全てを鵜呑みにする訳にはいきませんが、これら特性を鑑みるのであれば、なろう系作品にポイントを入れている層は比較的若年層ではないかと思われます。
なろう系を好むのは、30代以上が多いという俗説がありますが、これはなろう系作品を買う層であって、ポイントを入れている層ではないのではないでしょうか?(単なる憶測なのでそれほど信頼しないでください)
比較的シンプルな構成が好まれる点、そして、類似作品も“飽きずに”高く評価するという点を考慮するとそう考えるのが最も自然です。
シンプルな作品を好むという点についてはまだ30代以上でも分かりますが、“飽きにくい”というのは生物的な特性の影響を強く受けます。そして、“飽きにくい”というのは若い年齢の人に多い傾向なのです(僕も若い頃は、飽きもせずに同じ作品を何度も楽しんだものです)。
日常系のような副交感神経を刺激するタイプの作品は飽きられにくい事が知られていますが(サザエさんとか、ちびまる子ちゃんとか何年も続いていますよね?)、多くのなろう系作品はそのような作品ではありません。交感神経系を刺激するタイプの作品が多いです。
ならば、30代以上が多いという俗説は間違っているのではないでしょうか?
そう疑問に思って、検索をかけてみたところ、なろう系の年齢層は10代~20代が最も多いという統計結果が出てきました。分析と一致します。恐らく、これが正しいのではないでしょうか?
ちょっと話がずれてしまいましたが、低レベルの作品にも高ポイントを入れてしまう層が多く存在しているので、なろうではランキング上位作品でも品質が高いとは限りません。なろうで“小学生が書いた作品が出版されてしまった”と話題になった事があります。この話が本当は嘘かは分かりませんが、少なくともそんな話にすらリアリティを感じられる状況ではあるのです(その小学生が天才だったなら、例としては不適切ですが)。
これは、なろうで高品質の作品を抽出するのを、“低レベルの作品にも高ポイントを入れてしまう層”が邪魔をしているとも言えます。
ならば、“高品質の作品を見極められるユーザー”のみを抽出し、そのユーザーの評価を信頼するようにすれば良いのではないでしょうか?
ユーザーの評価能力判定を行い、評価能力が高いユーザーのみのランキングを別途設ければ、そのランキング上位作品はある程度の高い品質を持っている可能性が高くなります。
ユーザーの評価能力の判定は、出版されている作品の実績をベースに“正解ポイント”を作成し、そのユーザーの評価が正しいかどうかを比べる事で行います。
もちろん、その際の対象は“その作品が発売される前の評価”のみです(日付をデータに持っているのでそれは容易かと)。売れている作品に高ポイントを入れた場合は、後出しじゃんけんになってしまいますからね。ですから、当然、発売された日付以前のその作品の評価をデータベースに保存しておき、ユーザーの評価能力の判定はそのデータベースに保存しておいた方のポイントで行います。
飽くまで、一案に過ぎませんが、このような式で評価能力ポイントを求めるのが良いかもしれません。
10-絶対値(正解ポイント-ユーザー評価ポイント)×3
(“×3”しているのは、評価能力ポイントをマイナスするケースを存在させる為です。マイナスする計算がないと単純に評価する回数が多ければ多いほど、評価能力ポイントが高くなってしまいますから。また、“×2”でないのは、なろうの上限ポイントは10である為、評価する作品のポイントを中央値の6にしておけば、作品を評価すればする程、評価能力ポイントが上がるというズルが可能になってしまうからです)
例えば、“薬屋のひとりごと”であったのなら、なろうで最も売れているのだから当然、正解は10ポイントです。仮にユーザーが10ポイントの評価をしていたとするのなら、上記式に当て嵌め、
10-絶対値(10-10)×3
で、答えは10になります。このユーザーは、評価能力ポイントを10ポイント得られます。
しかし、ユーザーが“薬屋のひとりごと”に2ポイントの評価をしていたなら、上記式に当て嵌め、
10-絶対値(10-2)×3
で、答えは-14ポイントになります。ユーザーは評価能力ポイントを14失う事になります。
別のケースも考えてみましょうか。
まったく売れなかった作品の場合、正解ポイントは2にするべきです。その作品に対して、ユーザーが6ポイントの評価をしていたとするのなら、
