狂った時間
更衣室に向かう途中、俺は事務室の中にいた店長に声を掛けられた。
「どうして遅れたんですか」
「はい?」
今日は十七時からのシフトだったはずだ。腕時計を見ると、きっかり十五分前だった。
「えっと、今日のシフトは十七時からですよね?」
「そうですよ。今、何時ですか」
店長が自分のデスクのデジタル時計を、俺に見えるように引き寄せる。
湿度や温度まで載った無駄に高性能な表示が俺の目に入る。
「うそ。ろくじ?六時十四分……?」
十一月十八日、木曜日。日付は間違いなかった。
ただ、二度見しても時刻は「18:14」を示していた。
自分の腕時計をちらりと見て、血の気が耳の奥でザザと音を立てて引いていくのを感じた。
すみませんっ!状況を理解した俺は、勢いよく頭を下げた。
腕時計が遅れていたという俺の説明に、今時携帯もあるのだから、時間の管理ぐらいしっかりしなさいという最もな小言をくれた店長は、次回からこういうことはないようにすると約束させ、今日は六時半からの勤務で入りなさいと告げてから、俺を事務室から退室させた。
更衣室に着いてロッカーを開け、制服を引っ張り出しながら、俺は少し冷静になった思考で考えた。
今日は大学が休みだったので、家から直接自転車で来た。もちろん間に合う時間に出たし、家を出た時間は、確か家の時計で確認したはずだ。出勤途中、何回も信号に引っ掛かっただとか、自転車の漕ぎ方が遅過ぎたとかは、特になかった。
五時から勤務だったはずが、六時半からになり、結果一時間半遅れたことになる。果たして、そんなに遅れるものだろうか。
「そうだ、携帯」
リュックサックのポケットから携帯を取り出す。画面を点灯させると、時刻は当たり前のように「18:21」を示していて、五時を少し過ぎたくらいに、バイト先からの着信も入っていた。
勤務中携帯は持ち込めないことになっている。俺は釈然としないまま腕時計の時刻を合わせると、携帯を鞄にしまい、鞄と私服をロッカーに押し込んで、鍵を掛けた。
学生バイト仲間と、入れ替わりで退勤になるパートさんに平謝りして、レジに入った。ここはそれほど大きなスーパーではないが、まだラッシュの時間帯なのでお客さんがそこそこ並んでいる。
俺が担当するはずだったレジはバイトの後輩が入ってくれていた。
「寝坊すか?橘さんが遅刻って珍しいすよね。いっつも時間通りに来てるのに」
「寝過ごしたんではなかったんだけどなぁ。時計がおかしかったんだ、俺にもよく分からんけど時間見間違えたっぽい――いらっしゃいませ!」
何すかそれ、とへらへら笑う後輩とポジションを代わり、レジを打っていく。食材を大量に買っていく主婦層と仕事帰りのサラリーマンが入り混じるこの時間帯に余計な考え事をしている暇はない。無心でレジに入っているうちに、時間は飛ぶように過ぎていった。
「たっちゃん、今ちょうど落ち着いたから水分休憩どーぞ」
ラッシュが落ち着いた時間帯に、社員の辻井さんに声を掛けられて、我に返った。
今日はぶっ通しでレジの日だから、レジ締めが始まるタイミングで声を掛けてくれたのだ。
「もうそんな時間なんですね、ありがとうございます」
「ちょっと顔色も良くないみたいだから、ついでにお手洗いも行ってきた方がいいかもね。まあ、あんまり引きずりなさんな、人間失敗してなんぼよ」
はあ、と曖昧に頷いて、レジを代わってもらう。「すぐ戻りますね」と言いながら、レジスターの画面に小さく表示されている時間を見ると、「21:37」となっていた。
更衣室で水分補給した後、搬入口にある従業員トイレに向かった。
トイレには誰もいなかった。
洗面台で顔を洗う。初っ端に予想外のできごとがあったからだろう、鏡には疲れ切った自分の顔が映っていた。
「この顔お客さんに見せるのはヤバいな」
ポケットに入れているタオルハンカチで顔を拭う。それから鏡の前でゆっくり息を吐いた。頑張ろう、閉店後の締め作業を入れても、あと一時間半ちょっと耐えれば解放される。
俺は腕時計を見た。時間は九時四十五分。そろそろ帰らないとまずいと思い、レジに向かった。
「すみません辻井さん、遅くなりました」
「あれ、早かったね。ちゃんと水分摂った?」
「大丈夫ですよ」
「ならいいけど。もう少しゆっくりして来てもよかったのに」
何となく噛み合わない会話に違和感を抱きながら、レジに戻る。客足は完全に落ち着いたようで、お客さんは売り場にもまばらにしかいない。俺はレジに担当者番号を打ち込もうとして、固まった。
レジスターの時計の表示は、ちょうど「21:39」に変わったところだった。
無言で腕時計を見る。針は九時四十七分を指していた。
「………………辻井さん、今、何時何分ですか?」
「今?えっとね、私の時計だと、九時三十九、四十分くらいかな?」
「そう、ですか。……ありがとうございます」
俺はもう一度腕時計を見た。
腕時計が壊れているのか。そう思った途端苛立ちを覚えた。俺は腕時計を外すと雑にポケットに放り込んだ。
その後は、平和に時が流れていった。変な客が現れることもなかったし、トラブルも、忙しすぎるということもなかった。
「辻井さん!店内確認しました、誰もいないっす!」
「ありがとう!じゃあ自動ドア閉めに行くわ。レジ締めはお願いね!」
「金額も合いました!ありがとうございます!じゃあ皆さん、今日もお疲れさまでした!」
「お疲れさまです!!」
「気を付けて帰ってね」
そんなやりとりと共に、今日のバイトは終わった。
俺は他のバイト仲間としゃべりながら、制服を着替えて、店を出た。駐輪場で皆と別れて、帰路に就く。夜道は静かだった。信号に捕まることもなく、自宅に辿り着いた。
ガレージの乗用車の横に自転車を寄せる。
「そういえば、今何時だろ」
腕を見かけて時計が壊れていることを思い出した俺は、リュックサックから携帯を取り出した。暗闇に、目に痛い明るさで画面が点いた。
「十一月十八日 木曜日 0:01」