夜空の下、あなたを探す
「今どこにいますか?」
声に出してみる。手紙を読み進めて何行も先に控えめに書いた文章。
本当は一番に書きたかった。書けなかった。
無機質な感じを与えないようにと選んだ可愛い便箋で、かえってその存在は埋もれてしまった。
「また会いたい」
手紙にない一言を読み上げる。
下書きには書いたけれど、消してしまった。
代わりに書いた嘘偽りない心配の言葉は社交辞令にしか見えない。
白い息とともに出た声はさっきよりずっと弱々しくて、寒さのせいか震えている。
「会いに行きたい」
言葉にしようと思ったけど口が動いただけで、声にもならなかった。
下書きにさえ、書けなかった。
溢れんばかりの想いが喉をつまらせる。息が苦しい。
無味乾燥となってしまった手紙を胸の中に抱きかかえる。
温度のないそれは、私のことを温めてはくれない。
初雪が降るだろう小雪の夜が、私のことを冷やしていく。
「想いを込めた手紙に導かれて、初雪が想い人を運んでくる」
この辺りに伝わる言い伝えだ。
いわゆる都市伝説、所詮迷信。
そんな迷信に、私は今、縋ろうとしている。
彼に出会ったのは、もう10年も前のことになる。
この場所に迷い込んだ幼い私に、優しく手を差し伸べてくれた。
私たちはよく、ちょうど今いる場所で2人仰向けになって語らった。
彼の話はいつも非現実的で、それなのに嘘を話しているという感じが全くしなかった。
まるで私の住むこの世界とは違うところで育ったようだった。
彼の世界には夜しかなくて、夜が重なる日没時にしかここに来られないのだと、彼は寂しそうに話していた。
その話を裏付けるように、彼は夜になるとどこからともなく現れた。
夜空の下にいながら、私たちが星の話で盛り上がれることはなかった。
私は星を見るのが好きだけど、彼は星のことは何も知らなくて、それが持つ情緒的な意味を最後まで理解しなかった。
遠くにある光る物質が見えているだけだと、そう言って首を傾げていたっけ。
でも他の話題で、ちゃんと楽しくお話できていたと思う。
少なくとも私は楽しかった。
……楽しかったのは、私だけだったのかな。
彼はミステリアスで、儚くて、ちょっと変わってて、でも決して消えない暖かさを心の中に灯し続けているような人だった。
私はそんな彼が好きで――多分初めて会ったときから、恋していたんだ。
でも彼は私とは違った。
今となってはそう思う。確かめることもできないけれど。
3年くらい前、彼は突然来なくなったんだ。
何年かぶりに、寝転がって空を見上げる。
星は全然見えなかった。今日は雪の予報だったから。
雲が空を覆ってしまっている。
枯れた芝はすっかり冷え切って、私のことなんか歓迎してくれていないみたいだった。
隣で暖めてくれる人はいない。
私は一人。
隣にあった体温を、思い出すことさえ敵わない。
「また会いたいよ」
涙交じりの声もどこかに届くことはなく、口から出てすぐに凍って枯れた地面に落ちてしまう。
私は目を覆った。
ほんの少し温かい涙が頬を伝う。
――それを上書きするように、刺すような冷たさが頬に触れた。
あぁ、これは。
「雪だ」
初雪が、降っている。
1年ぶりの初雪は、久しぶりの地上を楽しむようにチラチラと舞っていた。
賑やかに踊るその姿に、胸が締め付けられて黒い感情さえ渦巻く。
辺りは靄がかかったように白くなっていた。
白い夜だ。
雪が降るときって、こんなに真っ白になるものだったろうか。
違和感を覚えながらも、私は立ち上がって家に向かう。
所詮言い伝えは迷信。
だったら私は、この想いを大事に抱えて、これからも一人で生きていくしか――。
「あれ?」
ただでさえ冷えている指先が、さらに冷たくなった。
掌の感覚がおかしい。
何もない。自分の肌と、服の感触だけ。
想いの象徴が、手紙が、跡形もなく消えている。
「うそ」
どこかで落とした? そんな。どこで。
振り返ってみても、そこには白しか見えない。
あの便箋も白基調だったから、きっと見つけるのには苦労する。
でも、探さなきゃ。
踵を返した私は、思わず足を止める。
キラキラとしたいくつかの声が飛び込んできた。
『帰っちゃうの?』
『帰らないの?』
『良かった』
『運んできたよ』
『お仕事したよ』
機械のように甲高い声たちは、私の耳のすぐ横で会話しているようだった。
やがてその“キラキラ”が一本の道になって、私の視線を誘導する。
一瞬、息が止まった。
人のシルエット。
そこだけ靄が晴れていって姿が明らかとなり、私の心の叫びが間違っていなかったことを知る。
思い出の、彼だ。
私たちは目を合わせて、お互い動かずに向こう岸を見つめていた。
どうしたら良いのだろうか。
無言の時間は嫌いではない。
私たちはいつも、どちらかが声をかけるまでこうして2人の時間を過ごしていたから。
しかし、今この状況は、ちょっと気まずい。
彼もどこか困った顔で立ちすくんでいる。
そうしていると、また耳元で声が聞こえた。
『行かないの?』
『閉じちゃうよ?』
『お仕事頑張ったのに』
閉じる?