10-絶対値(2-6)×3
で、答えは-2になります。ユーザーは評価能力ポイントを2失う事になります。
これで評価能力ポイントを集計し、ある程度以上の数値になった人に“優秀な評価能力の持ち主”の称号を与えます。ランク分けしてS~Dくらいを表示するようにするとより面白いかもしれません。これは何かしら通知してあげた方が良いでしょう。ユーザーは優越感を得られますし、作品を評価するモチベーションにもなります。そして、その“優秀な評価能力の持ち主”だけのランキングを作成するのです(ランクS~Aだけのランキングとか、ランクBだけのランキングとか、色々と工夫できそうですよね)。
ただし、注目を集めなくては、そもそも“優秀な評価能力の持ち主”が読んでくれない可能性が高いので、日間ランキングのデフォルトは、今まで通りの通常のランキングにしておくべきでしょう。そして、週間は“優秀な評価能力の持ち主”S~Dのランキングにし、十分に注目が集まっているだろう月間ランキングの作品のデフォルトは、“優秀な評価能力の持ち主”S~Aにするなんてのが良いのじゃないでしょうか? もちろん、検索条件で選択できるようにしておくべきだとも思いますけどね。
ここで注意点があります。評価の基準となる正解ポイントはその作品の売上げに影響を与えてしまうでしょうから非公開にし、それに合わせてユーザーが獲得した評価能力ポイントも原則非公開にするべきではないかと思われます。
評価能力ポイントが低いと判定されたユーザーは気分があまり良くないでしょうし、そもそもこれって飽くまで“売上ベース”の評価ですから、それ以外の観点で作品を評価しているユーザーには当て嵌まらないですし……。
ただ、評価能力ポイントが高い上位500人くらいのユーザーは、サイトでランキング形式で見られるようにした方が面白いかもしれません。
ユーザー同士の競争心を煽る事で、評価するモチベーションを高められます。
もちろんこの方法は、小説の評価だけでなく、漫画原作としての評価にも応用が可能です。正解ポイントの漫画原作バージョンを作成すれば良いのですね。漫画の売れ行きをベースに、評価の基準となる正解ポイントを作るのです(もっとも、漫画の場合は、漫画家さんの実力に大きく左右されるので不確かなデータになってしまうでしょうが)。
この評価能力ポイントのメリットは、“売れる作品を抽出できる”事以外にも色々とあります。
今現在、なろうの評価システムは、加算システムである為に最低である2ポイントを付ける意味がほとんどなくなってしまっています。“駄作だ”と思ったとしても、スルーする以外に手がないのですね。その為、評価ポイント平均にもあまり意味がありません。
が、この方式を採用すれば、ユーザーが駄作だと思った作品に2ポイントを付ける価値が生まれます。すると、評価ポイント平均が信頼できる数値になり得ます。
ユーザーが評価能力ポイントを上げたいと思ったのなら、出版が決まった作品に対してユーザーは本気の評価をするだろうと考えられるので、特に出版が決まった直後の評価ポイント平均が信頼できるようになるのではないかと予想できます。出版社は作品の売り方の参考にできますし、ユーザーは買うかどうかの判断に使えますね。
そして、このような方式にランキングが変わったのなら、当然ながら、なろう作家達の方略も変わって来るでしょう。
現在のなろうで、最もプロになれる可能性のある方略は、
「流行っているキーワードを入れた作品を多数投稿し、その中でアクセス数やポイントが伸びた作品だけを高頻度で書き続け、後はポイントが伸びる読者が好きそうな展開にしつつ、ツイッターなどで宣伝しまくる」
といった感じみたいです。
つまり、“流行りに乗って、数打てば当たる” 粗製乱造方略ですね。
こういうやり方にすると、当然ながら確りと設定やストーリーやテーマを練る事はできません。だから、メッセージ性もなくて、設定やストーリーに矛盾やおかしな点が多々出て来てしまいますが、何度も述べて来た通り、それでもなろうでは高ポイントを取れて、出版もできてしまえます。
(冒険者になる為に冒険者学校に入学しようとするのですが、その為の資金を稼ぐ為に冒険者になるというよく意味の分からない展開の作品が普通に出版されています)
しかし、“優秀な評価能力の持ち主”が評価した作品のランキング上位しか出版できなくなれば、もっと確りと作品を練る必要が出てきます。だから作家達も確りと話を考えるようになるのではないかと思われます。
