『は』と『が』は主語より主格を宮沢賢治『雨ニモマケズ』で考察する【2021/06/20】
早速だがこの文章を見てほしい。
『日本でどんなひとは道徳的の人ですか。私の国でそんな人は貧民とお年寄りと公共を手伝って気が利く紳士的がある』
だいたいあっているので『小説家になろう』の誤字機能を使うほどではない。
とりあえず質問に答えるとすると、筆者が考えるのは宮沢賢治の『雨ニモマケズ』になる。以下青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html)から引用しよう。(※宮沢賢治の著作権は失効済みです)
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房
1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行
※本文については写真版を含む本書によった。また、改行等の全体の体裁については、「【新】校本宮澤賢治全集 第六巻」筑摩書房1996(平成8)年5月30日初版第1刷発行を参照した。
入力:田中敬三
校正:土屋隆
2006年7月26日作成
2019年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
(引用終わり)
この文章はワシントンのナショナル大聖堂において宗派を超えた追悼式が開かれた際、サミュエル・ロイド三世大聖堂長により英訳で朗読されている。
もっとも日本人の道徳は新型コロナウィルスに伴うマスク全員着用のような同調圧力、いわゆる『空気』のようなものも含むと筆者は愚考している。道徳というものは自らの内から自然にあふれてこなければあまり意味がない。堅苦しいししんどいし他人が煩わしい。
バカにされていても孤独でも、確固たる意志で自分は自分の生き方として、絶対的なサイコパス連中以外には誰にでも敬意を払って親切にふるまう方が結果的には楽である。
では改めて上の文章を修正してみたい。皆さんはどのように修正しますか?
修正するといっても相手の国や文化、スマートフォンのフリック元やその方向の間違い、あるいはカナ入力独特やアルファベット入力独特の間違いが発生する。
パソコンユーザーが使っているアルファベット入力だって子音母音の発音に忠実な『ヘボン式』。50音によるつづりの規則性を優先した『訓令式』。さらにややこしいことに『ワープロ式』が存在し我々は無意識にこれらを混然一体で使っている。
カタカナひらがな漢字にアルファベット。
スマホによるフリック入力にガラケー入力。さらにパソコンのカナ入力にアルファベット入力を介して『小説家になろう』の文章は投稿されるのだ。
カナ入力やアルファベットは周辺のキー配列から押しっぱなしにしたりミスタイプしそうなキーを探す。
フリック入力は別の母音を指定していないか、あるいは子音の指定ミスかを調べる。
(※スマートフォンのフリックは全て同じで母音アが真ん中、母音イが左、母音エが右、母音オが下になっている。例外は『や』が左右がカッコの類、ワオンの左は長音を配置している)
まだある。方言を使う場合だ。
『私の意識はしじて途絶えた』
上記は微妙に標準語に戻しにくい。
つまり投稿者の文化的背景や環境によって修正も変わってくる。この辺は『カンマの女王』という有名な著作があるので山椒……参照されたい。井伏鱒二や森鴎外は関係ない。
『日本でどんなひとは道徳的の人ですか。私の国でそんな人は貧民とお年寄りと公共を手伝って気が利く紳士的がある』
上記文章を改めて読んでみよう。
校正にあたってまず問題になる点だが、日本における道徳的な人物像と筆者個人が考える道徳観念は当然違う。なので、個人的意見とは切り離すべきなので有名な『雨ニモマケズ』を使うことにした。これはこれで論争になっているのだが省く。
この作者が考える道徳はキリスト教的な、あるいは騎士道的、あるいは貴族的なものと思われる。
逆に言えば本人の意図はさておき、『貧民と道徳的な人を分けている』と解釈できなくもない。
歳を取らず生きることは現状不可能だろう。
罪を犯さず生きるのは命を持つ者にとってできそうにない。
生まれは自分で選べないが育ちは確実に影響されるもののまだ自分で変えられる。
公共にただ乗りは『道徳的に』なかなかできない(※道徳に反する行為をする人間はいる)。
が、その逆に高貴な人間の義務的なものが筆者にとっての『道徳』だというわけではない。
もっと貧富に関わらず、誰にでも気を付ければ出来る程度の簡単で(※宮沢賢治大食漢問題はWikipedia日本語で詳しく述べられているのでそちらを参照されたし)、それら全て行ってもだれにも認知されはしないほどのささやかなものであり、あるいは時としてフリーライダーやサイコパスどもの餌食に遭う。しかし尊敬すべきものだと筆者は考える。その文化的背景が作者と筆者の間では異なる。
そのうえで、作者の意図を読んで修正を行おう。
『日本でどんなひとは道徳的の人ですか。私の国でそんな人は貧民とお年寄りと公共を手伝って気が利く紳士的がある』
――日本で『は』どんなひと『が』道徳的『な』人ですか。私の国で『は』そんな人は貧民とお年寄りと公共を手伝い、『いつでも』気が利く紳士である――
……ぶっちゃけこれでもだいぶヘンなままなのだが、原文を尊重したい。
原文を尊重するなら『いつでも』はいらないのだが、これは『余裕がある』=お金や時間に不自由しないというものを感じ取ったからと解釈してほしい。
まず、ハとガは主格、主語に相当するものを指すことが多い。
(※日本語は主語がなく主格があるのみという学説を筆者は尊重しているので、『日本語教育能力検定試験』の見解とは異なる可能性がある)
なので、『は』で繋ぐために『日本では』にし、『が』で確定して『日本ではどんな人が』にした。
ハは主格には違い無いが、文章を超え、句読点を超えることがある。
例文にあげた『雨ニモマケズ』では主語無しで文章が構成され、最後の最後に「私『ハ』ナリタイ』と結ばれる。
確定されたガがハでつながり、道徳的な人とはどのような人かを示す。
ここで著者、鴉野の考える「道徳的の人」と「道徳的な人」との違いの問題が発生する。
道徳の人と私が聞けば「そういう(架空の理想像としての)個人なのかな」と筆者は感じる。
作者の質問意図は「我が国ではこうだが日本ではどうなの」なので、道徳観念の違いを提示しなくてはいけない。
日本の道徳は新型コロナウィルスにおけるマスクのような同調圧力であり、『空気』であると筆者は考えた。
なので、道徳は貴族やお金持ちだけが持つべきものではなく、もっと空気のように目に見えていなくてもだれもが実行し得る(※できるけどやれるとは限らない)普遍的な存在としてかんがえているため、『道徳的な人』(※多数の一般市民)としてこのように校正する。
あなたはこの文章、いかに校正しますか。あなたのご意見をお聞かせください。