この道を?
彼に会えなくなる。
一度引いた涙が腹の底からこみ上げてきて、私は背中を押されるようにして彼のもとへ走った。
後ろから追いかけるように靄が空気を埋めていく。
靄から逃げるため、私はより力強く彼のもとに走っていく。
スピードを落とせなかった分、彼が細い体で私の体を支えてくれた。
その頃には、私たちの周りは真っ白の世界になっていた。
「……久しぶり」
彼はそう言って、顔を合わせるより前に、優しく私を抱きしめた。
冷えた体に、この温かさはつらい。
だって、心の中まで浸透して、すべて融けてしまいそうになる。
涙をこらえるのに必死で黙っていたら、わずかに熱が離れていった。
「ごめん、嫌だった?」
嫌じゃないよ。
言葉がうまく出なくて、私は頭を横に振った。
動いたせいで、涙が溢れてしまった気がする。
頬が冷えていて、感覚が鈍くてわからない。
出会って早々に涙を見せたくはなくて、私はもう一度彼の胸に飛び込んだ。
懐かしい香り。体温。
鼻水をすすった音は、聞こえてしまっただろうか。
彼は私の背に手を回して、改めて抱き寄せてくれた。
こんなときに限って素直になれなくて、私は抱きしめる力を強めながらわがままを言ってしまう。
「『久しぶり』……じゃないよ。なんで来てくれなかったのっ」
彼が息を呑むのがわかった。
少し待って落ちてきた答えは、一番聞きたくないものだった。
「……ごめん」
私は彼の胸に力任せに顔をうずめる。
涙を拭いてやった動作は、許容と受け取られたかもしれない。
「手紙ありがとう」
そのせいか、彼の声はちょっと優しくなった。
顔を上げなくても彼の穏やかな表情が浮かぶ。
「今、ここにいるよ」
これは、意地悪っぽい言い方。
手紙の一文に対しての返答か。
ユーモアを交えて言ってやったと、いたずらっ子みたいな顔をしているんだろう。
そう思っていたから、涙も拭き終わって顔を上げた私は不意を打たれた。
いたずらっ子、なんかじゃない。
なんでそんなに悲しい顔をするの?
「会いたいって言ってくれないの?」
目を見開いて固まってしまった私に、彼は笑顔で問いかける。
その表情の方が、むしろいたずらっ子っぽい感じがした。
「……僕は会いたかった」
心臓を止めに来てる。
これまでそんなの、言ってくれたことなかった。
死んでしまいそうなほど幸せであると同時に、だったらなおさら、なんで会いに来てくれなかったのかと言い返したくもなる。
でもさっきの彼の表情が頭から離れなくて、聞くことはできなかった。
私は何も言えないまま、彼の透き通るような瞳を見つめる。
彼も憂いを込めた眼差しを返してくる。
「隣にいたいって、思ってくれる?」
こんな心配そうな顔、見たことない。
そんな弱々しい声、聞いたことない。
私は首がもげそうなほどにうなずいた。凍える喉を震わせる。
「いたいよ。ずっと一緒にいたい」
素直になれた。
わがままって思われないかな。なんて心配は、彼の顔を見たら吹き飛んだ。
すごくいい表情をしている。
これも、見たことない表情。
「よかった」
彼の安堵した声を聞いて、本当に、素直になれてよかったと思った。
彼がそう言ってくれるのなら、この3年間の苦しみも無駄じゃなかったのかな、なんて。
私たちは無言でお互いの姿を目に焼き付けて、そして、仲良く地べたに座り込んだ。
何も変わっていないはずだけど、お尻に伝わる冷たさも多少マシになった気がする。
積もる話はできなかった。
彼の話を聞きたかったんだけど、話してくれなかった。悲しそうな顔をするばかりで。
私ばかりが話すのも良くないと思ってちょうど良い話題を探すけど、私たちは会話の始め方として近況報告しか知らない。
先に話を切り出したのは彼だった。
「……人は、死んだら星になるって言ってたでしょ」
「え?」
想定外の一言に、思わず聞き返してしまう。
そういう話もしたことはあったかもしれない。
星がいかに感動的なものなのか、説明しようとして。
でもなんで今その話?