そしてそういう作品が多くなれば“なろう作家はレベルが低い”という悪評は過去のものになるかもしれません。もちろん、その方が作家にとっても良いでしょう。コミカライズではなく、ちゃんと原作の方が売れるようになる可能性だってあります。
これは僕の体験なのですが、一度、なろうテンプレを試してみようと思った事がありまして、
『冒険者パーティを追放された俺だが、そんな俺を追いかけて来てくれた優しい彼女が…… って、タイトルであらすじを説明するスタイルは、ショートショートだとオチがバレるから使えないじゃん!』
なんてタイトルのくだらない小説を投稿したのです。すると、ただそれだけで112ポイントも取れてしまいました(2022年10月2日現在)。
因みに、割と本気で書いた『人食い村の噂話』という小説は、たったの33ポイントです。
この小説は、民俗学や社会科学の知識を使って読者がそれなりの知見を得られるように工夫してあって、コミティアで同人誌として発売した際には運営からカタログにピックアップしてもらえ、出版社の編集者を名乗る人物まで現れたくらいの品質ではあります。
正直、この結果を受けて、「なろうではポイントは意味ないな」という感想を僕は持ちました。だから、そんなに気にしなくて良い、と(とは言っても、もちろん、ポイントをもらえたら嬉しいのですがね)。
もし仮に僕がポイントが欲しいが為に小説を書いている人間だったなら、なろうで簡単にポイントをもらえる作品ばかりを書いていた事でしょう。
でも、断言しますが、本当に価値があるのは『人食い村の噂話』の方です。
そして、もし仮に出版されたとして、世間からより高い評価を受けるのも『人食い村の噂話』の方だと思うのです。
僕は最近になって、小説家になろうの最大の犠牲者は実はなろう作家なのではないかと思うようになりました(ここでの“なろう作家”の定義は、“なろうランキング上位に入れなければ出版してもらえない作家”です)。
なろうでは作家になれる技量がない人でも作家になれてしまえます。もちろん、他に収入源があって、お小遣い稼ぎ程度の感覚でなろう作家になったのなら問題はないと思うのですが、もし専業作家を目指してしまっていたなら人生を踏み外しかねません。
そもそも、ネットが普及してからは作家という職業の収入は激減しています。プロの作家が自分の年収を動画で公開していたのですが、講演料なども込みで僕の年収の半分以下でした。一部に成功者はいますが、レアケースに過ぎません。
そして、作家という職業は不安定です。
特になろう作品は、原作はほとんど売れず、コミカライズ頼りです。腕の良い漫画家さんが担当してくれるかどうかは運次第でしょうから普通の作家よりも収入が安定しません(稀に担当する漫画家さんを選ばされてくれたりもするみたいですが)。
つまり、収入が低い上に不安定なのです。おまけに潰しが効きません。なろう作家を続けられなくなったら、一体、どうやって生きていけば良いのでしょう? ビジネス目的でなるような職業ではないと思うのですが、一部のなろう作家は“ビジネス重視”と述べているのだそうです。
貧乏暮らし覚悟でも、何か強烈な動機付けがあるのなら、なろう作家になる道を選ぶのも良いかもしれません。ですが、金稼ぎ目的なら普通に働いた方が絶対に良いです。
もしかしたら、「そんな道を選んだなろう作家の自業自得」と言う人もいるかもしれませんが、若い内は判断力が低いのが普通です。特に20歳辺りは人間の生物的な特性として、リスクを察知する能力が低くなるのだそうです。だからこそ冒険的な選択ができるとも言えるのですが、当然ながら、「人生を台無しにするリスク」を軽視してしまうというデメリットもあります。
なろうでは、そんな若い時期に自分の小説が大人気になって、何十万円という大金を得られてしまうのです。
脳内麻薬が分泌しまくって、正常な判断力を失ってしまっても、決して本人を責められないのではないでしょうか?
以前、公務員が病気休職中にラノベを書いて320万円を稼いだというニュースが流れていました(病気休職なので、給料は支払われています)。これでもかなり売れている方ですが、2年間なので年収はたったの160万円です。その公務員の方は退職してしまったそうなので、その後の生活は非常に不安定になってしまっているかもしれません。
これは果たして正常な判断だと言えるでしょうか?