彼は空を見上げて続けた。その先には何も見えない。
「それって悲しいと思う。晴れた夜の日に、見上げてもらわないと顔を合わせられない。それに、何億年も生きなきゃいけなくなる。光の速さでも何万年もかかるくらい離れてしまう」
「……どうしたの、急に」
ちょっと、この聞き方は良くなかったかな。
後悔はするけれど、何と言ったら良かったのかわからない。
彼の感想自体は、今に始まったことではないから別に驚かない。
見ての通り、彼は星に込められた含意などを理解しない。
それ自体は慣れてしまったんだけど。
意外だったのは、彼がわざわざその話を、このタイミングで持ち出したということ。
彼は私じゃなくてずっと遠くを見つめているようだった。
私のことを見てほしくて体を寄せたら、肩を抱き寄せてくれた。
いつもなら、この話が広がることはない。
でも今日は違った。彼は珍しく話し続けた。
「僕は生まれ変わるなら花がいいな」
意外な回答。
生まれ変わりとか、そもそも興味ないのかと思っていた。
星になるという話のときも、彼の返答で話が切り上げられていたから。
何か心境の変化でもあったのかな。
「なんで?」
体を引きずって彼のすぐ隣まで移動しながら、詳細を尋ねてみる。
彼は真っ白な空を見上げて、心地よさそうに答えた。
「毎年生まれ変わるんだ。それで、毎年君の足元を照らす」
本当に、想定外の言葉ばっかり。
こんなに耳触りの良い言葉、言う人じゃない。
びっくりして声も出なくなった。
彼は夢の中にまどろむように微笑んで、私の知らない一面を見せ続ける。
「それで、君がおばあちゃんになって棺に入るときは、君の隣で輪廻を終えるんだ。それが僕の夢」
「……何それ」
照れ隠しで、言い方が冷たくなってしまった。
照れているのは私だけではないようで、彼も照れくさそうに笑った。
彼も同じ気持ちだと思うと嬉しくなる。
でも、その笑顔の裏に、涙が見えた気がした。
私はもっと彼に近づく。
耳元に、小さな小さな返答が届いた。
「『今どこにいますか』の答え、かな」
「……答え?」
彼は顔を上げさせてくれなかった。
近すぎて、彼がどんな顔をしているのか見ることができない。
ただでさえ限界までくっついていたのに、さらに抱きしめられて、訳がわからなくなる。
何がわからないって、これまでにないくらい密着しているはずなのに、温もりが遠ざかっている気がするんだ。
「ごめん」
彼の声はくぐもって聞こえる。
何に謝っているのかわからないけど、ただ一つわかったのは、彼が間違いなく薄れていっていること。
「思ったより時間がなかったみたいだ」
ぎょっとした。
急に、理解してしまった。
「もっと早く来たかった。もっとお話していたかった。僕は、もっと……」
慌てて彼を強く抱きしめるけど、自分で自分をハグしただけだった。
「ごめん」
辺りは真っ白になる。
煙のような声が腕の中から離れて、消えた。
彼の姿はない。
ここには何もなくなった?
ううん、一つだけある。
彼がいたところに。
儚くて、ちょっと変わっていて、でも神秘的で。
目には見えない暖かさを内包しているような。
一輪の、花。
「――なんで?」
返答を期待したわけじゃない。思考がうまく回らなかった。
理解はした、と思うけれど、理解したくない。
呆然とする私の耳に、耳障りな高音が届く。
『想いが導くのは想いだけ』
『手紙が呼ぶのは想いだけ』
『私たちは想いを運ぶだけ』
『体は重くて持てないの』
『想いがプカプカしてた』
『だから運んできた』
『それがお仕事』
声のする方を向こうとしたけど、どこから声がしているのかはっきりしない。
声は続く。
『想いは体には成れない』
『さっき形が戻ったのは私たちのおかげ』
『でも想いは新しい形に作り直せる』
光が一箇所に集まって、孤高に咲く花を着飾った。
コロコロとした笑い声が空気を埋め尽くす。
『おめでとう』
『今度はおんなじ世界だね』
『すぐ隣だ』
『生まれ変わった』
『おめでとう』
充満する祝いの言葉が脳の中を満たしてきて苦しい。
耳を塞いでも目を閉じても、体を支配されたようにそのメッセージから逃れられない。
しばらくそうしてうずくまっていたら、いつの間にやら辺りは真っ黒に戻っていた。
目を閉じていてもわかるくらい、真っ暗。
恐る恐る耳を塞ぐ手を離して、目を開けてみる。
すっかり闇色になって、月光がなければ自分の手も見えないだろう。
その月明かりさえ、目の前にあるはずの花も照らしてくれない。
霧のような雪は止んでいた。
悪魔のような祝福の応酬も止んでいる。
冷気だけが残って肌を変わらず刺し続ける。
(めでたい?)
私はゆっくり手探りで、目の前にあるはずの花を探す。
ようやく触れた細い茎は、力を入れたら折れてしまいそうだ。
(ふざけないでよ)
傷つけないようにゆっくり、優しく包み込む。
小さい。冷たい。
声を聞かせてはくれない。笑ってもくれない。
(今、どこにいるかなんて)
同じ世界にいたって。隣に在ったって。
(意味ないよ)
こんなの、孤独と変わらないよ。
どれだけ泣いても、慰めてくれる人はいない。
初雪の過ぎた小雪の夜が、相変わらず私のことを冷やしていった。