なろうのランキング上位作品の作家で、高校生でプロになったと主張している人がいました。
もし仮に、炎上商法狙いのだとすれば、「余計なお世話」なのですが、自己顕示欲を抑え切れずにそのような主張をしてしまったのなら大いに心配です。それを自慢と捉え、不快感を覚える層が一定数は絶対にいますから攻撃されてしまうかもしれませんし、その程度の人間の心理を理解できないのでは、作家としての技量も低いのかもしれません。
ランキング上位に入って有頂天になり、考えなしに作家というリスクの高い職業を選んで、人生を踏み外してしまう危険があります。
また、「自分の作品を“誰でも書ける作品”と馬鹿にされた」と怒っているなろう作家も見かけた事があります。
その人は、「誰にでも書けるというのなら、自分で書いてデビューしてみせろ」と続けていたのですが、その批判には出版社の審美眼のなさも含まれているのしょうから読解力がないですし、こういう外罰的な性格では成長が望めないのではないかという懸念もあります。
外罰的性格というのは、“他人の所為にする”性格の事です。あまりに内罰的…… つまり、“自分の所為だと考える”性格では、落ち込み過ぎてしまったり、その他にも様々な問題が生じるのでこれはこれで良くないのですが、他人の所為にしてばかりでは成長し難いという問題があるのです(もちろん、人間関係も悪くなりますが)。
自分の作品を馬鹿にされたなら、自分の能力が低いと考え、研鑽する。悔しかったのなら、その気持ちを「次こそ、絶対に認めさせてやる」と素晴らしい作品を書くモチベーションに変えられるからこそ、作品の質が良くなっていくのです。
「自分の作品のレベルは低くない。読解能力のない読者が悪いんだ」
と、他人の所為にばかりしていたら、いつまで経っても成長できません。
一部のなろう作家は嫌われているのですが、そういう人達に外罰傾向は強いように思えます。これも或いは、なろうランキングの所為で、天狗になってしまったが為なのかもしれません。
今現在、なろう作家の収入は非常に不安定だと予想できる訳ですが、それには“粗製乱造が有利”という要因もあるのだろうと考えられます。そんな作品は書ける人が大勢いますからね。だから、必然的にライバルも多くなってしまうのです。そしてその傾向は今後益々強くなっていく可能性があります。
何故なら、「AIによる自動執筆が可能な時代に既になっているから」です。
僕はその内の一つの“AIのべりすと”というサイトを試してみたのですが、文章力に関しては文章力が低いプロのなろう作家よりも明らかに上でした。ただし、話の整合性に関しては物足らず、少なくとも僕が試していた時期(2022年6月)では、期待した通りの内容を生成してはくれませんでした。作者の思った通りの内容を書かせるのは至難の業だと少なくとも僕は判断しています。設定とか、色々いじってみたのですがね(もしかしたら、僕の使い方が悪かったのかもしれませんが、だとしても使いこなすのが難しい点は変わらないと思います)。
ただ、ならば“使えない”のか? と訊かれたら、“使える”と僕は答えます。今まで散々説明して来た通り、なろうにおいては品質が低くてもポイントを入れてくれる層がいるので、それでも十分なんです。つまり、「AIのべりすと」は“作品への拘りが低い”作家にとって有利なツールという事になるでしょう。
なろうには、かつて、活動報告でゴーストライターを募集していたプロや、誤字脱字や後書きまで他の作品からのコピペという作品を出版してしまったプロや、「つまらない作品を書いている」と宣言していて、実際に粗製乱造を繰り返しているプロがいるので、そういった“良い作品を産み出す意欲がない”人達にとっては、間違いなく「AIのべりすと」は有効なツールになると思います。
ですが、先にも述べた通り、それはライバルが増えるという事でもあります。なろう小説は「誰にでも書ける」と批判されていますが、「AIのべりすと」を使えば、本当に誰にでも、しかもコストをあまりかけずに書けるようになりますからね。粗製乱造作品が今以上に溢れ、出版したいと思ったのなら宣伝競争で優位に立つ方法が最も堅実な手段となってしまうかもしれません。はっきり言って、安定性など皆無になるでしょう。
が、もし、質の高い作品でなければ出版できなくなれば、“実力のあるなろう作家”はより出版し易くなり、安定もするようになるはずだと思うのです。
なろう作家にとっても、この方が良いとは思いませんか?
因みに、小説自動執筆AIには、小説投稿サイト自体を衰退させかねないポテンシャルがあるのではないかと僕は考えています(これについては、別のエッセイで詳しく書くつもりでいます)。
今後、どうなっていくのか要注目でしょう。
――さて。
“優秀な評価能力の持ち主”ランキングの効果ですが、もし仮に、なろうに採用されたとしても、あまりに酷い作品が上位に入らなくなるくらいで、類似作品が少なくなるなんて事は少なくとも短期間ではないでしょう(長期的には分かりませんけどね)。
推理小説の「薬屋のひとりごと」がなろう作品の中で最も売れていると書きましたが、もし投稿され始めたのが特定の作品しか評価されない環境になった後だったなら埋もれてしまっていたと思います。
これは“小説家になろう”には売れる作品がたくさん埋もれている可能性が高い事を意味してもいます(出版社にとってもなろうにとっても読者にとってもこれは宝です)。
ならば、「隠れた名作発掘企画」などを行って、積極的にそういった作品を探すべきではないでしょうか?
そして、それにも“優秀な評価能力の持ち主”達は役に立ってくれると思うのです。
最後に小説執筆に対する矜持や姿勢に関する話をして終わりにしたいと思います。
小説…… いえ、漫画やアニメ、映画、ゲームなどの楽しみ方は一つではありません。様々な分類ができますが、その内の一つに「精読派」、「乱読派」という分け方があります。
精読派は、文字通り、細かく注意しながらクリエイターからのメッセージなどを踏まえた上で考察を加えていくといったような楽しみ方です。それに対し、乱読派は数多くの作品を楽しむので、当然ながら、それほど深くは考えません。クリエイター側のスタンスについてもこれは言えて、精読派向きの作品を作るのか、それとも乱読派向きの作品を作るのかで大きく分かれます。
一部のなろう作家の「ビジネス重視」という主張の意味は、恐らくは“乱読派向きの作品を作っている”という事なのだろうと僕は解釈しています。その為、精読派だからこそより楽しめる、メッセージ性を込めた作品がなろうには少ないのでしょう。
が、僕は疑問に思うのですが、果たして本当にメッセージ性を込めた作品というのは、ビジネスにとって不利なのでしょうか? 何故そう思うのかと言うと、小説に限らず、漫画やアニメ、映画、ゲームなどのヒット作品には、メッセージ性が込められた作品が少なくないからです。
(以降は、ネタバレを含みますので、嫌な方はここで読むのを止めてください)
例えば「鬼滅の刃」です。
子供も楽しむ作品でありながら、この作品には残酷な描写やグロテスクなシーンが数多くあります。しかし、何故かそれに対する批判がそれほどありません。
その理由について、このような見解を述べている人がいました。
『「鬼滅の刃」では、主人公側である人間の視点だけでなく、敵役である鬼側の視点からその哀しみも描いている。それにより、世の中には“絶対悪”などない事を教えてくれている。それが子供の教育に好ましいと捉えられているのではないか?』
僕はこれを読んで、手塚治虫作品を思い出しました。
戦時下、物語は戦争をする為の道具として利用されていました。敵国を悪と描き、正義である自国が、それを倒す事で読者が快感を得られるような物語が、戦争を進めたい国のプロパガンダに用いられていたのです。その時代を経験した手塚治虫さんは、立場が変われば善悪は容易に翻ることを作品を通して描く事で、世の中が間違った方向に突き進まないように訴え続けたと言われています。
「鬼滅の刃」が手塚治虫作品の影響を受けているかどうかは分かりませんが、同じようなメッセージを持ち、そして同じ様な効果があるのは明らかでしょう。
計測は不可能ですが、もしかしたら、これら作品にはいじめを抑制するような効果もあるのかもしれません。
漫画「進撃の巨人」になると、このメッセージ性はより顕著になります。別の社会からの視点で物語が描かれるシーンがあり、その社会では主人公達は悪魔のように思われているのですね。最近流行ったアニメ「リコリス・リコイル」にも似たようなメッセージ性はあります(恐らく、映画「ダークナイト」の影響を受けているのだと思われますが)。漫画やアニメばかりではありません。世界的に大ヒットしたゲームの「ニーアオートマタ」では一度クリアすると敵側の視点も描かれるようになり、やはり絶対悪など存在せず、敵側には敵側の事情がある事が強調されます。
これら作品は、もしかしたらメッセージ性がなくてもヒットしたかもしれません。作品がヒットしたのは、一流のクリエイターが手掛けていたからであって、メッセージ性が込められていたのは、一流のクリエイターならば自然に持つであろう作品に対する真摯な姿勢や矜持ゆえである可能性もあります。
しかし、メッセージ性を込め、それをユーザーに考察させる事でヒットしたのだろう作品もあります。典型例は「エヴァンゲリオン」。小説では京極夏彦さんの妖怪シリーズ。村上春樹さんの作品も含めていも良いでしょう(もちろん、まだまだありますが切りがない)。
これら作品では、ユーザーに物語の設定や展開などを考察させる事を作品の魅力の一つにしています。
昨今、ポリティカルコレクトに纏わる性表現の是非などで、性差問題が議論になる事が多いですが、京極夏彦さんの妖怪シリーズの一つ、「絡新婦の理」はそれら問題を考える上で非常に参考になります。男系社会と女系社会の文化的な違い、そこから生じる性道徳の差などがミステリー小説の謎の一つとして扱われているのですね。この作品で使われている知識を調べていけば、これら問題に対しての多くのヒントが得られます(そういう作品だからこそ、解説を学者が行っていたりするのですが)。そして、驚くべきなのが、それが娯楽作品としても非常に高い水準の上で成り立っている点です。“金を払って読む価値のある作品”とはこういう作品を言うのだな、と思い知らされますよ。
もちろん、作品の価値を理解する為には、ある程度の読書力が求められるのですけどね。
最後に細田監督作品のアニメ映画「竜とそばかすの姫」を取り上げたいと思います。
この作品は、明らかに精読派…… 考察する楽しみを視聴者に求める作品です。そしてそのテーマの一つには“ネット上における、匿名性の高い無責任な暴力”があるでしょう。
が、あるレビュアー達はこの点をほとんど理解しないで批判していたのです。
「龍がそれほど悪く思えない」
「運営ではなく、有志の自治体みたいなのが龍を退治しようとしているのは何故だ?」
「素顔を晒す意味が分からない。身バレは危険な行為だ」
作品テーマと関連させて考えれば、これらの意味は容易に理解できます。
「龍がそれほど悪く思えない」
→ネット上でも、大して悪いと思えない人が叩かれている事があります。
「運営ではなく、有志の自治体みたいなのが龍を退治しようとしているのは何故だ?」
→ネット上でも、運営ではなく一般のユーザーが一部の人を批判しています。
「素顔を晒す意味が分からない。身バレは危険な行為だ」
→これは匿名性に対する反発でしょう。
作品によっては、“分からなくて当然”といったような考察が求められるものもありますが(柳田国男の「遠野物語」は、文体に意味があるのだそうです。そんなの誰も分からないですよね)、この作品については極めて分かり易くそのメッセージ性が強調されてあります。
何故、分からないのでしょう?
むしろ、視聴者に考察を求めるこういった作品こそ、レビュアーの腕の見せ所だと思うのですが。
もしこれで、この作品のメッセージがレビュアー達に伝わっていなかったのであれば、作品の力不足と言えるでしょう。ですが、言語化できていないだけで、実は伝わっているのではないかと僕は考えています。
そのレビュアー達は、辛口を売りにしていて、そして、素顔も声も隠し、その代わりに架空のキャラクター達にレビュー内容を語らせているのですが、その為に、彼らはこの作品は自分達のスタイルを批判していると感じてしまったのではないでしょうか?
“酷評”と言うよりは、怒りに近いものをそのレビュー内容から僕は感じてしまったのですよね。もちろん、僕の想像で、本当にそうかは分からないのですが。
何かを伝える為に、物語というツールを使うメリットの一つに、「受け手が言語化できなくても伝わるものがある」という点があると僕は考えているのですが、もし、僕の考え通りだとするのなら、当にこの作品は、その有効性を示してくれたのじゃないかと思うのです。
そして、もう一点。
確かに、レビュアー達が酷評するように、この映画の脚本には粗い所があります。しかし、その粗さはメッセージ性を重視したが為にできてしまったものだと思えるのです。
ですが、この作品は興行的には十分に成功しているのですよ。何しろ細田監督作品の中で興行収入は今のところトップです。つまり、メッセージ性重視の為に脚本の品質を犠牲にしている作品がビジネスで成功しているって事です。映像や音楽が素晴らしいという声もありますが、それなら他の作品も同様でしょう。
これって単なる宣伝や、集団心理によるものなんですかね? それとも、観客にそのメッセージが伝わった結果なのでしょうか?
いずれにしろ、「ビジネス重視」と公言するなろう作家の作品よりも、メッセージ性重視の作品が遥かにビジネスで成功している一例ではあるでしょう。
少なくとも、僕はメッセージ性を重視して作品を作る細田監督の姿勢を尊敬します。願望充足系で何のメッセージ性もない作品ばかり書くなろう作家よりも、遥かに高い価値を持っていると思いますから。